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Fri, December 30, 2005

三浦展『下流社会』

テーマ:社会科学

◆三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』光文社新書、2005年9月

「下流社会」というネーミングは面白いと思った。こういうインパクトのあるタイトルをつけるセンスはすごいと思う。年末にテレビを見ていたら、「今の日本は「下流社会」と言われて…」などと発言するコメンテーターもいたので、この言葉は相当広がっているのだなと感じる。

研究のネタとしてはけっこう面白そう。著者自身が書いていたが、社会学者などの専門家の手によって、この本の内容をきちんと調査してもらいたいものだ。そうしないとタイトルだけ一人歩きして、誤った言説が飛び交うことになってしまうのではないか。「下流社会」を「下層社会」の意味で受けとってしまう人がいるかもしれない。

三浦 展
下流社会 新たな階層集団の出現
Wed, December 28, 2005

香山リカ『貧乏クジ世代』

テーマ:エッセイ

◆香山リカ『貧乏クジ世代 この時代に生まれて損をした!?』PHP新書、2006年1月

1970年代生まれ、特に「団塊ジュニア」と呼ばれる世代には、自分たちが「貧乏クジ」をひかされたという意識があるらしい。バブルに乗り遅れたし、不況による就職難であったり、年金問題のツケを払わされるかもしれないし…etc。楽しいことは終わった、もうこれから何もないという「祭のあと」のような空虚感と人生に対する諦観を持つ世代。そして、この世代には、自分に対する自信がないという劣等感や敗北感を抱いている特徴がある。どうして、この世代の人たちは、「貧乏クジ」を引かされたと身の不運を嘆き、負け犬のような劣等感に苛まれているのか。それに対して、どのような処方箋を与えたらよいのか。――

「貧乏クジ世代」というネーミングに興味が引かれ読んだのだが、内容的にあまり深く分析がなされておらず、世代論あるいは社会論としてはやや苦しい。自己啓発系の本のひとつだと言えそう。

本書のなかで一つ興味深かったのが、「貧乏クジ世代」の法則の一つに「頑張っているとき以外は不安」があるという指摘だ。頑張っていることに対しては自信があるが、それが「内面的な揺るぎない自信」へと繋がっていかない。

《学生時代には競争を強いられ、バブルがはじけたころに社会人となった貧乏クジ世代は、つねに「頑張らないとたいへんなことになりますよ」と、半ば脅されるような努力を強要された。だから、その上の世代のような「頑張るなんてカッコ悪いよ」という、"泥臭い努力への抵抗"はもっていない。(p.88)》

だが、頑張ったところで、彼らは社会や他人からなかなか認められない。頑張ってもそれに見合った評価や報酬は得られないが、「ただ、頑張っているその最中にだけ、「私だって頑張れる」という、きわめてささやかな実感と自信が味わえるのだろう」(p.88)というわけだ。したがって、「頑張る」ことがやめられない。要するに「頑張る」ことそれ自体が目的化してしまっているのだ。「頑張る」ことを「頑張る」という不毛なサイクルに陥っている。この指摘は、たしかにそうかもしれないと思う。

香山 リカ
貧乏クジ世代―この時代に生まれて損をした!?
Tue, December 27, 2005

仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか――コミュニケーションの不自由論』晶文社、2005年6月

本書を読んだ後に、軽々しく本書についてネット上に書くのは、まったく本書の内容を読めていない、理解していない証拠なのかもしれない。それなのに、こうして性懲りもなくネットに書いている私は、本書で批判される「ワン君」と呼ばれる一人だと思う。自分が「ワン君」だなあと自覚しながらも、まだその行為を続けているので、相当ひどい「ワン君」的症状だなと。人の「話」を聞く訓練が必要なのかもしれない。

私のような「ワン君」は、本書を読むと、自分自身のやってきたことを反省して、かなり落ち込むだろう。しかし、それは本書を読んで元気が出るよりもマシかもしれない。

仲正 昌樹
なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論
Sun, December 25, 2005

谷崎潤一郎『少将滋幹の母』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『少将滋幹の母』新潮文庫、1953年10月

古典文学で色好みとして有名な平中(へいじゅう)あたりを取材した物語。平中については、芥川も「好色」で小説にしている。谷崎と芥川といえば、小説の筋を巡る論争が有名なのだが、谷崎は終生芥川を意識し続けた作家だと思う。この前読んだ「鍵」でも作中で芥川のことが言及されていた。谷崎が芥川をライバルとして意識していたのは興味深い。

この小説のなかで、もっともよく谷崎文学を表わしているのはつぎの場面であろう。

《嘗て滋幹は幼少の折に、父の跡をつけて野路を行き、青白い月光の下で凄惨な場面を目撃したことがあったが、あれは秋の真夜中の鋭く冴えた月であって、今日のようなどんよりした、綿のように柔かく生暖かい月ではなかった。あの時月は地上にある微細な極小物までも照らし出して、屍骸の腸にうごめいている蛆の一匹々々をも分明に識別させたのであったが、今宵の月はそこらにあるものを、たとえば糸のような清水の流れ、風もないのに散りかかる桜の一片二片、山吹の花の黄色などを、あるがままに見せていながら、それらのすべてを幻燈の絵のようにぼうっとした線で縁取っていて、何か現実ばなれのした、蜃気楼のようにほんの一時空中に描き出された、眼をしばたたくと消え失せてしまう世界のように感じさせる。……(p.170)》

40年ぶりに滋幹が母と再会する最後の場面である。滋幹の父は、師の大納言で老翁の「国経」である。国経は若くそして非常に美しい妻を愛していたのだが、「時平」にその妻を奪われてしまう。美しい妻への愛執を断ち切るために、「不浄観」の修行として国経は時折「屍骸」を見に行っていた。あるとき、滋幹はその父の姿を目撃してしまう。国経は、人間もモノにすぎないという端的な事実を認識することで、妻(=幻想)を断ち切ろうとした。この世界は、「蛆の一匹」までも「分明に識別」可能な高解像度の世界である。一方、国経が妄執した妻であり滋幹が恋い焦がれ続けた母の世界は、「幻燈の絵」のように「ぼうっとした線」で縁取られた「現実ばなれ」のした「蜃気楼」のような世界である。ここには、くっきりとモノを写しだす「現実」の世界と、あいまいでぼんやりとした「幻想」の世界の対立がある。この対立において、谷崎が選ぶのは当然「幻想」の世界である。谷崎にとって「文学」とは、「母」に表象される「ぼんやり」とした「幻想」の世界を追求することであろう。

谷崎 潤一郎
少将滋幹の母
Sat, December 24, 2005

谷崎潤一郎『台所太平記』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『台所太平記』中公文庫、1974年4月

この前、豊田四郎監督による映画『台所太平記』を見て、原作が気になったので読んでみた。小説もかなり面白い。

考えてみると、「女中」は日本の近代文学において重要というか注目すべきテーマであったのだ。文庫の解説を書いている阿部昭が、志賀直哉の『大津順吉』で主人公が女中に手を出し家庭内にいざこざを起すと述べているように、女中との関係が物語を生みだしてきたと言えるだろう。阿部昭は、この物語を「「女中」から「お手伝いさん」への移り変り」を描いた「女中衰亡史」であると同時に「日本語の衰亡史」であるところに、この小説の「反時代的な真骨頂がある」としている。この解釈にもう一つつけ加えておくと、この小説は、日本近代文学における「女中」物語の衰亡史であることも重要であろう。

「女中」という言葉の衰亡や、家庭内の「女中」という役割の消滅といった外的要因が、「女中」物語を「死」へ導いたわけだが、谷崎はこの小説を通じて「女中」物語に対するノスタルジーを描いたのだろうか。

谷崎 潤一郎
台所太平記
Fri, December 23, 2005

谷崎潤一郎『刺青・秘密』

テーマ:日本語の文学(明治)

◆谷崎潤一郎『刺青・秘密』新潮文庫、1969年8月

この文庫には、「刺青」(明治43年)「少年」(明治44年)「幇間」(明治44年)「秘密」(明治44年)「異端者の悲しみ」(大正6年)「二人の稚児」(大正7年)「母を恋うる記」(大正8年)が収められている。谷崎の初期作品である。

「刺青」は、谷崎の作品のなかでもよく知られていると思う。かつては浮世絵師であった清吉が刺青師となる。彼は、「光輝ある美女の肌」に「己れの魂」を刺りこむことを願い続けていた。そして、とうとう理想の女性と出会った清吉は、その女性に「古の暴君紂王の寵妃、末喜を描いた絵」を見せ、女の内なる性分を目覚めさせる。そして、清吉はその女性の背中に「女郎蜘蛛」を彫る。この「女郎蜘蛛」こそ、清吉の「生命」そのものであった。そして男の生命を吸い取ったかのように、この女性は別人に生まれ変わる。

《「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。――お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」(p.17)》

「親方」から「お前さん」という呼び方の変化が面白い。一瞬にして、男と女の関係が逆転してしまうのだ。清吉のような男は、のちの谷崎の作品に頻繁に登場する。この間読んだ「鍵」や「瘋癲老人日記」の男たちも、生命をなげうってまでも女性に拝跪してしまう。さらにマゾ的な官能性は「少年」で描かれる。少年たちにいじめられていた少女が、ある出来事を境に、その関係が逆転し、少女に服従することに快楽を見いだしていく物語である。「幇間」になると、そもそも女性の服従すること、女性に笑われることに喜びを見いだす男が主人公となる。

面白いと思ったのは、「異端者の悲しみ」で、文庫の解説を読むと、この作品は谷崎自身が自叙伝的な作品だと述べていた。ひどく貧しい家に住む大学生の章三郎が主人公である。彼は、日々家のなかでゴロゴロして夢や妄想を見ているだらしがない男だ。友達にお金を借りて遊び回り、その金を返さないということで、友達からも胡散臭い奴だと思われている。要するに章三郎はダメダメな男なのである。そのくせ、家族には意固地な態度を取っていて、特に病で寝たきりの妹とはうまくいかない。そんな章三郎が、退廃的な生活や友達と妹の死を経て、小説家になるところで物語は終わる。いかにして「悪魔的」な作家が誕生したのか。「異端者の悲しみ」は、「悪魔的」な作家の誕生の経緯の物語である。この小説は、章三郎のダメさを楽しむのがいいと思う。親戚から借りてきた蓄音機を、操作の仕方が分からずにでたらめに扱って、危うく壊しそうになる章三郎のエピソードに大笑いしてしまう。

谷崎 潤一郎
刺青・秘密
Wed, December 21, 2005

永井荷風『墨東綺譚』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆永井荷風『墨東綺譚』岩波文庫、1947年12月

これまで荷風は読みにくいというイメージを持っていたので、読まずに嫌っていたのだが、思い切ってこの小説を読んでみたら、すごく面白い小説だった。今まで読まなかったことが非常に悔やまれる。

この小説は、やや複雑な構成をしている。語り手は「大江匡」という作家で、彼は作中で『失踪』と題する小説を執筆中であるという。その一方で、ぶらぶらと浅草あたりを散歩というか探索をしている。大江は、「小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写である。わたくしはしばしば人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過ぎるような誤に陥ったこともあった」(p.29)と述べている。人物よりも、物語の舞台となる場所に強い興味を抱く作家なのである。大江は、古来名勝の地であったが、関東大震災によってその旧観を失っていく状況を描写したいがために、『失踪』の主人公の「種田」の潜伏先を「浅草のはずれ」もしくは、「それに接した旧郡部の陋巷」に持っていったというわけなのだ。

こうして大江匡は、この場所に足を運ぶようになり、そこで「お雪」と名乗る女性と出会う。大江とお雪の短い交流が語られていく。面白いのは、この物語の語り手大江は、お雪との交流を小説的に描いているのではないと自己言及していることだ。たとえば、お雪との出会いは、突然の雷雨のなかで行なわれる。このことに対し、大江は、雨のなかで男と女が出会いは、たしかに物語の常套手段なのだろうが、そういう意図でこの出会いの場面を書いたのではない、出来事をそのまま記したにすぎないと断っている。またお雪との別れについても、「しかしながらもしここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年あるいは一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人になっているお雪に廻り逢う一節を書き添えればよいであろう」とか「この偶然の邂逅をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とかあるいは列車の窓から、互いに顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことの出来ない場面を設ければよいであろう」などと、物語のパターンについて言及してしまっている。要するに、従来の物語に対してメタ的な視線を内在させた小説となっているのである。この小説は昭和11年ごろに書かれたとのことだが、同時代の文学と密接な関連を持っている。『墨東綺譚』のメタ小説的な性格については、すでに論じられていると思うが、たしかにこの手法は興味深い。

永井 荷風
墨東綺譚
Tue, December 20, 2005

谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』新潮文庫、1968年10月

両作品とも面白い。「鍵」(1956年)も「瘋癲老人日記」(1961年)も、ともに日記形式であるのが特徴。「鍵」では、夫婦がたがいに秘密の日記を付ける。とは言うものの、夫も妻も互いの日記を盗み読みしており、しかも盗み読まれることを前提に日記を書いている。日記に書かれる「内面」を読み合う心理ゲームの様相を呈する。心理の駆け引きという点では、たとえば横光利一の「機械」に匹敵する面白さである。

ところで、この物語の最後は妻の日記で締め括られる。そこで、妻はそれまでウソを書いていたことを告白し、自分の日記と夫の日記を読み合わせて、夫婦の間に何がおきていたのか、その「真相」(「深層」とも言えるかもしれない)を探っている。

この告白が面白いのは、なんと妻が夫を殺したかのように読めるからだ。妻は夫の身体が「死」に至るように嗾けていたというのだ。まったく恐ろしい女だ、これでは「悪魔のような女」ではないか!――こんなことを読み終えたときに感じた。「悪魔のような女」という言葉が浮かんだのは、ほかでもない、映画『悪魔のような女』を思い出したからだ。もしかすると谷崎は「鍵」を書くとき、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの有名な映画『悪魔のような女』を参考にしたのではないだろうか。谷崎はこの映画を見ており、またこの映画に出演していたシモーヌ・シニョレに惹かれている。もちろん、話は全然異なっているのだが、細部の設定で似ている箇所があるような気がする。二つの作品を無理矢理こじつけてみると、たとえば小説の「鍵」というタイトルについて言えば、鍵が『悪魔のような女』のなかで重要なアイテムとして登場していたことと関係があるのかもしれない。また、小説「鍵」では眼鏡を外したときの夫の顔を、妻は非常に気味悪がっていたが、『悪魔のような女』では夫の義眼が不気味なものとなり、それが心臓の弱い妻にショックを与えることになる。「鍵」と『悪魔のような女』を対比して研究することが可能なのではないだろうか。

谷崎は「過酸化マンガン水の夢」(1955年)という作品を書いている。そのなかで『悪魔のような女』が言及されていた。ここで谷崎は『悪魔のような女』の欠点などを論じていて非常に興味深い。たとえば、「何より校長と情婦とがそんヤヤこしい手数のかゝる方法で細君を謀殺し、それが発覚しないで済むと思っていたのが可笑しい」とか「直ぐに露顕して捕えられてしまうのでは餘り馬鹿々々しい」などと批評している。この文章を手掛かりにすれば、谷崎が『悪魔のような女』の何に触発されたのか、それが「鍵」のなかでどのように現れているかについて考えることができるだろう。もしかすると、「鍵」も『悪魔のような女』も有名な作品なので、誰かが研究しているかもしれない。

「瘋癲老人日記」は、美しい嫁に執心する老人の性欲を描いた作品。老人が、嫁を相手にさまざまな欲望を思い描いていくさまは、『シンセミア』の中山正に通じるのかもしれない。妄想を描く方法が、谷崎と阿部和重で共通しているのではないか。

谷崎 潤一郎
鍵・瘋癲老人日記
Sun, December 18, 2005

谷崎潤一郎『吉野葛・盲目物語』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『吉野葛・盲目物語』新潮文庫、1951年8月

「吉野葛」は、吉野を取材して歴史小説を書こうとしている語り手が、友人の津村と一緒に吉野に出かける。すると、実は吉野の地は津村にとって大切な場所であることが告げられる。ここは、津村の母親が生まれた場所であったからだ。というわけで、一転して津村の「母恋い」の物語になる。南朝の物語を追いかける「私」と母を追い求める津村の二つの物語が重なっているのがミソなのだろうか。ともに失われたものを慕うという点が面白い。

「盲目物語」は、信長の妹の「お市」のことを、彼女に付き従う盲目の「弥市」という男が語る物語である。ひらがなが多く、また段落が少ない文体で構成されているのが特徴。最初は文字がワッとページを埋め尽くしているので、少々読みにくいのだが、読み進めていくにつれてそれも気にならなくなる。

語り手がいて、そして語り手の語る物語を書き留める人物がいる。たしか『卍』もそのような構造だった。

谷崎 潤一郎
吉野葛・盲目物語
Sat, December 17, 2005

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』新潮文庫、1951年8月

これもすごく面白い。猫に振り回される庄造は、いかにも谷崎的な人物。庄造は、リリーという名前の猫と10年近くも一緒に生活し、溺愛している。庄造にとって、リリーは母親や妻よりも大事な存在とだと言える。またこのリリーがくせ者で、簡単には人に甘えてこないところに庄造や品子が惹かれてしまうのだ。

谷崎 潤一郎
猫と庄造と二人のおんな

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