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Mon, March 05, 2007

江国香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆江国香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫、2005年2月

今、女性作家の短編小説を探しているので、この短編集を読んでみた。江国作品ははじめて読んでみたが、これは自分とは合わない世界の物語だなと思った。

ほとんどの作品の登場人物が、今風にいえばセレブっぽくて、おしゃれでそれなりの豊かな生活をしている。そしてつきあっている恋人がいて、だけどその恋人はたいてい結婚していたりする。生活も恋愛も表面上はクールに決めているけど、実は孤独なんだといった物語――

こういう物語は苦手だ。というのも、自分とは縁遠い世界で、まったく「リアリティ」を感じることができないからだ。というか、こういう物語に「リアリティ」を感じたり、共感したりする読者とはどのような人なのだろうか。そのほうが気になる。

江國 香織
泳ぐのに、安全でも適切でもありません

Sun, March 04, 2007

綿矢りさ『夢を与える』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆綿矢りさ『夢を与える』河出書房新社、2007年2月

前2作とすっかり雰囲気が変わっていたのに驚いた。いかにも「小説」らしくなっていて、それは作者の技術が良くなったのかもしれないが、逆に言えば「小説」という枠の中にきれいに収まってしまって、『インストール』や『蹴りたい背中』のときのようなふてぶてしさが無くなってしまっているように思う。

主人公が芸能人ということで、『蹴りたい背中』に登場していたモデルの女性を発展させた小説なのだろう。他者にどのように自分が見られるのかという自意識は、『インストール』以来、綿矢作品の主題になっていて、だから人に見られることが仕事である芸能人が主人公になったのか。

それはそれとして、主人公の「夕子」に、前2作の主人公の女の子に見られた「本能」というものを感じることができなかった。たとえば、思考よりも先に男の子の背中を蹴ってしまうような本能が見られない。

たしかに、正晃と出会って、性欲の赴くままに正晃との性交を繰り返すという点では、本能的な人物と言えるのかもしれない。だが、それは前作に比べると、矛盾した言い方になるが、小説の展開上計算された本能に思える。

おそらくこの小説が優れているのは、唯一肉体を持った人物の「多摩」を登場させたことにあるのではないか。多摩と夕子が魚の干もの作りをする場面がもっとも印象的だった。他の登場人物は夕子をはじめみんな肉体を欠いているなかで、「多摩」だけが肉体を持った人物として造形されている。だから、夕子は多摩に親近感を覚えていたのだろうし、最後に夕子が向かうのも多摩だったのだろう。夕子は肉体を自分自身の肉体を求めていたのだ。だが、すべてが崩壊して、肉体が自分自身に戻ってきたとき、その肉体は衰えていた。

巽孝之が本作の書評で、本作の特徴として「両親の恋愛から数えて四半世紀ほどの長い歳月を扱っているわりに、流れている時間がたえず「現在」であり、いっさいの「歴史」がうかがわれないことだろう」と指摘し、このような時間性の欠如に21世紀初頭の「不気味なリアリティ」を見ている。この読みは、なるほどその通りであろう。本作は、時間(歴史)を欠いた空間のなかで、肉体を欠いた登場人物たちが喘いでいる世界を描いているのだ。

綿矢 りさ
夢を与える

Mon, January 01, 2007

阿部和重『ミステリアスセッティング』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆阿部和重『ミステリアスセッティング』朝日新聞社、2006年11月

作品の発表媒体を意識した物語になっている。物語の 語り手としての円熟味が増していると感じるが、たとえば『シンセミア』やそれ以前の作品に見られたような物語のデタラメさがやや薄くなっていると思う。も ちろん、小さな出来事が偶然を介して大きな出来事に雪だるま式にふくれあがるといった、これまでの阿部作品の特徴は描かれているものの、全体の印象はいま ひとつかもしれない。しかし、特に後半部分になると、ぐいぐいと読者を物語に引き込んでいく。後半部は非常に面白い。

この物語は さらっと読み流すと、ある意味道徳的な、あるいは教訓的な物語として読めてしまうかもしれない。つまり、匿名的な空間では、他者の言葉に対する信頼を失 い、コミュニケーションはたんなる解釈ゲーム、暗号解読ゲームへと堕落してしまう。それは愚直に言葉を信じる者が不幸になるのだ。こうした社会を、主人公 のシオリを通じて批判している物語と読まれてしまうのではないか。しかし、それだと阿部和重らしくないわけで、そんな単純な物語を阿部和重は書かないだろ うと疑心暗鬼になると、これはまさしくこの小説の語り手と同じ立場に立ってしまう。となると、この物語をどう受け取ればいいのか。

したがって、この物語は阿部のポストモダン批判なのかと額面通りに受け取れなくなる。考え始めると、けっこう複雑な物語になっている。

阿部 和重
ミステリアスセッティング

Thu, July 13, 2006

小林信彦『うらなり』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆小林信彦『うらなり』文藝春秋、2006年6月

この本に関しては、『文學界』2006年8月号にある石原千秋の書評が参考になる。

「うらなり」は、夏目漱石の代表作『坊っちゃん』に出てくる人物のひとり。英語の先生で古賀という「大変顔色の悪い男」のことだ。小林信彦は、この人物の視点から『坊っちゃん』を語り直している。これが非常に面白い。

この小説は、古賀が数学の教師であった堀田(=山嵐)と再会するところから始まる。そこから、古賀が当時のこと(つまり『坊っちゃん』で語られる出来事)を振り返り、さらには古賀のその後の人生をも語られることになる。

古賀いや「うらなり」は、漱石の『坊っちゃん』では可哀想なキャラクターなのかもしれないが、まあまあそれなりの人生を送ったようだ。それにしても、可哀想なのは、古賀や堀田から「あいつ」とか「五分刈り」とか呼ばれるが、その名前を忘れられてしまった<男>だと思う。仮にも短い期間だったとはいえ、同僚だったのに、名前を覚えておいてもらえない<男>。四国の中学校へ来て、学校内の騒動に巻き込まれ東京へ戻っていってしまった<男>。彼は揶揄的に<坊っちゃん>と言われたわけであるが。

小林 信彦
うらなり
Wed, June 28, 2006

大江健三郎『憂い顔の童子』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆大江健三郎『憂い顔の童子』講談社文庫、2005年11月

『取り替え子』のつづきが気になって、『憂い顔の童子』も読んだ。そうしたら、このつづきがまた気になってきた。大江健三郎の小説がこんなにも面白いとは。――

本作では、「re-reading」がけっこう重要な主題となっている。もちろん、読み直しは本作だけに限らず、大江文学にとって重要な主題なのだろうが。読み直し、語り直しの対象となるものはいろいろあって、それはたとえば、自分が以前に書いた小説であったり、先行する文学作品(『ドン・キホーテ』等)であったり、批評であったりするわけだ。ここで本作では、読み直しのパートナーとして、「ローズ」という「ロシナンテ」に通じる古義人の小説の研究者が登場してくる。このようにして、あらゆる言説がこの小説のなかに取り込まれて、読み直しや語り直しが行われる。そうやって、この小説は、まるで宇宙(あるいはブラックホール)のように膨張していく。ここが非常に魅力的なのだ。

大江 健三郎
憂い顔の童子
Thu, June 22, 2006

町田康『きれぎれ』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆町田康『きれぎれ』文春文庫、2004年4月

「きれぎれ」で芥川賞を受賞したわけだが、私には「くっすん大黒」のほうが面白かった。「きれぎれ」は、どこか計算されて作られているなという印象を受けてしまう。でも面白い。

町田 康
きれぎれ
Thu, June 22, 2006

町田康『くっすん大黒』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆町田康『くっすん大黒』文春文庫、2002年5月

遅ればせながら、町田康のデビュー作を読んでみる。とんでもなく面白い。これはすごいなあと感心しながら、一気に読んでしまう。また、文庫本の解説を三浦雅士が書いているのだが、この解説も非常に面白い。三浦は、ここで「くっすん大黒」と梶井基次郎の「檸檬」を比較しているのだが、冗談なのか本気なのか分からない論で、町田康の文体をうまく利用している。さすがだ。

町田 康
くっすん大黒
Tue, June 20, 2006

中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』河出文庫、2000年9月

よく分からない。中原昌也の小説は苦手だ。暴力とエロとナンセンスに満ちている。だから意味や物語を求めても仕方がなく、既成の言葉が使い減らされていくさまをただ眺めるのが、本書を楽しむコツなのだろうか。中原昌也の作品は、おそらく好きな人は好きだし、嫌いな人にはどう説明しても受け入れられない。評価が両極端に分かれる作家だ。私は、後者の立場で、つまりこの小説は価値がないのではないかと考える。

中原 昌也
マリ&フィフィの虐殺ソングブック
Wed, June 14, 2006

大江健三郎『取り替え子』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆大江健三郎『取り替え子』講談社文庫、2004年4月

「長江古義人」と「塙吾良」、そして古義人の妻である吾良の妹でもある「千樫」という登場人物の関係で織りなされる物語。周知の通り、この登場人物の関係は、大江健三郎と伊丹十三の関係がモデルとなっている。

物語は吾良の自殺から始まる。吾良は古義人に、自分の声を吹き込んだカセットテープを送っていた。それは「田亀のシステム」と呼ばれるのだが、吾良の自殺後、古義人はこの田亀のシステムを使って、吾良との「対話」に耽る。

古義人と吾良の関係は、松山での高校生の頃からはじまる。二人の関係が対照的で面白い。まず、古義人は小説家であり吾良は映画監督だ。古義人は、その作品をめぐってかつて右翼に狙われた経験があるが、吾良もやはり作品をめぐってやくざに襲われ大怪我を負うことになる。古義人と吾良の原点ともいえる「アレ」について、一方は「小説家の技法」で迫り、もう一方は「記録映画の厳密な手法」で迫る。二人は似たもの同士でもあるし、方法的には違いを持った存在でもある。この二人の蝶番のような役割が、「千樫」ということになるだろうか。したがって、物語が古義人と吾良の原点ともいえる「アレ」について語り終えた後に、重要な役割を担うのは「千樫」なのだ。

この物語において、小説と映画の対立はフィクションと事実の対立とも言えるのかもしれない。もちろん、フィクションと事実の対立は、この小説が注目された要因でもあるし、また大江文学の一つの特徴をなしている。古義人と吾良の「対話」は、フィクションと事実との対話でもあり、この対話が大江文学そのものとなる。

大江 健三郎
取り替え子(チェンジリング)
Fri, June 02, 2006

平野啓一郎『顔のない裸体たち』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆平野啓一郎『顔のない裸体たち』新潮社、2006年3月

悪くない小説だが、テーマは新鮮さを欠いている。小説の最後は、「「ま、『頭隠して尻隠さず』やな。」/しかし、これはどうも、あんまり当たり前過ぎるというので大した評判にはならなかった。」(p.155)という一文で結ばれているのだが、この言葉は、この小説そのものの評価のように思えてならない。

教師としての平凡な表の顔と、歪んだ性格の男との性的快楽に溺れる裏の顔を持つ女性。こうした設定ですぐに思い出したのは、私の好きな小説『シンセミア』だ。「松尾丈士」と「広崎妙子」の関係と<吉田希美子>と<片原盈>の関係は似ている。なので、どうしても比べてみたくなる。そうすると、阿部和重の断然書き方が上手いなと感じる。やはり、平野啓一郎が本作では「表/裏」「本当の私/虚構の私」といった、ネットを主題にしたときによく持ち出される二項対立にこだわっているからではないだろうか。おそらく、阿部和重にはそうした二項対立はない。少なくとも、『シンセミア』はない。ここには情報化社会に対する二人に作家の認識の差が現れていて興味深い。平野のロマンチックな認識が、私には「当たり前過ぎる」と感じられる。

平野 啓一郎
顔のない裸体たち

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