Mon, January 08, 2007

坪内逍遙『当世書生気質』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆坪内逍遙『当世書生気質』岩波文庫、2006年4月

はじめは少々読みにくい文章だが、慣れてきて語り手の調子に乗ってい くと、非常に面白い。物語の途中で、本筋に関係あるのかなと思うような、書生の会話が描かれてたりして、現代の小説は趣が異なるが、それもまた味わい深 い。二葉亭の『浮雲』もそうだが、なんとか自分たちの手で「小説」を作り上げようとする努力が感じられる。だから、登場人物の会話には、たとえば「小町 田」と「田の次」の物語を「小説めいた」と評する言葉何度か現れるが、小説(語り手)がこれは「小説」なのだということを自身に言い聞かせながら語ってい ると言えるだろう。どのような書き方をしたら「小説」になるのか。何が「小説」的な表現なのか。そんなことを試行錯誤しながら書き進めているようだ。

場面転換の処理とか現代の目からみると、ずいぶんと下手だなと思うかもしれない。当たり前と思う表現方法が、かつては当たり前ではなかったのだ。このことを知るだけでも、この小説は非常に重要だ。

坪内 逍遙
当世書生気質

Fri, November 17, 2006

丸川哲史『日中一〇〇年史 二つの近代を問い直す』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆丸川哲史『日中一〇〇年史 二つの近代を問い直す』光文社新書、2006年1月

日・中・台の三国の近代について、知識人 を通して再考する。著者は本書で「悩む能力」をキーワードにして、知識人たちの「悩み」とその苦しみを追体験するように書く。本書で取り上げられている知 識人は、たとえば魯迅であり毛沢東であり、竹内好であり、丸山真男、尾崎秀実などだ。中国側の日本観、日本側の中国観がよくわかる内容となっているて、東 アジアの関係を考える上で参考になる本である。

知識人を通じて、歴史とくに「近代」の「歴史」を見つめ直す仕事は大切だ。とはいえ、歴史は知識人だけのものではないので、次に必要なのはもちろん民衆というか庶民の「悩み」であろう。庶民の「悩み」がいかなるものであったかという研究も知りたい。

日・中・台、知識人と庶民等々、線の引き方によって、「近代」あるいは「歴史」の姿は変わっていく。この複雑に入り組んだ問題を、ねばり強く考える、つまり著者の言う「悩む能力」がますます重要になってくるのだろう。

丸川 哲史
日中一00年史 二つの近代を問い直す

Sun, July 09, 2006

佐々木瑞枝『生きた日本語を教えるくふう』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆佐々木瑞枝『生きた日本語を教えるくふう 日本語教師をめざす人へ』小学館、2003年11月

日本語教師はどうやって日本語を教えているのか気になって、読み始めた。日本語を教えるのは難しいものだなと思う。日本語も難しいのかもしれないが、そもそも人に「教える」こと自体が難しいことなのかと。

佐々木 瑞枝
生きた日本語を教えるくふう―日本語教師をめざす人へ
Wed, April 05, 2006

星野智幸『在日ヲロシヤ人の悲劇』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆星野智幸『在日ヲロシヤ人の悲劇』講談社、2005年6月

読み終えた直後に感じたのは、この作品は『ロンリー・ハーツ・キラー』と似ているということだ。この作品もまた、『ロンリー・ハーツ・キラー』と同様に、三島由紀夫あるいは三島的なものとの対決を目指したものなのだろうか。

一つの家族を通じて、日本の戦後思想や政治のあり方を寓意的に描いた作品である。父親の「憲三」は戦後民主主義を体現する人物であるが、妻の「貴子」はそんな夫の犠牲でしかない専業主婦であり、こんな両親から生まれた二人の子どもは、一方は左翼の活動をする「好美」、もう一方は極右(しかも団体や暴力を拒否する一人右翼)の活動をする「純」と、両極端の方向へ進んでいく。何もない、空っぽであるという父親に反発し、その空洞の中に何かを必死に詰め込もうとする二人の子どもたちがいる。こうした親子の対立は、現代の社会状況と重ねて読むことができそう。

しかし、星野の現代社会に対する批判の内容はともかく、彼の小説をデビュー作から全部読んでみてきたが、どうもワンパターンな物語ばかりに思える。そろそろ自分の書き癖というか殻を打ち破るような作品を生み出さないと、つまらない作家で終わってしまうのではないだろうか。もう小手先だけのテクニックで書いた作品では通用しないと思う。星野は、長篇作品といっても、単行本にしてせいぜい200ページを越える程度の作品しかない。一度腰を落ち着けて、たとえば『シンセミア』のような、大きな構想をもとにした作品を書かねばいけない時期に来ているのではないだろうか。

星野 智幸
在日ヲロシヤ人の悲劇
Thu, January 12, 2006

川北隆雄『経済論戦-いま何が問われているのか-』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆川北隆雄『経済論戦-いま何が問われているのか-』岩波新書、2005年10月

今現在、日本の経済は何が問題なのか、何が論点となっているのかをコンパクトに紹介している。第一章では郵政民営化について、第二章は不良債権問題、第三章は金融政策、第四章は財政再建、そして第五章では構造改革について取り上げている。各テーマについて、いまどんな議論がなされているのか、いくつかの論を参照し、それらから対立点を引き出し、筆者が評価していくというスタイル。なので、まったく知識がない私でも、各テーマの問題点を手っ取り早く知ることができた。論争というか対立点に注目すると、問題点がクリアになって良い。

川北 隆雄
経済論戦―いま何が問われているのか
Tue, December 27, 2005

仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか――コミュニケーションの不自由論』晶文社、2005年6月

本書を読んだ後に、軽々しく本書についてネット上に書くのは、まったく本書の内容を読めていない、理解していない証拠なのかもしれない。それなのに、こうして性懲りもなくネットに書いている私は、本書で批判される「ワン君」と呼ばれる一人だと思う。自分が「ワン君」だなあと自覚しながらも、まだその行為を続けているので、相当ひどい「ワン君」的症状だなと。人の「話」を聞く訓練が必要なのかもしれない。

私のような「ワン君」は、本書を読むと、自分自身のやってきたことを反省して、かなり落ち込むだろう。しかし、それは本書を読んで元気が出るよりもマシかもしれない。

仲正 昌樹
なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論
Fri, December 23, 2005

谷崎潤一郎『刺青・秘密』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆谷崎潤一郎『刺青・秘密』新潮文庫、1969年8月

この文庫には、「刺青」(明治43年)「少年」(明治44年)「幇間」(明治44年)「秘密」(明治44年)「異端者の悲しみ」(大正6年)「二人の稚児」(大正7年)「母を恋うる記」(大正8年)が収められている。谷崎の初期作品である。

「刺青」は、谷崎の作品のなかでもよく知られていると思う。かつては浮世絵師であった清吉が刺青師となる。彼は、「光輝ある美女の肌」に「己れの魂」を刺りこむことを願い続けていた。そして、とうとう理想の女性と出会った清吉は、その女性に「古の暴君紂王の寵妃、末喜を描いた絵」を見せ、女の内なる性分を目覚めさせる。そして、清吉はその女性の背中に「女郎蜘蛛」を彫る。この「女郎蜘蛛」こそ、清吉の「生命」そのものであった。そして男の生命を吸い取ったかのように、この女性は別人に生まれ変わる。

《「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。――お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」(p.17)》

「親方」から「お前さん」という呼び方の変化が面白い。一瞬にして、男と女の関係が逆転してしまうのだ。清吉のような男は、のちの谷崎の作品に頻繁に登場する。この間読んだ「鍵」や「瘋癲老人日記」の男たちも、生命をなげうってまでも女性に拝跪してしまう。さらにマゾ的な官能性は「少年」で描かれる。少年たちにいじめられていた少女が、ある出来事を境に、その関係が逆転し、少女に服従することに快楽を見いだしていく物語である。「幇間」になると、そもそも女性の服従すること、女性に笑われることに喜びを見いだす男が主人公となる。

面白いと思ったのは、「異端者の悲しみ」で、文庫の解説を読むと、この作品は谷崎自身が自叙伝的な作品だと述べていた。ひどく貧しい家に住む大学生の章三郎が主人公である。彼は、日々家のなかでゴロゴロして夢や妄想を見ているだらしがない男だ。友達にお金を借りて遊び回り、その金を返さないということで、友達からも胡散臭い奴だと思われている。要するに章三郎はダメダメな男なのである。そのくせ、家族には意固地な態度を取っていて、特に病で寝たきりの妹とはうまくいかない。そんな章三郎が、退廃的な生活や友達と妹の死を経て、小説家になるところで物語は終わる。いかにして「悪魔的」な作家が誕生したのか。「異端者の悲しみ」は、「悪魔的」な作家の誕生の経緯の物語である。この小説は、章三郎のダメさを楽しむのがいいと思う。親戚から借りてきた蓄音機を、操作の仕方が分からずにでたらめに扱って、危うく壊しそうになる章三郎のエピソードに大笑いしてしまう。

谷崎 潤一郎
刺青・秘密
Wed, November 09, 2005

三島由紀夫『金閣寺』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫、1960年9月

このあいだ、映画『みやび 三島由紀夫』を見たときに、平野啓一郎がこの『金閣寺』について語っていたのが印象に残った。映画のなかで、平野はこう語っていた。

《『金閣寺』っていうのは、一般的には美について語っている小説という風に読まれますが、美というのはそこではひとつの媒介にすぎなくて、実は三島のいう<絶対者>について語っていると思うんですね。(『「みやび 三島由紀夫」プログラム』「みやび 三島由紀夫」製作委員会、2005年7月、p.5)》

映画を見ながら、なるほどな、そんなふうにも考えられるだろうなと思った。このことを確認するために、『金閣寺』を再読してみたのだ。

平野はつづけて、三島の場合には<美>と<エロティシズム>と<死>が「常に絶対者と人間を媒介するものとして」出てくると指摘している。そして、それらは小説では主人公を、実生活では人間をからめ取り「自らの秩序のなかに回収してしまおう」とするという。これは、主人公が火を付ける直前にあらためて金閣の全貌を見ながら「美は、これら各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた!」(p.321)という認識に至るところからも理解できそうだ。

ところで、もう指摘されているのかもしれないが、『金閣寺』はあきらかに町田康の『告白』へと繋がっていると考えられる。町田康は『告白』で『金閣寺』をやろうとしたのだろう。

もう一つ気になる主題は、「丸いもの」と名づければよいのか、たとえば乳房に代表されるような「丸いもの」の主題が『金閣寺』では何かを意味がありそうだ。老師の頭も「丸いもの」の一つなのだが、これなどはあらゆる現実を軽蔑したものとして、つまりニヒリズムの象徴として描かれている。「丸いもの」がどのように現れるのかが気になる。

三島 由紀夫
金閣寺
Sat, August 06, 2005

幸田露伴『五重塔』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆幸田露伴『五重塔』岩波文庫、1956年11月

幸田文の本を読んだので、その父露伴の小説も読んでみる。明治20年代の小説なので、すらすらと読めるような文章ではないのだが。

筋そのものは、それほど難しくない。大工だから頑固な職人物語と言えばよいのだろう。「五重塔」を作るという話を知った「のっそり」と言われている十兵衛が、大工として一世一代の仕事をしたいと、この「五重塔」作りを決意する。だが、「五重塔」は親方である源太が作ることになっていた。十兵衛は、源太に恩があるとはいえ、どうしてもこの仕事を自分の手でやりたいと願う。この十兵衛の固い決意が、この小説の中心。十兵衛が、この仕事を任されたことによって、周囲の人間たちにさまざまな波紋が及ぶ。このあたり、登場人物たちの心理の動きはおもしろい。十兵衛の仕事に面白くないと思う人間によって、十兵衛は襲われ片方の耳を失う事件などもあるが、それでも「五重塔」は作られていく。完成直後、嵐に襲われるが、十兵衛はぜったいに「五重塔」は倒れることはないという。ここに十兵衛の絶対の自信というか、まさに職人の魂を見ることになるのだろう。

幸田 露伴
五重塔
Fri, July 22, 2005

石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆石川啄木『一握の砂・悲しき玩具-石川啄木歌集-』新潮文庫、1952年5月
詩や短歌、俳句は苦手なジャンルなのだけど、日記があまりにも面白かったので、ついでに啄木の歌集も読んでみた。

昔、教科書で見たような歌、たとえば「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」とか「はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る」なんていう歌は、たしかに他の歌にくらべて秀でている。

先に啄木の日記を読んでしまったので、つい日記と歌を重ねてしまいたくなる。たとえば、「かなしきは/飽くなき利己の一念を/持てあましたる男にありけり」とか「手も足も/室(へや)いつぱいに投げ出して/やがて静かに起きかへるかな」などは、膨張する自我や、激しい欲求を持てあまし、何も出来ずにいる虚しさが出ているのかなと思う。ここから、「死ね死ねと己を怒り/もだしたる/心の底の暗きむなしさ」という歌が出てくるのも必然だろう。

私自身の心境に一番近い歌が一つある。

《友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ》

花を買っていくような妻などはいないけど、一行目の心境はまさしく今の私のことだ!

石川 啄木, 金田一 京助
一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集

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