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Thu, March 30, 2006

稲葉振一郎『モダンのクールダウン』

テーマ:文化研究

◆稲葉振一郎『モダンのクールダウン』NTT出版、2006年4月

結局、何が言いたいことなのか、一回読んだだけでは私には理解できない。この本は、いったい何だったんだろう? <近代>論? ポストモダン論? 東浩紀論? 大塚英志論? 虚構世界論? 公共性論?...。近代文学論としては、なんだか大雑把――近代文学(純文学)は自然主義だけではないだろう、というか本書が依拠している大塚英志の近代文学論が粗雑なのかもしれない――すぎるし、さらに幅広くして文化論として読んでも、それほど目新しい論ではないし。サブカルチャー論としても、東浩紀と大塚英志に寄りかかりすぎているし。というわけで、本書のねらいが、私にはうまく掴めなかった。「キャラクター」とか「萌え」を使って、「公共性」を論じてみるというのがねらいなのだろうか。

8章の最後に、「現時点でのぼく自身の立場としては、大塚の問題提起を真に受けて、「ポストモダン」状況における<近代>の可能性について、きちんと考え直していきたい、というところに落着いています」(p.239)とある。この問題意識も分かるようで分からない。とりあえず、本書を書く目的みたいなものが、はじめかおわりに欲しかったなというのが率直な感想。

稲葉 振一郎
モダンのクールダウン
Wed, March 29, 2006

小谷野敦『なぜ悪人を殺してはいけないのか』

テーマ:文学研究・批評

◆小谷野敦『なぜ悪人を殺してはいけないのか 反時代的考察』新曜社、2006年3月

評論集。本書は3部に分かれていて、第1部では「復讐論」として死刑制度についての考察。死刑廃止論批判。第2部は天皇制について。天皇制批判。ファンタジーと君主制の親和性を論じた「ファンタジーは君主制の夢を見るか?」や、漱石の『こころ』を二流の作品といい、「乃木殉死」を漱石の保身の作為にすぎないという氏の仮説(p.147)を論じた「夏目漱石の保身」は非常に興味深い。第3部は、文化論などで、「オリエンタリズム」に対する批判、文化相対主義への批判をしている「「オリエンタリズム」概念の功過」は、文化論を研究する人に参考になる論である。いつものように、小谷野氏の評論は、資料や研究書を丹念に集めて読み込んでいるので、その点に関しては頭が下がる。

だが、その小谷野氏もカナダの留学のときには、鶴田欣也に厳しい批判を受けていたというのは驚きで、なんとも学問の世界は厳しいものだとあらためて思った。そのカナダ留学の顛末を語った「カナダ留学実記」は、私など涙なくして読めない。

小谷野 敦
なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察
Sun, March 26, 2006

アンドリュー・J・サター『図解主義』

テーマ:エッセイ

◆アンドリュー・J・サター『図解主義』インデックス・コミュニケーションズ、2005年6月

質問をすることの重要性は理解できるのだが、その質問をどうやってすればいいのか。こういうときに、図をつかって考えると、けっこううまくいくことが本書を読んでよく分かった。図にすることで、何が分からないことなのかを把握することができる。それを質問して聞けばよいのだ。本書は、特別なテクニックを用いるわけではないので、役に立ちそうだなと思う。

アンドリュー・J・サター
図解主義!
Sun, March 26, 2006

谷崎潤一郎『細雪』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『細雪(全)』中公文庫、1983年1月

大長編の作品なので、気になりつつもこれまで敬遠していたが、読んでみるとやはり面白い。さすが谷崎だと感心してしまった。

蒔岡家には、4人の姉妹がいる。物語は、その内の2番目の姉である「幸子」、3番目の娘「雪子」、末っ子の「妙子」が中心となる。長い長い物語であるが、語られていることは主に、雪子の結婚問題と妙子の奔放な生活であり、この二つの問題にひりまわされ苦労する幸子の姿である。時代は、昭和10年代あたりか。ヨーロッパではヒトラーが台頭してきて、日本も徐々に戦時下の体制へ向かう時期だ。文庫の解説で田辺聖子が、外国人の登場人物を通じて国際情勢は日本の社会推移が分かるのが面白いと指摘しているのだが、この指摘のあとに「しかしこの『細雪』はあくまで平面的な絵巻物であって、社会のうごきは毫も関係していない」(p.936)と述べているのはどうだろうか。たしかに、谷崎は「政治」とこの三姉妹の生活を直結させて描いたりはしていないが、だからといって、まったく「政治」と無関係に三姉妹の生活を描いているわけでもない。細部において、戦争という影が徐々におおきくなっていく(であろう)ことを、しっかりと描き込んでいる。浮世離れした物語を語っていただけではないと思う。谷崎の時代感覚の鋭さを見逃してはならないであろう。

なによりこの物語で注目したいのは、この三姉妹に次から次へとトラブルが襲いかかる点である。しかも生半可なトラブルではない。病や災害に襲われ、特に末っ子の妙子はかなり危険なトラブルに遭遇している。大雨による洪水で危うい目に遭うし、鯖の寿司を食べて赤痢になり、しかも医者のせいでかなり苦しむことになる。しかも、妙子は結婚しようと思っていた男(板倉)を病で失ってもいるし、最後には生まれたばかりの赤ん坊を医師の出産時のミスで亡くしている。幸子も元来身体が弱く、病気になりやすいし、幸子の娘の悦子も物語中で大病をしている。しかしながら、もっとも身体が弱そうに見える雪子は、なぜか病気にならない。それどころか、病人の看護はいつも雪子なのだ。このことは、『細雪』を論じる人がすでに指摘していることでもあろう。その雪子も、物語の一番最後で下痢になってしまうのが不思議といえば不思議。そんな雪子は、なんどもお見合いに失敗していたのであるが。とにかく全編トラブルだらけ。ここまで姉妹にトラブルに遭わすのは、谷崎の被虐趣味なのでは? と思うほどである。

ともあれ、『細雪』が谷崎の傑作と言われるのは本当だと思う。

谷崎 潤一郎
細雪
Tue, March 21, 2006

梅田望夫『ウェブ進化論』

テーマ:サブカルチャー

◆梅田望夫『ウェブ進化論――本当の大変化はこれから始まる』ちくま新書、2006年2月

話題の本ということなので、興味本位で読み始めたが、これが非常に面白い。知的な刺激に富んだ一冊である。

この本を読むまで、なんとなく「ウェブ」や本書で言われる「オープンソース現象」というものを信用していなかった。「「そんなコンテンツなんて大半はクズである」という権威側からよく聞かれる典型的な言葉」(p.147)に肩入れしていたのであるが、本書を読み進むに連れて、そうとばかり言っていられないと思うようになった。たしかに、「いまや「玉」のほうと向き合わざるを得なくなった」(p.147)というのも納得できる。「石」の部分ばかりみて、ウェブの世界の可能性を貶めていても仕方がないのではないか。その意味で、本書で提示されている「総表現社会=チープ革命×検索エンジン×自動秩序形成システム」(p.153)という方程式に興味を持った。

話は逸れるが、私は最近、「より良い社会」の構想や設計が可能なのかということに興味がある。特に、社会主義の失敗を目の当たりにした現代において、それでも「より良い社会」を構想するとすれば、どのような方法があるのだろうかと。

そのようなわけで、先ほどの方程式は興味深いし、「不特定多数無限大への信頼」に関する話など参考になった。「不特定多数の参加」は悪だ、衆愚だと思考停止してはならない。思考をその先に進める必要があるのだ。

《日本だけでも数千万、世界全体で見れば数億から一〇億以上という不特定多数の厖大さ、それゆえの「数の論理」、それらを集約するためのテクノロジーの進化の加速やコスト低下、そういう諸々の要因を冷静に見つめ、「不特定多数の集約」という新しい「力の芽」の成長を凝視し、その社会的な意味を、私たちは考えていかなければならないのだ。(p.207)》

梅田 望夫
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる
Tue, March 21, 2006

谷崎潤一郎『乱菊物語』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『乱菊物語』中公文庫、1995年6月

この作品は、昭和5年に発表されたものであるが、残念ながら未完である。「前編終り」とあり、次の展開が非常に気になるところで終わってしまっている。

佐伯彰一は、「大らかなロマネスクの誘惑」と題して、非常に熱くこの作品の解説を書いている。熱くなってしまう気持ちは、この作品の読了後であるなら、よく理解できる。この小説は、とんでもなく面白いのだ。この物語の雰囲気は、たとえて言うならば、ワイヤーアクションを多用するアジアを舞台にした最近の映画のようなものだと思う。

物語は、室町幕府の末頃が舞台。その頃、瀬戸内海の島々は、海賊たちの策源地となっていた。ここに明から、貿易商の張恵卿が「四角の黄金の函」をもってやってくる。この函のなかには、「羅綾の蚊帳」が入っているという。張は、これを「室君」のもとに届けるところなのだ。だが、張の船は幽霊船に襲われたのか、一夜にしてその消息を絶ってしまう。海賊どももつけねらっていた「黄金の函」は海中へ落ちていった。――

物語は、このようにして始まる。その後、物語は主君のために美女探しをする家臣の話があったり、「黄金の函」をめぐって大乱戦が起きたりと、物語はどんどん大きくなっていく。いったい谷崎はどんな結末を考えていたのだろうか。

解説によると、どうやらこの物語の続編のプランがあったそうである。晩年の谷崎には、三つのプランがあったという。一つは、この『乱菊物語』の後編、もう一つは、『武州公秘話』の続編、あと一つは上田秋成の『雨月物語』の口語訳である。

《これらの三作、「いつでも書き出せるように、万事を整えておくように」と命ぜられた伊吹(*和子)さんは、『乱菊』の舞台となっている「瀬戸内海の室の津あたりを中心にした地図その他」の用意をされた由。ところが、その年の八月から、伊吹さんへの「口述」がいざ始められてみると、その内容は、三案のいずれでもなく、全く新構想の小説、『瘋癲老人日記』であった! (p.405、*は引用者による)》

いきなり『瘋癲老人日記』が出来てしまったというのが非常に面白い。たしかに、谷崎の晩年の創作エネルギーはすごい。

谷崎 潤一郎
乱菊物語
Mon, March 20, 2006

飯田泰之『経済学思考の技術』

テーマ:社会科学

◆飯田泰之『経済学思考の技術 論理・経済理論・データを使って考える』ダイヤモンド社、2003年12月

「経済学思考」を使って論理的に問題解決を行うことを目指す。そのための入門書。内容は、他の経済入門書と同じだったので、特に注目すべき主張はなかったが、経済学の考え方をじっくり身につけるために役立つ本だろうか。とはいえ、他のリフレ派の人の本をすでに読んでいたとすれば、この本を読む必要は特になさそう。

飯田 泰之
経済学思考の技術 ― 論理・経済理論・データを使って考える
Sat, March 18, 2006

谷崎潤一郎『お艶殺し』

テーマ:日本語の文学(大正)

◆谷崎潤一郎『お艶殺し』中公文庫、1996年3月

この文庫には、「お艶殺し」と「金色の死」の二作品が収められている。ほぼ同時期に書かれた作品(大正三年)なのだが、解説を書いている佐伯彰一の言うとおり、この二作品は、一方は江戸趣味的で、もう一方は芸術論・美学的小説で、雰囲気が激しく異なっており、あらためて谷崎の懐の深さがうかがい知ることができる。

「お艶殺し」は、奉公人である「新助」と主人の娘である「お艶」が駆け落ちするところから始まる。しかし、物語の後半になると、お艶の「毒婦」としての本性が徐々に顕在化してくる。そんなお艶に振り回される新助だが、お艶の魅力の前ではまったくの無力だ。ただただ、お艶の言うとおりになってしまう。しかし、最後の最後にお艶がすでに新助に愛想をつかし、別の男を好きになっていることを知る。それでも新助は、元に戻ってくれるようお艶に拝跪して頼むのだが、その三日後、「お艶殺し」が行われる。――

最後に新助がお艶を殺さずに、お艶に拝跪し続けていくと、たしかに後の『痴人の愛』に近くなる。純愛物かと思わせておいて、一転して「毒婦」「娼婦」物へ展開するテクニックがすばらしい。

「金色の死」は、三島由紀夫が特に絶賛した作品として有名であるが、登場人物の岡村君の「苟くも欧州芸術の淵源たる希臘的精神の神髄を会得したものは、体育の如何に大切であるかを感ぜずには居られない。凡ての文学と凡ての芸術とは、悉く人間の肉体美から始まるのだ」「肉体を軽んずる国民は、遂に偉大なる芸術を生む事が出来ない」(p.116-117)という芸術論は、まるで三島が述べているようである。

谷崎 潤一郎
お艶殺し
Fri, March 17, 2006

谷崎潤一郎『武州公秘話』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『武州公秘話』中公文庫、1984年7月

1931年から32年にかけて『新青年』に連載された作品。谷崎らしい作品。

武州公は、すぐれた武人であったのだが、実は「被虐性的変態性欲」の持主だった。しかし、公の変態性欲の裏には、「秘話」があった。語り手は、「秘録」を読んで、公の隠されたプライベートの面がわかったという。そこで、ここで武州公の秘話を読者に語ってみせよう。――このような感じで物語が始まる。

「首」特に「鼻」の着られた「首」に執着する武州公、初恋の女性との共謀による復讐譚など、グロテスクな欲望、サド・マゾ的な物語が綴られる。架空のネタ本をもとに物語を語るという手法も面白い。「鼻」という主題や、この物語の語りの方法は、やはり芥川を意識したものなのだろう。

谷崎 潤一郎
武州公秘話・聞書抄
Fri, March 17, 2006

渡部直己『不敬文学論序説』

テーマ:文学研究・批評

◆渡部直己『不敬文学論序説』ちくま学芸文庫、2006年2月

1999年に出た単行本に、あらたに付論「今日の天皇小説」を入れたもの。付論では、島田雅彦、星野智幸、阿部和重が論じられている。

「天皇制」を描いた小説はあっても、近現代の天皇(今上天皇)を描いた/描こうとした小説は少ないのではないか、これが本書のモチーフだ。この問題提起はなかなか面白い。

小説とはどんなものでも描き得るのが原則にもかかわらず、こと天皇に関して言えば、「現代小説の日本語は、立憲君主国ではなく、日本共和国のなかで日々に書き継がれてあるかの観を呈している」(p.10)というわけである。この問題を、単に社会的、政治的な圧力が原因とするのではなくて、「小説」そのものが持つ性格に注目することによって論じていく。重要なのは「描写」である。ある対象を描写するには、その対象に「接近」することになる。だが、細部の描写にこだわればこだわるほど、対象全体を分断することになってしまう。本論では、接近と回避という描写の持つ二つの運動に注目している。それはまた「黙説法」といった技術とも関連するのであるが、饒舌に描写があったとしても、それは饒舌であるがゆえにかえって肝心の場所、描くべき中心を隠蔽してしまう。それが天皇の聖性を支えることになるだろう。

本論の筋とは外れてしまうのだが、第3章の冒頭につぎのような文章を見つけて、なるほどと思った。白樺派について触れたところだ。

《「小春日和」とはつまり、その白樺派的な朗らかさが、「多くの青年にとつて」自我の心地よい「自由」と「解放」の感触を導き、さらには現実の国家や社会の状況をこえて、個人的なものと世界的なものとが一足飛びに結びつきうるような錯覚の蔓延した一時期の別称にほかならない。(p.98)》

岸田劉生は、「国家、社会のためにつくすてふ事は自己の為につくすてふ事と全く反対の事である。只ひとり人類の為につくすてふ事のみ、自己の為に尽すてふ事と矛盾しないのである」と述べている。この言葉は、武者小路実篤や高村光太郎、あるいは阿部次郎や倉田百三、生田長江や賀川豊彦のものでもおかしくないという。

これは、今風にいえば、セカイ系ということになるのだろうか。もしかして、白樺派はセカイ系だったのか。短絡は慎まねばいけないと思うが、セカイ系という観点から白樺派あるいは大正時代の生命主義などを読み直してみると面白いかもしれない。ここには反復と差異がありそうだ。

渡部 直己
不敬文学論序説

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