1 | 2 次ページ >> ▼ /
Sun, February 27, 2005

メルヴィル『白鯨(下)』

テーマ:海外の文学
◆メルヴィル(八木敏雄訳)『白鯨(下)』岩波文庫、2004年12月

ようやく全部読み終えた。下巻、特に後半のモービィ・ディックとの対決場面がすごい。3日間の追跡の果てに、エイハブとその船は海へ沈んでいく。ただ一人、この物語を実際に観察し、そして語り手となるイシュメールだけが生き残る…。

この岩波文庫の本には、最初に船の図や、ピークオッド号の航跡を記した地図があり、それらは物語を読む際にとても役立つのだけど、このピークオッド号は日本の近くにまで鯨を追ってやってきている。

《さて、ピークオッド号は南西の方向から台湾およびバシー諸島のはざまに接近しつつあった。そこはシナ海から太平洋の熱帯海域への出入口のひとつになっていた。スターバックが船長室にはいっていくと、エイハブは東洋の諸群島をひとつにまとめた海図と、長い日本列島――ニホン、マツマイ、シコケ――の東海岸をしめす部分図を眼前にひろげていた。(p.182)》

ちょうど鎖国状態にあった日本だ。訳者も注で触れているが、日米和親条約のアメリカの目的が、捕鯨船に対する欠乏品の補充と漂流船員の保護にあったとのこと。アメリカにおいて、「日本」に対する関心が強まった時期にこの小説が書かれている。こういうのは、たとえばニューヒストリシズムあたりの研究で触れる事柄なのだろうか?。メルヴィルも日本の開国に関心を向けていることだし、比較文学者ならメルヴィルの「日本」観について調べるのだろう。

それはともかく、どうやら日本の近海が捕鯨の「究極の海域」(p.202)らしい。エイハブが、日本のちかくに来ていたのかと思うと面白いし、そのエイハブが追い続けているモービィ・ディックも近くにいたのかもしれないと想像すると、この物語に親近感が湧く。

文庫の中巻は、イシュメールの鯨学に関する講釈が長くつづき、ちょっとうんざりしてしまったが、下巻に入ると語り手のイシュメールがあまり出しゃばらなくなる。が、しかし、それによってこの小説の実験性が失われることはない。戯曲調になったり、登場人物の独白が長く続いたりと、いくつかの形式組み合わせて語っていく。どうしてイシュメールは、この物語を報告するのに、こんな面倒な方法を採ったのだろうか。章ごとにスタイルを変化させたりする目的は何だったのだろう?『白鯨』を読んで気になるのは、この語りの方法なのではないか。この点を、訳者が解説で触れている。この小説は、文学理論などを使って読み解きたい誘惑に駆られる作品だと思う。


著者: ハーマン・メルヴィル, 八木 敏雄, Herman Melville
タイトル: 白鯨 下  岩波文庫 赤 308-3
Sat, February 26, 2005

メルヴィル『白鯨(中)』

テーマ:海外の文学
◆メルヴィル(八木敏雄訳)『白鯨(中)』岩波文庫、2004年10月

《幹から枝が生え、枝から小枝が生えるように、豊饒なる主題から、あまたの章が生れる。(p.238)》

ようやく捕鯨活動がはじまって、その様子が逐一と語られるのだが、その物語の途中に、イシュメールの「鯨学」講義が挿入されている。

延々とイシュメールのうんちくに付き合わされるので、だんだん読むのが辛くなってくる。一つ一つのエピソードは、かなり面白いのだから、捕鯨に関する知識など披露しなくても良いのにと感じてしまう。イシュメールの鯨に関する「豊饒」な知識、鯨についてのあらゆる知をかき集め、「鯨」という主題を説き明かそうとするイシュメールの強い意志をまた同時に感じる。実は、この巻では、ほとんどエイハブ船長など登場してこないのだ。『白鯨』といえば、エイハブの復讐心というのが有名なはずなのに、エイハブよりも語り手イシュメールの執着心のほうが強いのではないか。『白鯨』はエイハブの物語なんかではない、イシュメールの飽くなき鯨への執着こそ、中心となる主題なのではないか。そんなことを考えてしまう。

実際、イシュメールの語りが章が進むにつれて饒舌になっていくことがよく分かる。上巻あたりの、落着いた語り口は次第に失われ、「読者諸君」などと呼びかけることが多くなっていく。語りに夢中になって、だんだん語りに熱がこもって、目の前の聴衆を巻きこんでいく。そうした語りの熱が、引用した文章が示すように、「あまたの章」を生んでいく。これはエイハブでもモービィ・ディックの物語でもない。「鯨」に取り憑かれたイシュメールの物語なのかもしれない。

あと下巻が残されているのだが、果たして物語の後半はどのように展開するのか。


著者: ハーマン・メルヴィル, 八木 敏雄
タイトル: 白鯨 中
Thu, February 24, 2005

メルヴィル『白鯨(上)』

テーマ:海外の文学
◆メルヴィル(八木敏雄訳)『白鯨(上)』岩波文庫、2004年8月

やはり文学の世界で名作として残っている小説はおもしろい。

岩波文庫だと上、中、下の三冊ある。とりあえず、きょうは上巻を読み終えた。語り手であるイシュメールとクイークェグが出会い、奇妙な友情関係を結んで、ナンターケットに渡り、そして物語の舞台となるピークオッド号の船員として契約。いろいろ出発の準備があり、文学の世界で最も有名な人物であるエイハブが登場。登場人物がそろったところで、モーヴィ・ディックを目指して航海に出たところ。上巻はこんなところ。

冒頭、いきなり鯨の語源だの、鯨に関する言説の引用がたくさん為されているのだが、こうした「鯨学」がところどころ挿入される。鯨の分類なんかしていたり。論文調というかレポートのような章とエイハブたちの物語が混ざり合った小説なのだ。こうした形式なども、すごく興味深い。

19世紀の小説というのはいろんな実験をしていて、現代よりも遙かに自由で前衛的だなと、こういう小説を読むとつくづく思う。


著者: ハーマン・メルヴィル, 八木 敏雄
タイトル: 白鯨 上
Wed, February 23, 2005

マルグリット・ユルスナール『ユルスナール・セレクション 4』

テーマ:海外の文学
◆マルグリット・ユルスナール(岩崎力 多田智満子 吉田加南子訳)『ユルスナール・セレクション 4 流れる水のように 火 東方奇譚 青の物語』白水社、2001年11月

はじめてユルスナールの小説を読んだ。この本を選んだのは、「東方奇譚」を読むためだ。「東方奇譚」は、文字通りオリエンタルの物語なのだが、ここには『源氏物語』を下敷きにした短篇が含まれているのだ。それが「源氏の君の最後の恋」という章である。

「アジアに名をとどろかせた最大の誘惑者たる源氏の君は、五十路にさしかったとき、そろそろ死ぬ心づもりをしなければならないと悟った(p.402)」という一文から物語は、始まる。死ぬ準備をはじめた源氏は、鄙びた山里に庵をつくって隠居するわけだが、そこに花散里が源氏の傍にやってくるが、追い返されたりする。いろいろな手段を尽くして、源氏の傍にいて、そして源氏の最後を看取る花散里だが、結局源氏のたくさんの女性の思い出のなかで、唯一その名を忘れられていたのが花散里であった、というアイロニーな話。面白いといえば、面白いかも。

それにしても、この話に限らず、ユルスナールの物語では人がよく死ぬ。なんでか分からないけど、人が次々と死んでいくのだ。不思議だ。これは聞いた話だが、とりわけユルスナールは首を斬ることに執着している。ほんとに斬られた首が、しばしば現れる。斬られた首に、なにか美学を持っていたようだ。

ところで、この一文がいい。

《人は絶望の土台の上にしか幸福を築かぬものだ。いまこそ私は築きはじめることができそうに思う。(p.357)》



著者: ユルスナール, Marguerite Yourcenar, 岩崎 力, 吉田 加南子, 多田 智満子
タイトル: 流れる水のように・火・東方綺譚・青の物語
Mon, February 21, 2005

安部公房「けものたちは故郷をめざす」

テーマ:日本語の文学(昭和)
◆安部公房「けものたちは故郷をめざす」(『安部公房全作品3』新潮社、1972年8月、所収)

これは傑作。すごく面白い小説。安部公房には、この小説のように満州を舞台にした、今風のポストコロニアルの分析がふさわしい作品がある。実際、安部公房はクレオールとかサイードのオリエンタリズムに関心を持っていたと聞いたことがある。『砂の女』や『箱男』といった有名な小説も良いけれど、一種の亡命者文学のような初期作品も非常に素晴らしい。

この小説では、「故郷」つまり「日本」へ何としてでも行こうとする久木久三という青年が主人公だ。「日本」への脱出の途中で、高という素性の怪しい人物と合流することになる。高は、どうやら大量のヘロインを隠しもっていて、それで一儲けしようしている。

二人で、危険な荒野を歩き続け、命からがら都市へやってくる。そこで、久木は高からヘロインが隠されたチョッキを預かって欲しいと頼まれる。そして高と一旦別れたが、その後、どうやら高に襲われ、チョッキと特別旅行者証明書まで奪われてしまう。証明書を奪われた久木は、「日本人」でもなんでもなくなってしまう。助けを求めて《日僑留用者住宅》に行くが、証明書のない久木はそこであえなく「日本」から拒絶されてしまう。

《門の内側に、剣つき銃をもった国府軍の兵隊と、腕章をまいた日本人の青年が、大きなコンロをはさんで退屈そうになにか笑いあっていた。兵隊は久三に気づくと、犬を追いはらうように舌をならして手をふりあげた。じっさい久三は犬のようにあえいでいたのである。
「にほん、じん、です……」
青年が狼狽した表情で、兵隊を見た。
「行け!」と兵隊がかまわずに銃をもちなおしてみせる。
「にほんじん、なんです……」久三は立っていられないほど、激しくふるえだした。
「証明書がなけりゃ、ここには入れないんだよ。」と、その三年ぶりの日本人は、迷惑そうに目をそらせて言った。(p.272)》

久三は、結局「日本」に辿り着けない。「日本」なんて本当に存在しているのか。そう久三は問う。荒野のなかで眠ったまま夢を見ているのではないか。

《……ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな……いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない……もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな……おれが歩くと、荒野も一緒に歩き出す。日本はどんどん逃げていってしまうのだ……(p.297)》

ここで、一瞬久三は幼い頃の夢を見る。夢のなかでは、高い塀の向こうで母親が洗濯をしている。久三は、その傍で遊んでいる。そして、その光景を塀ごしに見つめている疲れ果てたもう一人の久三がいる。塀の外にいる人間は、二度と塀の内側に戻れないのか。

《こうしておれは一生、塀の外ばかりうろついていなければならないのだろうか?……塀の外では人間は孤独で、猿のように歯をむきだしていなければ生きられない……禿げのいうとおり、けもののようにしか、いきることができないのだ……(p.298)》

この傍で、気の狂った高が「戦争だ」「私は主席大統領なんだ」と意味不明なことを叫んでいる。このラストシーンは考えさせられる。「日本」とはなにか。「人間」と「けもの」の違いは何か。

暴力場面などに顕著であるリアルな描写と、意識の流れ的な手法で久三が自問する文体が、適度に組み合わさっていて、手法的にも興味深い小説だった。

著者: 安部 公房
タイトル: けものたちは故郷をめざす
Sat, February 19, 2005

後藤明生『新鋭作家叢書 後藤明生集』

テーマ:日本語の文学(昭和)
◆後藤明生『新鋭作家叢書 後藤明生集』河出書房新書、1972年5月

後藤明生は以前から気になる作家であったが、今回はじめて作品を読んだ。この本には、「関係」「笑い地獄」「S温泉からの報告」「何?」「誰?」「書かれない報告」が収められている。

こうしてタイトルを並べてみると、「報告」というのと「?」が気になる。この二つが後藤明生を読み解く鍵となるのだろうか。

「関係」は、どことなく横光の「機械」のような雰囲気で、文字通り、人と人との「関係」の力学を主題にしたような作品だ。

「笑い地獄」は怪しげなパーティーが登場し、「性」の主体という問題が見られる。

「S温泉からの報告」「何?」「誰?」「書かれない報告」あたりの作品になると、「団地」という主題が現れる。「郊外」「団地」といった主題になると、やはり社会学の知識も必要になってくる。「団地」がもたらす人間関係の変化、そこから生じる不安といったことが、語られることになる。

「団地」という「家」の不安を描いたのは、たとえば「書かれない報告」だろうか。突然、団地生活に関する報告書を依頼された男。その男の住む部屋は、原因不明の水漏れが生じていたり、ベランダの手摺りが錆びていたり、どこからともなく虫が現れ、男はその虫と格闘することが生活となっている。

この部屋は、たしかに外からの危険に対しては強いのかもしれない。だが、内部は腐食してしまっている。そして、例のごとく、この内部の傷はと男の傷でもあること、男の内面を象徴しているのだ。

あと、「水」の侵入というきわめて興味深い主題がある。「水」の主題は、「S温泉からの報告」が鮮明で、ここでは「水」と一体となりエクスタシーに達する男が登場している。後藤明生における「水」の主題も気になる。
Fri, February 18, 2005

本橋哲也『ポストコロニアリズム』

テーマ:文学研究・批評
◆本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波新書、2005年1月

ポストコロニアリズム関連の研究書は難解なものが多いのだけれど、本書は、そうした難解な思想をよく噛み砕いて説明しているので、ポストコロニアルの理論の入門書としてふさわしい本だと思う。

一章と二章で、1492年以降の植民地主義の歴史をたどった後、三章ではフランツ・ファノン、四章ではサイード、五章ではスピヴァクといったポストコロニアリズムでは欠かせない人物たちの思想を解説している。本書は、この三つの章がとても価値があると思う。そして、最後の六章で「日本」という場においてポストコロニアリズムを思想し、そして実践する意義は何かを問う。

ポスコロニアリズムの思想で、問題になるのはどういうことか。この手の本を読むと、しばしば出会うフレーズ(決まり文句)のようなものがある。たとえば、以下のような文章――。

《異文化の出会いが相互に食人への恐れを噴出させるという認識に代わって、ここにあるのは一方的な観察の視線である。そのまなざしの下で、記号を保持して使用する者が恣意的に特定の記号によって指示される対象を、いわば暴力的に選びとるのだ。(p.30)》

「一方的な観察」と言われるように、視線の非対称性は絶対に見落とすことができない。この一方的な視線の持つ権力をポストコロニアルの思想家たちは糾弾する。

それから、次のような考えもしばしば目にすることだろう。

《ヨーロッパによる植民地化こそは、そのような人間主義の所産だった。ヨーロッパだけが「普遍的な人間像」の構築にふさわしい哲学や知識や学問を所有し、ヨーロッパ以外の知恵は普遍的ではなく局所的で限定されたものにすぎない。そのような知の支配的システムが被植民者に強制されることによって、先住民の生活から権利と文化的尊厳が奪われてきた。(p.161)》

こうしたヨーロッパ中心主義を内側から食い破る方法として、スピヴァクは「脱構築」を用いるという説明の箇所だ。こうして分かるように、ポストコロニアリズムでは「他者」との出会い方、関係の築き方というものが重要な問題となる。「他者」は、けっして一方的に観察される対象でもないし、けっして劣った存在でもない。「他者」との出会いによって、われわれが自明に思ってきたこと、見えなかった影の部分をあぶり出す。「われわれ」と「他者」の交流の「場」、この「場」にこそ、ポストコロニアリズムの思想や実践が必要とされるのだ。

さて、そうしたとき、非常に重要なことを指摘しているのが、スピヴァクだと思う。本書のなかで引用されていた、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』の文章を引いてみる。

《サバルタンの女性という歴史的に沈黙させられてきた主体に(耳を傾けたり、代わって語るというよりは)語りかけるすべを学び知ろうと努めるなかで、ポストコロニアルの知識人はみずから学び知った女性であることの特権をわざと「忘れ去ってみる(unlearn)」。このようにみずから学び知った特権をわざと忘れ去ってみるということはポストコロニアルの言説をそれが供給しうる最良の道具を用いて批判するすべを学び知るということをこそ意味しているのであって、ただたんに植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置するという意味ではない。(p.167)》

このあたり、知識人(であるスピヴァクも含めて)の特権を強く意識しているという点で、私はスピヴァクの思想に共鳴する。本橋氏も「スピヴァクのポストコロニアリズムという思想の構えが集約されている」と評している。ここの引用のなかで、もう一つ重要だと思うのは、最後の部分つまり「ただたんに植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置するという意味ではない」という考えである。

このスピヴァクの考えを、スピヴァクのエピゴーネンたちはどれほど真剣に捉えているのだろうか。私の思いこみかもしれないが、ポストコロニアルといえば「植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置」してしまうケースが多いのではないか。植民地化さえされなければ、支配さえなければ、永遠の楽園がずっと残ってきたはずなのにという幻想の存在を、ポストコロニアル関係の論文を読むとしばしば私は感じてしまう。もちろん、こうした幻想はスピヴァクの考えとは異なるはずなのだ。

たとえば、本書の第六章を読んでみよう。ここでは、「日本」という場をポストコロニアリズムの視点からの読み直しを試みている。その中で、アイヌの歴史が取り上げられている。「日本」による侵略のなかで、それでもアイヌの歴史や文化を営み続けている、たとえば知里幸恵『アイヌ神謡集』(1923年)、違星北斗の遺稿『コタン』(1930年)、バチラー八重子『若きウタリに』(1931年)、知里真志保『分類アイヌ語辞典』(1953-62年)といったものは、日本語でアイヌの文化を表現することで「日本文化そのものに亀裂」を入れると述べられている。

そして、これらの業績はいずれも「近代国民国家の進歩史観に対し、支配的な言語で書かれた歴史だけが歴史ではないことを私たちに教えてくれる(p.195)」とし、国家による公式の歴史の抑圧を告発するものだという。ここまでは、私も納得できる。問題は次の箇所である。

《アイヌにとって歴史とは、文字で書かれた歴史と口伝えに伝承された歴史との二項対立を越えたところに存在する、いわば自然との対話と言ってもよいものではないだろうか。一木一草に歴史が存在し、熊や鮭や花や星が歴史を語り、海川や岩石が歴史を保持するような世界がそこに広がる。植民地主義が排除してきたそのような歴史のとらえ方を、いま私たちはポストコロニアルな自己と他者との出会いを探究するなかで迫られているのではないだろうか?(p.195)》

スピヴァクの読解をした後で、どうしてこうしたユートピアを植民地主義に代置しようとするのだろうか。本当にスピヴァクの文章を読んだのかと疑いたくなる。こうした単純な図式を示すことがポストコロニアリズムの思想や実践ではないと思う。少なくともスピヴァクの思想からは、こうした考えは出てきそうもないのだが…。知識人には、なぜかマイノリティに過剰な幻想を抱く傾向があるように私には思えて、それゆえにカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムを全面的に認めることができない。しかし、スピヴァクだけは単純な幻想を持っていない。他の知識人たちよりも一歩先の認識を持っていると思う。この点において、私はスピヴァクを信用することができるのだ。


著者: 本橋 哲也
タイトル: ポストコロニアリズム
Wed, February 16, 2005

岡田温司『マグダラのマリア』

テーマ:文化研究
◆岡田温司『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』中公新書、2005年1月

何気なく読み始めたが、かなり面白いテーマの研究だった。マグダラのマリアという西洋というかキリスト教の世界でも、聖母マリアと並んでもっとも有名な女性が、西洋の絵画や文学のなかでどのようなイメージとして表象されてきたのかということを検討している。イタリアを中心に、原始キリスト教からバロックまでが本書の対象となっている。

マグダラのマリアとは、キリストによって回心をした女性だが、そのイメージは聖女であり娼婦。つまり聖と俗の両極のイメージを持つ女性である。キリストの足元にすがりつき、その長い豊かな髪で、キリストの足を拭っている、そんなイメージを思い浮かべることができるのではないか。

しかしながら、表象の歴史をたどっていくと、さまざまな姿で現れていることが分かる。その表象された姿は、同時に「女性」の、あるいは「娼婦」のイメージの歴史とも言えそうだ。ヨーロッパにおける「女性」の位置や、娼婦と修道院の関係など興味深い分析が多い。


著者: 岡田 温司
タイトル: マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女
Thu, February 10, 2005

バフチン『ミハイル・バフチン全著作集第二巻』

テーマ:文学研究・批評
◆P・N・メドヴェージェフ、V・N・ヴォローシノフ(磯谷孝・佐々木寛訳)『ミハイル・バフチン全著作集第二巻[フロイト主義][文芸学の形式的方法]他』水声社、2005年1月

この巻には、タイトルにある二作のほかに、メドヴェージェフ「学問のサリエーリ主義」が収められている。1920年代のバフチンサークル時代のものだ。
「フロイト主義」は、フロイト批判。そして「文芸学の形式的方法」はフォルマリスムの批判となっている。両方とも面白い論文だった。バフチンの基本的な考え方が、この二作品を読むと分かる。バフチン入門として格好の本だと、私は思っている。

ところでバフチンという人は、反論上手な人だと思う。上手というか、超一流の反論のテクニシャンではないか、と最近思うようになってきた。バフチンの著作をいくつか読んでみると気がつくのだが、基本的にバフチンはある主張なりイデオロギーに対して、批判を加えながら自説を述べるというスタイルを取っている。こうしたスタイルに、バフチンの対話理論を見るのは容易なことだろう。

たとえば、代表作の『ドストエフスキーの詩学』を見てみるとよい。この論文の第一章は、いわゆる先行研究のレビューだ。それまでのドストエフスキーについての、あるいはドストエフスキーのポリフォニーに関する先行研究をバフチンが詳細に検討している。先行研究との「対話」を通じて、これから自分が論じる問題を見事なくらい上手に浮かび上がらせている。この論文の書き方は、はっきりいってすごい。私自身、正直、先行研究のレビューがものすごく下手なので、バフチンのように相手を批判しながら、自分の言いたいことにそれを結びつけていくという書き方がうまくできない。いつも論文を書くときに、ひどく悩んでいたので、バフチンの本を読むたびに感心していたのだ。『ドストエフスキーの詩学』の第一章の部分は、特に好きな箇所だ。この箇所は、何度も何度も読んでぜひともテクニックを身につけたい。

さて、「文芸学の形式的方法」だが、この中でバフチンは言葉の物質的要素とその意味を結びつけているのは、「社会的評価」なのだということを強調している。

バフチンは、言葉を具体的な発話から切り離してしまうこと言語学を批判の対象としている。バフチンにとって、「辞書的な言葉」なんて認められない。あくまで「具体的な発話」が重要なのである。そして、「具体的な発話」というのは社会的な行為なのである。したがって、発話というのは交通状態に組みこまれているもので、だからこと「歴史的現象の現実」であると主張している。発話の社会性、歴史性、個別性というものをバフチンは重要視するわけなのだ。

こうして、言葉という記号は、発話という歴史的な現象のなかで、意味と融合することになる。そしてこの融合もまた歴史であることが言われ、発話を社会的交通から切り離し、単なる物扱いしたり、また言語学者のように具体的で歴史的な発話から抽象してしまうと、言葉は「歴史的にいまだ個性化されない、単なる可能性にすぎない意味をさす副次的な記号」に変わってしまう。ここでバフチンは「社会的評価」を次のように述べる。

《発話の個別的現存とその意味の一般性、十全性とを統合するもの、意味を個別化し具体化するもの、そして言葉のいまとここの音響的現存を意味づけるものとしてのこの歴史的アクチュアリーこそ、われわれが社会的評価と呼ぶものなのである。(p.423-424)》

このような「社会的評価」が、内容の選択、形式の選択、はたまた形式と内容の結びつきも決めるのだと言う。そういうわけで、発話を理解するには、その発話をとりまく価値的雰囲気に慣れ親しみ、イデオロギー環境のなかで発話がおこなる価値づけの方向を理解しなくてないけない。つまり、発話を理解するというのは辞書的な一般的な意味を理解するのとは全く異なるのだ。「発話を理解するとは、発話をその同時代性とわれわれの同時代性のコンテキスト(両者が一致しないときには)で理解することである(p.424)」。

このような考えを覚えておくと、バフチンの思想が理解しやすくなるのだろうなあと思う。比較文学の分野でもバフチンは注目されている。その理由は、ここに引いたように、バフチンが単に言葉の意味を理解するのではなく、言葉を取り巻くコンテキストの理解を重要視しており、その点が比較文学の精読という方法と相通じるためだからだろう。


著者: ミハイル・バフチン
タイトル: ミハイル・バフチン全著作 (第2巻)
Mon, February 07, 2005

デカルト『方法序説』

テーマ:哲学・思想
◆デカルト(谷川多佳子訳)『方法序説』岩波文庫、1997年7月

あまりにも有名な本なのに、これまで読んだことがなかった。「我思う、ゆえに我あり」ばかりが目立つ、この本。この言葉は、第4部に次のように現れる。

《しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(p.46)》

この部分をめぐって、古今東西の哲学者が議論を戦わせてきたのだな、としみじみと味わってみたくなる。が、実際に読んでみると、あっさりと登場するので拍子抜けしてしまった。もっともったいぶって書いてくれたら良かったのに、と思う。

『方法序説』からうかがわれるデカルトは、非常に心配性というか慎重な人、というものだ。この心配性なところが、きっと方法的懐疑というデカルトの方法を生み出したのだろう。もちろん、時代背景もあるのだけど(ガリレイの事件を知った衝撃を、デカルトは第6部で語っている)。

最後にデカルトは、自分の今後の予定をこんなふうに記している。

《わたしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した。(p.102)》

自分の問題だけをひたすら考えようとする、それ以外に時間など使うまいというデカルトは、たしかに哲学者なのだなあと思う。


著者: デカルト, Ren´e Descartes, 谷川 多佳子
タイトル: 方法序説

Amebaおすすめキーワード

    1 | 2 次ページ >> ▼ /
    メロメロパーク
    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト