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Mon, November 28, 2005

小川洋子『博士の愛した数式』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆小川洋子『博士の愛した数式』新潮文庫、2005年12月

ずっと読みたいと思っていた小説で、文庫になったら買おうと待っていた本。待ちに待った小説なので一気読み。評判通り面白い小説だった。やはり小川洋子は上手い。

数学と文学を組み合わせも興味深い。世界は編み物のように織られたもの、というのが小川洋子の世界観だと思う。言葉によって織られたものを「文学」と呼ぶのであれば、数字や数式で織られたものが「数学」と呼ばれるものなのだろう。小川洋子の手にかかると、数式がロマンチックになり、数字が官能的になるのだから不思議だ。

そして、もう一つ重要なモチーフが「記憶」で、もちろん「博士」の記憶が80分しかもたないという設定も重要だが、この物語そのものが回想であること、つまり語り手の「私」が博士と息子の「ルート」の3人で過ごした日々を思い出しながら語っているということも重要なのだろう。

小川 洋子
博士の愛した数式
Sun, November 27, 2005

青山真治『死の谷'95』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆青山真治『死の谷'95』講談社、2005年11月

「次郎」という名前が登場したあとに、彼の兄の名前は「一郎」であることが語られる。そして、漱石の『行人』が当然のように想起される展開。もうこの冒頭部分だけを読んだだけで、漱石ファンとしては、この後小説がどんな展開にするのか、つまり「漱石」がどのように反復されるのかということが非常に気になってしまう。そのためか、読んでいる途中で、ついつい「漱石的なもの」を探してしまうのだが、そのことは小説(テクスト)を読むという点においてプラスにもなるし、マイナスにもなる諸刃の剣だなと思う。なまじっか「漱石的なるもの」を知っているだけに、余計なことを考えてしまった。というか明らかに読者をテマティックな読みに誘うように、至る所に意味深な「モノ」を配置するのは、うーん…。ともかく、この試みが良いか悪いかということは別にして、いろいろな読み込みを誘う物語であると思う。

この小説は、先ほども述べたように漱石の『行人』が参照されているわけだが、ほかにも『彼岸過迄』と『こころ』は少なくとも入っていると思う。つまり、いわゆる漱石の後期三部作を下敷きにしているのだろう。このことを指摘しても、この小説を読んだことにはならないと思うのだが、とりあえず確認しておく。「漱石」に関して言えば、この小説は漱石の小説を「女」の側から読み直してみた試みと言えるだろうか。しかし、読了直後の感想としては「微妙」の一言だ。すごく面白い小説だと感じる一方で、この試みはいかがなものかという思いもある。評価がすごく難しい。

青山 真治
死の谷’95
Sat, November 26, 2005

三並夏『平成マシンガンズ』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆三並夏『平成マシンガンズ』河出書房新社、2005年11月

今年の文藝賞のもう一冊である『平成マシンガンズ』を読む。中学校が舞台になっていて、綿矢りさの小説に出てくる女の子以上に斜に構えた女の子が語り手だ。小説は「喧嘩と仲直りの規則的な羅列が句点も読点もなくノンストップでただつらつらと続いていくような、そういうお付き合いだった」(p.3)という文章で始まる。句点はともかく、読点がかなり少ない文体がこの作者の特徴。まさに語り手が言うように「ノンストップでただつらつらと続いていくような」文体であると言えるかもしれない。このような文体の選択からは、自分自身のことをあるいはこの理不尽な世界のことを一気に語ってしまいたい、そのようなややせっぱ詰まった焦りのようなものが感じられる。のんびりと自分のことを語っている余裕などないのだろう。読点を挿入して言葉を途切れさせたくない、言葉をいつまでも発し続けていたい、その願望だけが彼女をこの世界に結びつけている唯一の方法なのかもしれない。

主人公で語り手の「朋美」は、自分に無関心な父親と暮している。母親は家出をしており、家には父の愛人がやってくる。朋美は学校では「地味」に振る舞い、「いじめ」の対象にならないように仮面を被っていたわけだが、父の愛人のことで友人関係にひびが入り、他の生徒から無視されるようになる。そんなわけで、不登校になり、家の中では嫌いな父の愛人との争いも耐えない。どこにも居場所が無くなった朋美は、最後に頼るべき場所として母親の住んでいるところに行くが、その母親も朋美を受け入れてくれない。不毛な言い争いのなかで、ちょうど母親に離婚届を書いてもらおうとして来ていた父の愛人の弟が、朋美と母親の二人の様子を見かねて、こう言い放つ。

《「そんなこと知らないよ俺聞いてないし。あんたたち、幼稚園児並の醜さ」(p.100)》

この一言が、朋美に「出刃包丁」のように突き刺さり、朋美は自分自身の「恥ずかし」さを感じる。この言葉によって、それまでの朋美の語る「物語」が一気に相対化されるのだ。このような鋭い一文が書かれているという点だけで、この小説は肯定的に評価できると思う。実は、この場面までは、なんとなく舞城王太郎みたいだなあ、ライトノベルのような雰囲気なのかなと思って、ちょっと退屈していたのだけど、最後にこの一文にであって「ハッ」とした。この後、物語は一気に問題解消してしまい、その展開はまあご愛嬌かなとは思うが、それにしてもこの一文の衝撃は大きかった。このように、自分を見つめる視点を持っているということは、小説家として、ひとつの才能なのではないか。この視点は、これから先もずっと持ち続けて欲しいものである。

三並 夏
平成マシンガンズ
Fri, November 25, 2005

青山七恵『窓の灯』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆青山七恵『窓の灯』河出書房新社、2005年11月

第42回文藝賞受賞作のひとつ。単行本になるのを待っていた本。もうひとつの受賞作のほうが、著者が中学生ということで注目されていたが、こちらはどうなのだろう。とりあえず選評を見てみると、斎藤美奈子が「女の子のピーピング・トム」を描いた本邦初の小説家もしれないと述べている。たしかに、この小説のオリジナリティは斎藤が述べたことで間違いない。女の子がのぞき見をする物語。本作を一言で言うならこうなるだろう。

要するに、語り手の「私」(「まりも」という名前)は「見る人」なのである。彼女は、ひたすら周囲の人たちを観察している。特に働いているお店(喫茶店か?)の「ミカド姉さん」をまりもは観察するのだ。「私は姉さんの一挙一動を注意深く観察して、よく見定めようとする。すると、姉さんの一つ一つの言葉や立ち居振るまいは、「女の人」の見本として私の頭に日々少しずつ刷り込まれていく。そしてそれは、ほとんどやみくもな羨望と交じり合って、そのまま体の深くに沈んでいくのだった。(p.15-16)」

まりもはだから、姉さんに何人男がいるだとか、どの男とどういう関係にあるのかをすこしずつ理解していくことになる。しかし、それがミカド姉さんがどんな人なのかを知ることにはならない。そもそも、まりもはミカド姉さんの店で半年も一緒に働いているのに、ミカド姉さんの本当の名前さえ知らないし、過去も知らない。もちろん、ミカド姉さんもまりものプライベートのことをほとんど知らないのだろうと思われる。なにしろ、ミカド姉さんは「先生」と呼ぶ男性をずっと慕っているようなのだが、「先生」の年齢も知らないのだ。このように、この小説の人間関係は非常にもろい。希薄というのではないだろうが、それなりの交流を持っていても、お互いにどんな素性の人間なのか知らないし、知ろうともしない人たちなのである。表面的な関係だけの、まったりしている人間関係を描いているという点が特徴なのだと思う。

「見る人」であるまりもは、物語の最後で、このような状態に不安を抱く。見ることで自分は何を理解してきたのか。自分が本当に見たかったのは何だったのか。まりもは、それをこう語る。

《 結局私が見たかったのは、淡々とした人々の日常ではなく、無表情の下にある矛盾や、欲望や、悲しみでゆがんだ、ぐちゃぐちゃの醜い顔だったのかもしれない。(p.119)》

ふと向かいのアパートの部屋を見ると、そこに住む男の子がミカド姉さんの部屋を覗き見している。しかも「滑稽なほど熱心に。」(p.120)そして、まりもは思う、「私もこんなふうに誰かを見ていたのだろうか。/そしてこうやって、誰かに見られていたことがあったのだろうか」(p.120)と。――

特にこれといったドラマも起きず、小説のテーマもさほど斬新というものではなかったが、まったりとした時間、人間関係を丁寧に描いていて、かなり好感の持てる作品だった。

青山 七恵
窓の灯
Mon, November 21, 2005

松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』

テーマ:三島由紀夫

◆松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』文春新書、2005年11月

歴史に疎いので、「二・二六事件」を取り上げた三島の小説(たとえば「英霊の聲」)や文章を読むのが苦手だ。なんとか理解したいなと思っていたところに、本書が出たのでさっそく購入し読んでみた。

この本は、三島由紀夫だけがメインではなく、三島を含めた三人が論の対象となる。もう一人は北一輝であり、もう一人は昭和天皇である。著者は、時や所が異なるこの三人が、それにもかかわらず、「二・二六事件」をめぐる北と三島と昭和天皇との関係は、わたしにはあたかも三つ巴のようにからまって、非常な緊張関係を形づくっているように感じられる」(p.10)という。本書は、この三人の思想のドラマを描き出すのである。その際、批判の対象となる論が、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』だ。私はビックスのこの本を読んでいないので内容は分からないのだが、松本健一は『昭和天皇』に「北一輝の名はほとんど、そして三島由紀夫の名はまったく出てこない」と指摘し、「これは、おかしなことではないだろうか」(p.13)と批判する。本書は、『昭和天皇』という本への批判も興味深い内容のひとつである。あとで、確認のためにも、ビックスの本を読んでみたいと思った。

松本 健一
三島由紀夫の二・二六事件
Sun, November 20, 2005

堂本正樹『回想 回転扉の三島由紀夫』

テーマ:三島由紀夫

◆堂本正樹『回想 回転扉の三島由紀夫』文春新書、2005年11月

三島由紀夫の性的志向についてはあまり興味がなかったが、この本には「切腹ごっこ」についてや映画『憂国』の撮影について語られていたので読んでみた。

三島と堂本氏の関係は「兄と弟」という関係で、二人でいろんなことをやっていたのだなと分かって、けっこう内容は面白い。

文学関係で興味深いのは、たとえば次のような証言だ。

《 なお『愛の渇き』を献本されて読み、「あんな女がいるのかしらね」と私が云うと、「当たり前だろう、悦子が男だよ。正樹だってあの三郎みたいな素朴で無知な身体、欲しいに決まっている」と、ぬけぬけと云った。男を女に換えて男を見る手法が、三島作品に多用されている。直接聞いたものに『沈める滝』があった。成功した中間小説『美徳のよろめき』もその可能性が高い。(p.82)》

ここを読んだとき一瞬笑ってしまったが、なるほど、三島はこんな書き方を密かにやっていたのかと関心を持った。三島を読むときには、この手法のことを頭の片隅に置いておいたほうがよいのかもしれない。

Sat, November 19, 2005

四方田犬彦・斉藤綾子編著『映画女優 若尾文子』

テーマ:映画研究・批評

◆四方田犬彦・斉藤綾子編著『映画女優 若尾文子』みすず書房、2003年6月

四方田犬彦と斉藤綾子による「若尾文子」論と、この二人による若尾文子インタビュー、そして詳細なフィルムグラフィーがついたかなりの労作。「若尾文子」という一人の映画女優を通じて、日本映画の50年代から60年代を浮かび上がらせる希有な試み。この本は、「若尾文子」研究であるが、同時にかつて存在した映画会社である「大映」の研究の第一歩ともなるし、また若尾文子と長きにわたって名作を送り出してきた増村保造監督の研究ともなる。まったく贅沢な内容の本である。

若尾文子ファンにとっては、ここに収録されているインタビューは非常に貴重なものである。この本が出た時には、『竹取物語』が若尾の最後の出演作と言われており、このインタビューのなかでも、もう一度映画に出演してくださいとおそらく四方田犬彦あたりから言われている。それに対し、若尾もそれまでは映画出演のオファーは断っていたけれど、最近では自分で面白く思えて、他人からも楽しめてもらえるようならば、一日でもいいからやってみようかなと思っていると答えている。

このインタビューがきっかけとなったというわけではないだろうが、いろいろあってこうして今年になって『春の雪』で18年ぶりに映画出演をしたのだから、ほんとに『春の雪』は日本映画界にとっての大事件と言って良いはずなのだ。インタビューの最後にこんなやりとりをしている。

《――若尾さんが、昔、小津さんにこう言われたんだけど、というようなかたちで、呼吸だよとか、なんか一言サジェスチョンすれば、若い監督はひじょうに心構えといいますかね、なんかそういうことが伝わっていかないと、日本映画の独自性がずっと…… 大映のそういう経験みたいなものを、いかに次の世代が勉強するかみたいな。この本もその一助になればと思ってます。若尾さんは、ほんとに今の三十歳くらいの人の映画にお出になられるとか……。
若尾 そうそう、一日でもいいし。小栗康平さんが『泥の河』を撮る時に出てくれって言われたんですけど、お断りしたの。でも、そういうことしちゃいけないわね。今ならね(笑)。やっぱりね、そういうのをやらなきゃいけないわね。(p.280)》

『春の雪』出演は、やはり日本映画の良質な部分を若い映画人たちに伝えようとしたのであろうか。

四方田 犬彦, 斉藤 綾子
映画女優若尾文子
Tue, November 15, 2005

大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』

テーマ:サブカルチャー

◆大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川書店、2005年11月

第1部と第2部に分かれている。第1部では「ジャパニメーション」を日本の伝統文化に結びつけてしまう言説を批判するために、まんがやアニメの「歴史」が検討される。キーワードとなるのが「戦時下」である。要するに「戦時下」に現れた表現が、手塚治虫によって戦後に批評的に再構築され、それが現在のまんがに至っているという歴史の説明。これは、以前の『教養としての〈まんが・アニメ〉』で示されたものがより詳しくなったものだと思う。興味深いのは、小熊秀雄がまんがの原作をやっていたということと、それに関連してまんがが、転向者や転向予備軍の受け皿になっていたのではないかという意見である。戦前、戦中のまんがについては、まったく知識がなかったので、興味深い内容だった。

第2部は、国やシンクタンクの出しているレポートを検討しながら、まんがやアニメに国が手出しをするなと批判する。産業の話になると、私はよく分からないのだが、この本を読む限り、どうあがいてもハリウッド(アメリカ)にのみ込まれていくだけなのだなあと思う。今の状況では、「国策としてのジャパニメーション」は敗れる運命にある。だから、そんなところに税金を使うのは無駄である――。はたして、大塚英志の批判はあたっているのだろうか。気になるところだ。

大塚 英志, 大澤 信亮
「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか
Mon, November 14, 2005

丹生谷貴志『三島由紀夫とフーコー <不在>の思考』

テーマ:三島由紀夫

◆丹生谷貴志『三島由紀夫とフーコー <不在>の思考』青土社、2004年12月

タイトルからこの本は、三島の思想とフーコーの思想を比較したものだと思いこんでいたのだが、読んでみるとちがった。単に三島論とフーコー論が収められているだけだった。この点、ちょっと期待はずれだ。それぞれの論は、なかなか面白いものではあったが。

丹生谷 貴志
三島由紀夫とフーコー“不在”の思考
Sun, November 13, 2005

星野智幸『最後の吐息』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆星野智幸『最後の吐息』河出文庫、2005年11月

星野智幸のデビュー作である「最後の吐息」と、もうひとつ「紅茶時代」という作品が収録されている。

星野智幸の小説はどちらかといえば苦手なタイプで、一回読んだだけではなかなか理解できない。それで何度か読んでみて、ようやく何が書かれているのかぼんやりと見えてくる。「最後の吐息」も象徴的な表現が多いので、はじめは何の物語なのか理解できずに困ったが、堀江敏幸による解説(「蜜からミツへ、雨からジュビアへ」)を参照しながら読みかえしてみて、この小説は「書くこと」をテーマにした物語なのだろうと思う。「書くこと」というテーマは、「言葉」より正確にいえば「文字(活字)」のテーマとすぐに結びつく。この小説には「文字」が溢れていることに注意したい。実際、真楠は日本にいる恋人である「不乱子」あてに、この小説の作中小説となる「十一通の創作」を書き続けていること自体、二人の間には「文字」が溢れていることを示しているだろう。

冒頭の場面で「真楠」が「まだ読んだこともない作家が死んだ」とその作家の死を知るのは、「日本から送られてきた新聞の訃報記事」であり、真楠はその新聞の「日本語の活字」を強い陽射しのもとで眺めて「目眩」を起こしそうになる。続いて真楠は「チチチ」と鳴く「ハチドリ」の存在に気が付く。真楠はハチドリが甘い蜜を吸っている姿を好んでいる。このハチドリは、「スペイン語の新聞を読んでいると、必ず蜜を吸い」にやって来ると語られる。活字とハチドリが組み合わさっている。この組み合わせは、やがて「重力」を狂わせる。日本語の活字という「重力」とハチドリのように「重力」から解放されて自由に宙を舞う存在の間に、真楠は漂っていると言えるだろう。

真楠は「活字」になりたいという。それどころか、この「まだ読んだこともない作家」のペンを持つ手が書き付ける「名前」そのものになりたいという。「彼の手が持つペンの先から擦りつけられて名前が紙に現れるとき、名前となった真楠も揺るぎなく自分のいる場所を語ることができる」(p.15)と考えている。堀江敏幸が解説で指摘したように真楠は「変身願望」を持っているが、特に「活字」「名前」になりたいという願望が後の展開を考えると興味深い。

この小説では「文字(活字)」が非常に重要だ。「文字」は両義的な存在で、「文字」を媒介として、一方では人と人あるいは恋人同士を互いに引き寄せ「深く交わっているような甘美な思い」(p.20)をもたらすが、その一方で二人の間に「ズレ」があることを感じさせる。「ズレ」があると感じるから、この「ズレ」を解消するために「文字」を使ってコミュニケーションを行なう。だが「文字」は「ズレ」を生みだし続け、永遠に「ズレ」を解消することは不可能だろう。真楠の書く物語では、ミツが金細工の魚作りに没頭し、大量の金に鱗の模様を付ける(=「文字」を生むこと)が、最後に「活字」に身体を食い尽くされ、自分の「死」を悟るであろう。「文字」(エクリチュール)と「死」というテーマがここには流れている。

仲俣暁生は「雨季と乾季のバラッド――星野智幸論」(『新潮』2005年12月)のなかで「最後の吐息」に触れ、この小説が『アルカロイド・ラヴァーズ』に受け継がれる「「言葉」と「愛」をめぐるまわりくどい思考の跡を綴った物語」だという。この小説が「言葉」(私の言い方なら「文字」)と「愛」をめぐる思考であるのはその通りであると思うが、「不乱子が真楠に対して求めているのは、言葉という回りくどい回路を通り抜けたすえの愛情の表明であり、その真正性を担保するのは直截な物言いではなく、「周りくどい」手続きの遵守である」(p.209)と読むのはいかがなものか。

仲俣はつづけて「「読まず」に「嘆く」ことが批判されるべきなのは、それが回りくどさの回避であり、「努力」の「放棄」にほかならないからだ」というのだが、これでは不乱子はただ対話を続ける「努力」が大切で、それが「愛」だと言っているに過ぎなくなる。要するに、仲俣は「恋愛にはコミュニケーションが大切だ」と考えているようだが、「対話が足りない、愛情が薄いんじゃないの」と不乱子は真楠に不満をぶつけているわけではないだろう。この小説は、愛には対話が必要だという答えを提示しているわけではないし、まして対話を続ければ二人は理解しあえるのだということを描いているわけではない。

真楠がこの創作を書き始めるまで、不乱子が手紙を書き続けてきたことをこう説明している。「文字の上の交わりに変わってしまうのを拒否したいからでした。私は書くことで、あなたと私の間にずれていくことに敏感でいようとしたわけです。書くことで、文字に還元されることを乗り越えようとしたのです。」(p.88)ここで不乱子は、真楠との「ずれ」を敏感に感じようとしていることに注意すべきだ。仲俣は、この箇所を引用しながらも読み落としている。不乱子は、真楠をあくまで他者として維持しようとしているのだ。

それに対し、真楠は「違和感」とともに「淫靡な快感」を思い出し、「いま一度、文字を通じながら文字にならない不乱子まで含めて、不乱子そのものになりたい、あの作家の名前になることで本当は不乱子になりたい、と強く思い、最後の手紙」(p.88-89)を書き始めている。真楠は、このように文字を通じて「不乱子そのもの」になろうとするが、おそらくこれは不可能な試みなのだ。真楠にとって、「書くこと」は文字を通じて他者との一体化を望むことである。そして、それは不可能であるがゆえに書き続けなければならないが、真楠にとってはそれが「淫靡な快感」となるだろう。この小説は「書くこと」のエロチシズム描いた物語なのではないだろうか。

星野 智幸
最後の吐息

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