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Thu, June 30, 2005

吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅰ』

テーマ:文学研究・批評

◆吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅰ』ちくま学芸文庫、2003年10月

これは難しかった。その原因は、私が吉本隆明の著書に慣れていないからかもしれない。もっと吉本の本を読めば、読みやすくなるのだろうか。

吉本隆明が言う「イメージ」やら「像」、「世界視線」というものが、何を言い表しているのかが、一回読んだだけではわからない。しかし、これが理解できないと本書に収められている各論の主張が理解できない。

論の対象がまた幅広い。情報技術からファッション論、都市論、民俗学、そして日本文学論。これだけバラエティに富んでいると、ついて行くのが難しい。私は、かろうじて文学論だけ、なんとか食らいつくことが出来た。その文学論では、「形態論」が興味深い。はじめに柳田國男をとりあげて、「形態」を認識することを論じていく。その後、一転して、漱石や花袋を「形態」の認識の観点から分析し、次に女性作家を論じている。論の流れ自体は、脈絡もなく続いている感じがしたが、女性作家を論じているところが一番面白い。

著者: 吉本 隆明
タイトル: ハイ・イメージ論〈1〉
Wed, June 29, 2005

石川忠司『現代小説のレッスン』

テーマ:文学研究・批評

◆石川忠司『現代小説のレッスン』講談社現代新書、2005年6月

思っていたよりも正攻法な批評だった。批評家らしく、小説の細部を読み込んでいたし、意味不明な批評用語で煙に巻くようなところもなかったし。小説の「言葉」や「表現」にこだわっているところに好感を持つ。あとがきで著者が言うように、なんでもかんでも社会状況と結びつけて結論づける文芸批評はつまらない。この点は、著者に同意する。

著者は、現代文学を近代文学の「エンタテイメント化」だと読んだ。この「エンタテイメント」という概念は、吉本隆明の評論(『ハイ・イメージ論』)を参照したという。

著者によると、近代文学(純文学)には大きく三つの特徴がある。「内言」と「描写」と「思弁的考察」だ。近代文学は、これらの言葉を洗練させる方向でやってきたのだが、それもどうやら行き詰まりに陥った。要するに、「内言」だの「描写」、「思弁的考察」なんて、読むのが「かったるい」。物語の面白さを、これらの言葉が台無しにしているのではないかというわけだ。となると、このような「かったる」近代文学を克服すべくことが、現代文学の課題となるだろう。そこで、現代文学がやったことが、これら「内言」「描写」「思弁的考察」を「エンタテイメント化」する、ということだったのだ。

「結局、純文学の「エンタテイメント化」とは、活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性、言葉を換えれば、物語の豊かさを目指しつつ活字に踏みとどまる方向性」(p.17)であるという。そして、これは必然的に二重の課題を担う。

《一つ。それは活字が話し言葉の豊かさと対抗するために生み出した「内言」や「描写」や「思弁的考察」を蔑ろにしてはならない。つまり、単純に物語へと回帰してはならない」(p.17)》

《二つ。それは、まともに物語るためにはあくまでも「言葉のさまざまな位相」を必要とするという、いわば活字の条件=「運命」を厳密にふまえた上で、なおかつ「内言」のたぐいを果敢に「排除」もしくは馴致・「抑圧」していかねばならない。(p.18)》

このようなプランが達成されれば、かつての「物語(話し言葉)」が活字の上で回復するのではないか、そう著者は述べる。

「物語」の復権は、以前から、ポストモダンの批評の頃から言われていることだから、それほど目新しい提言ではない。しかし、こうした主張することで、現代文学の良いところをなんとかして引き出そうとしている点は興味深い。私は、どちらかといえば近代文学の「かったるい」文章や表現のほうが好きなので、どうしても現代文学のなかで時折見かける「内言」や「描写」の薄っぺらいところを否定的に捉え、それゆえ現代文学は読むに耐えないと考えてしまうのだが、著者の認識は私のような古い価値観を相対化させる。

さて、私が面白いと思ったのは、「描写」の「エンタテイメント化」をした村上龍を論じた第一章、「思弁的考察」の「エンタテイメント化」をしたという保坂和志を論じた第二章、そして「ペラい」日本語と阿部和重を論じた第四章である。本書全体を通して、第一章と第二章が重要だし、うまく論じられていると感じた。あと、村上春樹や舞城王太郎、いしいしんじ、水村美苗なども論じているが、こちらは特に目を引く点はなかった。第五章の水村美苗を論じたあたりは、やや無理があるかもしれない。

本書は、ほかにもたくさんの作品に触れているので、現代文学にはどんな作品があるのかを知ることができる。現代文学の表現の特徴を論じたことは評価したい。しかし、「かったるい」という近代文学に非常に魅力を感じる私は、著者の主張に半分同意しつつも半分は否定的だ。

著者: 石川 忠司
タイトル: 現代小説のレッスン

Tue, June 28, 2005

J・ウルフ『ノージック』

テーマ:哲学・思想

◆J・ウルフ(森村進・森村たまき訳)『ノージック 所有・正義・最小国家』勁草書房、1994年7月

これは比較的読みやすい本。以前、ウルフの『政治哲学入門』を読んだけど、こちらも読みやすかった記憶がある。翻訳が良いのか、ウルフの書き方が良いのか。本書には、訳者の長文の解説(というよりノージック論)が付いている。これも読んでおいて損はしない。

ウルフは、ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を批判的に検討する。全体を通して、ノージックの論には否定的だ。本書では、権利論、(最小)国家擁護論、権原理論を主に分析していたが、いずれもノージックは我々の説得に失敗していると結論していた。なかなか手厳しい読み手だと思う。

また、『アナーキー・国家・ユートピア』を読みたくなってきた。

著者: ジョナサン ウルフ, Jonathan Wolff, 森村 進, 森村 たまき
タイトル: ノージック―所有・正義・最小国家
Tue, June 28, 2005

見田宗介『現代日本の心情と論理』

テーマ:社会科学

◆見田宗介『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年5月

図書館で見つけて、たまには古い本でも読もうと借りてみた。主に、1960年代後半(65年から69年)に書かれた文章を集めてある。論文というか時評というか、両者の中間といった感じ。テーマは、労働、メディア(サブカルチャー)、自我といったところが取り上げられている。労働についての分析を読んでいると、勝ち組、負け組の二極化はこの頃からすでに現れていたのだということが分かる。今に始まったことではなかったのか。

メディアではベストセラーについての分析が面白かった。

自我のテーマでは、たとえば「失われた言葉を求めて」という論文が興味深い。これは当時の学生の精神風景を描き出したもの。当時は学生運動が盛んな時期だし、その学生たちの精神状況を知ることができた。帰属することを拒否し、<参加>や<連帯>によって<自立>を求めるが、<連帯>への不信が<孤立>へと陥っていく。このように学生たちの精神状況をまとめていた。

Mon, June 27, 2005

平山洋『福沢諭吉の真実』

テーマ:歴史

◆平山洋『福沢諭吉の真実』文春新書、2004年8月

非常に面白い。この本は、近代の日本を研究する人たちにもっと読まれても良い。ポストコロニアルが流行したとき、日本の植民地主義批判する人たちが福沢諭吉を話の枕にして、その論を展開するのがパターンだった。たしか、小森陽一も『ポストコロニアル』でそうした福沢→丸山真男批判をしていたように記憶している(昔読んだ本なので間違っているかもしれない)。福沢諭吉を批判する、それはもうクリシェなのではないか。(私は、日本の植民地主義を批判することが間違いだと言っているのではない。ここでは、あくまで福沢諭吉(とその研究)の問題。)

この本によると、現行の福沢全集、特に「時事論集」には、かなり問題があることが分かる。福沢が直接書いた文章ではなく、別の人物(つまり福沢諭吉の伝記を書いたり、全集を編集した「石河幹明」)が書いた文章、別の人物が書いた可能性がある文章も多く含まれている。そのようないい加減なテクストを元にして福沢の研究が行われ、福沢は市民的自由主義者だったとか、日本の侵略を扇動した思想家だのという論争が続いてきたのだった!。テキストクリティックの問題は、福沢が一体どちらの思想家であるのかという問題よりも、早急に解決されなければいけない。そもそも研究の土台が間違っていては、どんなに素晴らしい研究も水の泡だ。福沢諭吉の批判にせよ擁護にせよ、まずはテキストクリティックを行わないと、より正確なことは言えないだろう。今の段階では、福沢諭吉を話の枕にして植民地主義批判を展開するのは、ワンパターンだし、危険だ。

テキストクリティックは怖い。こう言っては失礼になるが、テキストクリティックは地味で面倒な作業だ。しかし、時々、それまでの説を根底からひっくり返すような思いがけない発見をすることがある。何はともあれ、「全集」だからと言ってテキストを盲信すると、痛い目に遭うことを教えてくれる。

余談だが、それにしても、本来テキストを緻密に読み込むことが仕事である近代文学の研究者が、石河のイデオロギーに踊らされていたとは嘆かわしい。日本近代文学研究者たちの実力なんてたかがしれているわけだ。イデオロギー批判には熱心で、当のテキストが目に入らないのだろう。最近では、この業界もアニメ研究に走ったりして、自ら自身の存在価値を否定していることは、「評価」すべきなのかもしれない――。

著者: 平山 洋
タイトル: 福沢諭吉の真実
Sun, June 26, 2005

ジャック・デリダ『声と現象』

テーマ:哲学・思想

◆ジャック・デリダ(林好雄訳)『声と現象』ちくま学芸文庫、2005年6月

ちくま学芸文庫のために、あらたに訳出された本。この本は理想社から高橋允昭訳で出ていた。おそらく、理想社のほうも以前に読んだ記憶があるのだけど思い出せない。たぶん、デリダを最初に読むなら、『ポジシオン』かこの『声と現象』が良いと、何かの本を読んでこの二つの本を読んだのだと思う。たしかにデリダの思想のエッセンスは、これらの本に詰まっているようなのだけど、きちんと内容を消化できない。

ちまたに出回っているデリダについての解説や論文を参照すれば、この本に書かれてある内容について、なんとなく分かったような気分になるのだけど、それだけに留まらずに自分の読解をしたいのだ。そして、私なりにデリダの思想の可能性を発見したい。そんな思いを持ちながら、デリダの本をいくつか読んでいるのだけど、他の人とは違うオリジナルな解釈ができない自分が悔しい。というわけで、今回も何を手掛かりにして、この本を読めばよいのかが分からなかった。まだまだ自分の力が足りないのだろう。私もデリダがフッサールを緻密に読解するように、デリダを緻密に読解してみたい。

著者: ジャック・デリダ, 林 好雄
タイトル: 声と現象
Sat, June 25, 2005

福田和也『日本人の目玉』

テーマ:文学研究・批評

◆福田和也『日本人の目玉』ちくま学芸文庫、2005年6月

あとがきには、こう書かれてある。「批評の本を書こうと思った。」

《私にとって批評とは、もっと致命的な、人がその選びえない対象の中で何を取り、何を捨てるかという全存在をかけた判断のように思われた。それはもとより、いわゆる批評家の仕事よりも、大きく広大なものである。(p.368)》

近代俳句から西田幾多郎、九鬼周造、洲之内徹や青山二郎、三島由紀夫、坂口安吾、川端康成、そして小林秀雄について論じることを通じて、このことを提示した。小林秀雄のベルグソン論である「感想」を、著者は「ダイモン」を率直に露呈させている作品と言う。小林秀雄にとっての「ダイモン」とは何であったかはともかく、小林は「ダイモン」を語らざるを得なくなったという。ちなみに、「ダイモン」とは古代ギリシャでの死者の魂や悪霊などへの働きかけを指し、そこから偶然の背後にある必然をつかさどる力と言われる。この小林秀雄が語らざるを得なかった「ダイモン」。これこそが、批評という営みということになるだろうか。

いろいろ論じてはいるけれど、特に目新しい箇所は無かった。私が本書のなかで面白いなと思ったのは、川端康成を論じたところだ。あらゆる「けじめ」がないという川端。はじまりもなければ終りもない。境界が融解してしまっている川端という指摘は、とても興味深い。

《主体と客体、自分と他者、現在と過去、原因と結果というあらゆるけじめを押し流すアパシィによって川端の文章は成り立っており、その文がなすのは、伝達ではなく、露呈であるという事があきらかだろう。(p.290)》

川端康成の小説を読み直さないといけない。

著者: 福田 和也
タイトル: 日本人の目玉
Fri, June 24, 2005

石原千秋『小説入門のための高校入試国語』

テーマ:文学研究・批評

◆石原千秋『小説入門のための高校入試国語』日本放送出版協会、2002年4月

ちくま新書の「大学受験」用のほうは、すでに読んでいたけれど、こちらの「高校入試」向けは読んでいなかった。読んでみて、ちくま新書のほうと特に変わりはないので、読む必要は無かったかもしれない。でも、石原千秋の説明がとても分かりやすいので、読んでも損はしない。

ともかく、入試のための「読み方」をあえて示しているところが良い。入試では、「学校的物語」に沿った読み方をすれば良いというわけだ。小説は多様な読み方ができる、しかし「学校的物語」では特別な読み方、解釈がある。それは、小説の読みとして絶対なものではない。だから、入試問題ができなくても、小説が読めないということではない。

しかし、この本というか、石原千秋の一連の入試・受験本は、単なる参考書というわけではないのではと思う。私は、これらの本も日本文学の研究書と位置づけておきたい。つまり、これは文学の一つの「読み方」を研究した本であると。どういうことか。要するに、「学校的物語」の価値観、これを学校主義、あるいは受験主義と読み替えて私なりに言うと、石原氏は学校主義的な文学の読みを提示したということになる。

文学研究には、たとえばマルクス主義的読解とかフェミニズム的読解など、解釈にさまざまな方法が存在する。この学校主義的読解もそうした読みの方法論の一つであると私は考える。しかしながら、こうした方法論が、文学研究にどのような貢献を果たすのかは分からないが。ともかく、「学校」という一つの文化のなかで育まれてきた「読み方」が存在するのだということ、それは文学の読み方の方法の一つでしかないこと、この二つの点は文学の研究・教育にとって非常に重要であることは間違いない。というわけで、一連の入試関連本を、受験参考書ではなく、やはり文学研究の書として私は捉えておきたい。

著者: 石原 千秋
タイトル: 小説入門のための高校入試国語
Fri, June 24, 2005

講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見10』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』講談社文芸文庫、2002年3月

第1期の第10巻が図書館にあったので、さっそく借りて読んでみた。この巻のテーマは、「表現」。他の巻と異なり、作品の内容、テーマに注目するのではなく、作品の表現方法に注目した。全体として、反リアリズムの作品たち、ということになるだろうか。どのように作家が、新しい表現方法を生み出してきたのかを垣間見ることになる。実験的な試みをした作品は、たいがい難解なものが多く、この巻はけっこう読むのに苦労した。一文一文、じっくりと付き合いながら読み進まないといけない。それゆえ、いっそう「読み方」に意識が向く。いかなる読みが可能なのか、考えなくてはならないだろう。書き手と同様読み手も、試行錯誤するわけなのだ。

内田百閒「ゆうべの雲」…○、すーっと異空間に入り込んでいく文章の巧みさに感心する。

石川淳「アルプスの少女」…○、これは有名な「アルプスの少女 ハイジ」のパロディ。クララが中心になっている。

稲垣足穂「澄江堂河童談義」…△、芥川龍之介訪問記が、いつしか「お尻」に関する蘊蓄話へと変貌してしまう。こういう蘊蓄話が面白いと感じるか、つまらないと感じるかによって足穂の評価は分かれるのではないか。私は足穂の蘊蓄に耐えられないので…×。

小島信夫「馬」…○、小島信夫らしい「男」が登場している。妻への不信が、自身の主体性を脅かす。馬にすら軽蔑される男だ。

安部公房「棒」…○、突然「棒」になってしまう父親。

藤枝静男「一家団欒」…○、死者となった家族が集合して団欒する。

半村良「箪笥」…○、怖い。箪笥に乗れと迫られる、と書いても何が怖いのか分からないと思うが、方言で語られた文章を読んでいくと、ゾッとする物語になる。

筒井康隆「遠い座敷」…△、どこまで「座敷」が続いていて、これも怖いと言えば怖い話。文章に読点が極端に少ないのが特徴。

澁澤龍彦「ダイダロス」…△、あまり面白くなかった。

高橋源一郎「連続テレビ小説ドラえもん」…○、石川淳は「ハイジ」を利用したが、その時はまだ「ハイジ」の物語が辛うじて残されていたと思う。しかし、高橋源一郎になると「ドラえもん」と書いてあっても、それが元の「ドラえもん」と何らかの繋がりがあるのだろうか。これは、宮澤賢治とミヤザワケンジは何の関係もない、ということと同じだ。

笙野頼子「虚空人魚」…○、SF風の小説。

吉田知子「お供え」…△、これも最後まで読むと不気味さを感じる。いつのまにか、自分が何者であるか分からなくなり、終いにはなんだか分からない存在へと変貌してしまっている。

著者: 講談社文芸文庫
タイトル: 戦後短篇小説再発見〈10〉表現の冒険
Thu, June 23, 2005

講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見18』

テーマ:日本語の文学(昭和)

◆講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見18 夢と幻想の世界』講談社文芸文庫、2004年1月

これで第2期全8冊を全て読み終えた。疲れた。小説の勉強のために、全巻読破すると決意して、このシリーズを読み始めたが、正直最後まで根気が続く自信はなかった。飽きっぽい性格なので、途中で何度も読むのをやめようかなと思ったが、なんとか全部読み通すことができてほっとした。自分の苦手なジャンルやら、普段なら読むことのない作家の作品を読んで新鮮な気分を味わったり、自分なりにいろいろ勉強になった。今後、小説を読むときに、今回の経験を生かしていきたいものだ。

第18巻は、幻想譚。通読して分かったのは、幻想譚は当たりはずれが大きい。すごく面白い作品になるか、ひどくつまらない作品になるか。出来不出来の差が激しいジャンルである。

日影丈吉「かむなぎのうた」…△、弱々しい少年の空想モノ。谷崎っぽい要素が含まれている。

矢川澄子「ヷッケル氏とその犬」…△、佐藤春夫っぽい??

谷崎潤一郎「過酸化マンガン水の夢」…◎、大便から様々な空想をする谷崎はやはり凄い。

星新一「ピーターパンの島」…△、イマイチ。

色川武大「蒼」…○、不気味さが良い。

吉行淳之介「蠅」…◎、思春期の少女と性の幻想性。性への欲望と不気味さの二重性を「蠅」で表象する。

中井英夫「鏡に棲む男」…△、あまり面白くなかった。

村上龍「ハワイアン・ラプソディ」…×、飛べない年老いたスーパーマン。作品は退屈。

村田喜代子「百のトイレ」…◎、谷崎と吉行を足して二で割ったような感じ。

川上弘美「消える」…○、性と幻想の物語。

室井光弘「どしょまくれ」…×、つまらない。

著者: 講談社文芸文庫
タイトル: 戦後短篇小説再発見〈18〉夢と幻想の世界

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