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Mon, March 28, 2005

ナンシー関『天地無用 テレビ消灯時間6』

テーマ:サブカルチャー
◆ナンシー関『天地無用 テレビ消灯時間6』文春文庫、2004年9月

やっぱり面白い。このテレビ批評が注目されるのも、なんとなく分かるような気がする。批評が的を射ているとか、曲解しているとかの以前に、端的に読んで面白い文章なのだ。少なくとも、私には魅力的な文章であることは間違いない。

論じる対象であるテレビに対する突き放した感じもさることながら、テレビを見ている自分あるいは文章を書いている自分への距離の取り方が興味深い。自分自身を冷静に見つめている「自分」というものを、この文章の中に感じるのだ。こういう文章は、簡単そうでなかなか書けないなと思う。


著者: ナンシー関
タイトル: 天地無用 テレビ消灯時間6
Sun, March 27, 2005

宮台真司『宮台真司interviews』

テーマ:社会科学
◆宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月

ようやく読み終えた。活字が一杯詰まった本なので、けっこう読むのに苦労した。でも、中身はかなり面白いものだった。読み終えて満足の一冊。

ここ10年の宮台氏の発言をまとめた本なので、これを読み通すと、氏の思想遍歴が分かる。この意味でも重要な本かもしれない。印象としては、はじめはまるで暗記マシーンのように、あらゆる問答を想定し、機械にように答えているようだった。これはけっこう読者にとっては有益かも。なにせ、それこそチャート式のように思想が整理されているので、知識の整理に使える。

それから数年たつと、自分語りが入るようになる。自分語りのほうが、私は興味を持つのだけど。でも、自分語りのほうに興味を持つ読者って、宮台氏は嫌いそう。というか、たしかに迷惑だよなあ。

それはともかく、とりわけ興味がある箇所を一つ抜き出せば、次の箇所になるだろう。これは巻末付録の部分にある文章だ。

《最近の僕は「援交少女たちを、高い流動性の中でも心の平安を保ちうる存在だと期待していたら、期待外れだった」と表現しています。実は、そのころまでは、「超越的な特異点――究極の意味――に帰依しないと心の平安が得られない」というオウム的な思い込みを中和するべく、「高い流動性の中でも心の平安を保つことができる」ブルセラ的存在を賞揚しようと思っていたんです。(p.392)》

しかし、周知の通りこれが「無理だった」(p.392)となるわけだけど、「超越的な特異点」がないと心の平安が得られないという部分が気になる。東浩紀氏がこだわるのも「超越的な特異点」が必要とされているのか、ということだったなあと思うのだ。東氏は、端的にもうそれは必要とされていないと言う。それが「動物化」だと。東氏は、おそらく「超越的な特異点」にこだわるのは、少数派だと考えており、分析の対象にはならないのではないかということらしい。このあたりに、二人の対立点すなわち時代認識の差異が生じている、私は思った。

私は今のところ、どちらかと言えば宮台氏の認識のほうに妥当性を感じる。だからこそ、実存的なモードの宮台氏に興味・関心があるのだ。


著者: 宮台 真司
タイトル: 宮台真司interviews
Fri, March 25, 2005

増田聡・谷口文和『音楽未来形』

テーマ:文化研究
◆増田聡・谷口文和『音楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』洋泉社、2005年3月

好著。面白い。「音楽」や「作品」といった自明と思える概念が、実はなんら自明ではない。それどころか、従来の「音楽」や「作品」といった概念では捉えきれないものが、現代の音楽文化のなかに見いだせる。このズレが、いまだはっきりと言葉になっていないではないか、著者たちの関心はそこにある。そこで、著者たちはもう一度歴史を辿り直して、従来の「音楽」観や「作品」観を見つめなおし、次にそこからこぼれ落ちてしまう現代の音楽文化の何かを捉える土台を作ろうとしている。けっこう野心的だけど、記述はいたって冷静であり好感をもった。

本書では、とくにDJの文化と録音テクノロジーに注目している。私自身は、後者のテクノロジーの変化とわれわれの関係に興味がある。なので、第5章の「多層化する「聴くこと」」などは非常に面白く読んだ。ここでは、「音」をあるいは「音楽」を聴く行為が、いったいどのようになされているのかという問題を詳しく検討している。ここから導き出されるのは、DJの文化にもあてはまることでもあるが、オーディオ装置が単なる「透明な媒介」物ではないこと、「演奏」といえるものがあることを指摘している。これなどは面白い指摘だと思う。

演奏すること/聴くことの間に、かつて明確な境界があった(のかもしれない)。だが、DJにせよ音楽のテクノロジーにせよ、それらの変化が演奏することと聴くことの境界線を崩してしまった。しかし、一方で古い「音楽」観念や「作品」観念が残っており、それらの観念と現在の状況とのズレがたとえば著作権の問題として近年浮上してきたのだ。こうしたアクチュアルで、根本的な問題に答えるためにも、もう一度「音楽」を巡る言葉を再構築する作業が必要なのだということが、本書を読むとよく理解できる。私などは現代の音楽状況をほとんど知らないので、現在の「音楽」をめぐる状況がいかに複雑になっているのかはじめて知った。ほんとに勉強になる一冊だ。


著者: 増田 聡, 谷口 文和
タイトル: 音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ
Wed, March 23, 2005

姜尚中『在日 二つの「祖国」への思い』

テーマ:歴史
◆姜尚中『在日 二つの「祖国」への思い』講談社α新書、2005年3月

これは中途半端な本だ。私語りとしても、日朝関係の歴史分析としても中途半端に終っている。新書という媒体のためなのかもしれないけど、読んでいて面白いと思うところがなかった。読みどころがないのだ。

思い切って、「私」についてもう一度語ってもよかったのか、それとももっと詳しく現在の状況を分析してもよかったのかもしれない。それに、あまり文章も練られていないのか、少々単調な記述で読みにくい。ページ数が少ない本だから、我慢して全部読んだけど、長い本だったら途中で読むのを断念したかも。というわけで、私にはあまり参考にならない本だったのが残念。


著者: 姜 尚中
タイトル: 在日 ふたつの「祖国」への思い
Wed, March 23, 2005

田中康夫『なんとなく、クリスタル』

テーマ:日本語の文学(昭和)
◆田中康夫『なんとなく、クリスタル』新潮文庫、1985年12月

これって、ミリオン・セラーになった本だというが、いったい何がそれほど読者を惹きつけたのだろう?。あとがきで、作者自身があっという間に初版が売り切れたこと、発表当時に取材が殺到したことを記している。不思議だ。

当時の若者のライフスタイルを描いたからか。ページの半分を埋める注釈の面白さだろうか?。たしかに注釈のツッコミは面白かった(けど、嫌味っていえば嫌味)。

物語自体は、まったく面白くない。やっぱり注釈が面白かったのだろうなあ。それと、ブランド名の陳列だろうなあ。ブランド名つまり記号を作中に夥しく陳列し、そこに注釈という形で意味づけしていく。ブランドをこのような形で批評する「語り手」を、この小説は見せたかったのだろう。この物語の登場人物は、そのブランド名を記号を陳列するために装置にすぎない。つまり主人公が「由利」である必要はない。誰でも良い、置き換えが可能な人物たちなのだ。

面白いのは、時折登場人物が、自分たちは「本」を読まないことを強調するように語っていることだ。「本」を読むことに、コンプレックスでもあるのだろうか。「本」を読むことに対し、皮肉をぶつける。「本」を読まないことをアイデンティティにしている。また注釈の語り手も注の309で「いくら、本を読んでいたって、自分自身の考え方を確立できない頭の曇った人が一杯いますもの。本なんて、無理に読むことないですよ。」(p.125)と述べている。それにしては、「由利」はけっこう本を読んでいて、現代なら読書家の大学生として見られそう。

物語の細部では、けっこうアイデンティティについて考えたり、「本」に対してコンプレックスを持っているのだから、この登場人物たちは無理しているのだろうか。無理して「クリスタル」な生活を送っているのではないだろうか。本当は記号に戯れている生活なんてできないくせに。この小説の人物たちは、至ってありふれた「純文学」の登場人物なのだろう。だけど、その部分を隠そうとしている。その理由はなんとなく想像がつくが。とにかく、そうやって「純文学」と「差異」を作ろうとする作者の意図を想像することもできそう。実際は、ありふれた日本の「私小説」とあまり変わらないものだと、私は思うが。


著者: 田中 康夫
タイトル: なんとなく、クリスタル
Tue, March 22, 2005

中島梓『夢見る頃を過ぎても』

テーマ:文学研究・批評
◆中島梓『夢見る頃を過ぎても――中島梓の文芸批評』ベネッセコーポレーション、1995年6月

これは、かなり面白い文芸批評だった。正確には、文芸時評かもしれないが、今読んでも参考になることが多い。文学は今現在ほんとうに存在価値があるのか、それを真剣に考えているのか。本書の問題意識はここにある。冒頭で「すっかり小説嫌い」になったというあたりに、かなり文学の「ムラ」への挑発がこめられている。挑発的だけど、実際に読んでみると、全然嫌味じゃないのがすごい。徐々にわかってくるのだが、中島梓はほんとうに小説嫌いなわけではない。逆に、「物語」への強い欲求が感じられるのだ。

やっぱり、凄いのは、大塚英志ばりに、物語のパターンを知り尽くしてることだ。文学なんてものは、文字という記号の組み合わせであることも充分すぎるほど知っている。それでも、まだ小説を文学を楽しもうとしているのかと思ったら、ちょっと感動的になった。シニカルに見えるのだけど、文学の可能性を深い奥のほうで信じているのだなあと。だから、いくら挑発的な文章を書いても、嫌味な感じがしなかったのだろう。

ついでに気になったことを幾つかメモしておく。このなかで、村上龍と春樹の二人の小説を読んでいる(『五分後の世界』、『ねじまき鳥クロニクル』)。この解釈も非常に卓抜なもので、参考にしたいところだけど、この二人の作家が期せずしてともに「それでも/ぼくは/ここで/生きますッ!」(p.131)に収斂していくことを指摘している。そして、そのことは重要なことなのではないかと述べている。

《私たちは結局のところたえず「それでもなお」受け入れることを求めている存在なのである。だからこそ、すべてがヴァーチャライズされてまったく同じ重さしか持たない情報の何ビットかづつに還元されてゆく世界にゆきついてしまったからこそ、私たちは物語へと飛翔してゆく方法を探す村上龍の小説と、またしても立ちすくんだまま「それでもこれでいいんだ」と云い続けようとする村上春樹の小説を飽きることなくベストセラーにしてしまうのだ。(p.131-132)》

徹底した記号化、形式化を経ても、それでも「物語」を求めてしまう心性が私たちにはあるのかもしれない。いや、きっとあるからこそ、この文芸批評から10年経った今、「ロマン主義的シニシズム」という分析もできるのだろうなと思う。

もう一つ気になったこと。この本では、阿部和重の『アメリカの夜』についても言及されている。中島梓は、『アメリカの夜』に対してはダメだしをしていて、とにかく読みにくいと書いている。

書き手というのは、自分の見たもの、経験したこと、あるいは伝えたいことなどを書いているはずだという。だけど、それをどうやってコトバにして伝えるかという段階に問題があると指摘している。この指摘は興味深い。

《おそらく阿部さんも松尾さんも「だってそれは自分が確かに見たものだから」「だって本当なんだから」「だって自分が本当だといっているんだから」ということに頼って、何もそのコトバが本当に相手に同じ重さと意味を持っているコトバかどうかを検証することをしなかった。(p.96)》

この指摘が、『アメリカの夜』に妥当であるかどうか、また別に考察しなければならないが、しかし、この「だって自分が本当だといっているんだから」当然相手も分かるだろう、という認識は文学だけの問題か?現代社会の分析にも使えそうな気がする。
Sun, March 20, 2005

ホミ・K.バーバ『文化の場所』

テーマ:哲学・思想
◆ホミ・K.バーバ(本橋哲也/正木恒夫/外岡尚美/阪本留美訳)『文化の場所 ポストコロニアリズムの位相』法政大学出版局、2005年2月

バーバの文章は最悪だとか難解だとかいうことを、しばしば目にしていたので、どんなにひどい文章なのかが知りたくて読み始めた。たしかに、ポストコロニアリズムに関する理論を検討する本書は、ほんとうに難しい。かなりの知識を要求される。正真正銘の専門家向けの内容だった。

というわけで、私にようなにわか仕込みの知識では、とうてい本書の内容をつっこんで検討するまでに至らず。読み終えるのに、一週間も掛かったのに残念。

本書はいくつかキーワードがあって、そのキーワードを何度もくり返し使うのがバーバのスタイルなのだけど、そのなかでも特に重要なものとしては、「文化的差異」「時間」ではないだろうか。この二つをバーバはかなり重要視していると読んだ。

時間に関していえば、近代が均質な時間をもたらした(というか押しつける傾向がある)。アンダーソンの理論などを用いながら、近代の「時間」について論じている。時間は、誰しもにとって、同じものではないというのがバーバの考えで、時間が均質でないことを暴くのがポストコロニアルの実践ということになるのだろうか。おそらく、そんなことを論じていたかと思う(あまり読解に自信はない)。結論において、このことを熱く語っている。(本書は全体的に冷静に論じているのに、以下の引用部分だけが、妙に力がこもっていて興味深い。なので、長くなるが一段落まるごと引用しておきたい。)

《ポストコロニアルが近代を通過するとき、そこに生まれるのは例の反復の形態、すなわち投影的な過去である。ポストコロニアルな近代の時間差は前方に進み、進歩神話につながれ文化的論理の二分法(過去/現在、内/外)に整序された、あの従順な過去を消去する。ここで言う前方とは、目的に向かって前進することでも、永久にずれ続けることでもない。時間差は近代の単線的な進歩の時間を遅らせて、「演技全体の」「身振り」やテンポや「めりはり」をあらわにする。これを達成する唯一の方法は――ベンヤミンがブレヒトの叙事演劇について語ったように――現実の生の流れをせき止め、驚きの逆流を起こして流れを停止させることである。近代の弁証法が停止されたときはじめて、近代の時間の営み(進歩しつつ未来へ向かう衝動)が上演され、「上演行為そのものが含むあらゆるもの」が姿を現す。この減速、ないしずらしは、「過去」を駆り立て、投影し、その「死んだ」象徴に現在の――経過の――記号がもつ循環する生を与え、日常性の活力を与える。これらの時間性がその空間的境界を重ね合わせつつ、偶然触れ合うまさにそのとき、「非連続な」現在の不確定な分節化によって、その周縁がずらされ、縫合される。時間のずれは過去の生成を、生きた過程として存続させる。私が近代のポストコロニアルな考古学において発掘しようとしてきた空間的時間のレベルと臨海点とが、時間のずれによって交渉されていることから、読者はそこには時間と歴史が「欠けている」と思われるかもしれない。どうかだまされないでほしい!(p.422)》

ここには、けっこうバーバのエッセンスが詰まっていると感じた。この部分を手掛かりにすれば、バーバの思想を何とか理解できるのではないかと思う。そんなわけで、長々と引用してメモしておく。常々、このことを考えるために…。


著者: ホミ・K.バーバ, 本橋 哲也, 正木 恒夫, 外岡 尚美, 阪元 留美
タイトル: 文化の場所―ポストコロニアリズムの位相
Mon, March 14, 2005

島崎藤村『春』

テーマ:日本語の文学(明治)
◆島崎藤村『春』岩波文庫、1970年3月

この小説は、大きく3つに分けることができるのかもしれない。まず、前半は、岸本周辺の文学青年たちの群像。次に、北村透谷がモデルという青木の苦悩(身体的と同時に精神的)→自殺。最後に、岸本が青木的な苦悩を乗り越えて、仙台へ新たな生活を求めて旅立つまで。

岸本が島崎藤村ということらしい。この岸本という人物は、かなり変な人。青木は、ある意味典型的な煩悶する明治の文学青年というイメージそのままだけど、岸本はそうした面も持ちつつも(青木とダブるわけだが)、青木のように自殺できなかった。何度か死のうとはしているが。その行動がおかしい。いきなり頭を剃って、お坊さんになって、ふらふらとあてもなく歩き回る、そんなことをするのだ。で、「乞食坊主」なんて罵られて、惨めな思いをしたとかでショックを受けているし。この岸本の悲劇は、何をやっても中途半端になってしまうところだろう。「天才」ではないのだ。このあたりの凡人ぶりに、ちょっと共感してしまう。岸本は、仙台へ向かう列車のなかでこうつぶやくのだ。

《あゝ、自分のようなものでも、どうかして生きたい。(p.299)》

たしかに、この気持、分からないでもない。青木のようには、けっしてなれない。とするなら、けっきょく「生きる」ことしか残されていない。岸本という人物は、物語中でもほんとに冴えない人物だけど、その冴えないという一点において、愛すべきキャラクターかもしれない。なんと言っても、名前が「捨吉」なのだ。母親からは「捨(すて)」と呼ばれているし。子どもに「捨吉」なんて名づける親もどうかと思うが…。

著者: 島崎 藤村
タイトル:
Sat, March 12, 2005

橋元良明『背理のコミュニケーション』

テーマ:社会科学
◆橋元良明『背理のコミュニケーション アイロニー・メタファー・インプリケーチャー』勁草書房、1989年1月

この本の「アイロニー」に関するところが、『嗤う日本の「ナショナリズム」』のなかで参照されていた。

本書では、「アイロニー」の正体をこう結論づけている。

《アイロニーの正体とは、結局、字義通りの発話が可能な立場の人間に視点を移し、結果的に「言及」とみなしうる陳述行為を行うという一種の「仮人称発話」なのだというのが本稿の結論である。(p.87)》

こうした「アイロニー」の原理の正否はともかく(というか、私には専門知識がないので判断できないが)、本書は「アイロニー」論よりもう一つの「メタファー」論のほうがおもしろいかも。

そもそも、著者の関心には、言葉が字義通りの意味ではないことを伝えてしまう、そうした含意表現にあるのだが、そこで従来の「アイロニー」論や「メタファー」論が検討され、尽くそれらが通用しないことが確認されるだろう。
何がアイロニーと受けとめられ、あるいはどの場合にメタファーと受けとめられるか。まさにこうした言葉の表現は、世界をどう認識しているのかということと関わっている。そんなことをあらためた感じた。
Fri, March 11, 2005

太田省一『社会は笑う』

テーマ:社会科学
◆太田省一『社会は笑う ボケとツッコミの人間関係』青弓社、2002年4月

ボケとツッコミというマンザイの関係を、笑いの基本構造として、この構造を通して80年代の日本の「笑い」の世界を分析した本。

ボケというのが、ある意味規範からの逸脱することであるとすれば、その逸脱を止め、秩序へと戻してやる役目がツッコミ。マンザイの形として、こんなものが考えられるわけだが(もちろん、様々なボケやツッコミの形があるが、それはひとまず置いておく)、ツッコミのほうが80年代を通じて徐々に衰弱化していく様子を、この本のなかでは指摘している。

いわば、ツッコミ役が省略された後に現れるのは、だれもがボケ役になっていく世界のようだ。このあたりの説明を、土居健郎の「甘え」理論で説明している。ボケとは「甘え」に寄りかかった「何でもあり」の状態、ツッコミの省略はこの「何でもあり」のボケの範囲をどこまでも広げていってしまう。「笑う社会」の延命は、この「甘え」の世界を延命させようとすることになるだろう。

北田暁大氏は、本書をすごく重要視していて、本書のアイデアから『嗤う日本の「ナショナリズム」』を生み出した。しかし、ほんとに本書は面白い内容なのだろうか?。

私自身の率直な感想を記すと、本書はあまり面白くなかった。私の読解力不足で、きちんと本書の内容を理解していない、ということは認める。だけど、そのことを差し引いたとしても、おそらく本書の内容はそれほど面白くないのではないか。もちろん、本書の全部が面白くないということではない。80年代の笑いを分析したところはよかった。ただ、その分析を、社会学的考察へ進める第4章において、先に触れたように「甘え」理論を援用して説明していた。ここにひっかかりを覚えるのだ。それで良いのかと。この説明が支離滅裂だったというわけではないのだけど。


著者: 太田 省一
タイトル: 社会は笑う―ボケとツッコミの人間関係

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