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Sat, April 30, 2005

舞城王太郎『阿修羅ガール』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆舞城王太郎『阿修羅ガール』新潮文庫、2005年5月

別に自分のことを道徳的だとか清潔な人間だと思わないけれど、舞城王太郎の小説は苦手だ。ことに、この『阿修羅ガール』は途中で気分が悪くなってきた。この本には「川を泳いで渡る蛇」という短篇も収録されているけれど、こちらは文芸雑誌によくあるような小説で、なんだ舞城も「普通」の小説もきちんと書けるのかと感じる。

それはともかく、「阿修羅ガール」である。

《ウンコパン三世。ウンコパ~ン、デ、デレッデ。ウンコちゃ~ん。や~ねウンコパン駄目よウフフこんなところで。うっしっしっしっし。もうた~まらないのよウンコちゃ~ん。駄目~ん。待て待て待て待てウンコパ~ン!い~けねまたウンコのとっつぁんだ。ウフフまたねウンコパ~ン。あ、ち~きしょうウンコの野郎ま~た裏切りやがったな。おいウンコパンやばいぞ。いけねえ逃げるぞウンコ次元。あれ、ウンコ五エ門どこだ。やつぁとっくに逃げたよ。もう逃げ足速いんだからなあ、武士のくせに。(p.276)》

グルグル魔人の章の冒頭部分。グルグル魔人こと英雄の言葉なのだが、どうもこういう所が苦手だ。幼稚だからというのもあるし、下品だから。グルグル魔人に箇所を読みながら、ラブレーを思いだしていたのだけど、たとえばラブレーの作品をその同時代に読んでいた読者は、私が舞城の作品を読んだときと同じように、下品だなとか気持ち悪いなとか感じていたのだろうか。それとも、現在と価値観が違うから、そんなことを思わなかったのだろうか。

一度、舞城の小説はダメな小説であると仮定して、何がダメなのか考えてみた方がいいのかな。「良いかもしれないけど、私には苦手」という曖昧などっちつかずの態度をしているから、まともに批評することができないのだ。舞城を批評するために、私は舞城の作品はダメな作品であるというポジションから読む必要がある。そうすれば、私にとって「小説」とは、「文学」とは何かという問題に答えられるかもしれない。自分の文学観が見えてくるかもしれない。

著者: 舞城 王太郎
タイトル: 阿修羅ガール
Fri, April 29, 2005

舞城王太郎『世界は密室でできている。』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆舞城王太郎『世界は密室でできている。 THE WORLD IS MADE OUT OF CLOSED ROOMS』講談社文庫、2005年4月

最近、舞城の作品の文庫化が多い。新潮文庫には『阿修羅ガール』も入ったし。それも買ってみた。

この『世界は密室でできている。』は『煙か土か食い物』の外伝という位置づけ?ということでいいのかな。こうしてタイトルを並べてみて気がついたのだけど、「煙」「土」「食い物」で『世界は密室でできている。』がたしかに構成されていたのか。それにしても、最後は「またこれか!」と思ってしまった。こういう小説は、この落ちでも許されるというわけなのか…。面白い作品だと思うけど、この手の作品には、いまいちついていけないなあ。

著者: 舞城 王太郎
タイトル: 世界は密室でできている。
Fri, April 29, 2005

吉田修一『パーク・ライフ』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆吉田修一『パーク・ライフ』文春文庫、2004年10月

表題作である「パーク・ライフ」と「flowers」の2編が収められている。どちらも面白い作品だった。

「パーク・ライフ」は、人体解剖模型に主人公が興味を示すことに代表されるように、人間の臓器が反復されているのが興味を引く。そもそも、「スタバ女」と呼ぶ女性と出会うのも、臓器移植の広告がきっかけであるし、主人公は留守番をしている「宇田川夫妻」の家でダ・ヴィンチの「人体解剖図」を読んだりする。そして、「スタバ女」との交流の舞台となる公園も「人体胸部図」のイメージと重ね合わされる。

都市と身体というモチーフは、たとえば有名どころで横光利一に代表されるモダニズム文学がある。とりわけ、横光の『上海』は激動の上海という都市をグロテスクな内臓のイメージで描き出した傑作だ。「パーク・ライフ」が『上海』と相通じているわけではないが、かなり強引に関連づけるとすれば、モダニズム文学の時代つまり1920年から30年代と「パーク・ライフ」の書かれた現代の二つの時代を「グローバリゼーション」の時代だと認識すると、この二つの作品を並べることにも少し意味が出てくるのではないだろうか。かなりこじつけめいているけれど。ともかく、ひとまず「パーク・ライフ」を臓器が主題である一種の身体小説だとは言える。

これがどういう意味を持つのだろうか。主人公と「スタバ女」がヒト組織を加工し売るアメリカの企業が急成長しているという会話している場面がある。その時、主人公はそのような会社が優良企業となり、この世に存在していることにリアリティを感じられない。

《「でも、やっぱり不気味だな。なんていうか、世の中が進んで、だんだんそれが自然になったりしたら……」
「そう深刻に考えることないんじゃない」
「だって、なんていうか、たとえば俺の心臓だとか肝臓だとか眼球なんかも、いずれは他人の物になるんだって考えたら、なんだか自分のこのからだが、借り物みたいじゃないですか」
「借り物かぁ……、ほんとよね。外側だけが個人のもので、中身はぜんぶ人類の共有物。ちょうどマンションなんかと正反対。マンションは中身が私物で、外は共有だもんね」(p.68-69)》

「スタバ女」の言葉は印象深い。外側には「個」があるのに、中身を透かしてみれば、実は借り物であったりあるいは共有物だったりする…。この会話をどう意味づけたらよいのか、今のところ分からない。今後おいおい考えてみよう。

著者: 吉田 修一
タイトル: パーク・ライフ
Wed, April 27, 2005

仲俣暁生『極西文学論』

テーマ:文学研究・批評

◆仲俣暁生『極西文学論 Westway to the World』晶文社、2004年12月

読み始めたとき、この本は要するに「アメリカ」の西向きの運動の後に(Post「西」?ということか)生じた現代日本文学がいかなるものなのかを論じる批評なのかと予想した。つまり、一種のポストコロニアル批評なのかと。

しかし、その期待というか予想は見事にはずれた。それほど高尚な批評ではない。

現代の作家たち、ここでは舞城王太郎、吉田修一、阿部和重、星野智幸、保坂和志が取り上げられている。そして、この作家たちを論じる際、常に参照軸として呼び出されるのが「村上春樹」である。逆に見れば、取り上げられた作家たちの視点から、村上春樹を読み直したとも言える。つまり本書は、村上春樹論でもあるのだろう。

率直に言って、本書は非常に読みにくい。少なくとも私には理解しにくい文章だ。そもそも「極西」という言葉をあえて使うことの意義がはっきりしていない。

《西という言葉が意味するのはたんなる地理的な配置ではない。西とは私たちの想像力が生み出す何かだ。想像力とは恐怖という感情を生む源泉であると同時に、どこかへ向かう運動を生み出す契機でもある。(p.234)》

著者は、最後にこう書いている。これをどう理解したら良いのだろう?本書を読み通した後に、この文章を読んでも私には著者が言わんとすることが分からなかった。私の理解力が乏しいのが原因かもしれないが。

さて、著者は、村上春樹は一貫して「恐怖」にこだわって作品を書いてきた作家だと見ているが、しかしその「恐怖」の描き方に不満があると村上春樹を批判する(p.122)。そして、『羊をめぐる冒険』において、はじめは「羊男」のイラストを入れていなかったのに、単行本化に際に村上春樹自身によるイラストが入れられてしまったことに注目し、これは村上春樹が「真の恐怖」を描くことを断念し他のことを書くことを優先した、つまり「断念された「恐怖小説」」なのだと論じる。

観念として存在していた「羊男」に、イラストレーションという具象性を身にまとわせてしまった結果、村上春樹は「真の恐怖」を回避してしまったというわけだろう。本書では著者の言う「恐怖」というものが、一体何なのかがイマイチ分かりにくい。ゆえに著者の感性を共有しにくいので、「恐怖」でもって著者が何を言いたいのかが理解できない。ただ、「自分が「恐怖」だと感じる表現を村上春樹が描いていない⇒ダメ!」と言っているにすぎないのではないか。

もう少し粘って著者の議論について行ってみる。そうすると、こういう箇所に目が止まる。『羊をめぐる冒険』において「羊男」がはじめて登場するシーンが「戦慄が走るほど恐ろしかった」(p.112)と著者は言う。その理由は、「現実世界には対応物をもたない「観念」が、いきなり「羊男」という文字面によって(いわば暴力的に)表象されていたから」(p.112)だ。

つまりシニフィエを欠いたシニフィアンの浮遊に、著者は「恐怖」を感じるということだろうか?。それなのに、村上春樹はシニフィエなきシニフィアンに、いわば暴力的にシニフィエ(=イラストレーション)を与えてしまった。それが著者の不満であり、また村上春樹が「恐怖」にこだわりつつも、読者に説得力を持って言葉で「恐怖」を提示できない理由ということなのだろうか。これでは、「小説の使命」を果たしていないと著者は言いたそうである。

著者は、一方で小説における「視線」を映画と対比させながら論じてもいる。著者が批判していると思われるのは、垂直に上から下に向かう視線だ。それは一方的に対象を見る、いわば権力を持った視線といえるかもしれない。一方的にまなざしを送ることは、一方的に意味を与えることにほかならない。おそらく、村上春樹批判もその流れで理解したらよいのかと思う。

つまり、こういうことだ。シニフィエなきシニフィアンが、著者にとっては「恐怖」となる。シニフィエなきシニフィアンの運動こそ著者の言う「西」への運動なのだ。「極西文学」とは、このシニフィアンの運動にこだわることである。だが、しかし村上春樹はこうしたシニフィエを欠いたシニフィアンに耐えられなかった。そこで、シニフィエとシニフィアンを安易に結びつけてしまう(神戸の震災についての村上春樹の文章を著者は批判している)。これは、著者の理想とする「極西文学」ではない。村上春樹は「西」を向いていない。では、「西」を向いているのは誰なのか。これが本書の大きなテーマだと私は考える。

それにしても、はじめに述べたように本書は分かりにくい。その原因として、本書の論述の流れがかなり込み入っているからだ。「極西」だの「恐怖」だの著者自身の意味を持った用語が頻出するのだが、それに関する説明が一切ない。シニフィアンにシニフィエを与えないということでは、著者は自分の論旨に忠実であり倫理的なのかもしれない。だが、そんな倫理はもちろん必要ない。用語の説明不足や構成の複雑さは、単に書き手の未熟さを露呈しているだけだ。

ロックの話があり、アメリカ文学の話があり、戦争の話が入り、村上春樹を論じていたと思ったら、別の現代作家を取り上げてきたり。ロックの話と、日本の現代作家がどう結びつくのか。アメリカの西向きの運動を述べた後、唐突に現代作家を論じ始めたりする。その繋がりや関係がはっきりしない。悪く言えば、思いついたことをそのまま垂れ流している印象を受ける。まるで連想ゲームのように、脈絡もなく思いついた作品を取り上げてはそれを論じている。

著者は一方的な視線を批判しているが、そのことを自ら裏切っている。本書は著者の一方的な意味づけを読者に押しつけているのだから。その意味で本書は、著者仲俣暁生のモノローグ的作品と言っても良い。読者のことはお構いなく、どんどん著者がスピードを上げて語り続けていく。私はそれに追いつけなかったし、追いつこうとも思わなかった。なぜなら語りに魅力がないからだ。

この本は、『極西文学論』とタイトルには「論」がついているが、評論ではないのかもしれない。これは「詩」なのだ。私は評論だと思って読んでいたが、これは「どこでもない場所」をモチーフにした「詩」なのだと思う。そう考えると、すこしすっきりした。

著者: 仲俣 暁生
タイトル: 極西文学論―Westway to the world
Tue, April 26, 2005

廣野由美子『批評理論入門』

テーマ:文学研究・批評

◆廣野由美子『批評理論入門』中公新書、2005年3月

批評理論の入門書として面白い本だと思う。「入門」という部分を強調しておきたいけれど。実際、各理論のほんとに要点だけを説明しているので、内容が分かりやすい。しかも、『フランケンシュタイン』という小説を、理論を使って読んで見せてくれるので、理論にはじめて接した者にとっては、理論の内容だけでなく使い方も理解できてありがたい。

本書は、大きく二つに分かれている。第一部は「小説技法篇」として、「冒頭」から「結末」まで、小説というものがいかにして書かれているのか、代表的な手法の15個を紹介している。第二部では「批評理論篇」として、「伝統的批評」からたとえば「ジェンダー批評」「ポストコロニアル批評」といった現代の批評理論までを簡潔に紹介する。先に述べたように、ここで各理論を用いて、具体的に『フランケンシュタイン』を読解している。この分析を読むと、理論がすごいというより、『フランケンシュタイン』というテクストのほうに興味が引かれてしまう。どんな理論も許容してしまう、この『フランケンシュタイン』はたしかに豊かなテクストだ、ということなのだろう。

ところで『フランケンシュタイン』と同様に、『ドラキュラ』もいろんな文学理論を使って読める小説であることを思い出す。すると、こんなことを考えてしまう。これら、いわゆる純文学と大衆文学の間にあるような小説は、どうして文学理論を適用しやすいのだろうか?

著者: 広野 由美子
タイトル: 批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義
Sun, April 24, 2005

シェイクスピア『ハムレット』

テーマ:海外の文学

◆シェイクスピア(野島秀勝訳)『ハムレット』岩波文庫、2002年1月

今更ながら言うのも恥ずかしいが、これはすごく面白い。もっと早く読んでおけば良かったと激しく後悔する。有名な場面、有名な台詞がバンバン出てきて、そのたびに「お!これが、あの台詞か」とニヤニヤしてしまう。

《生きるか、死ぬか、それが問題だ。(p.142)》

ハムレットのこの台詞は、あまりにも人工に膾炙されているので、わざわざ引用するまでもないか。

この戯曲を読んでいていいなと思うのは、言葉の使い方が面白いこと。駄洒落ではないかもしれないけど、言葉を巧みに使っている。気になった場面を一つ引いておくと、第2幕第2場でハムレットが本を読みながら登場し、そこにポローニアスが話かける場面がある。ポローニアスが「殿下、何をお読みで?」と言うと、ハムレットはこう答える。

ハムレット 言葉、言葉、言葉。
ポローニアス いえ、中にはどんなことが?
ハムレット 仲って、誰と誰との?
ポローニアス いえ、お読みになっていらっしゃる本の中身ということでして。(p.108)》

この場面、原文はどうなっているのかが、すごく気になる。「仲」と「中」と訳者は訳しているけれど、英語ではどう言っているのだろうか?冷静に読むとハムレット、嫌味だなあ。何を読んでいるかと聞かれて、「言葉」と答える人とは付き合いにくいものだ。

あとはヨリックのしゃりこうべの場面も引用しておこう。

ハムレット ちょっと見せてくれ。ああ、哀れ、ヨリック!あいつなら、よく知っている、ホレイショー――のべつ幕なしに気の利いた冗談を飛ばす男だった。始終、ぼくをおぶってくれたものだった。それが今や、いや、思っただけでも身の毛がよだつ!吐きそうだ……(略)さ、その面さげて、誰でもいい、乙に澄ました貴婦人のお部屋に出かけて言ってやるがいい。どんなに厚化粧あそばしても、行きつく果ては、これ、このとおりとな。そう言って笑わせてやれ……ホレイショー、ちょっと聞きたいことがある。(p.280)》

これだなあ。この思いにハムレットは取り憑かれてしまうのだ。この「行き着く果て」を考えてしまうと、あとは無気力になるしかないよなあ。この「病」からいかにして抜け出すか?これが「問題」なわけだ。

著者: シェイクスピア, SHAKESPEARE, 野島 秀勝
タイトル: ハムレット
Sat, April 23, 2005

竹田青嗣『<在日>という根拠』

テーマ:文学研究・批評

◆竹田青嗣『<在日>という根拠―李恢成・金石範・金鶴泳』国文社、1983年1月

面白い内容かと期待していたが、私の期待通りの内容ではなかった。もう少し読み応えがある本だと思っていたのだが。

映画『血と骨』を見て以来、この手の文学や映画に興味を持ち始めた。もっとたくさんの小説や映画を見ないといけない。とくに、「父」と「暴力」のテーマについて、それがこれらの文学や映画のなかで意味を持っているのかが知りたいのだ。

本書でも、「父」というテーマは「家」というテーマと並んで大きなテーマとして扱われている。「父」による暴力。たとえば、金鶴泳の文学では「父」がつぎのように描かれているという。

《金鶴泳の<父親>は、なによりまず兇暴な圧制者、専制君主のような相貌において登場する。彼はギリシャ神話の神々のように、異様な性格と心理と力を持っており、単に母親に対する圧制者であるばかりでなく、家族全員に対する圧制者でもある。すなわちこの男は、世間一般の父親のように家族を世の中の波風から守る保護膜として存在するかわりに、むしろ家族を彼の圧制の内側へ閉じ込め、そこから脱出することを妨げるものとして存在している。それだけでない。この男はしかもそういう仕方で<家>を代表しており、したがってこの男の運命はまた<家族>の運命でもある。このような父親の像こそは金鶴泳に固有のものであり、作家のあの病んだ自意識の場所から見られたいわば現象学的な父の像にほかならない。(p.171-172)》

引用しながら気がついたのだが、たしかに暴力でもって家族を己の支配下に置こうとする「父」の像は、これは単に<在日>の文学に限らず遠く遡れば、神話や聖書の世界ともある意味共通するテーマなのか。「物語」の一つの形なのかもしれない。

Sat, April 23, 2005

(関根正雄訳)『ヨブ記』

テーマ:海外の文学

◆(関根正雄訳)『旧約聖書 ヨブ記』岩波文庫、1971年6月

これもまた、なんだか理由はよく分からないのに神から苦難を与えられてしまう話なのだから、まったくもって不思議な話なのだ。ヨブは自分が義であること、神にむかって主張するところがすごい。絶対の神に憤然と立ち向かっていくヨブ。「父」に立ち向かう息子という物語だ。こういう物語が、古今東西至る所で語られていく。「物語」の豊饒さを理解できる。

著者: 関根 正雄
タイトル: 旧約聖書ヨブ記
Thu, April 21, 2005

ジャック・デリダ『パピエ・マシン 上』

テーマ:哲学・思想

◆ジャック・デリダ(中山元訳)『パピエ・マシン 上』ちくま学芸文庫、2005年2月

この上巻には、「タイプライターのリボン 有限責任会社Ⅱ」というタイトルの、ド・マン論が入っている。ド・マンのルソー読解をデリダが詳細に読み込んでいる。ド・マンの分析も非常にすぐれたものであるが、さらにデリダがド・マンが誤訳(?)している箇所などを見つけ、それが単なるミスではなく、ド・マン読解にとって重要であることを論じていくところに感動してしまう。読み巧者デリダの本領が発揮された非常に興味深いド・マン論。

さらに、この論では「告白」や「弁解」することの意味を問うているのが印象に残る。ド・マンは、ルソーの分析において「最後の言葉」と「最後の言葉の一つ前の言葉」のちがいを考察しているという。デリダは、この分析を「独創的」(p.122)とし、この「最後の言葉」の逆説的な表現にこだわる。

《わたしがこの「最後の言葉」の逆説的な表現にこだわりたいのは、赦し、弁解、過誤の赦し、絶対的な赦免の言葉は、あえて言えばつねに「最後の言葉」という文彩のもとで語られるからです。保証として、約束として、最後の言葉と物語の終末の意味として(「おそかれはやかれ」という想像上の論理のもとにせよ)語られない赦しの言葉は、そもそも赦しの言葉と言えるのでしょうか。(p.122)》

赦しの言葉には「最後の言葉」の構造がそなわっているとデリダはいう。赦し、弁解についての議論を読んでいたら、この間読み終えた町田康の『告白』を思い出した。ルソーと同じ「告白」というタイトルだし、そもそも熊太郎は「最後の言葉」を求めていたのではないか。「弁解」という主題を考えてみる必要があるだろう。

デリダは、ド・マンがこの問題にこだわるのは「ド・マンはみずからここで、赦しと有罪性のあいだに代補性の論理を働かせている」と言う。続けて、「弁解は有罪性を消滅させるどころか、「過誤のなさ」をもたらすどころか、過誤をさらに増やし、過誤を作りだし、深める」とデリダが語る。「弁解」についての、デリダのこの考えが気になった。「弁解」のこの機能は、まさしく熊太郎にあてはまるのではないだろうか。というか、あてはめてみたい気がする。

《弁解すればするほど、みずからに罪があることを語り、みずからに罪があると感じるようになるのです。弁解しながら。弁解するほど無辜でなくなるのです。こうした有罪性は、消すことのできない形で刻み込まれているのです。(p.125)》

この文章などは、ほんとに熊太郎について述べているのではないかと勘違いするぐらいだ。熊太郎の弁解、言い訳、そして罪について分析する必要がある。

デリダから離れてしまった。この本には、さらにデリダのインタビューが収められていて、そこでは「紙」というメディアを考察している。ワープロやパソコン、インターネットと出版についてデリダが論じおり、メディア論をやるなら必読だろう。

著者: ジャック・デリダ, 中山 元
タイトル: パピエ・マシン 上
Wed, April 20, 2005

野坂昭如『文壇』

テーマ:日本語の文学(平成)

◆野坂昭如『文壇』文春文庫、2005年4月

「文壇」という言葉に引かれて読んでみる。野坂昭如は、テレビではおなじみだが、小説を読んだことはなかった。映画の『火垂るの墓』はテレビで見たことがあったけれど。

物語(で良いのか?)は、とあるパーティーから始まる。まるで罪人のように壇上の椅子に座っているのは色川武大。昭和36年の初秋のことである。この物語の語り手兼主人公である野坂が、はじめて「文壇」と関わりを持った出来事であった。

まだ小説も書いていなくて、雑誌に雑文を書き散らしたり、エロ映画なんかをひそかに上映していたり。そして活字に移りたいと願い、小説を書こうとしている。パーティーでは、舟橋聖一に「シッシッといわんばかり、手の甲を上に振って、追い払う仕草」をされている。

そんな時代から、代表作「エロ事師たち」の誕生をへて、やがて直木賞を受賞し、流行作家へと進んでいく時代を描く。「文壇」とは何だったのか。「小説」とは何か。昭和30年代から40年代の「文壇」の雰囲気がよく分かる。

この時代、「文壇」というか文学の世界で大きな存在を一人挙げるとすれば、やはり三島由紀夫だろう。野坂にとっても三島が重要な存在であったことが理解できる。三島のおかげで作品が海外に翻訳されたりしているし。また三島は、野坂の小説をつまり「エロ事師たち」などは認めていた。三島と野坂の関係も興味深い。本書では、野坂の三島評に注目できる。

野坂は、三島の華麗な文章を評して、あの華麗さは日本語を信用していないことの裏返しではないかと見ている。

《また、去年、発表されて、話題となった「英霊の声」盲目の青年が、憑依状態となり、歌い出す。三島は、言葉における表現の、もっともあるべき形を、あれにおいているのではないか、つまり近代日本語を信じていない、さんざ装飾過多を指摘され、退廃した文体といわれながら、なお固執したのは、むしろその空しさを強調するためじゃないのか。(p.129)》

近代日本語の空しさを強調しているという指摘は、三島の文学をあるいは三島の思想を考える際にヒントになるかもしれない。

小説と日本語の問題は、常に「小説」とは何か、自分の書いているものは「小説」なのかを問い続けている野坂にとっては重要であった。小説を書くには近代日本語はふさわしくないのではないか。それゆえ、小説ではなく「私小説」を書くしかなかったのではないか。

《野間は軍隊という「異国」、その文化を写そうとして、あの「真空地帯」、小田も多分、多様な外国体験を通じ、なんとか人間を描こうとして、くどくなる。西洋教養派も同じ、だが、日本を題材にして、西洋に生れた技法を駆使すれば、それらしく仕立て上がるほど空々しさが伴う。日本語は合っていない。三島は、天性のものに違いないが、きらびやかな、しばしば空虚な形容、語彙を用いるのは、これに気づいた面もあるのではないか。私小説は身につまされ小説、これは楽。(p.266)》

引用したものからも分かるように、野坂の文体は読点を多用し、ぶちぶちと切れ、手帳に記したメモのような特徴的な文体。けっして読みやすいものではないし、三島のように華麗な美しさもない。泥臭いほうかもしれない。しかし、独特の文体のリズムが読む者を酔わせる。というか、この文体は読者に感染してしまうのではないか。本書の解説の人の文体が、なんとなく野坂っぽいのが笑える。読点の多用、助詞の省略、メモするように、ほら、野坂っぽい文体。

この時代、「文壇」とは「文壇バー」がもっぱら主要な舞台。様々な「文壇バー」が登場する。そこに作家や編集者が集まる。野坂は、この人たちを観察していたのだろうか。「文壇バー」の様子がつぶさに語られているのも本書の魅力の一つ。

《文壇酒場にいれば、その陰湿な面はよく判る、小説家は嫉妬深い。めきめきこの手の店としてのしてきた銀座八丁目五階の「眉」。「カヌー」に始まり「姫」に至ったぼくの知る店集大成の感じ、「未来」「茉莉花」系、野間、井上、小川国夫、埴谷の姿はなかったが、丹羽から江藤、純文学新人作家まで、連夜、小説雑誌の目次登場の面々が十数名いる。当然、編集者も丸椅子に座って、こちらに大江と二、三人、そこへ江藤がふらりと一人でやって来て入口近くに席をしめる。常に眼配り利かせる編集者、文芸関係者なら当然双方と近しい、また、両名相いれぬと承知。トイレットは入口と逆の側だが、立つふりして、大江に侍る一人が、ホステスにまぎれ江藤に挨拶、客の中の両者に近い同業者がさりげなく、雰囲気を和ませる。消息に通じるマダムにもこれはかなわず、この編集者気苦労はこの店に顕著だった。(p.236)》

鋭い観察眼。

著者: 野坂 昭如
タイトル: 文壇

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