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Tue, February 28, 2006

C.S.ルイス『ライオンと魔女』

テーマ:海外の文学

◆C.S.ルイス(瀬田貞二訳)『ライオンと魔女』岩波少年文庫、1985年10月

もうすぐ映画が始まるので、その前に原作を読んでみた。児童文学はまったく読んだことがない(あるいは読まない)私だが、一読してすぐに「ナルニア」の魅力に引き込まれた。これは本当に面白くて、『ライオンと魔女』以外の物語も読んでみたくなる。

映画のほうも楽しみになってきた。

C.S.ルイス, 瀬田 貞二, C.S. Lewis
ライオンと魔女 ナルニア国ものがたり(1)
Mon, February 27, 2006

サラ・サリー『ジュディス・バトラー』

テーマ:哲学・思想

◆サラ・サリー『ジュディス・バトラー』青土社、2005年12月

『ジェンダー・トラブル』で有名なバトラーの入門書。セックスやジェンダーに関するバトラーの理論はさまざまな方面で大きな影響を与えているが、その一方で、なんでもバトラーの書くものは、「不明瞭」で「遠回し」で「矛盾に満ちている」と悪名が高いそうだ。その文体は「いじめ」だと評されたこともあるという。たしかに、『ジェンダー・トラブル』は難解だった覚えがある。しかし、『ジェンダー・トラブル』は、けっこう面白い内容だった。

本書は、このように「難解」と言われるバトラーの理論をかなり丁寧に紹介している。用語の説明もあるし、各章の終りにはかならずその章の要約を書いているのも、本書の理解に役立つ。本書は、バトラーの著作を発表順に読み解いていく。読み解くキー概念は「主体」「ジェンダー」「セックス」「言語」「精神」である。そして、最後の章は「バトラー以後」と称して、バトラーの理論に対してなされた批判も紹介されており、全体としてバランスの取れた良書だと思う。

「主体」についてのバトラーの議論が気になる。そもそもバトラーの最初の本はヘーゲル研究(20世紀のフランスにおけるヘーゲル思想の受容)だった。そこからも分かるように、バトラーの理論には、ヘーゲルの思想が重要な位置を占めている。ヘーゲル的な「主体」を乗り越えることが目指されているのだ。

サラ サリー, Sara Salih, 竹村 和子
ジュディス・バトラー
Sat, February 25, 2006

加藤幹郎『映画の論理』

テーマ:映画研究・批評

◆加藤幹郎『映画の論理 新しい映画史のために』みすず書房、2005年2月

映画(史)を考える上で刺激的な内容を含んだ論文が多い。とりわけ、ニコラス・レイ論、ジョーゼフ・コーネル論、そして夢と映画の関係について論じた箇所は重要だと思う。

加藤 幹郎
映画の論理―新しい映画史のために
Fri, February 24, 2006

絲山秋子『沖で待つ』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆絲山秋子『沖で待つ』文藝春秋、2006年2月
本書のは、「勤労感謝の日」と芥川賞受賞作の「沖で待つ」の2作品が収められている。どちらも面白い作品だった。絲山秋子の小説を読むのは初めてである。

「勤労感謝の日」は、語り手のつっこみが面白い。つっこみ文学とでも言いたくなるぐらい、いろいろとつっこみを入れていく。「何が勤労感謝だ、無職者にとっては単なる名無しの一日だ。それともこの私に、世間様に感謝しろ、とでも言うのか」(p.7)という冒頭からして、「勤労感謝の日」に悪態をつく語り手が面白い。語り手の「私」は、知り合いの人に勧められて見合いをすることになるが、その男に対しても心中でつっこみを入れ、そのあげく見合いの席を飛び出してしまう。

男に対して見方が厳しいのは角田光代と同じなのかなと思ったが、受賞作の「沖で待つ」はそれを逆手にとったような作品。ここでは、同期に入社した男と女の、友情とも愛情とも判断つきにくい不思議な関係を描いている。同期である、このことが主人公で語り手の「私(及川)」と「太っちゃん」の関係を特別なものとしている。二人は、ある約束を交わす。それは、どちらかが死んだときには、自分の「秘密」を守るために、パソコンのハードディスクを壊してしまうということだ。「私」は、約束通りに「太っちゃん」が亡くなったとき、「太っちゃん」のハードディスクを分解し壊してしまう。一体、ここにあった「太っちゃん」の「秘密」とは何だったのか。――

「沖で待つ」には興味深い点が一つある。「私」には、向かいのマンションの男性を覗く習慣があるというのだ。女性が、男性を覗き見する。この主題は、青山七恵の『窓の灯』の主人公の女性と同じなのだ。小説の女性が、見られる側から見る側へ移動している。女性主体のポジションの変化が、この2作品からうかがわれる。ジェンダー論は、この変化の背景と意味を考えなければならない。

絲山 秋子
沖で待つ
Wed, February 22, 2006

佐藤俊樹『桜が創った「日本」』

テーマ:文化研究

◆佐藤俊樹『桜が創った「日本」-ソメイヨシノ 起源への旅』岩波新書、2005年2月

タイトルだけを見ていると、一昔前に流行したカルチュラル・スタディーズ系の研究なのかなと思ってしまうが、読んでみると著者はそのような「国民国家」批判の言説とは距離を置いている。そのあたりに好感を持った。要するに、本書は、桜と一口に言っても、さまざまな種類があるのに、なぜか桜を語るとき、私たちは型にはまったような語りしかしない、そうした桜の語り方を追いかけたものである。というわけで、桜はたしかに「日本」の存在証明に利用されたのかもしれないが、その見方も桜の一面しか見ていないというわけだ。桜を均質なものと見ることと、「日本」を均質に見ることはパラレルなのだろう。

では、今現在の私たちはどのように桜を見てしまうかというと、それは副題にあるように「ソメイヨシノ」なのである。私たちの感性は「ソメイヨシノ化」されてしまっているのだ。それを本書では、「ソメイヨシノ革命」と呼んでいるが、この分析がおもしろい。桜についての語りの分析に、システム論を使っている。幻想の桜を現実の桜に投影し、その現実の桜が幻想の桜と重なることで、ますます桜に対する幻想が強化されていく、ポジティブ・フィードバックが、桜の語りには存在することを指摘している。

桜というのは、人を饒舌にしてしまうらしい。桜に事寄せて、人は自分の感覚や記憶を語ってしまう。特に戦後は、桜語りの個人化の傾向にあり、語りは拡散しているという。これからもソメイヨシノは、個人の感覚や記憶を乗せる媒体として、これからも便利に使われるのではないかと最後に述べている。そして、ソメイヨシノは、「創り創られる桜として、桜のなかの一つでありながら、桜らしい桜でありつづけるだろう」(p.206)と。

佐藤 俊樹
桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅
Tue, February 21, 2006

三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』

テーマ:哲学・思想

◆三浦俊彦『ラッセルのパラドクス-世界を読み換える哲学-』岩波新書、2005年10月

ラッセルについては、ウィトゲンシュタインとの関係で名前は知っていたが、どんな哲学者だったのか、何を考えていたのかは知らなかった。なので、本書でラッセル哲学の中身を知り、その巨大さに驚く。著者は、本書でラッセル哲学が今現在でも価値があることを示そうとしている。私は論理学や分析哲学の知識がないので、本書を理解するのにやや苦労したが、著者の論じるラッセルの哲学はかなり面白そうだということが、なんとなく伝わってきた。心脳問題、心の哲学あたりでラッセルの哲学が生きてくるみたいだ。「中性一元論」という考え方が、ラッセルの哲学で重要になってくる。この「中性一元論」に、今後の哲学の可能性があるようである。

とりあえず、もっと勉強するために、本書の末尾に付されたブックガイドをメモしておこう。

アンソロジー
・坂本百大編『現代哲学基本論文集Ⅰ』『現代哲学基本論文集Ⅱ』勁草書房
・飯田隆編・監訳『リーディングス 数学の哲学 ゲーデル以後』勁草書房
・ハンス・ヨハン・ブロック編『分析哲学の生成』晃洋書房

古典的論考、専門書
・W・V・クワイン『論理的観点から――論理と哲学をめぐる九章』勁草書房
・ソール・クリプキ『名指しと必然性』産業図書
・D・H・メラー編『ラムジー哲学論文集』勁草書房
・H・ファイグル『こころともの』勁草書房

一般向け解説書、教養書
・飯田隆『言語哲学大全Ⅰ』勁草書房
・デヴィッド・エドモンズ&ジョン・エーディナウ『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』筑摩書房

三浦 俊彦
ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学
Tue, February 21, 2006

高田衛『完本 八犬伝の世界』

テーマ:文学研究・批評

◆高田衛『完本 八犬伝の世界』ちくま学芸文庫、2005年11月

以前中公新書で出た『八犬伝の世界――伝奇ロマンの復権』をもとに、その後の馬琴研究や「八犬伝」研究を取り入れて書かれている。優れた「八犬伝」論だと思う。本書では、「八犬伝」の世界を支える原基イメージを「八字文殊曼荼羅」としていたり、馬琴の方法を「シンクレティズム」(=混淆)と呼び、また後半では「犬江新兵衛」を中心に論じ、そこからいかに「大八車」が馬琴にとって思い入れの強いものであったのかが指摘されてゆく。本書の論証自体が、スリリングで非常に読み応えのあるものだった。

「八犬伝」を書いた馬琴もすごいが、この作品を読み解く高田氏もまたすごい。「八犬伝」を読んでみたくなる。

高田 衛
完本 八犬伝の世界
Sun, February 19, 2006

田中秀臣『経済論戦の読み方』

テーマ:社会科学

◆田中秀臣『経済論戦の読み方』講談社現代新書、2004年12月

『エコノミスト・ミシュラン』のほうが、経済学音痴の私には面白かった。

「デフレと共存したままの構造改革主義の放棄」と「リフレを伴った構造改革の推進」という主張は、もう納得しているので、特に言うことはない。

あとは、こうした考えがもっともっと広まればよいのだろう。

田中 秀臣
経済論戦の読み方
Wed, February 15, 2006

竹内洋『丸山眞男の時代』

テーマ:社会科学

◆竹内洋『丸山眞男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』中公新書、2005年11月

昨日に引き続いて、竹内氏の本を読む。これもかなり面白い内容の本。『教養主義の没落』の続編と言えるので、併せて読むのがいいと思う。さらに、島泰三『安田講堂』と比較して読むのもまた一興かもしれない。

本書は、丸山眞男論ではあるが、丸山の思想を読み解くというよりは、丸山のポジションを分析したものだといえる。丸山がなぜ戦後、かくも大きな影響を与えたのか。著者は、最後にこう結論した。「丸山は、大衆が知識人化への背伸びにつとめた大衆インテリの時代、活字ジャーナリズムがアカデミズムの力をもとに大衆インテリの媒体になった時代、そして法学部的知と文学部的知が交叉しえた時代、そうした時代の中で覇権をにぎることができたことがあらためて確認される」(p.316)

丸山は、在野知識人を嫌っていたことが触れられているが、その原点ともいえるのが、戦前に大学人、とくに東大の法学部を標的に、つぎつぎに糾弾を行っていた「蓑田胸喜」の存在だ。丸山の研究は、ある意味、蓑田的なるものを必死に解き明かすことにあったとも言えるのかもしれない。蓑田の存在は、丸山にとっては脅威であった。

この蓑田的なるものが、戦後にふたたびやってくる。それが全共闘だ。全共闘の大衆団交、つまり大学の教官を糾弾していく姿は、蓑田と機能的に等価であるという。丸山も全共闘の激しく糾弾されてしまうのだが、そこで蓑田的なるものが想起されただろうと。

丸山眞男と蓑田胸喜。進歩的エリート知識人と、エリート知識人の場から排除された知識人の対立。大学院が大衆化した現代、こうした対立は、ふたたび問題になっても良さそうだが、もはやそうなりそうもない。

竹内 洋
丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム
Tue, February 14, 2006

竹内洋『教養主義の没落』

テーマ:社会科学

◆竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』中公新書、2003年7月

「教養主義」とは何であったのかを説き明かし、そして戦後社会のなかで「教養主義」が没落していくまでを描いた、非常に面白い内容。旧制高校的なものと新制高校的なもののちがいとか、帝国大学の文士とフランスのノルマリアンのちがいなど、興味深い分析がなされている。それから岩波書店の岩波茂雄についても書かれてあって、参考になることが多い本だった。

教養は当然だが読書と結びついていたのであるが、教養主義の没落とはまた読書の没落でもあるのだなと思った。学生が本を読まなくなったということではなくて、読書が特別な意味を持つ行為ではなくなったということだ。教養主義が、70年代あたりで没落していくのであるが、それにともなって読書は学生のなかで特権的な意味を持つものではなくなり、サブカルチャーの一つとなったのだと思う。読者は、マンガやアニメを見るのと同じことだというわけだ。終章で、著者が大学で授業をしていて、学生から「昔の学生がなぜそんなに難しい本を読まなければならないと思ったのか? それに、読書で人格形成するという考え方がわかりづらい」という質問に出会ったと書いているが、これは考えさせられる言葉だ。読書で教養を得る、そして人格を形成するということが、ある特定の時代と場所の文化でしかないことがよく分かる言葉である。

ということは、ここでの「教養の没落」とは、ある時代に特有の「教養」のあり方が没落しただけであって、また別の形で「教養」が現れてもいいはずだと思う。はたして、今の時代にふさわしい「教養」とは何なのか。

竹内 洋
教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化

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