Sun, April 02, 2006

北野圭介『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』

テーマ:映画研究・批評

◆北野圭介『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』平凡社新書、2005年8月

タイトルから予想できるように、アメリカにおける日本映画の語られかた、つまり日本映画をめぐる言説分析をした本である。となると、おきまりのパターン(アメリカ批判、オリエンタリズム批判)などが思い浮かんでしまうが、本書はもうそのようなパターンでは終わらない。もちろん、文化論ではありがちなこうした批判がまったく無駄だとは私も思わないが、そろそろ次の段階へ進む必要があるのではないかと思う。そういうわけで、たとえば本書で述べられている「九〇年代の日本における映画研究は文化研究において国内的な視点で事足れるナショナリズム批判の枠組みが多用されたわけですが(略)」(p.171)という言葉には共感した。そして、文化論はこのことを反省し、乗り越えていかねばならないと思う。

本書は、ちょっとした映画学入門としても参考になると思う。

北野 圭介
日本映画はアメリカでどう観られてきたか
Sat, February 25, 2006

加藤幹郎『映画の論理』

テーマ:映画研究・批評

◆加藤幹郎『映画の論理 新しい映画史のために』みすず書房、2005年2月

映画(史)を考える上で刺激的な内容を含んだ論文が多い。とりわけ、ニコラス・レイ論、ジョーゼフ・コーネル論、そして夢と映画の関係について論じた箇所は重要だと思う。

加藤 幹郎
映画の論理―新しい映画史のために
Sat, November 19, 2005

四方田犬彦・斉藤綾子編著『映画女優 若尾文子』

テーマ:映画研究・批評

◆四方田犬彦・斉藤綾子編著『映画女優 若尾文子』みすず書房、2003年6月

四方田犬彦と斉藤綾子による「若尾文子」論と、この二人による若尾文子インタビュー、そして詳細なフィルムグラフィーがついたかなりの労作。「若尾文子」という一人の映画女優を通じて、日本映画の50年代から60年代を浮かび上がらせる希有な試み。この本は、「若尾文子」研究であるが、同時にかつて存在した映画会社である「大映」の研究の第一歩ともなるし、また若尾文子と長きにわたって名作を送り出してきた増村保造監督の研究ともなる。まったく贅沢な内容の本である。

若尾文子ファンにとっては、ここに収録されているインタビューは非常に貴重なものである。この本が出た時には、『竹取物語』が若尾の最後の出演作と言われており、このインタビューのなかでも、もう一度映画に出演してくださいとおそらく四方田犬彦あたりから言われている。それに対し、若尾もそれまでは映画出演のオファーは断っていたけれど、最近では自分で面白く思えて、他人からも楽しめてもらえるようならば、一日でもいいからやってみようかなと思っていると答えている。

このインタビューがきっかけとなったというわけではないだろうが、いろいろあってこうして今年になって『春の雪』で18年ぶりに映画出演をしたのだから、ほんとに『春の雪』は日本映画界にとっての大事件と言って良いはずなのだ。インタビューの最後にこんなやりとりをしている。

《――若尾さんが、昔、小津さんにこう言われたんだけど、というようなかたちで、呼吸だよとか、なんか一言サジェスチョンすれば、若い監督はひじょうに心構えといいますかね、なんかそういうことが伝わっていかないと、日本映画の独自性がずっと…… 大映のそういう経験みたいなものを、いかに次の世代が勉強するかみたいな。この本もその一助になればと思ってます。若尾さんは、ほんとに今の三十歳くらいの人の映画にお出になられるとか……。
若尾 そうそう、一日でもいいし。小栗康平さんが『泥の河』を撮る時に出てくれって言われたんですけど、お断りしたの。でも、そういうことしちゃいけないわね。今ならね(笑)。やっぱりね、そういうのをやらなきゃいけないわね。(p.280)》

『春の雪』出演は、やはり日本映画の良質な部分を若い映画人たちに伝えようとしたのであろうか。

四方田 犬彦, 斉藤 綾子
映画女優若尾文子
Mon, September 19, 2005

蓮實重彦・山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』

テーマ:映画研究・批評

◆蓮實重彦・山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』筑摩書房、2005年6月

本書は、1998年のサン・セバスチャン映画祭の成瀬特集で作られたカタログをもとに、新たな論考を加えたもの。三部に分かれていて、第一部が批評家による成瀬の論考で、第二部は岡田茉莉子、成瀬組の玉井正夫カメラマン、美術の中古智への各インタビューとなり、第三部は世界の映画監督が見た成瀬巳喜男というわけで、ダニエル・シュミット、ジャン=ピエール・リモザン、エドワード・ヤン、吉田喜重たちがエッセイを書いている。本書の構成はなかなか良いものだったと思う。

第一部の各論考も、これまでの「成瀬巳喜男」像を打破しようという意気込みが感じられる力作ばかり。なるほどと思う指摘がいくつもある。しかし、まだまだもの足りないなと感じる。理想を言えば、蓮實重彦の『監督小津安二郎』のような論考が読みたいのだ。成瀬には、まだ『監督小津安二郎』のような論文がないということが、不幸な事態であると思う。蓮實重彦が、序章で「ここには、何ら結論めいたものは含まれておらず、成瀬巳喜男を来るべき未来の映画作家として輝かせるためのささやかな試みが始まったというにすぎない。実際、映画作家としての成瀬巳喜男については、まだほんのわずかなことしか語られていないからである。(p.20)」と記しているが、この言葉は謙遜でも何でもなく、文字通りに受けとるべきなのだなと思う。人々は、ようやく成瀬について語るきっかけを掴んだところなのだろう。今回の生誕100年を機会に、『監督小津安二郎』に匹敵する成瀬巳喜男論を誰かが書いてくれたらいいなと願う。

蓮實 重彦, 山根 貞男
成瀬巳喜男の世界へ リュミエール叢書36
Mon, September 05, 2005

加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学』

テーマ:映画研究・批評

◆加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学』みすず書房、2005年5月

ヒッチコックの代表作『裏窓』を分析を通じて、「古典映画」とは何かを論じ、映画史におけるヒッチコックの果たした役割を明解に説いた好著。

『裏窓』の最大の謎は、いったい「殺人事件」は本当に起きていたのか、ということだ。映画の主人公をはじめ、この映画を見た観客も、「殺人事件」が起きたことを疑わない。しかし、映画を見る限り、「殺人事件」が起きたことを示す客観的証拠はないと著者は指摘する。そして、ここにヒッチコック映画の本質を見出す。

ヒッチコックの映画の本質は、「外見と内実の乖離」であると著者は主張する。つまり、見せるものと語られているものがズレが生じてしまう。こうして、ヒッチコックは「光学的欺瞞」を告発する。古典的ハリウッド映画とは、「見せること」と「語ること」を一致させる運動だった(p.58)。そして、この関係に乖離を生じさせ、古典映画を終結に導いたところに、ヒッチコックの映画史上における役割をみる。

加藤 幹郎
ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学
Mon, August 29, 2005

加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』

テーマ:映画研究・批評

◆加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』勁草書房、1990年5月

第一部が映画論、第二部が小説論、第三部が漫画論の三つに本書は分けられている。全体を通じて分析のテーマとなっているのは、「メロドラマ」である。

メロドラマとは何か、ということを本書を全体で問うわけだが、いちばん分かりやすいのは第二部のはじめにある「メロドラマの一般原理」という章だろう。ここでは、村上春樹の小説を使って、メロドラマの特徴を説明している。

たとえば、「過去の回帰」という特徴。メロドラマの「メロ」はもちろん「メロディー」のことだが、懐かしい曲とともに、主人公に「失われた時間」が戻ってくる。著者は、「メロドラマ的物語は二重の意味で過去についての物語」(p.91)であると指摘する。メロドラマは、「かくあるべき(だった)事態の遡及的回復」を試みる。それは、「いかにすれば、より幸福な人生を送っていただろうか」という反省であり、また「本来われわれ(恋人たち)は生きるに価する幸福な人生を送ることができたはずだという無反省な信念から振り返られた過去である」(p.91)。メロドラマという言葉が蔑称として受けとめられてきたとすれば、その理由として、「道徳的に固定された価値観」、「「現実」との滑稽な乖離につきまとう逆説的な「現実」肯定主義」、「敗北主義」といったことからであるという。

《メロドラマのヴェクトルはつねに後ろ向きであり、メロドラマの物語は未来の革命を模索するのではなく、幸福な過去の「黄金時代」の回想録としてしか語られない。(p.91)》

現在の「わたし」のもとに、「過去」が戻ってくるのは、回想の主体である「わたし」に質的な変化をもたらすためである。そして、その修正は、「道徳的に固定された価値観」によって行われるという。人生がある価値観によって軌道修正される守旧的なイメージと、同時に過去を修復することは不可能な試みであるという、このような「不可能性」「荒唐無稽な敗北主義」「感傷主義」がメロドラマに「否定的な価値」を与えることになる(p.92)。こうしてメロドラマは、正しいもの/誤ったもの、あるいは善/悪、光/影といった「二元論的ダンス」(p.93)となる。

このあたりを理解しておけば、とりあえずメロドラマの基本を押えたことになるのだろうか。「メロドラマとは~~である」と簡単に定義できるものではないので、さらなる研究が必要。やはりピーター・ブルックスの『メロドラマ的想像力』は読んでおくべき本であろう。

加藤 幹郎
愛と偶然の修辞学
Wed, August 24, 2005

中古智・蓮實重彦『成瀬巳喜男の設計』

テーマ:映画研究・批評

◆中古智・蓮實重彦『成瀬巳喜男の設計』筑摩書房、1990年6月

成瀬映画を理解するために読んでみる。

成瀬の映画製作は、成瀬組と言われる優秀な技術者たちに支えられていた。特に、カメラの玉井正夫と照明の石井長四郎、そして美術を担当しつづけたこの中古智らが、成瀬組の中心人物であった。その中古智と蓮實重彦がインタビューをし、日本映画における美術担当の歴史と成瀬の映画製作の裏側を聞き出している。映画史や映画研究では、映画のセットを担当する美術についてはあまり触れられることがこれまではなかったので、日本の映画美術史として、中古智の話は貴重なものだと思う。

昨日、『浮雲』を見たところだったので、『浮雲』がいかに撮影されたかという話が一番面白かった。『浮雲』は、主人公が移動を繰り返すので、セットの数も多く、かなり苦労したことが語られている。私の印象に残った伊香保温泉での階段の場面も、クレーンで撮影したことが明かされ、その難しさが語られている。また、『浮雲』は仏印や屋久島が出てくるのだが、現地に行くことなく、もっぱらこれらの場面は伊豆あたりで撮影されたという。

成瀬映画の製作の裏側を知ることが出来る重要な本だ。

中古 智, 蓮實 重彦
成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する
Mon, August 22, 2005

阿部嘉昭『成瀬巳喜男』

テーマ:映画研究・批評

◆阿部嘉昭『成瀬巳喜男 映画の女性性』河出書房新社、2005年8月

著者は、成瀬巳喜男の映画の特質を「女性性」という言葉で表わす。ただし、著者は「女性性」と言っても、フェミニズム的観点から成瀬の映画を読み解くのではなくて、「作品の「組成」そのものに、「女性性」としか呼べない」(p.2)ものがあるのだという。成瀬巳喜男の映画、ひいては映画という「媒質」には「女性性」がまつわっているのではないか、というのが著者の考えである。

もう少し、この「女性性」について追いかけてみると、次のように説明されている。成瀬の映画が「女性的」であるとは、男性に抑圧されて苦しむ女性が描かれているということではなく、「中心性がつよくなく、しかも全体に調和がほどこされている画面の視覚性じたいを、女性性の本義からして、女性的と形容すべきかもしれない」(p.16)。したがって、男性性はこの逆で、つまり「中心性や位階を捏造する傾向」(p.16)のことだという。

こうした成瀬映画は語りにくい。語りにくいとは、言語化することが困難であるということだ。成瀬映画の各瞬間は、言語化=中心化作用によって捉えきれない。「女性性とは、言語化によって論理的調整のおよばなかったものの総体だといえる」(p.17)。成瀬の映画は複雑だが、複雑だと感じられない理由を、著者はこのような「女性性」にみている。映画には言語化の及ばない領域があるはずなのに、男性性はそれを言語化しようとし、平板な「物語」へと還元してしまう。成瀬映画の「言語化の難しさ」「脱中心性」は、このような男性性による平板化に対する、「含羞にみちた抗い」(p.18)なのではないかと著者は主張する。

このような観点から、成瀬の映画12本(『浮雲』『妻よ薔薇のやうに』『まごころ』『めし』『山の音』『晩菊』『驟雨』『流れる』『女が階段を上がる時』『乱れる』『乱れ雲』)が論じられている。これら映画の分析は、蓮實重彦風の細部を積み上げていく分析なのだが、今ひとつ興味を引く分析にはなっていない。そもそも、この本のキーワードである「女性性」もおそらく内田樹なら「身体」と呼ぶものであるので、自ずと映画の分析は身体(身振り、表情)の分析が中心となるのは予想通りの展開だった。映像の詳細な分析は目を瞠るものがあるのだが。

阿部 嘉昭
成瀬巳喜男
Wed, April 06, 2005

加藤幹郎『ブレードランナー論序説』

テーマ:映画研究・批評

◆加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説――映画学特別講義』筑摩書房、2004年9月

非常に面白い映画分析。映画を見る(聴く)とは、どういうことなのか。映画学という知を総動員して、『ブレードランナー』を読み解く試み。映画を見ることの困難さは、蓮實重彦がしばしば挑発的に述べることでもあるが、加藤氏もまた人が常に映画を見損なってしまうことに注意を促す。冒頭には、こんな言葉が掲げられている。

《『ブレードランナー』を見たことのない者は本書を開いてはならない。
しかしいったい誰がこの映画を本当に見たというのだろうか。》

こうして始まる本書は、文字通り映像の細部に至るまで分析する。映像に映ったもの、あるいは映像とともに聞こえる音をただひたすら読み解く。何気なく見ていたら気がつかない細部にまで、分析の手は及ぶ。あるいは、画面に写っていても多くの観客が気がつかない映像を指摘する。こうした分析を読んでいくと、こんなに多くのものを見逃していたのかと改めて気がつかされる。

本書は、映画のテクスト分析としては現時点で、最高度の分析をしていると思う。映画を学ぶ者にとっては必読となる文献になるだろう。

こういう本に批判を加えるというのは、私の力量では困難なのだが、誤読・誤解を恐れずに言いたいのは、本書のような映画の鑑賞法は例外中の例外なのではないか、ということだ。つまり、視聴覚を研ぎ澄ませることによってのみ可能な映画鑑賞であろう。それでは、「普通」の映画の見方なんていうものが存在するのかと問われれば、何が「普通」の映画の見方なのか定義することは不可能に近いのだろう。

しかし、映画館であるいはビデオでこの映画を見るとき、画面の隅々にまで視線を送り、細部を逐一見逃すまいとして意識することは稀だろう。多くは、もっとリラックスした状態で画面に視線を向けているのではないか。ビデオだったら、他のことをしながら映画を見ているかもしれない。このような状態における鑑賞では、映画テクストはきっと異なる意味を産出することになるのではないか。

本書はいわば視聴覚を極限まで特化した「純粋視覚(聴覚)」(こんなものはもちろんあり得ない)が、映画テクストを読み解いたものなのかもしれない。そうではなく、もっと不純な視覚(聴覚)による映画読解というのも考えられるのではないか。今のところ、それを具体的にどうやって分析するのかまでは思いつかないが。

著者: 加藤 幹郎
タイトル: 「ブレードランナー」論序説
Wed, January 19, 2005

デヴィッド・ボードウェル『小津安二郎』

テーマ:映画研究・批評
◆デヴィッド・ボードウェル(杉山昭夫訳)『小津安二郎 映像の詩学』青土社、1992年11月

ロシア・フォルマリズムを受け継いだ本書の分析方法は、なるほど小津映画のカットを精緻に分析し、その内在的規範を抽出している。この緻密な映像分析にはただただ驚かされる。小津の映像の秘密が分かったような気になってしまう。

しかし、不満だなと思うこともなきにしもあらず。映画の中からカットを取りだしてきて、そのカットに何が映っているか、どんな文脈に置かれているのかなど分析しているが、その分析にどうしても映画の「運動性」というものを感じないのだ。静止画を分析しているような印象を受ける。たしかに、緻密なカットの分析から、ビール瓶の「運動」を指摘していたりもするので、まったく映画の「運動性」を無視しているわけではない。だけど、私には物足りなかった。

これは、もちろん、先に蓮實重彦の『監督小津安二郎』を読んでしまっているので、余計にそう感じてしまうのだろう。静止画としてではなく、運動として映画を見ること。映画批評の面白さと難しさがこの点にあることは、よく知られているだろう。阿部和重の小説ではないが、映画において、「運動」がもたらす思いがけない「変化」を、いかにして言葉で伝えるか。映画批評における重要な課題である。



著者: デヴィッド ボードウェル, David Bordwell, 杉山 昭夫
タイトル: 小津安二郎 映画の詩学

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