Wed, May 31, 2006

坪内祐三『同時代も歴史である 一九七九年問題』

テーマ:歴史

◆坪内祐三『同時代も歴史である 一九七九年問題』文春新書、2006年5月

久しぶりに坪内祐三の本を読んだ。本書は、2003年から2004年に掛けて雑誌『諸君!』に連載されたものをまとめたもの。まえがきを読むと、この評論では「同時代性」に強くこだわっているのが理解できる。各章が独立した読み物となっているが、同時に全体としてのつながりも持った評論にしたという。したがって、テーマは歴史から文学や政治などがあるが、本書の全体に一貫して流れているのは「歴史とは一体何なのか」(p.9)というテーマであると坪内は述べている。そこで、坪内がこだわっている「一九七九年」が重要となってくるのである。坪内は「一九七九年問題」について、こう述べている。

《私がずっと考え続けていたテーマに「一九七九年問題」があります。
一九八〇年前後を一つの境として、その時から歴史が変っていきました。
いわゆるポスト・モダン時代に入っていったわけです。
ポスト・モダン時代の大きな特徴の一つは、永遠の現在性です。
過去→未来、あるいは未来→過去という風に流れる時間を失なって、そこにあるのは永遠の現在だけ。
しかし、そのように思えたとしても、現実には、時は確実に経過して行くのです。現在は常に歴史化されて行くのです。
そういう矛盾点、それが「一九七九年問題」です。(p.9)》

永遠に現在のまま、まるで時間など流れていないかのように思われたポスト・モダンと呼ばれた時代に、時間を取り戻す作業と言えばよいのか。ポスト・モダンを歴史の一つとして把握しようとしている。そのために何をしているのかといえば、この評論を書いている「今」と1979年前後の比較だ。こうして坪内にとって、1979年が歴史を把握するための、一つの参照点として重要視されるのである。

これまでは、「68年」という年が現代思想ではある意味特権的な年でもあったのだが、その年に少し遅れてやってきた世代である坪内にとって、よりリアリティがあるのが「一九七九年」なのだろう。これは、「68年」を相対化するという意味で面白い論点だと思う。

坪内 祐三
同時代も歴史である 一九七九年問題
Tue, May 30, 2006

仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠』

テーマ:哲学・思想

◆仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠――アイロニカルな批評宣言』ちくま新書、2006年5月

5月はとにかくバタバタと忙しくて、全然本が読めない。今後もしばらくは忙しくなりそう。なんとかして本を読む時間を作らないといけない。

それはともかく、仲正氏の新著が出たので、さっそく読んでみる。他の著作同様、思想史をコンパクトにまとめているところはよい。今回は、アイロニーの思想史を解説しており、アイロニーについて理解しようとするなら手頃な一冊となると思われる。ただ、内容に物足りなさを感じてしまう。

仲正 昌樹
「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言
Sun, May 07, 2006

保坂和志『世界を肯定する哲学』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『世界を肯定する哲学』ちくま新書、2001年2月

ちょうど野矢氏の本を読み終えたばかりなので、『世界を肯定する哲学』の内容が『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』で展開された野矢氏の論と重なる。とりわけ二人の思想が重なるのは、言語と身体の関係についてである。ふたりとも、言語あるいは思考には身体を欠くことできないと述べる。野矢氏は、『論理哲学論考』に対し二点の修正・追加する必要があるとして、「第一に、指示ということの基礎には自然な身体反応のレベルがあるということ。第二に、名の指示対象は見本として、それ自身言語的な身分をすでに有しているということ」を挙げている。特に第一の点は、『論理哲学論考』を根本的に見直させる観点であるという。

一方、保坂もまた言語は身体反応に大きく左右されていることを語る。それは、「視覚」に対する保坂のこだわりに見いだせるだろう。「視覚」は本書にかぎらず、他の著作でも保坂がよく取り上げるテーマである。

最終的に保坂は、「言語は人間と同時に生まれたのではなくて、人間の肉体が言語に先行して存在した」(p.219)と述べるに至る。「人間の肉体が言語に微差で先行していること」(p.219)に注意をうながす。世界は思考の結果、存在するわけではない。保坂は言う、「私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける」(p.232)。そして、このことを実感するために、小説を書き続けるという。

保坂 和志
世界を肯定する哲学
Sat, May 06, 2006

野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

テーマ:哲学・思想

◆野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』ちくま学芸文庫、2006年4月

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、私が好きな本のひとつである。というのも、哲学者の本で最初に全部読み通したのが、この本なのだ。それゆえに思い入れが強い一冊である。もちろん、私には哲学の教養がないので、何度読んでも『論考』に何が書かれているのか理解できない。だけど、そこがいい。何度読んでも理解できない/できそうもないところに、『論考』の魅力がある。

野矢氏は、ウィトゲンシュタインが『論考』で切り捨ててしまった「意味の他者」という「謎」に注目する。野矢氏にとって、「意味の他者」あるいは「謎」は重要で、それは私の論理空間に変化をもたらすからだ。そういう意味で、『論考』もまた野矢氏にとって「謎」であり「意味の他者」である。「いまは理解できないが、いつか理解できるようになる、その希望を私が持ち続けるかぎり、『論考』は私にとって他者であり続ける」(p.317)。私にとって、いつまでも『論考』が色褪せないのは、こういう意味での「他者」であるからだと思う。

本書は、野矢氏による『論理哲学論考』の読解であるが、著者自身「『論理哲学論考』を理解したいと思うならば、この本を読むのが現時点では最短の道であると言いたい」(p.14)と述べているように、『論考』を理解するのにかなり役に立つ本だ。ウィトゲンシュタインに関する本を何冊か読んだことがあるが、現時点では本書が一番読みやすい。本書を脇に置いて、もう一度『論理哲学論考』を読み直したい。

野矢 茂樹
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む
Fri, May 05, 2006

橋本治『乱世を生きる』

テーマ:エッセイ

◆橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』集英社新書、2005年11月

冒頭の「はじめに」で書かれていることは、けっこう共感できることが多い。

たとえば、今の日本社会でおかしいと思うのは、「勝ち組・負け組」という二分法の考え方が現れたこととか、勝ち組とか負け組とか本当はどうでもいいことなんだけど、社会に向かって何か物を言おうとするなら、たちまち「負け組の欲求不満」と位置づけられてしまい、一旦「負け組のひがみ」と位置づけられると、「なにを言っても"負け組のお前の言うことには意味がない"とジャッジされかねないところ」からスタートしなければならないこととか、「勝ち組・負け組」という考え方は「思考の平等」を侵しているといった点などだ。

しかしながら、本文はやや期待外れだった。要するに、「勝ち組・負け組」といった考え方の登場は、バブルがはじけて、人々が頼るべき指針を失い不安になったために、結果的に「勝ち組」の人を担ぎ出して、その人たちに自分たちを引っぱっていってもらおうとしているからだというのだ。こうした考え方は、割と一般的なものかなと。経済の話もいまいちだった。

橋本治は、回りくどい言い方で、単純なことをわざわざ複雑に考えるほうがおもしろい。本書は、逆なのだ。つまり、回りくどい言い方をしているのだが、複雑なことを単純に考えてしまっているので、橋本治の魅力がなくなってしまったのだと思う。

橋本 治
乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない
Thu, May 04, 2006

保坂和志『アウトブリード』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『アウトブリード』河出文庫、2003年4月

保坂和志の小説は全部読んだので、次にエッセイに移る。

この本を読むと、けっこう現代思想を読んでいるのだなと分かる。ドゥルーズやラカン、デリダ、それからニーチェやフロイト、ハイデガーなど。とはいえ、保坂は何もこれらの思想家を読み解こうとしているわけではない。ただ自分自身の思考の糧とするために、必要なところだけ読むのだ。現代思想のほかにも、物理学への強い関心も興味深い。保坂はアインシュタインではなく、ハイゼンベルグを熱く語る。保坂を夢中にしたハイゼンベルグが気になる。

保坂は樫村晴香への手紙のなかで、こんなことを書いている。

《ぼくには小説という形式がとても合っているらしく、小説を書く過程で一つ何かが進歩しています。ハイデガーやラカンやデリダを読みかじりつつ小説を書く――を繰り返しているだけで、それらの本に書かれていることの理解が増えています。(p.203)》

論文とか批評といったスタイルではなく、小説というスタイルで思考する保坂。どうして、小説という形式が保坂の思考と合うのか。

保坂 和志
アウトブリード
Wed, May 03, 2006

保坂和志『明け方の猫』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『明け方の猫』中公文庫、2005年5月

「明け方の猫」は、次のようにはじまる。

《 明け方見た夢の中で彼は猫になっていた。猫といってもまだ新米の猫なので四本の足を動かして歩くこともなかなか自由にはいかなかった。(p.9)》

これが「夢の中」ではなく、朝、目覚めてみると、猫になっていたとあるとカフカの世界になる。猫になった「彼」が全然あせらないのも、これが「夢の中」のできごとだからだろう。

面白いのは、登場するのが猫になっても相変わらず「ムズカシイ」ことを考えていることだ。この猫は、女性から「まあ、ムズカシイ顔した猫ちゃんね」(p.21)と言われている。登場するのが猫であっても、他の保坂の小説と変わらない。

そんなわけで、物語のはじめは楽しいのだが、後半になると雰囲気が変わる。ややオーバーな言い方をすれば、「狂気」じみた世界となる。物語の後半で、猫の「彼」は、木枠に爪をひっかけてしまい、身動きが取れなくなってしまうのだ。そして、この木枠のある古い日本家屋には老女二人と女性が一人いて、老女の二人は同じことを繰り返し語っている。この老女の反復される会話が異様なのだ。そして、歩行を奪われた「彼」には、「死」の雰囲気が漂う。このあたりは、漱石の「猫」と、どこか似ているのかもしれない。

保坂 和志
明け方の猫
Tue, May 02, 2006

保坂和志『猫に時間の流れる』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『猫に時間の流れる』中公文庫、2003年3月

表題作の「猫に時間の流れる」と「キャットナップ」の二作品が収録されている。共に「猫」が主題となっている。誇り高き猫である「クロシロ」を描いた「猫に時間の流れる」。そして、猫を守ることに熱心な女性との関わりを描く「キャットナップ」。保坂の猫に注ぐ視線が熱い。保坂作品と猫の関係は切っても切れない重要なものだ。

そもそも猫と文学者の関係は深い。近代文学に限っても、『我輩は猫である』の漱石以来、さまざまな文学者たちが猫を語ってきた。文学にとって猫の存在は欠かせないと言っても過言ではない。保坂は「猫に時間の流れる」の執筆動機について、次のように語っている。

《 あることがきっかけでぼくは猫とつきあうようになったのだが、猫、とくにノラ猫をみているうちに、彼らの生きる現実というのは可能性の海にぽつんと浮かび出たとても見つけにくい孤島だという感じを持つようになった。彼らの生きる現実は、こちらが思い描くいくつもの想像や推察の一つとしか交わらないし、交わりそびれることもいくらでもあるからだ。死んだ人間が残すわからなさは、動物の場合には生きているあいだもつねにあるというのが、「猫に時間の流れる」を書いた動機となっている。(p.209)》

保坂にとって、「猫」は「死」という主題と同等かそれ以上の重みを持っている。保坂作品は、「死」そしてそれに付随して「時間」や「記憶」が中心的な主題になるというか、どの作品もこれらの主題を繰り返し思考し続けている。「猫」もまた同様であるが、つまりこれらはみな人間にとって「他者」あるいは「外部」なのだ。そして、この「外部」の持つ「わからなさ」は、文学を豊かにしてきた。とりわけ、保坂の語りを饒舌なものにする。

保坂 和志
猫に時間の流れる
Mon, May 01, 2006

内田樹『態度が悪くてすみません』

テーマ:哲学・思想

◆内田樹『態度が悪くてすみません――内なる「他者」との出会い』角川書店、2006年4月

ここ最近書かれたエッセイを集めた本。大学問題やら社会問題や思想など、内容は多岐にわたる。読んでみて思ったのは、内容はともかく、文章の書き方はけっこう参考になるのではないかということだ。文章の構成(問題提起、分析、結論)が、けっこうしっかりとしているので、読みやすいのだろう。この本に収録されている文章は、どれも短いものだし、小論文試験の対策として、真似してみると良いのかもしれないと思った。

内田 樹
態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い

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