Sat, January 13, 2007

細川英雄『日本語教育は何をめざすか』

テーマ:文化研究

◆細川英雄『日本語教育は何をめざすか 言語文化活動の理論と実践』明石書店、2002年1月

日本語教育、特に「日本事情」の授業に関する論考。理論的な著作。

こ とばと文化をどのように日本語教育のなかに位置づけるか。いろいろと刺激的な内容が書いてあり、参考になることが多い。私はもともと比較文化も勉強してい たので、やはり「文化とは何か」という問題に大いに関心がある。本書では、あるモノや事に触れたときに、個人のなかに生じる「文化」認識、つまり富士山を 見て、「これが日本の山なんだ」とか歌舞伎を見て日本の伝統文化なのだと感じること、そうしたものを「文化」と呼ぶ。したがって、Aという人物には「文 化」と感じないモノが、Bという人物には「文化」と感じるモノもある。「文化」は各人各様に存在するというわけだ。だが、各個人が心のなかで「これが文化 なんだなあ」とおもっているだけでは、他者にはその人の「文化」観がわからない。そのために、自分の「文化」認識を表現することが大切になる。内言から外 言へ移すプロセスをことばと文化を総合する活動として、著者は主張し、その理論と実践を行っている。

何か特定の事象なり現象を 「文化」と称して、知識を一方的に教える教育よりも、たしかに魅力的だ。ことばの学習や生活のなかから、何かに気がつき、気がついたことを調べ、それをこ とばにして他者に理解させるといった一連の作業は、別に第二言語習得教育に限らず、どんな人にも重要なことになるだろう。

細川 英雄
日本語教育は何をめざすか―言語文化活動の理論と実践

Sat, January 06, 2007

細川英雄『日本語教育と日本事情』

テーマ:文化研究

◆細川英雄『日本語教育と日本事情-異文化を越える-』明石書店、1999年10月

日本語教育には、「日本事情」とかそれに類した名称の授業がある。要するに、言葉だけ身につけても、その言葉の背景となる社会や文化を知らないと、言語をうまく運用することができないという理由から、このような授業が行われているのだと思う。

私 自身も、いきなり「日本」について、学生に教えることになったのだが、問題は何を教えたらよいのかわからないことだ。私の場合、とりあえず教科書を手渡さ れ、それを教えるように言われたので、今学期はその教科書に沿って教えたのだが、正直大失敗だった。失敗の原因はいろいろあるが、いちばん残念だったなあ と反省したのは、結局教科書に書かれている知識を一方的に教えただけになってしまったことだ。

とはいえ、「日本」について何をど のように教えたらよいのだろうか。中国で出版されている「日本事情」に関する教科書を年末にいくつ見てみたが、どれも似たような内容でがっかりした。つま り、日本の地理の説明から始まって、政治や経済の説明、伝統文化や文学の紹介といった内容。昨今の文化論でよく言われることだが、「日本」あるいは「日本 人」と一口に言ってもその姿は多様である。なので、教科書に書かれている「日本」に私自身違和感を覚えてしまう。内容が間違っているというのではなく、な ぜ「日本」の伝統文化だといって、歌舞伎や能を教えなければならないのだろうとか、日本の季節や地理について教えなければならないのだろうかと疑問に思う のだ。もちろん、歌舞伎や能について知らないよりは知っている方がいいし、日本の県の位置関係など知ることも大切だ。しかし、それをわざわざネイティブが 教えることなのだろうかと悩んでしまう。

教科書で描かれる「日本」と私の考える「日本」が異なるという点も問題だ。いったい「日 本」とは何なのだろうと迷ってしまう。いくらネイティブといっても、日本社会のあらゆることを私が知っているわけではない。そんな自分が「日本」の何を教 えることができるのかわからない。結局何をしたらよいのか不安を抱えたまま今学期が終わってしまった。私自身消化不良だったし、学生も消化不良だったにち がいない。

というわけで、今年は「日本事情」の授業について研究してみようかなと考えている。著者は「日本事情」の教育に関して、すでに何冊かの本を出しており、この分野でのパイオニア的存在であるが、それらの本を参考に何か自分なりの方法や理論が導き出せればいいなと思う。

異文化教育とか比較文化論というのは、机上の学習だけではリアリティを感じられない。実際に自分が巻き込まれてみて、はじめてその大切さや困難さを実感した。

細川 英雄
日本語教育と日本事情―異文化を超える

Fri, January 05, 2007

金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』

テーマ:文化研究

◆金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店、2003年1月

ずっと積ん読状態にあったのだが、お正月の休みの間に一気に読んだ。

「役割語」とは何か。定義がなされているので、それを引用してみる。

ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。(p.205)

たとえば本書でも分析の対象となっているが、役割語の一つに<博士語>がある。鉄腕アトムのお茶の水博士は「親じゃと? わしはアトムの親がわりになっとるわい!」というふうに「じゃ」とか「わし」といったいかにも<博士>がしゃべりそうな言葉づかいをしている。現実の世界で、博士のみんながみんな、このような話し方をするわけでもないし、というか、現実社会ではこのような話し方をする人に会ったこともないのだが、この言葉づかいを見ると即座に<博士>を思い浮かべてしまう。

本書は、どうしてこのような言葉づかいが現れたのかを、日本語の歴史から検討したり、役割語がいかなる効果をもたらすのかなどを論じている。非常になじみ深い言葉だが、よく考えてみると不思議な言葉である役割語。その謎は奥深い。


金水 敏
ヴァーチャル日本語 役割語の謎


Fri, December 29, 2006

柳父章『翻訳語成立事情』

テーマ:文化研究

◆柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年4月

本書では、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」 「権利」「自由」「彼、彼女」という10の言葉を取り出し、これらが近代になって、翻訳のためにつくられた新造語であったり、もともと日本語の歴史のなか にあったが翻訳語として新たな意味を与えられたものであることを論じる。

いいか悪いかは別の問題として、ともかく私たちは「翻訳 語」のおかげで学問や思想を学ぶことができた。だが、一方では日常生活と遊離した言葉であるのも事実で、それゆえに言葉の意味に混乱が生じている。著者 は、しばしば翻訳語の「カセット(=宝石箱)効果」ということを指摘する。つまり、翻訳語は、なんだかよくわからないが、きらびやかでありがたそうな言葉 に思えてしまう。翻訳語はなるほどたしかに翻訳を効果的に進めてきたかもしれないが、一方で一つの言葉を巡って混乱を生じさせてしまった。

「美」 をめぐって三島由紀夫を論じてる箇所が興味深い。「美」とは三島文学の重要なキーワードであるが、著者によると三島は「二つの「美」」を使い分けていると いう。三島の「美」の語り方の一つは、「「美」について語る」こと。もう一つは「「美」に語らせる」ということだ。これは、たとえば評論で三島は積極的に 「美」を語るが、小説では「美」に語らせるということになる。そして、三島は自分が「美」について語る場合は、「ほとんど軽蔑したような口調で、否定的」 (p.79)であるが、たとえば『金閣寺』のような「美」に語らせる小説では、「美」の正体がよくわからない、「とてもだいじな、おそろしいような存在」 とする。

どちらにしても、読者には「美」が何なのかわからない。わからないがゆえに、読者は「美」に惹かれてしまうというわけ だ。三島は、翻訳語の「カセット効果」のうように、「美」という言葉を使い分けながら、「美」という言葉の与える効果を操作していたのだ。この指摘は面白 かった。

柳父 章
翻訳語成立事情 (1982年)

Fri, June 16, 2006

佐藤喜彦編『【中国の大学生】素顔と本音』

テーマ:文化研究

◆佐藤喜彦編『【中国の大学生】素顔と本音――日本語でつづる「日本、そして私の国」』河出書房新社、2006年5月

本書は、日本語を学んでいる中国の大学生が、日本や中国に関するテーマで書いた作文を集めたもの。「日本そして日本人」「愛する祖国「中国」」「中国の諸制度に思う」「両親は私の誇り」「世界のリーダー国を目指して」の5つの章で構成される。

現代の中国の若者が、日本や自分たちの国についてどう考えているのかよく分かる。興味を引いたのは、中国でも大学生の就職が困難であるということ。特に日本語を専攻している学生は厳しいらしい。入試の改革などによって、大学生が近年増加したことが原因となっている。どこの国でも、教育と仕事のバランスを取るのが難しいのだろう。

佐藤 喜彦
中国の大学生 素顔と本音 日本語でつづる「日本、そして私の国」
Tue, June 06, 2006

有田正光・石村多門『ウンコに学べ!』

テーマ:文化研究

◆有田正光・石村多門『ウンコに学べ!』ちくま新書、2001年10月

以前、谷崎の小説を集中して読んでいた頃から気になるテーマに「ウンコ」があった。文学のなかではたして「ウンコ」がどのような意味を持ってきたのかについて考えるのは、かなり重要なことなのではないか。いや、「ウンコ」は何も文学だけの問題ではなく、倫理学や哲学的な問題にも繋がるではないか――と、そのようなことを漠然と考えている。まるで小学生が思いつくようなテーマだが、「ウンコ」を馬鹿にしてはいけない。

というわけで、その研究のための参考になればと本書を読み始めた。環境倫理の立場からの研究ではあるが、谷崎をはじめとした「ウンコ」の文学にも触れられている。また「ウンコ」の文化史も興味深い。本書は「ウンコ」研究にとって必読の書と言える。

本書で何より共感したところは、「みんなのおかげでウンコができる」という考え方である。私も「ウンコ」は秘匿すべき個人的な行為ではなく、すぐれて社会的な行為であると考えており、私たちの「社会」を考える際に「ウンコ」はよいテーマになるはずだと思う。「今や便器にまたがれば、自分がしたものの姿形を見ぬうちに流れてしまうことも可能だから、自分がウンコをしたことさえ身に覚えがないと知らばっくれたりできそうにも思われる。が、しかし、ウンコのほうは、いつもあなたに「俺はお前がひりだしたウンコなんだぞ」と人知れず語りかけているのである」(p.8)と本書は述べているが、まさしく「ウンコ」こそ、私たちの姿を写しだす鏡だと言えるだろう。

有田 正光, 石村 多門
ウンコに学べ!
Sun, June 04, 2006

原宏之『バブル文化論』

テーマ:文化研究

◆原広之『バブル文化論 <ポスト戦後>としての一九八〇年代』慶應義塾大学出版会、2006年6月

私にとって常々、80年代やバブル期のカルチャーは憎悪の対象であり、それゆえに80年代論に強い関心を持っている。特にバブル期の現象など、私にとっては揶揄の対象でしかない。本書で取り上げられ分析されているモノや人を読みながら、本当に愚かな時代だったのだなとあらためて思う。

こんな思いがあるので、私は80年代やバブル期をいまだに冷静に見ることができないのだが、本書は郷愁でもなく揶揄でもなく80年代を捉えている。本書では80年代を、戦後との混沌期である80年代前半、それから戦後との断絶期にあたる84年から86年、バブル期への移行期間である86年から88年、そして88年から93年のバブル文化期に細かく分節化して分析しているのも興味深いし、なにより「歴史」をいかに描くのかという、ある意味坪内祐三の本と同じ問題を持っている点は重要だ。

80年代論はいくつかあるが、本書が他と異なる点は、80年代=おたく文化を間違いだと指摘したところだと思う。この指摘は新鮮だった。たしかに、これまでは80年代というと「おたく」に偏りすぎた感があると思う。80年代を「おたく」に代理=表象させるには、無理があるのかもしれない。この問題は、今後80年代を研究する者は考えなければならないだろう。これは本書が提出した重要な論点である。

ところで、個人的に注目したのは、「八〇年代後半の消費文化を演出した団塊世代(一九四六~五二年生を中心とする)と新人類世代(一九六〇年代生)は、「転向」と「敗者復活の可能性」を共有する」(p.158)という指摘である。私はこの二つの世代を強く批判しているので、なるほどなと思った。この世代は、偶然なのかどうか分からないが、要するにいろいろな面で恵まれていたのだ。つまり、「転向」や「敗者復活」ができるほどの経済的な余裕が偶然にも社会にあったのだ。だが、彼らはそれを自分たちの実力だと勘違いしている。単に条件に恵まれていただけにすぎないのに、自分たちには実力があると思い、うかれている。この世代特有の奇妙な明るさ(脳天気さ)は、そんなところから出ているのではないか。私にはそう見える。――

原 宏之
バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代
Thu, March 30, 2006

稲葉振一郎『モダンのクールダウン』

テーマ:文化研究

◆稲葉振一郎『モダンのクールダウン』NTT出版、2006年4月

結局、何が言いたいことなのか、一回読んだだけでは私には理解できない。この本は、いったい何だったんだろう? <近代>論? ポストモダン論? 東浩紀論? 大塚英志論? 虚構世界論? 公共性論?...。近代文学論としては、なんだか大雑把――近代文学(純文学)は自然主義だけではないだろう、というか本書が依拠している大塚英志の近代文学論が粗雑なのかもしれない――すぎるし、さらに幅広くして文化論として読んでも、それほど目新しい論ではないし。サブカルチャー論としても、東浩紀と大塚英志に寄りかかりすぎているし。というわけで、本書のねらいが、私にはうまく掴めなかった。「キャラクター」とか「萌え」を使って、「公共性」を論じてみるというのがねらいなのだろうか。

8章の最後に、「現時点でのぼく自身の立場としては、大塚の問題提起を真に受けて、「ポストモダン」状況における<近代>の可能性について、きちんと考え直していきたい、というところに落着いています」(p.239)とある。この問題意識も分かるようで分からない。とりあえず、本書を書く目的みたいなものが、はじめかおわりに欲しかったなというのが率直な感想。

稲葉 振一郎
モダンのクールダウン
Wed, February 22, 2006

佐藤俊樹『桜が創った「日本」』

テーマ:文化研究

◆佐藤俊樹『桜が創った「日本」-ソメイヨシノ 起源への旅』岩波新書、2005年2月

タイトルだけを見ていると、一昔前に流行したカルチュラル・スタディーズ系の研究なのかなと思ってしまうが、読んでみると著者はそのような「国民国家」批判の言説とは距離を置いている。そのあたりに好感を持った。要するに、本書は、桜と一口に言っても、さまざまな種類があるのに、なぜか桜を語るとき、私たちは型にはまったような語りしかしない、そうした桜の語り方を追いかけたものである。というわけで、桜はたしかに「日本」の存在証明に利用されたのかもしれないが、その見方も桜の一面しか見ていないというわけだ。桜を均質なものと見ることと、「日本」を均質に見ることはパラレルなのだろう。

では、今現在の私たちはどのように桜を見てしまうかというと、それは副題にあるように「ソメイヨシノ」なのである。私たちの感性は「ソメイヨシノ化」されてしまっているのだ。それを本書では、「ソメイヨシノ革命」と呼んでいるが、この分析がおもしろい。桜についての語りの分析に、システム論を使っている。幻想の桜を現実の桜に投影し、その現実の桜が幻想の桜と重なることで、ますます桜に対する幻想が強化されていく、ポジティブ・フィードバックが、桜の語りには存在することを指摘している。

桜というのは、人を饒舌にしてしまうらしい。桜に事寄せて、人は自分の感覚や記憶を語ってしまう。特に戦後は、桜語りの個人化の傾向にあり、語りは拡散しているという。これからもソメイヨシノは、個人の感覚や記憶を乗せる媒体として、これからも便利に使われるのではないかと最後に述べている。そして、ソメイヨシノは、「創り創られる桜として、桜のなかの一つでありながら、桜らしい桜でありつづけるだろう」(p.206)と。

佐藤 俊樹
桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅
Sun, January 29, 2006

四方田犬彦『「かわいい」論』

テーマ:文化研究

◆四方田犬彦『「かわいい」論』ちくま新書、2006年1月

タイトルから、四方田犬彦も流行の「萌え」論に手を染めたかと思ったが、本書は「萌え」論よりももう少し射程が広い。「萌え」についても、たとえば第8章で取り上げられているが、本書において「萌え」は「かわいい」文化のひとつと言えるだろうか。

「かわいい」というキーワードは、かつて大塚英志が使っていたなと思いつつ読んでいたら、最後の最後で大塚英志の名前を挙げずに批判がなされていた。「犠牲者の女性たちが一昔前の少女漫画のタッチで描かれていたというので、それを手がかりとして現代社会におけるサブカルチャーの重要性を喧伝するという論客が、いささか強引な論陣を張っていた」「それは純粋に世代の「刷り込み」問題であり、それ以上でも以下でもない」「こうした細部だけを強調することは、あのドストエフスキーの『悪霊』を思わせる陰惨な事件の本質をみえなくさせてしまうだけ」(p.196)という印象を持ったと四方田は批評している。

本書は、「かわいい」文化について、多角的な論を展開している。語源的な考察からはじまり、「かわいい」の美学的考察、メディア分析、ジェンダー分析、比較文化的考察などである。新書にしては、あきらかに話題が豊富すぎる。著者自身も「問題の所在を突き止めたまではいいが、それが充分に展開されているとはいい難い部分もある」と反省し、「専門的に論文を執筆してくださる方が輩出することを待ちたい」と述べている。

とは言え、「かわいい」が充分に専門的な研究に価することを示していて面白い。様々な研究分野の人が興味を持つだろう。文学や映画に関心のある私には、「「かわいい」から読み解く近代文学史というものは、意外と面白く構想が可能なものではないだろうか」(p.36)という言葉が刺激的で、自分でこの文学史をまとめてみたいものだと思ったほどである。また、「かわいい」の隣人は「グロテスク」であるという指摘も興味深い。なんと、「きもかわ」が「かわいい」を理解するうえで重要な鍵となるのだ。この点は、エピローグで語られるアウシュビッツの「かわいい」壁画に繋がる。

本書は、「日本の国内国外を問わず、ただ圧倒的なまでに猛威を振るう「かわいい」の氾濫であり、その多様なあり方」を示した。多様なあり方をしている「かわいい」に対して、「かわいい」とはこれだ!と決めるのではなく、「かわいい」に対して人々がどのように対峙しているのかを考察することが重要であることを教えてくれる。「かわいい」の背後に人々は何を隠しているのだろうか。

誤記があった。「エミール・クストリッツァのフィルム『ライフ・イズ・パラダイス』」(p.103)と書いているが、おそらく『ライフ・イズ・ミラクル』の間違いだと思う。それから、註の24でSusan StewartのOn Longing : Narratives of the Miniature, the Gigantic, the Souvenir, the Collectionの一部が、翻訳されているとあって、それが収められている本の名前を「『現代文学のフロンティア』(岩波書店)第4巻「ノスタルジア」(1996)」(p.205)と記しているが、この本の名前は『世界文学のフロンティア』だった。『現代文学のフロンティア』は別の本なので、検索するときには注意されたい。

四方田 犬彦
「かわいい」論

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