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Tue, May 31, 2005

笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』文藝春秋、1994年9月

笙野頼子は、この「タイムスリップ・コンビナート」で94年に芥川賞を受賞している。94年には「二百回忌」で三島由紀夫賞もとっていた。それにしても、デビューは81年の「極楽」(群像新人賞)ということなので、芥川賞受賞まで13年掛かっているなあと、著者略歴を見て考える。

この単行本には、「タイムスリップ・コンビナート」のほかに「下落合の向こう」と「シビレル夢ノ水」が収められている。

「タイムスリップ・コンビナート」は、マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたら、当のマグロかどうかわからないやつから電話がきて、「海芝浦」という駅に出かけさせられるという物語。これだけだと、何だかよく分からない。読み終えても何だかよく分からない。読んでいると、だんだん居心地が悪くなってくる。自分の持っている言葉のイメージをすべて壊していく、そういう嫌な感じがもうたまらない。自分のイメージの貧困さをまざまざと感じる。

特に「シビレル夢ノ水」がすごい。とにかく気持が悪くなる。「蚤」が部屋中で繁殖するのは想像するだけで気持が悪い。しかも、蚤のなかでじっと寝ている主人公を想像すると、さらに気持が悪くなるし、おまけにこの蚤は巨大化するのだ。そして、主人公に見せびらかすように生殖行為をしていたり…。この世の悪夢だ。こうした悪夢を淡々と語るから、さらに恐怖は倍増する。恐ろしい小説だ。

著者: 笙野 頼子
タイトル: タイムスリップ・コンビナート
Tue, May 31, 2005

那須壽編『クロニクル社会学』

テーマ:社会科学

◆那須壽編『クロニクル社会学』有斐閣、1997年12月

社会学の理論を勉強するために読んでみた。全部で17章あり、各章で一人ずつ取り上げられている。参考までに、順番に並べてみる。

デュルケム、パーソンズ、ルーマン、コールマン、マルクス、ウェーバー、マンハイム、ハーバーマス、フーコー、ジンメル、シュッツ、ミード、ブルーマー、ゴフマン、ガーフィンケル、ブルデュー、ギデンズ。

とりあえず、各章のおわりに、簡単な読書案内が付いているので、どんな本を読めばよいのか分かる。

著者: 那須 寿
タイトル: クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る
Mon, May 30, 2005

デリダ『パピエ・マシン 下』

テーマ:哲学・思想

◆デリダ(中山元訳)『パピエ・マシン 下』ちくま学芸文庫、2005年3月

上巻は、メディア論が中心という感じだったが、この下巻は政治論が中心となっている。キーワードは、「不可能なものの可能性」だろう。決定すること、責任、赦し、あるいは死が「不可能なものの可能性」を巡って論じられている。

たとえば、こんなふうに。

 《アポリアや決定不可能性の試練なしでは、決定も責任もありえないのです。(p.310)》

 すべてが既定の論理的理論的な帰結であれば、決定や責任などありえない。それはただの機械にすぎないという。

また、

《「不-可能なもの」は欲望と行動と決定にその運動を与えるものであり、現実そのものの像なのです。(p.315)》

ということだそうだ。

 「赦し」においても、こう述べる。赦しには絶対的に生き生きとした記憶が必要である。赦すべきことを常に思い出しながら、緩和することなく再現しながらでなければ、赦しはできない。したがって、赦しうるものや、微罪や死に値しない罪のみしか赦さないというのであれば、それは赦しの名に値することを何もしていないことだ。「赦しうるものは、すでにあらかじめ赦されているのです。(p.382)」だから、赦しをしていない。赦しにはアポリアがあるのだ。そのアポリアとは、

《人は赦しえないものしか赦すことがないのです。(p.382)》

ということだ。こういう不可能性の可能性を、デリダは何度もくり返し述べていたことが強く印象に残った。

著者: ジャック・デリダ, 中山 元
タイトル: パピエ・マシン (下)
Sun, May 29, 2005

ヘンリー・ミラー『北回帰線』

テーマ:海外の文学

◆ヘンリー・ミラー『北回帰線』(『ヘンリー・ミラー全集(1) 北回帰線』大久保康雄訳、新潮社、1965年3月)

私は、奔放な性とか退廃的な都市生活を描いた小説は苦手なので、ヘンリー・ミラーもずっと遠ざけてきた。なので、途中でくじけないように、気合いを入れて読み始めたのだけど、予想に反して、猥褻な言葉が飛び交うわりには、全然不快な印象を与えない小説だった。しかし、一方で、イメージがイメージを生み出すような文体はけっこう難解だった。

《永遠の都、パリ!ローマよりも永遠であり、ニネヴェよりも華麗である。まさに世界の臍だ。(p.189)》

とか、

《パリは売笑婦に似ている。遠くから見ると、男の魂をとろかすようであり、彼女を両腕に抱きしめるまで待ちきれぬほどだ。しかも、五分後には空虚感を味わい、自己嫌悪をおぼえる。だまされた思いだ。(p.215)》

なんていう言葉は、ぜひとも暗記しておきたい。そして、いつかパリに行ったら、「パリは売笑婦に似ている」と、したり顔で言うのだ。

著者: ヘンリー・ミラー, 大久保 康雄
タイトル: 北回帰線
Sun, May 29, 2005

芹沢一也『狂気と犯罪』

テーマ:社会科学

◆芹沢一也『狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』講談社α新書、2005年1月

けっこう評判が良い本。呉智英も、書評で「刺激的な好著」だと評価していた。また、エキサイト・ブックスのほうでも、著者のインタービュー記事が最近連載されており、その内容を読んで本書に強い興味を持った。著者は日本思想史が専門とのこと。また研究のベースにフーコーを置いており、インタービューのなかでも「僕は100%フーコー派の人間ですけど、理論枠組みを入門的に紹介するのではなく、フーコーを使って実際に歴史を描き出してみようと。しかもフーコーの名前やタームは一切出さないで」と述べている。こういうところに、私は興味を持ったのだ。

そして、一気に読んでみると、たしかに好著だった。分かりやすい言葉で、また専門用語を振りかざすことなく、分析していくスタイルには好感を持った。それでいて、鋭い批判もしている。歴史という縦軸の分析と精神医学と司法の関係という横軸の分析が、非常にバランス良く為されている。とても面白い本だ。

本書の批判は、「精神病院列島」などと言われる日本の精神医学のあり方に向けられている。精神医学と司法とくに刑事司法の関係を、歴史的に辿り、いかにして「精神病院列島」と呼ばれる状態が出現したのかを論じる。そして、精神障害者を排除する法や社会のシステムを明るみにだした。

面白いのは、排除のシステムの根底にあるのが人格主義、ヒューマニズムという精神なのだ。人間、あるいは人の個性を重視するシステムが現れたとき、「狂気」が生れる。「狂気」はやがて犯罪と結びつき、危険なイメージを帯びる。その時、社会を「狂気」という危険から守ろうと登場するのが精神医学だったのだ。精神医学こそ、精神障害者自身の声を奪ってきた歴史が描かれ、著者はそこを鋭く批判している。

犯罪者の人格や個性を重視する法のシステム。あるいは犯罪者の動機やいかなる環境で成長してきたのかに強い関心を持つ社会。こうした人格主義的な、法の意識が問題なのだろうか。こうなると、次はこうした法意識がいかに生れたのかが気になる。

著者: 芹沢 一也
タイトル: 狂気と犯罪―なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか
Fri, May 27, 2005

梶井厚志・松井彰彦『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』

テーマ:社会科学

◆梶井厚志・松井彰彦『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』日本評論社、2000年2月

非常に柔らかく噛み砕いて、理論を説明している良心的な教科書で、私は好感を持った。と言っても、私は議論について行くのに大変だったけど。ゲーム理論を使って説明していくのだけど、ゲーム理論っていろいろな場面で使えそうな理論で、こういう考え方を身につけたら研究とか論文を書くのが楽しくなるだろなあと、しみじみ思う。

著者: 梶井 厚志, 松井 彰彦
タイトル: ミクロ経済学 戦略的アプローチ
Thu, May 26, 2005

ゾラ『獣人』

テーマ:海外の文学

◆ゾラ(寺田光徳訳)『獣人――愛と殺人の鉄道物語』藤原書店、2004年11月

「鉄道」というテーマは、近代の文化史で必ず注目される重要なテーマで、もちろん近代文学でも「鉄道」がもたらした感性の変容がしばしば描かれる。「鉄道」というのは「近代」の一つの大きな象徴なのだろう。

『獣人』も「愛と殺人の鉄道物語」と副題に付けられているように、「鉄道」が重要なモチーフになっている。近代と鉄道の絡みで言えば、この小説の一番最後のがもっとも象徴的な場面となっている。今なら近代批判、国民国家批判と呼べる文章だ。

《機関車が途中で犠牲者を出したところでなんであろう!血が飛び散ることなど気にもかけずに、機関車はなおも未来へ向かって進んでいくではないか!機関車は死のなかに放たれた。眼も見えず、耳も聞こえない獣のように、機関士もなく闇のなかをただひたすら走っていた。積荷の肉弾兵たちは、すでに疲労でぼーっとなり、酔っぱらって、歌を歌いつづけていた。(p.509)》

やがて戦争の世紀を迎え、戦場に次々と兵士を送り込み、それこそ無数の戦死者を生み出した「近代」の原理、「近代」のテクノロジーに対する批判として、こうした一節を読むのも悪くないだろう。

この暴走しつづける鉄道のように、この小説の登場人物たちは欲望あるいは(動物的な)本能に取り憑かれ、その欲望を充足すべく脇目もふらず突き進み崩壊していくの特徴だ。正直、嫌な性格の人間たちばかりなのだ。いくら悪党でも、バルザックの小説の悪党はどこか憎めない、それどころか非常に魅力的な人物でもあるのだが、ゾラの『獣人』の人間は、悪党でもなく、かといって善良でもなく、うまく説明できないのだけど、もう読んでいて腹立たしくなる不快な人物たちばかりだった。

この小説の中心となる人物は、ルボーとその妻セヴリーヌそして、セヴリーヌの愛人になるジャックだ。とりわけ、ジャックは物語内では異質な存在で、他の登場人物たちは一線を画していることは注意しなければならないが、この3人もやはり欲望あるいは本能に取り憑かれた人間なのだ。ルボーは嫉妬やギャンブルに取り憑かれているし、セヴリーヌは性に取り憑かれている。そしてジャックは、殺人の欲望に取り憑かれているのだ。ルボーにせよ、セヴリーヌは通俗的な欲望に走っているといえるが、ジャックの殺人志向は欲望というより、本能、人間のいや動物のもつ原初的な本能であることが強調されている。この点、他の登場人物とは異なるといえる。分かりやすくいえば、ジャックという人物はかつて宮台真司が「脱社会的」存在と呼んでいた少年に近いと言えばよいのだろうか。

ジャックとセヴリーヌの関係が、物語の中心を占めることになるが、私の趣味で言うに、このセヴリーヌがあまりにも魅力がない。というか、腹立たしい。ゾラの描き方がそれだけ巧みである証拠かもしれない。このセヴリーヌ、ジャックとの関係によって真の愛に目覚めてしまったから、さあ大変。寝てもさてもジャックと一緒にいることしか考えられなくなってしまう。要するに頭のなかはセックスのことしかないというわけだ。ジャックにだけ愛を捧げていれば、物語的には美しいかもしれない。しかし、セヴリーヌはジャックだけしか愛せないと言いつつも、男に無理矢理言い寄られたらふらふらっとよろめいてしまうような女性でもあるのだ。町田康の『告白』で、熊太郎と結婚するあの女性と似ているかもしれない。

読んでいて「セヴリーヌって、バカなんじゃないか」と思ったりしたのだが、フェミニズム的に見ると、ゾラが女性を肉欲しか頭にない愚かな存在だと考えていた、ということになるのだろうか。ここにゾラの女性蔑視が現れていると。したがって、こういう性的に奔放な女性は、物語の定石通り、パニッシュメントを受けるハメになるだろう。物語的に、こういう女性が幸福になるはずがないのだ。

登場人物にはイライラさせられるが、それだけゾラの筆運びが巧みなのであろう。とにかく物語は非常に面白い。やっぱり19世紀のフランスの小説は素晴らしい。ゾラの他の作品も読みたくなってきた。

著者: ゾラ, 宮下 志朗, 小倉 孝誠
タイトル: ゾラ・セレクション (6)
Wed, May 25, 2005

山田雄三『感情のカルチュラル・スタディーズ』

テーマ:文学研究・批評

◆山田雄三『感情のカルチュラル・スタディーズ-『スクリューティニ』の時代からニュー・レフト運動へ-』開文社、2005年5月

サブタイトルにあるように、本書の分析対象となる時代は戦中・戦後から1970年前後までである。カルチュラル・スタディーズの源流を探索しようという試みと言えるかもしれない。中心となる人物は、レイモンド・ウィリアムズである。本書をレイモンド・ウィリアムズという一人の研究者・作家を対象にした研究と捉えるのであれば、資料をまめにあたり分析をしているのでとても参考になるものである。だが、カルチュラル・スタディーズ系の文化理論の書と捉えるなら、かなりあやしい本。理論に手を出さず、禁欲的にウィリアムズ研究に徹すれば良かったのにという印象を強く受ける。

著者が、ウィリアムズを読み解く際に注目したのは「感情構造」という概念である。この概念、特に「感情」とあるので、どんな概念なのか把握するのが難しい。というか、ウィリアムズに沿っていくと、そもそも漠然とせざるをえない概念なのかもしれない。本書が説明するところによると、「「感情構造」とは、抽象的な概念を与えるには未発達、未分化な感情だが、社会を流動化するエネルギーを備蓄した総合的な構造」(p.120)であり、これが文化の形成に大きな役割を果たしているらしいのだ。それ故に、ウィリアムズは文化研究をする際に、この「感情構造」という概念をよく用いているらしい。定義からして、具体的にこれだと指し示せるものではないのだろう。ともかく、著者はウィリアムズの活動の中心に「感情構造」を置く。ここまでは、まあ妥当な分析だ。

しかし、この非常に漠然としていて、ウィリアムズが「それが感情構造だ」と言えば、なんでも当てはまってしまうような概念を、著者がそのまま受けとってしまって良いものか。なぜ、著者はこの「感情構造」となんの批判をすることなく、文化を読み解く一つの概念として言祝ぐのか私には理解できない。無前提に「感情構造」を著者が用いていることが、本書の大きな欠点なのではないか。

著者は、ウィリアムズの「感情構造」が、その後いわゆる「言語学的転回」のあとに、どのように受け継がれていったかもトレースする。特にステュアート・ホールに、このウィリアムズの「感情構造」という概念がどう伝わったのかを議論している。それによると、初期のホールは「感情構造」をしっかり受けとっていたらしいのだが、ある時期からこの概念から離れていることが理解できる。それに対して、著者は「「言語学的転回」は、「感情構造」を無効化することによってのみ可能となったのだ(p.238)」と解釈するのだが、そうとも言えるが別の可能性もあるのではないか。

つまり、ホールにとって、こんな漠然としいる「感情構造」という批評概念は、使いものにならないと。そういう可能性はないのか?。概念が粗雑なために、ホールがおこなおうとした文化研究には耐えられなくなっていたのではないか。私はホールの著作を読んでいるわけではないので、あくまで推測で言っているにすぎないが。ウィリアムズはともかく、ウィリアムズを批評する著者自身が、何の批判もなく「感情」「感情構造」という言葉を用いているのを見ると、疑問を感じざるをえない。

そもそも、著者がどうしてこんなあいまいな概念にこだわるのか。「感情構造」という概念を、再評価する意図が理解できない。推測するに、著者が前提としているのは、文化(あるいは文学)にはコード化されることがない「何か」があるという考えではないだろうか。著者の「感情構造」再評価は、そうした素朴なロマン主義というか素朴な文学観によって支えられているのではないか。あまりにも稚拙だ。

しかし、人間の文化の営みには言語にならない「何か」が、またはコード化されることのない「何か」があるかもしれない、という考え方もまた自明ではあるまい。自明だと思える「文化」観を疑い批判する、それがカルチュラル・スタディーズではなかったか。このあたり、著者の批判の不徹底さが露呈していると思う。概念批判の不徹底さは、最後の第7章を穴だらけの結論にしてしまう。

第7章は、「知識人」と「表象=代弁」の問題を論じている。ここでの「表象=代弁」批判は平凡な内容で、著者の独自なそれほど見解は披露されていない。グラムシやスピヴァクなどの知識人論、表象批判を整理したものだ。この整理のなかから、著者が「有意義な「表象=代弁」が可能になるのは、読者や聴衆が分かる感情の言語ではなく、自らの身体に染みわたった被代弁者の感情の言語を通して、知識人が語るときだけなのである(p.273)」と記すが、一体誰が「自らの身体に染みわたった被代弁者の感情の言語を」「知識人が語」っていると判断するのか。身体に染みわたった言語/染みわたっていない言語を、簡単に見分ける方法があるのか。

はじめに述べたように、この本はウィリアムズ研究に徹すれば、それなりの研究書になったであろうが、著者がそこにとどまらず表象批判、知識人論を最後に展開したために、ひどく凡庸な本に終っている。文化理論を展開したいのであれば、批判を徹底する作業が必要だったと思われる。

著者: 山田 雄三
タイトル: 感情のカルチュラル・スタディーズ―『スクリューティニ』の時代からニュー・レフト運動へ
Tue, May 24, 2005

内田隆三『社会学を学ぶ』

テーマ:社会科学

◆内田隆三『社会学を学ぶ』ちくま新書、2005年4月

良書だと思う。社会学の理論から現代思想まで、分かりやすく説明しているし、各理論の可能性と問題点も指摘しており、初心者にはお得な内容。私には非常に参考になる一冊。

特に社会学の理論よりかは、現代思想のほうに関心を持つ私としては、第3章のマルクス、第4章の構造主義、そして第5章のフーコーは、何度もくり返して読みたい箇所。フーコーに関しては、とりわけ共感できる内容だった。ここで、フーコーの「言説分析」について、詳しく解説している。「今日、言説分析と称するものの多くが、分析する者の恣意的な解釈学に終っているのが現状である(p.135)」という批判の言葉は、世の多くの大学院生に心当たりがあるのではないか。私はきちんと「言説分析」を理解せずに、いい加減に「言説」という言葉を使っていたなと反省した。本書の解説を参考にして、もう一度フーコーを読み直さないといけない。

著者: 内田 隆三
タイトル: 社会学を学ぶ
Tue, May 24, 2005

有賀誠ほか編『ポスト・リベラリズム』

テーマ:社会科学

◆有賀誠・伊藤恭彦・松井暁『ポスト・リベラリズム-社会的規範理論への招待-』ナカニシヤ出版、2000年3月

現代規範理論についての論文集。全部で13章に渡る。かなりバラエティに富んだ内容で、専門領域も複数に渡っているので、全部を読み通す必要はなかったなと反省。全部読み終えてから気がついた。

どんなテーマが扱われているか、各章のタイトルを挙げておこう。

「第1章 現代リベラリズム」「第2章 功利主義」「第3章 経済的リバタリアニズム」「第4章 倫理的リバタリアニズム」「第5章 現代コミュニタリアニズム」「第6章 社会主義」「第7章 ラディカル・デモクラシー」「第8章 討議的民主主義」「第9章 福祉理論」「第10章 批判的法学研究」「第11章 フェミニズム」「第12章 多文化主義」「第13章 エコロジー」

私は、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムに関する章が面白かった。一気に読んだので疲れてしまい、後半部分はよく理解できていない。

著者: 有賀 誠, 松井 暁, 伊藤 恭彦
タイトル: ポスト・リベラリズム―社会的規範理論への招待

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