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Wed, April 26, 2006

清水義範『スラスラ書ける!ビジネス文書』

テーマ:文章技術

◆清水義範『スラスラ書ける!ビジネス文書』講談社現代新書、2006年4月

私は恥ずかしながら未だに会社に入って働いたことがなかったので、ビジネス文書がどういうものがイメージができなかった。しかしながら、この本を読んだおかげでビジネス文書とはどういうものなのか理解することができた。この本に書かれていることは、実際に働いている人なら「当然のことだな」と思うことばかりなのかもしれない。しかし、作家ならではの言葉でビジネス文書の書き方を説いて面白い(とはいえ、若い頃のサラリーマン生活の経験をもとに書かれている)。

たとえば、チャームのある文書を書けという。要するに、ビジネス文書のなかに、いかにさりげなく「自分らしさ」を出したらよいかということだが、ここで清水は「私事ではございますが」という言葉の上手な使い方を提案している。もちろん、ビジネスにだらだらと私事を連ねても仕方がない。大事なのは、「相手への思い入れ」を伝えることなのだという。そのとき、この「私事ではございますが」を使うのだ。そう簡単に書けるものではないかもしれないが、おもしろい方法だと思う。こうした方法を用いて、ビジネス文書にさりげなく<可愛げ>を出すのがポイントなのだ。清水は、ビジネス文書における<可愛げ>について、こう説明している。

《<可愛げ>とは、ひたむきなのだが至らないものを見た時に、感じられるものである。(p.121)》

こういう<可愛げ>を見せられると、人の心は動かされるというわけだ。そして、人の心を動かすことが、ビジネス文書のねらいの一つでもある。ぜひとも、この<可愛げ>を自然と出せるような人間になりたいものである。これが、もしかすると、企業の求める人間性なのかもしれない。

清水 義範
スラスラ書ける!ビジネス文書
Mon, April 24, 2006

保坂和志『残響』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『残響』中公文庫、2001年11月

「コーリング」と「残響」の2作品が収められている。この二つの作品は、他の保坂作品とちょっと異なっている。というのも、他の作品なら、「僕」といった中心人物がいて、この「僕」が語り手となって、世界や時間について思考したり、周囲の人との交流を語っていた。しかし、「コーリング」と「残響」には、「僕」のように物語の中心となる人物がいないのだ。他の作品では、「僕」を中心とした空間(=家)に登場人物が集まってくるのに対し、「コーリング」と「残響」は反対に登場人物たちは拡散しているといえる。このベクトルの方向の違いは何なのか。

「残響」について、石川忠司は「隔絶」された人間どうしの「交歓」について保坂が問題にしているのだという。

《 保坂和志はその迂回しながらテレッテレッと続いていく文体のせいで小島信夫・田中小実昌のラインで語られる機会が多い。あとたまに深沢七郎とかベケットとか。しかし初期の探偵小説/推理小説からまるごと犯罪と殺人をとりのぞき、神が立ち去ったがため絶対的に「隔絶」されてしまった、そんな人間どうしの「交歓」にかんする問いを純化した功績において、保坂は確かにポーやコナン・ドイル、そしてベンヤミン直系の小説家である。近現代ならではの「さびしい」問い、ぼくたちにとっても切実な問いを追究している書き手なのだが、では保坂は『残響』ではこの問いかけに対し一体いかなるタイプの結論を与えたのか。(p.194)》

この読みはその通りだと思う。

二つの作品は、ともに登場人物が入れかわり立ち替わり変化する。複数の物語が、同時平行的に語られていくわけだ。とはいえ、ではこれら複数の物語が「隔絶」してしまっているのかといえばそうではなく、何らかの形でつながりがあるように見えてくる。それはなぜなのかということを、たとえば「残響」の登場人物の「野瀬俊夫」は考えていたりもする。そのとき、野瀬が映画やビデオのような機械的と人間の違いで考えているのは興味深い。

保坂 和志
残響
Sun, April 23, 2006

保坂和志『草の上の朝食』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『草の上の朝食』中公文庫、2000年11月

石川忠司は、解説のなかで、本作をプラトンの『饗宴』の「現代ヴァージョン」だと指摘している。

《『草の上の朝食』は『饗宴』の現代ヴァージョンだ。保坂和志はここで二十世紀末ならではの「愛」を発見しようとしている。世界をわくわくさせ勇気づけるための「愛」を。するとアキラやよう子や島田やゴンタたちはギリシアの哲人に相当することになるが、なるほどそう考えて見ると、彼らが妙に飄々として誇り高いのもうなずける。(p.294)》

このようにいわれてみると、たしかに、本作の登場人物すなわちアキラやよう子、島田やゴンタたちが、ギリシアの哲人に思えてくる。自意識の強いアキラに、近所の猫にエサを与えることを日課としているよう子。島田は家にいるだけなのに、なぜか会社を首にならないでいるし、ゴンタは8ミリビデオを撮り続けていたと思ったら、キーボードを拾ってくると、今度はひたすらキーボードを弾き続けているような人物だ。

これらの人物の比べて、平日は会社に行っている主人公の「ぼく」はまだまともな人物かもしれない。しかし、仕事が暇なときは会社を抜け出して、喫茶店で出会いつきあい始めた女性「工藤さん」とのセックスを日課にしようとした人物でもある。どの人物も一癖もっている。こんな人たちが共同生活をしている家。この家は正直非常にうらやましい。みんな、いったいどうやって生きているのか不思議に思う。劇的な出来事が起きなくても、季節のちょっとした変化に気がつくだけで、充分に満足を得られるような、そんな生活がすばらしい。

保坂 和志
草の上の朝食
Sun, April 23, 2006

小熊英二『日本という国』

テーマ:歴史

◆小熊英二『日本という国』理論社、2006年3月

これは、中学生あたりに向けて書かれているのかな。そのために、かなり易しく書かれてあってよい。

日本という国がどのようにして形づくられてきたのか。近現代の日本について論じる。取り上げられているのは、明治の日本と戦後の日本。明治の日本では、福沢諭吉の文章を読みながら、特に教育と国家の形成について論じる。戦後の日本は、アメリカの占領政策から、憲法問題や自衛隊、戦後補償の問題を論じる。ここでは、戦後の日本を形づくってきたのは、アメリカとの関係が大きいことが分かる。「戦後の日本の外交は、ごくごくおおざっぱにいえば、アメリカとの関係さえよくしておけば、アジア諸国との関係は何とかなる、というものだったといえなくもない」(p.184)というわけだ。しかし、特に冷戦が終わってしまった90年代以後、こんなことはもう通用しない。

本書は、最後に丸山眞男がサンフランシスコ講和会議を前に書いた文章を引用して締め括っている。この引用された文章のなかで丸山は、明治維新後、日本はアジア最初の近代国家として、アジアのホープであったが、ヨーロッパの帝国主義の尻馬に乗って、アジアを裏切った。日本の悲劇は、アジアのホープから裏切り者への変貌にあったという。そして、敗戦によって日本はもう一度明治維新に戻り、再びアジアの裏切り者としてデビューするつもりなのかと述べている。「アジアの裏切り者」とならないために、さてどうするか。

小熊 英二
日本という国
Sat, April 22, 2006

保坂和志『もうひとつの季節』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『もうひとつの季節』中公文庫、2002年4月

この作品は『季節の記憶』の続編にあたる。登場人物は「僕(中野)」とその息子の「クイちゃん」、そして、近所に住む「松井さん」とその妹の「美紗ちゃん」だ。主にこの4人の日常生活が綴られていく。この小説では、ごはんを食べたり、散歩をしたり、遊んだりといったありふれた生活と、「僕」の語る抽象的な議論(「世界」や「時間」や「死」とは何か)が、当たり前のように並列されている。どちらかに優劣の差違があるのではなく、日常レベルの話も哲学的な議論も、同じ水準で語られているのが面白い。

この小説では、二つのエピソードが鍵となる。ひとつは、「僕」の赤ちゃんだったころの猫と一緒に写った写真を見た息子のクイちゃんが、その写真の赤ちゃんと現在のパパが同一人物であることがなかなか理解できないこと。もうひとつは、松井さんが27年前と似たようなシチュエーションで同級生の「高階さん」と偶然に出会ったことである。

これらのエピソードは、「僕」に「世界」とは何か、もっと正確に言えば、「世界」が存在しているというのは、いったいどういうことなのだろうかについて考えさせることになる。「僕」は、「世界があること」をこんな風に語っている。

《「世界がある」というのは、普段とてもよくわかっているつもりになっていることの隙間から洩れてきた混乱とか不思議とか驚きのようなことであって、赤ん坊だったときの写真に写っていた猫を見たときに僕は僕よりもさきにこの世界に生れていた猫がいたということを唐突に実感した。(p.84)》

自分が生まれる前から「世界」がある、当たり前といえば当たり前の話なのかもしれない。しかし、だからこそ、何かのきっかけで「世界がある」ことに気がついたときの「混乱」とか「不思議」とか「驚き」の感情は大きいと思う。小説のなかで、松井さんは「僕」が言う「世界」や「時間」といった定義のできないものを「死」なんだと読んでいる。つまり、「僕」が「世界」とか「時間」といった言葉で考えていることは、みな「死」を指しているのではないかと。「僕」は、この考えに否定はしなかったが、それで全部が言い表せているとも思えなかった。

こうやって答えのない問題を、ああでもない、こうでもないと語り続ける保坂の小説は読んでいて楽しい。

保坂 和志
もうひとつの季節
Fri, April 21, 2006

江藤淳『アメリカと私』

テーマ:文学研究・批評

◆江藤淳『アメリカと私』文春文庫、1991年3月

プリンストン大学での研究生活をつづった「アメリカと私」は名作だと思う。留学体験記を読むのは非常に面白い。

冒頭、アメリカに到着早々に体調を崩した妻を医者に診せるまでの騒動からはじまる。この騒動を通じて、江藤はアメリカ社会の「適者生存の論理」を理解し、そうしていつのまにかアメリカの内側へと入り込んでいた。

こうして、江藤のアメリカでの生活がはじまる。近所つきあいから、大学の同僚や学生たちとの交流、アメリカ社会のこと(ケネディ暗殺事件も触れられている)、こうした内容が語られる。やがて、帰国が近づくにつれて、2年間すごしたこの大学町を好きになり始めていた。江藤のアメリカ生活は成功と言っても良いだろう。学会でのスピーチも評価されたし、しかも代役とはいえ日本文学の教師として大学の教壇にも立つことができたのだから。そのまま、アメリカに滞在することもできただろう。しかし、江藤は帰国を決断する。江藤は「日本」を忘れるわけにはいかなかった。自分の存在の芯に「日本語」があり、「日本」との強いきずながあることを知ったのだった。

江藤 淳
アメリカと私
Thu, April 20, 2006

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』新潮文庫、2002年3月

6つの短篇で構成されている。神戸の地震が共通した主題となった連作小説であるが、それぞれ独立した作品としても読める。地震が、登場人物に直接的な被害をもたらすわけではない。ただ、たとえば家族が神戸にいるかもしれないとか、自分の出身地であったりとか、母親が救援活動に行っているとか、そのような形で地震とつながりをもっているだけだ。ある意味、主人公たちにとって、「遠い」できごとなのかもしれない。それにもかかわらず、地震は登場人物になんらかの影をもたらす。それは、どうして私はここに生きているのかという根源的な問いであろう。

こうした存在論的な問いと関連しているのか分からないが、「眠り」という主題が気になる。眠りは、闇に繋がるので恐怖をもたらすこともあるのだが、その一方で恐怖から回復するにも眠りが必要なのだと思う。眠りはもちろん夢と繋がる。また闇と光の対立という村上春樹の主要な主題は、眠りによって接続されていると言えばよいのだろうか。村上春樹文学における「眠り」、ひいては幻想文学における「眠り」の機能について調べる必要がありそうだ。

村上 春樹
神の子どもたちはみな踊る
Wed, April 19, 2006

中上健次『千年の愉楽』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆中上健次『千年の愉楽』河出文庫、1992年10月

「オリュウノオバ」は、「路地」でただ一人の産婆だ。彼女は字が読めないが、記憶力がすぐれており、路地の人間の生まれた日や亡くなった日を覚えている。物語は、「中本の血」が流れる男たちの性的快楽の日々と悲劇的な最後を語る。オリュウノオバは、男たちの行く末を見守っている。神話的な雰囲気を感じる物語。

中上 健次
千年の愉楽
Tue, April 18, 2006

江藤淳『決定版 夏目漱石』

テーマ:文学研究・批評

◆江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮文庫、1979年7月
1部、2部、3部で構成される。1、2部では、漱石の「暗い力」すなわち存在の不安と「我執」すなわち「エゴイズム」の関係について、主に「こころ」「道草」「明暗」を取り上げ論じている。3部では、漱石とイギリスの世紀末芸術、それから有名な嫂の「登世」について論じている。

ここで、嫂の登世がいかに漱石文学に大きな影響を与えていたのか、かなり熱心に江藤は論じているのだが、漱石の登世への執着よりも、むしろ江藤の登世へのこだわりのほうが気になってしまう。嫂に恋をしてしまう「禁忌の恋」という主題に、江藤が執心しているのは、やはりそこに自分の願望があったからなのではと。江藤は、本文のなかで、「漱石の恋についての所説は、私の眼からみると、ほぼ正確に論者の人間観を反映しているように思われます」(p.489)と述べているが、人間観だけでなく恋愛観も論文には反映しやすいと思う。人は、つい自分の理想の恋愛を研究の対象に反映させてしまうのではないか。だから、嫂という存在がいかに男にとって性的な存在となるのかを熱く語る江藤に、漱石以上に興味をもってしまう。江藤曰く、「同居している嫂と、同居していない嫂とでは、その意味合いがまったく違います」(p.491)とのこと。そして、なにより嫂は「若い娘」であるだけでなく、配偶者である兄と性生活を持っている。したがって、思春期にある義弟にとっては、大きな関心をそそる女性となると主張している。ましてそこにタブーがあるのだから、なおさら漱石の嫂に対する恋は「深い恋」になるというわけだ。

とはいえ、こうしたモデル探しは、案外退屈なもので、江藤が嫂に熱心にこだわるほど、それを読む方は飽きてしまう。

江藤 淳
夏目漱石―決定版
Mon, April 17, 2006

中上健次『十九歳のジェイコブ』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆中上健次『十九歳のジェイコブ』角川文庫、2006年2月

いかにも中上健次らしい物語。父殺しや路地、兄の自殺、異母妹など、その後の中上の世界を彩る主題が描かれていて、面白い。「秋幸」は、父殺しをついに果たすことが出来なかったわけだが、この小説の主人公「ジェイコブ」はいとも簡単に父殺しを成し遂げてしまう。この違いは、中上作品を読み解く際には注目せざる得ないだろう。現に、文庫の解説を書いている斎藤環もこの点に着目している。他の場所では父殺しができたのに、路地ではなぜできないのか。

中上 健次
十九歳のジェイコブ

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