蓮實重彦『「私小説」を読む』
テーマ:蓮實重彦◆蓮實重彦『「私小説」を読む』中央公論社、1985年10月
論じられているのは、志賀直哉、藤枝静男、安岡章太郎の3人。『「私小説」を読む』というタイトルから、この本は「私小説」論なのかなと予想していたのだが、まったくちがった。「私小説」かどうかといった問いすら放棄される。いつものように、ただひたすら言葉の「運動」を追いかけていく試み。
◆蓮實重彦『「私小説」を読む』中央公論社、1985年10月
論じられているのは、志賀直哉、藤枝静男、安岡章太郎の3人。『「私小説」を読む』というタイトルから、この本は「私小説」論なのかなと予想していたのだが、まったくちがった。「私小説」かどうかといった問いすら放棄される。いつものように、ただひたすら言葉の「運動」を追いかけていく試み。
◆蓮實重彦『ゴダール革命』筑摩書房、2005年9月
期待していたほど面白いものではなかった。やはり以前に書いた文章が載せられているからだろうか。
それにしても、ゴダールの評論なのに、いつものように鋭い指摘がないなと思っていたら、この本はたとえば『監督小津安二郎』やそのうちに出版されるであろう「ジョン・フォード論」のような「映画評論」なのではない、と最後に書いている。では、本書は一体何なのかというと、この本は「ドキュメンタリー」なのだと言うのだ。
《ここに『ゴダール革命』として読まれた書物は、それがかりに錯覚であるにせよ、「アメリカ的」であることと「偉大」であることとが矛盾なく共存しえた一時期に、「ハリウッド映画」に目が眩んでしまった二つの個体が、「アメリカ的」であることと「偉大」であることをともに放棄してしまった「ハリウッド映画」の半世紀をどのように過ごしたかをめぐるいささか陰惨な「ドキュメンタリー」にほかならない。陰惨なというのは、当時はまだまだ若々しかったその二つの個体が、いまやともに老境にさしかかっていながら、なお、半世紀以前の錯覚から完全に自由だとはいえそうにないからだ。(p.240)》
つまり、本書は「撮ること」と「見ること」の永遠に決着のつかない闘争の「ドキュメンタリー」ということらしい。
◆蓮實重彦『反=日本語論』筑摩書房、1977年5月
再読。「日本語論」の批判だが、日本語にとどまらず、言語学そのものを批判することで、西欧の思考の源である「音声中心主義」批判へと向かう。デリダの仕事を受け継いだものだろう。書かれた当時のことはいざ知らず、現在の時点から読むと、他の蓮實重彦の著作に比べて、インパクトは足りないかなという印象を受ける。
「音声中心主義」を批判するといっても、だからといって「文字」が優れていると主張するわけではない。音声/文字といった二元論から遠く離れることが必要なのだ。本書で貫かれているのは、やはり「制度」批判なのだ。不自然なものを自然なものにみせる「制度」をどのようにやりすごすのか。これが重要なのだろう。
私は、このような蓮實重彦の「制度」批判にいまのところ共感している。蓮實の著作を読み続けているのも、「制度」批判に関心があり、それを参照したいがためである。たとえば、「制度」の一つに「文化」も挙げられるだろう。
《日本は、西欧ではないという明白な事実。だが、その明白な事実をいかにして言葉にしたらいいのか誰も知らない。わが国の伝統だの歴史だのをさぐることがその事実を鮮明なイメージとして提示しうるものではないことはいうまでもないし、「文化」型態の単純な比較が有効なわけでもない。比較そのものが「差異」に基づく西欧的な概念にほかならぬからである。では、今日の「日本論」的言辞の同語反復的な日本の正当化に陥ることなく、また西欧言語理論の抽象的な導入にも頼ることなく、いかにして日本語を語ることができるだろうか。(p.124)》
蓮實は、たびたび比較文化を馬鹿にしているのだが、そもそも、それが一つの「制度」内における思考でしかなく、結局「制度」を確認あるいは追認して安心する学問にすぎないからだ。私は、比較文学・比較文化の勉強を続けてきただけに、いつもこの批判が気になってしまう。自分が「制度」内思考に陥っているのではないかと、絶えず自分自身を批判していかねばならないと思う。
◆蓮實重彦『大江健三郎論』青土社、1992年9月
第一章のタイトルが「数の祝祭に向けて」とあるように、本書の主題は「数」である。大江作品の至る所に氾濫している「数字」。この数字と徹底して戯れる。数字が何を意味しているのかという深さを問うのではなく、あくまでテクストの表層にあらわれた「数字」にこだわる。蓮實批評のおなじみの方法だ。
このような方法は、時に「こじつけ」であったり「偶然」なんじゃないかという批判が現れるであろう。だから、本論中でも、時折そうした批判の可能性があることを言及する。だが、一見すると「こじつけ」のようである、数字の戯れという方法を放棄することはない。むしろ戯れを徹底する。蓮實批評ではおなじみのフレーズ「荒唐無稽」が、本書でも登場してくるだろう。「荒唐無稽」であること。これが重要なのだ。
たとえば、大江健三郎における「核時代の脅威」について、こう述べている。
《大江健三郎における核時代の脅威とは、あとえば人類の絶滅といった悲観論的な世界の未来図ではなく、一なるものの悪意を律儀に体現しつつみずから複数化し、その衝撃によって複数者の運命を一なるものの意志に従属させるというその形式そのものなのだ。特権的な単数者が複数を統御してはならない。(p.197)》
このような「特権的な単数者」「一なるもの」を回避する戦略が、数の戯れでありすなわち「荒唐無稽」であることは言うまでもない。真理という唯一なるものへ複数の読者の群を導く「代理人」=「言葉」に逆らいながら、本書は大江健三郎の作品を読む。一方で、大江的「作品」の言葉の配置が、「一」への到着をさせてはくれない。
《まさに、大江的「作品」の言葉の配置そのものが、この種の解読や記号の概念を実践として超えているが故に、「作家」であれ意味であれ、いずれにしても特権的な一に到着することのない、つまりは空位として残された定員一を埋めることで完成されることのない読み方を試みていたはずである。(p.234)》
「一」を回避するためにも、「荒唐無稽」に思われる「数」との戯れに終始するしかない。蓮實の他の批評に比べて、やや切れ味が悪いというか、なるほど!と唸らされる分析がなかったのは残念。しかし、「荒唐無稽」に徹しているところは感心してしまう。
◆蓮實重彦『魅せられて 作家論集』河出書房新社、2005年7月
文庫などに書いてきた解説を集めた本だった。なので、各評論は比較的短いものが多いけれど、他の文芸批評の本よりも読みやすい。テクストの言葉に徹底してこだわって分析している。この分析手法は見習いたい。
取り上げられている作家を並べておこう。
第一部――樋口一葉、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎。
第二部――大岡昇平、安岡章太郎、河野多恵子。
第三部――後藤明生、古井由吉、金井美恵子、中上健次、村上龍、島田雅彦、阿部和重。
迂闊にも気が付かなかったのだが、漱石の『それから』で「一人称の「私」と二人称の「貴方」の間だけには、「愛」するという動詞が禁じられている」(p.56)という指摘は収穫だった。どういうことかと言うと、「貴方は平岡を愛してゐるんですか」とか「平岡は貴方を愛しているゐるんですか」という言い方はあるのに、「私は貴方を愛している」とは言わないのだ。「私は好いた女がある」と漱石は書く。「I love you」という言葉だけが禁じられているという。その結果――
《すなわち、I love youが日本語に翻訳しがたいという漱石の自覚いらい、「私」と「貴方」との間に介在すべき「愛」の能動的他動詞性を回避しながら、その等価的表現の模索にあけくれてきた近代日本の小説は、恋愛を、快楽の対象ではなく、二人してくぐりぬけるべき試練のごときものに仕立て上げた。(p.58)》
こうした状況が今日まで続いているという。これは、本当なのだろうか?。すごく気になる。これから漱石を読むときには、ちょっと気をつけてみたい。
ほかにも、中上健次の分析では、テクストに現れる「一人二人」という数字の不気味さ着目し、この数字の分析を通じて「路地」や中上文学に迫っていく。
村上龍の『ピアッシング』の分析では、この小説には製作者の村上龍と演出者の村上龍という分業があると言い、ジャンルとしての小説が反省意識を持たないように、同時に読者にもそんな意識を持たせないように、すべてをあっという間の出来事として語りつくす技術が要求され、その技術を備えているとして製作者の村上龍は演出家の村上龍を起用したのだという。ここで重要なのは「すべてをあっという間の出来事として語りつくす技術」つまり、「時間」が重要な問題になるだろう。蓮實は、『ピアッシング』の魅力はなにより時間の余裕の無さからくる「せっぱつまった直線性」(p.214)にあるというのだ。この時間の直線性はおそらく『現代小説のレッスン』において石川忠司が「エンタテイメント化」という概念で村上龍の文体を分析したことと通じている。すなわち、蓮實重彦もまた村上龍の「エンタテイメント化」を評価していたということになるだろうか。

Amebaおすすめキーワード