Sun, June 25, 2006

芥川龍之介『奉教人の死』

テーマ:日本語の文学(大正)

◆芥川龍之介『奉教人の死』新潮文庫、1968年11月

いわゆる「切支丹もの」と呼ばれる作品。キリスト教という宗教自体に関心があったというよりも、「切支丹もの」で日本と西洋の文化の融合・対立を描こうとしたと言われる。また独特の言葉を用いることによって、一種のエキゾチシズムを醸し出す役割もあったようだ。

いくつか面白い作品があったのだが、特に「おしの」がいい。

おしのは、息子の病を治してもらいたいと南蛮寺の神父のところにやってくる。うわさでは、この神父は難しい病も治療するという。神父はおしのの願いを聞き入れる。おしのは、息子の命が助かるならば、キリストに一生仕えてもいいとまでいう。それを聞いた神父は、勝ち誇ったようにキリスト教の教えを説きはじめる。そして、神父はこう言った。

《「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人と一しょに、磔木におかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我我は今想いやるさえ、肉が震えずにはいられません。殊に勿体ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」(p.170-171)》

この言葉を聞いたおしのは、なぜか神父を見つめている。しかも、おしのの眼には、「神聖な感動でも何でもない」「唯冷やかな軽蔑と骨にも徹りそうな憎悪」だけがあった。神父はあっけにとられ、何も言えない。そして、おしのは「まことの天主、南蛮の如来とはそう云うものでございますか?」と言い放った。

《「わたくしの夫、一番ヶ瀬半兵衛は佐佐木家の浪人でございます。しかしまだ一度も敵の前に後ろを見せたことはございません。去んぬる長光寺の城攻めの折も、夫は博奕に負けました為に、馬はもとより鎧兜さえ奪われて居ったそうでございます。それでも合戦と云う日には、南無阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、「人の若衆を盗むよりしては首を取られりょと覚悟した」と、大声に歌をうたいながら、織田殿の身内に鬼と聞えた柴田の軍勢を斬り靡けました。それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木かけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下げ果てたやつでございます。そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう?(以下略)」(p.172)》

こうして、おしのは神父に背を向け、寺をあとにしてしまう。茫然とする神父が残される。「切支丹もの」に限らず、芥川は最後の最後にどんでん返しのような落ちをつけることが多いが、この作品の落ちもなかなか面白いと思った。解説で、作家の小川国夫は「芥川は歴史を考えて、周到にリアリズムに徹しようとしています」(p.231)と述べている。なるほど、こういう受容の仕方が日本人にあったのかもしれない。「エリ、エリ、ラマサバクタニ」という言葉を、意気地なしの泣き言じゃないかというのは面白い。

芥川 龍之介
奉教人の死
Sat, March 18, 2006

谷崎潤一郎『お艶殺し』

テーマ:日本語の文学(大正)

◆谷崎潤一郎『お艶殺し』中公文庫、1996年3月

この文庫には、「お艶殺し」と「金色の死」の二作品が収められている。ほぼ同時期に書かれた作品(大正三年)なのだが、解説を書いている佐伯彰一の言うとおり、この二作品は、一方は江戸趣味的で、もう一方は芸術論・美学的小説で、雰囲気が激しく異なっており、あらためて谷崎の懐の深さがうかがい知ることができる。

「お艶殺し」は、奉公人である「新助」と主人の娘である「お艶」が駆け落ちするところから始まる。しかし、物語の後半になると、お艶の「毒婦」としての本性が徐々に顕在化してくる。そんなお艶に振り回される新助だが、お艶の魅力の前ではまったくの無力だ。ただただ、お艶の言うとおりになってしまう。しかし、最後の最後にお艶がすでに新助に愛想をつかし、別の男を好きになっていることを知る。それでも新助は、元に戻ってくれるようお艶に拝跪して頼むのだが、その三日後、「お艶殺し」が行われる。――

最後に新助がお艶を殺さずに、お艶に拝跪し続けていくと、たしかに後の『痴人の愛』に近くなる。純愛物かと思わせておいて、一転して「毒婦」「娼婦」物へ展開するテクニックがすばらしい。

「金色の死」は、三島由紀夫が特に絶賛した作品として有名であるが、登場人物の岡村君の「苟くも欧州芸術の淵源たる希臘的精神の神髄を会得したものは、体育の如何に大切であるかを感ぜずには居られない。凡ての文学と凡ての芸術とは、悉く人間の肉体美から始まるのだ」「肉体を軽んずる国民は、遂に偉大なる芸術を生む事が出来ない」(p.116-117)という芸術論は、まるで三島が述べているようである。

谷崎 潤一郎
お艶殺し
Sat, August 27, 2005

中勘助『銀の匙』

テーマ:日本語の文学(大正)

◆中勘助『銀の匙』岩波文庫、1999年5月

引き出しにしまってあった小箱から「銀の匙」を取り出したことから、子供のころを回想が語り出される。病弱で神経質な子供であった「私」を、伯母さんは一生懸命に世話をしていた。伯母に守られていたのだった。

語り手の「私」は、身体的にも精神的に弱く、感受性も強すぎるのか、自分の外側にある世界と触れることに絶えず不安を抱えている。それゆえに、なかなか周囲の人々とうまく交わることができなかった。遊ぶのは、隣の家に住んでいる女の子だけだ。そして、この女の子との交流が回想の中心となっていくだろう。

感受性が鋭く、それゆえに神経質で、女性に守られている「弱い」男性。このような弱い男性が、おそらく近代文学でしばしば登場することになるのだろう。きっと、このような男性の系譜は、村上春樹の小説の男性へと受け継がれていくのではないだろうか。

ところで、こんな場面があった。

《ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとおるように蒼白くみえた。(p.125)》

月の光に照らされる身体の青白さ。そんな自分の身体にうっとりしてしまう「私」なのだけど、このような月と身体の場面は、村上春樹も描いていたなと思い出す。身体が、月の光に照らされ蒼白く見えるというのは、文学ではけっこうありふれた表現だったのかな?と気になってしまう。

語り手「私」の感傷性がはっきりと現れた場面はつぎのものだろう。兄が、「教育」と称して、釣りに無理矢理連れて出かけたりして、「私」のこと鍛えようとしている。あるとき、兄は「私」を海岸に連れて行く。「私」は、疲れてひもじさも増し、涙が浮かんでくる。しかし、兄は「ほうっとけ ほうっとけ」ととりあわず、さっさと歩いて行ってしまう。心配した友達が、「私」に声をかけると、「私」はこう口にする。

《「波の音が悲しいんです」(p.156)》

この台詞は、すごいなと思った。この台詞を目にしたとき、思わず笑ってしまった。こんなことを言う少年が、実際にいたら周囲の人々はちょっと手に負えないかも。天才と言えば、天才なのかもしれないけれど。これは、ほんとうに名台詞だと思う。

中 勘助
銀の匙
Fri, August 12, 2005

志賀直哉『大津順吉・和解・ある男、その姉の死』

テーマ:日本語の文学(大正)

◆志賀直哉『大津順吉・和解・ある男、その姉の死』岩波文庫、1960年3月

3つの作品とも、書かれていることが、なんだか分かったようで、実はよく分からない。3つの作品に共通しているのは、「父と息子の対立」なのだけど、両者の間の決定的な対立が分からないのだ。このことは、もう何度も言われていることらしいし、実際作者自身も「この小説の欠点として、よくあげられるのは和解は書いてあるが、その前の不和を具体的に書いていない、二人はなぜ、それほどに不和であったかという事がわからない」(p.286)ということだと述べている。続けて、志賀直哉は、この作品で書きたかったのは「和解の喜び」だったといい、それゆえに不和の原因は記さず、「和解の喜び」が表現できたことに満足しているという。

なるほど、たしかに父と息子が「和解」をしているのだけど、でもやっぱりその唐突感はぬぐえない。父を息子は、散々いがみ合ってきて、ちょっとしたことで言い合っていたのに、最後にあっさり二人は「和解」してしまっているのだ。「和解」するにも、もう少しドラマが欲しいなあと思ってしまう。この前読んだ『<戦前>の思考』のなかで、柄谷行人も「自然」と「和解」してしまうのだと述べていた。

「ある男、その姉の死」は、他の二つの作品とちょっと異なって、父と兄(これが順吉に相当する)の対立を弟の視点から描いたものだが、そのなかで、弟は父と兄の関係がこじれている原因に、祖父の存在をあげている。この家では、祖父が家長として、「ゆったりとした気持でみんなの上に臨んでいた」がそのことがかえって父と兄の間を「たいへん近くしていた」(p.254)ようだ。「祖父-父-兄」の関係が、「等差級数的」になっていれば問題ないが、この家では「祖父-父、兄」というように、父と兄が同一平面上にいたことが、二人を対立させてしまったのではないかという。父と兄が、同じ平面上にあるために、二人は父と息子という関係ではなく、「年のちがった仲の悪い兄弟」ではなかったかと。結局、そのために父は兄に対し、親らしい余裕のある態度が取れなかったのだろうと、語り手である「私」(=弟)は分析している。

「父-息子」という関係ではなく、疑似「兄-弟」という関係。親子の対立ではなく、これを兄弟の対立と見ることは、西洋の文学というか聖書の世界の影響などもあるのだろう。また、父と兄があまりに近しい関係だというのも面白い。こういうところから、きっと「甘え」の関係を指摘する研究もあるのだろう。

志賀 直哉
大津順吉・和解・ある男、その姉の死
Thu, November 11, 2004

森鴎外『渋江抽斎』

テーマ:日本語の文学(大正)
◆森鴎外『渋江抽斎』岩波文庫、1999年5月(改版)

この前読んだ『百年の誤読』のなかで紹介されていた。その中で、評者の二人ともが苦手な作品と述べていたので、一体どんなことが書かれているのかが気になったのだ。

読みはじめてみるとすぐに気が付くことだが、この小説は人物の記述が異常に「詳しすぎる」。おまけに淡々とした記述している。たとえば、抽斎の日常生活をこんな風に記述する。

《飯は朝午各三椀、夕二椀半と極めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽信順が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常のよりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、婢をして盛らしむるときは、過不及を免れぬといって、飯を小さい櫃に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁も必ず二椀に限っていた。(p.185)》

どうやら鴎外は「歴史其儘」という考え方をこの作品で実践したらしい。要するに、書き手の判断を何も書かずに、事実だけを客観的に記述していくスタイルだ。この鴎外のスタイル、私はけっこう好きだ。だけど、こんなこと言ってはなんだが、読者にしてみれば、「渋江抽斎」なんて一般に有名ではない人の日常生活にこれほど詳しくなっても仕方がないかもしれない。

とは言うものの、私にはこの本が「渋江抽斎」という人物の研究書だとは思えない。そこかしこに鴎外の想像=創造が侵入しているはず。だからこれは評伝のスタイルと採っているが、紛れもなくこれは小説なのだと思う。

ちょっとタイトルが良くないと思う。『渋江抽斎』というタイトルでは、この抽斎という人物について鴎外が書いているように読者は思ってしまう。もちろん、抽斎を中心にこの小説は語られているけれど、けっして抽斎ただ一人について語った作品ではないのだ。抽斎と関係した人物や家族に関しても逐一報告していく。しかも「詳しく」。実際に読んでみると分かるのだが、抽斎の嫁の「五百(いお)」のほうが生き生きと語られているではないか!他にも不良の息子についてのほうが抽斎自身についてよりも詳しく書かれているし。したがって、この小説は「渋江抽斎とその時代」と言ったほうが正確なのではないかと思う。

だいたい、主人公の渋江抽斎は途中、それも約半分あたりの箇所で、病気になってあっけなく亡くなってしまうのだ。そのへんの描写を引用してみよう。

《 八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐の饌に向った。しかし五百が酒を侑めた時、抽斎は下物の魚膾に箸を下さなかった。「なぜ上がらないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始めて嘔吐があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。(…)
 抽斎の病況は二十八日に小康を得た。(…)
 二十八日の夜丑の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸は谷中感応寺に葬られた。(p.159-160)》

以後、この小説は「抽斎没後の第○○年は、○○年である」という書き出しで、ひたすら抽斎没後の家族の様子を、鴎外がこの作品を執筆している時間まで追いかけていく。普通『渋江抽斎』というタイトルの本なのだから、主人公の抽斎が亡くなったらそれで終わりなのではと思うのだが、鴎外はそこで執筆を止めることはない。これがよく分からない。鴎外が本当に興味・関心を抱いていたのは何だったのだろう?まったく不思議な小説だ。

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