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Tue, August 30, 2005

高橋哲哉『戦後責任論』

テーマ:歴史

◆高橋哲哉『戦後責任論』講談社学術文庫、2005年4月

文庫化を機に読み直してみた。今年は戦後60年だけど、この本は戦後50年のころに書かれている。戦後責任の諸問題は、10年前からあまり進展がないのかなと思う。まだ、最近の本である『靖国問題』を読んでいないから、比べられないけれど。

この本の加藤典洋批判は、その通りだなと納得。中途半端に現象学をかじると、素朴な実感主義になって、けっきょく自己中心主義に陥ってしまうのだなと。ボロボロな論を展開している加藤典洋の姿を見て反省する。

それはともかく、加藤典洋やいわゆる自由主義史観の人たちへの批判は良いのだけど、その一方で、本書を全面的に支持しても良いのかなとも感じる。こういう本を読むと、いつも何かいちゃもんをつけたくなる。何か穴を見つけて、とことん批判したくなるのだけど、その穴が見つからないなあ。敵はかなり手強い。とりあえず、ひっかかる文章を一つだけメモしておく。

《植民地支配や侵略を受け、自らの民族性を否定されようとしているような人々が、支配民族に抵抗するナショナリズムの場合など、私はナショナリズムがあらゆる場合に、あらゆるコンテクストで否定されるべきものとは考えません。しかし、事実上の問題としてかつて植民地帝国として異民族支配を行ない、少数民族を圧迫、「同化」し、その結果として大規模な民族移動を引き起こしたような国においては、マジョリティ(民族的多数派)のナショナリズムはもはや「健全」ではありえない。(p.184)》

あらゆる場合において、ナショナリズムを否定されるべきものと考えないというのは、私もその通りだと思うけど、著者にはあらゆるナショナリズムを否定してほしかったなあと思ってしまう。「健全」とか「健全」でないとか、そういう二項対立的な思考がダメなのじゃないか。

高橋 哲哉
戦後責任論
Mon, August 29, 2005

加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』

テーマ:映画研究・批評

◆加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』勁草書房、1990年5月

第一部が映画論、第二部が小説論、第三部が漫画論の三つに本書は分けられている。全体を通じて分析のテーマとなっているのは、「メロドラマ」である。

メロドラマとは何か、ということを本書を全体で問うわけだが、いちばん分かりやすいのは第二部のはじめにある「メロドラマの一般原理」という章だろう。ここでは、村上春樹の小説を使って、メロドラマの特徴を説明している。

たとえば、「過去の回帰」という特徴。メロドラマの「メロ」はもちろん「メロディー」のことだが、懐かしい曲とともに、主人公に「失われた時間」が戻ってくる。著者は、「メロドラマ的物語は二重の意味で過去についての物語」(p.91)であると指摘する。メロドラマは、「かくあるべき(だった)事態の遡及的回復」を試みる。それは、「いかにすれば、より幸福な人生を送っていただろうか」という反省であり、また「本来われわれ(恋人たち)は生きるに価する幸福な人生を送ることができたはずだという無反省な信念から振り返られた過去である」(p.91)。メロドラマという言葉が蔑称として受けとめられてきたとすれば、その理由として、「道徳的に固定された価値観」、「「現実」との滑稽な乖離につきまとう逆説的な「現実」肯定主義」、「敗北主義」といったことからであるという。

《メロドラマのヴェクトルはつねに後ろ向きであり、メロドラマの物語は未来の革命を模索するのではなく、幸福な過去の「黄金時代」の回想録としてしか語られない。(p.91)》

現在の「わたし」のもとに、「過去」が戻ってくるのは、回想の主体である「わたし」に質的な変化をもたらすためである。そして、その修正は、「道徳的に固定された価値観」によって行われるという。人生がある価値観によって軌道修正される守旧的なイメージと、同時に過去を修復することは不可能な試みであるという、このような「不可能性」「荒唐無稽な敗北主義」「感傷主義」がメロドラマに「否定的な価値」を与えることになる(p.92)。こうしてメロドラマは、正しいもの/誤ったもの、あるいは善/悪、光/影といった「二元論的ダンス」(p.93)となる。

このあたりを理解しておけば、とりあえずメロドラマの基本を押えたことになるのだろうか。「メロドラマとは~~である」と簡単に定義できるものではないので、さらなる研究が必要。やはりピーター・ブルックスの『メロドラマ的想像力』は読んでおくべき本であろう。

加藤 幹郎
愛と偶然の修辞学
Sat, August 27, 2005

『岩波応用倫理学講義4 経済』

テーマ:社会科学

◆『岩波応用倫理学講義4 経済』岩波書店、2005年7月

倫理学の本で、「経済」の巻があるのは面白そうだと読み始める。この巻は、川本隆史が中心となっている。

けっこう工夫がされた作りとなっていて、この手の本だとたいてい論文集の形を取ることが多いが、この本というかこのシリーズは、どうやらただ論文を集めただけの本ではなく、はじめに「講義の七日間」として川本隆史氏が導入の論文を書き、つづいて「セミナー」と称して、経済と倫理に関する論文が6つ続き、つぎに「問題集」として、現在の問題になっていることをいくつか紹介し、最後に「シンポジウム」として、大澤真理・中野敏男・森まゆみ・川本隆史らによる「経済と倫理」に関する討論が収められている。

「セミナー」の章は、さすがに専門的な論文が並んでいるが、「講義の七日間」と「シンポジウム」の章は、「経済と倫理」という問題への良い導入となっている。この二つを読むだけでも役に立つ本だ。

川本 隆史
経済

Sat, August 27, 2005

中勘助『銀の匙』

テーマ:日本語の文学(大正)

◆中勘助『銀の匙』岩波文庫、1999年5月

引き出しにしまってあった小箱から「銀の匙」を取り出したことから、子供のころを回想が語り出される。病弱で神経質な子供であった「私」を、伯母さんは一生懸命に世話をしていた。伯母に守られていたのだった。

語り手の「私」は、身体的にも精神的に弱く、感受性も強すぎるのか、自分の外側にある世界と触れることに絶えず不安を抱えている。それゆえに、なかなか周囲の人々とうまく交わることができなかった。遊ぶのは、隣の家に住んでいる女の子だけだ。そして、この女の子との交流が回想の中心となっていくだろう。

感受性が鋭く、それゆえに神経質で、女性に守られている「弱い」男性。このような弱い男性が、おそらく近代文学でしばしば登場することになるのだろう。きっと、このような男性の系譜は、村上春樹の小説の男性へと受け継がれていくのではないだろうか。

ところで、こんな場面があった。

《ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとおるように蒼白くみえた。(p.125)》

月の光に照らされる身体の青白さ。そんな自分の身体にうっとりしてしまう「私」なのだけど、このような月と身体の場面は、村上春樹も描いていたなと思い出す。身体が、月の光に照らされ蒼白く見えるというのは、文学ではけっこうありふれた表現だったのかな?と気になってしまう。

語り手「私」の感傷性がはっきりと現れた場面はつぎのものだろう。兄が、「教育」と称して、釣りに無理矢理連れて出かけたりして、「私」のこと鍛えようとしている。あるとき、兄は「私」を海岸に連れて行く。「私」は、疲れてひもじさも増し、涙が浮かんでくる。しかし、兄は「ほうっとけ ほうっとけ」ととりあわず、さっさと歩いて行ってしまう。心配した友達が、「私」に声をかけると、「私」はこう口にする。

《「波の音が悲しいんです」(p.156)》

この台詞は、すごいなと思った。この台詞を目にしたとき、思わず笑ってしまった。こんなことを言う少年が、実際にいたら周囲の人々はちょっと手に負えないかも。天才と言えば、天才なのかもしれないけれど。これは、ほんとうに名台詞だと思う。

中 勘助
銀の匙
Thu, August 25, 2005

山田詠美『A2Z』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆山田詠美『A2Z』講談社文庫、2003年1月

きのうに引き続き、山田詠美の小説を読んでみた。山田詠美の作品は苦手で、これまでずっと避けてきた。昨日、今日とその苦手意識を克服しようとがんばって読んでみたが、2冊の本を読んで思ったのは、やっぱり私には山田詠美は合わないということだった。

この『A2Z』では、登場人物たちの会話がついていけなかった。一昔前の東京を舞台にしたトレンディドラマのような、「おしゃれな」人たちの会話。読んでいるこちらが恥ずかしくなってきてしまうような会話が多くて、途中で挫折しそうになった。たとえば、こんな会話。主人公の夏美が恋人の成生にワイングラスをプレゼントした場面だ。

《私が栓を抜いたワインを彼がグラスに注いだ。ワインの金色が、外側に浮かんだ水滴でたちまちぼやける。私は、窓際のクリップライトにグラスをかざした。彼が、その様子を見て溜息をついた。
「綺麗だな」
「でしょ?グラスによって、お酒って、本当に美しくなる」
「おれが言ったのは、あなたのこと」
自分の頬が赤くなったのが解った。間接照明の薄暗さの中で、彼がそれに気付かないことを祈った。(p.86)》

読んでいる私のほうが赤くなってしまう。「おれが言ったのは、あなたのこと」だって…。こんな台詞を言う成生青年は、郵便局に勤めている25歳の青年なのだけど。

要するに、私は美男美女が出てくる恋愛小説が苦手なのだ。

ところで、昨日読んだ『PAY DAY!!!』でもハーモニーは年上の人妻と恋愛関係にあったが、『A2Z』でも年上の人妻と年下の男性の恋愛関係が描かれている。女性が年下の男性と恋愛するというのは、山田詠美のパターンなのだろうか。他の小説でも、このような関係が描かれていると面白い。どうして、年下の男性との恋愛を描くのだろう?。

山田 詠美
A2Z
Wed, August 24, 2005

山田詠美『PAY DAY!!!』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆山田詠美『PAY DAY!!!』新潮文庫、2005年8月

「9・11」を背景にもつ文学作品ということで、どんなものなのか読んでみた。

ハーモニーとロビンの双子を中心に、その家族や恋人との関係を描く。ハーモニーとロビンの両親は離婚して、母はニューヨークで働いている。ハーモニーは父と一緒に南部の町ロックフォートに移り住んでいる。ロビンは母とニューヨークで住んでいる。ハーモニーはどうやら母とは、あまり良い関係ではないらしい。そのような状況で、運命の「9・11」がやってくる。母は、「ワールド・トレイド・センター」で働いているのだ。こうして母ソフィアを失った一家が、この喪失をいかに克服していくかが物語の中心テーマとなるのだろう。

ハーモニーは、年上で夫のいるヴェロニカと知り合い、不倫の関係になってしまう。この許されない恋で、ハーモニーは思い悩むのだけど、なんだかこの悩みはうっとうしい。ハーモニーは、同世代の女の子の注目の的、つまりモテる男なのだ。ハーモニーはとにかく女性からは親切にされる、ある意味非常に恵まれた人物であるが、唯一の例外の女性が母親のソフィアだった。どんな女性も引き寄せてしまうハーモニーが、母親とだけうまく関係を築くことが出来なかったというのは、面白いテーマだと思うが、それにしてもハーモニーは詰まらないことでうじうじと悩んでみる、退屈な男だと思う。双子の妹ロビンも、同様に退屈な人物ではあるが、それ以上にハーモニーにはイライラさせられる。

解説(豊崎由美)を読むと、どうやらこの小説の登場人物たちは、「大事なこと」をまっすぐに伝え合う、そんな直球勝負な人たちだと解釈している。たしかに、そういう人たちなのだろうと思うが、それゆえに共感できるとは限らないなと思った。私は、どうも、登場人物たちのこのストレートな心情告白が、逆に「嘘くさく」思えた。私がハーモニーやロビンに共感できなかったのは、彼らが真面目すぎるがゆえに嘘くさいからだ。

山田 詠美
Pay day!!!
Wed, August 24, 2005

中古智・蓮實重彦『成瀬巳喜男の設計』

テーマ:映画研究・批評

◆中古智・蓮實重彦『成瀬巳喜男の設計』筑摩書房、1990年6月

成瀬映画を理解するために読んでみる。

成瀬の映画製作は、成瀬組と言われる優秀な技術者たちに支えられていた。特に、カメラの玉井正夫と照明の石井長四郎、そして美術を担当しつづけたこの中古智らが、成瀬組の中心人物であった。その中古智と蓮實重彦がインタビューをし、日本映画における美術担当の歴史と成瀬の映画製作の裏側を聞き出している。映画史や映画研究では、映画のセットを担当する美術についてはあまり触れられることがこれまではなかったので、日本の映画美術史として、中古智の話は貴重なものだと思う。

昨日、『浮雲』を見たところだったので、『浮雲』がいかに撮影されたかという話が一番面白かった。『浮雲』は、主人公が移動を繰り返すので、セットの数も多く、かなり苦労したことが語られている。私の印象に残った伊香保温泉での階段の場面も、クレーンで撮影したことが明かされ、その難しさが語られている。また、『浮雲』は仏印や屋久島が出てくるのだが、現地に行くことなく、もっぱらこれらの場面は伊豆あたりで撮影されたという。

成瀬映画の製作の裏側を知ることが出来る重要な本だ。

中古 智, 蓮實 重彦
成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する
Mon, August 22, 2005

阿部嘉昭『成瀬巳喜男』

テーマ:映画研究・批評

◆阿部嘉昭『成瀬巳喜男 映画の女性性』河出書房新社、2005年8月

著者は、成瀬巳喜男の映画の特質を「女性性」という言葉で表わす。ただし、著者は「女性性」と言っても、フェミニズム的観点から成瀬の映画を読み解くのではなくて、「作品の「組成」そのものに、「女性性」としか呼べない」(p.2)ものがあるのだという。成瀬巳喜男の映画、ひいては映画という「媒質」には「女性性」がまつわっているのではないか、というのが著者の考えである。

もう少し、この「女性性」について追いかけてみると、次のように説明されている。成瀬の映画が「女性的」であるとは、男性に抑圧されて苦しむ女性が描かれているということではなく、「中心性がつよくなく、しかも全体に調和がほどこされている画面の視覚性じたいを、女性性の本義からして、女性的と形容すべきかもしれない」(p.16)。したがって、男性性はこの逆で、つまり「中心性や位階を捏造する傾向」(p.16)のことだという。

こうした成瀬映画は語りにくい。語りにくいとは、言語化することが困難であるということだ。成瀬映画の各瞬間は、言語化=中心化作用によって捉えきれない。「女性性とは、言語化によって論理的調整のおよばなかったものの総体だといえる」(p.17)。成瀬の映画は複雑だが、複雑だと感じられない理由を、著者はこのような「女性性」にみている。映画には言語化の及ばない領域があるはずなのに、男性性はそれを言語化しようとし、平板な「物語」へと還元してしまう。成瀬映画の「言語化の難しさ」「脱中心性」は、このような男性性による平板化に対する、「含羞にみちた抗い」(p.18)なのではないかと著者は主張する。

このような観点から、成瀬の映画12本(『浮雲』『妻よ薔薇のやうに』『まごころ』『めし』『山の音』『晩菊』『驟雨』『流れる』『女が階段を上がる時』『乱れる』『乱れ雲』)が論じられている。これら映画の分析は、蓮實重彦風の細部を積み上げていく分析なのだが、今ひとつ興味を引く分析にはなっていない。そもそも、この本のキーワードである「女性性」もおそらく内田樹なら「身体」と呼ぶものであるので、自ずと映画の分析は身体(身振り、表情)の分析が中心となるのは予想通りの展開だった。映像の詳細な分析は目を瞠るものがあるのだが。

阿部 嘉昭
成瀬巳喜男
Fri, August 19, 2005

保坂和志『この人の閾』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆保坂和志『この人の閾』新潮文庫、1998年8月

これも面白い小説だった。収められた作品はどれも、登場人物が時間つぶしにあるいはぶらぶら散歩しながら会話をしつづけるだけなのに面白い。

保坂 和志
この人の閾
Thu, August 18, 2005

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆いしいしんじ『麦ふみクーツェ』新潮文庫、2005年8月

いしいしんじについては、『現代小説のレッスン』を読んで知った。気になって、文庫になったこの本を読んでみたが、これは良かった。他の作品も読みたくなった。『海辺のカフカ』よりも上質な物語だと思う。「とん、たたん、とん」という麦ふみの音とともに、祖父、父、そして「ねこ」と呼ばれる少年の3人の男の物語が語られていく。

いしい しんじ
麦ふみクーツェ

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