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Sat, January 29, 2005

G.C.スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』

テーマ:哲学・思想
◆G.C.スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』みすず書房、1998年11月

この本は、スピヴァクの本のなかでもよく読まれている有名な本だけあって、たしかに興味深い議論がなされている。『ある学問の死』は凡庸な本だと思ったが、この本を読むとやはりスピヴァクの批評は重要なものであることがわかる。

内容は、冒頭に簡単にまとめられているので、それを引用しておこう。

《この論文では、ことがらの性質からして必然的に迂回路をとって、まずは現在西洋において主体を問題化しようとしてなされているさまざまな努力についての一つの批判から始め、つぎに第三世界の主体が西洋の言説のなかでどのように表象されているかという問いへと進んでいくことになる。(…)そして最後には、西洋の諸言説とサバルタンの女性について(あるいは代わって)語ることの可能性との関係について、従来のものに代わってひとつの新たな分析を提供することになるだろう。(p.2)》

はじめに「主体」を批判する際に生じる問題を、フーコーとドゥルーズの対談を批判的に検討される。二人は、第一に権力/欲望/利害のネットワークは異種混交的なもので、それらをひとつの首尾一貫したものに還元できないこと、第二に知識人は社会の他者の言説を明るみに出し、知るように努めるべきだと主張した。しかし、スピヴァクは「二人とも、イデオロギーの問題およびかれら自身が知的ならびに経済的な生産活動の歴史のなかに巻きこまれているということ」を無視しているという。主権的な主体が問題になっているのに、二人の対談は「二つの一枚岩的で匿名の革命化しつつある主体」が前提にされている。その二つとは「あるマオイスト」と「労働者たちの闘争」。つまり「アジア」(あるいは「アフリカ」)と「労働者」を二人は一枚岩的に透明化した存在としている!とスピヴァクは批判している。

もう一つの批判の知識人の役割について。結局、「囚人、兵士、生徒たちの政治的アピールの保証人である具体的経験が明るみに出されるのは、あくまでもエピステーメーの診断者たる知識人の具体的経験を通じて」であることに気が付いていない。「representation」の二つの意味、すなわち「代弁/代表」の意味と「再現/表象」の意味が、ごっちゃになって使われていることが問題であるとスピヴァクは批判する。以下、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』を引いて、スピヴァクは「vertreten」(代弁/代表)と「darstellen」(再現/表象)の分析をする。マルクスを脱構築的に読解するこの部分が、本書の有名な箇所であるらしい。

スピヴァクは、デリダの訳者だけあって、デリダの脱構築に可能性の中心を見出している人なのだ。なぜ、デリダか?それは、デリダが「自民族中心主義的な主体があるひとつの他者を選択的に定義することで自己を確立してしまうのを避けるのはどうすればよいか」という問題に敏感だったからだ。スピヴァクは、デリダが「他者(たち)に自分で語らせる」ことを求めず、「まったき他者」(自己を確立するための他者とは対立する他者)への「呼びかけ」を通じて、「わたしたちのなかの他者の声である内なる声にうわ言をいわせる」ことに注目している。

知識人の立ち位置というか、どのような場所から知識人が他者を語っているのか、おそらくそんなことが問題化されているのだろうなあと思う。表象批判がなされたのも、知識人が他者を語ろうとするとき、自分の立っている位置を隠蔽してしまうからだ。自分が何者であるかを隠しながら、「他者」の「経験」を語ってしまう。そんな「同化」の暴力を批判した、と思う。(自分の解釈に自信なし。きっと誤読・誤解の可能性が強い。)


著者: G.C. スピヴァク, Gayatri Chakravorty Spivak, 上村 忠男
タイトル: サバルタンは語ることができるか
Fri, January 28, 2005

G.C.スピヴァク『ある学問の死』

テーマ:文学研究・批評
◆G・C・スピヴァク(上村忠男・鈴木聡訳)『ある学問の死 惑星思考の比較文学へ』みすず書房、2004年5月

アマゾンの読者レビューを見ていたら、この本に対する評価が低かった。「そんなにひどい本なのだろうか」と心配しながら読んだ。

つまらない本だとは思わないが、内容はたしかに取り立てて鋭いものではなかった。「ある学問の死」とタイトルにしているのだから、比較文学の「死」を語ってくれるのかと期待していたのに「死」なんてちっとも語られていない。逆に何度も強調されるのは、こういうことだ。

《本書を通じて、わたしは一貫して、いささかユートピア的ともいえる論法で、比較文学と地域研究の力の結集を繰り返し訴えてきた。ついに時代がわたしたちにそうするように歩み寄ってきたようにみえるからである。(p.34)》

比較文学で培われてきた「精読」の方法は、エリア・スタディ(地域研究)と連動し、大いに活用されなくてはならないと、比較文学を必死に擁護しようとしていたのが気に掛かる。私は、比較文学が専門だが、比較文学はとりあえず一度死なせてしまったほうが良いだろうと日頃から考えているので、スピヴァクのように素直に比較文学を擁護する気にはなれない。

著者: G・C・スピヴァク, 上村 忠男, 鈴木 聡
タイトル: ある学問の死 惑星思考の比較文学へ
Thu, January 27, 2005

香西秀信『反論の技術』

テーマ:エッセイ
◆香西秀信『反論の技術―その意義と訓練方法』明治図書、1995年8月

そもそも何かについて意見するとは、別の考えにたいして反論することなのだという「デリダ」の「エクリチュール」っぽい著者の考えは、かなり説得力あり。反論をレトリックつまり修辞学の一つとして説明し、いかに述べたら効果的な反論ができるのかということを教えてくれる。

第1部では、反論についての著者の説が書かれているのだけど、この文章自体が非常に良いもので、「論文」の見本のようなものだった。先行研究に対する著者の「反論」が、かなり鋭くて面白い。

第2部、第3部で「反論」術習得への具体的な方法が示される。私がいいなと思ったものは、いろいろな文章から反論の部分だけを集めて、反論集なるノートを作ってみるということ。どんな反論の型があるのか知ることもできるし、その反論に対してどんな反論が可能かを考えることでも良い訓練になる。この方法に見られるように、本書では徹底して反論の型の習得に力が注がれている。型といっても複雑なものではなく、要するに反論する箇所はきちっと引用すること、そして論証部分は箇条書きで「第一には…」「第二は…」と書くこと、この二点を初心者の訓練では徹底させることが強調されている。これは、意識すればすぐにできることだ。本書は、「反論」の技術を具体的に示しているので理解しやすい。


著者: 香西 秀信
タイトル: 反論の技術―その意義と訓練方法
Wed, January 26, 2005

ジャック・デリダ『ユリシーズ グラモフォン』

テーマ:哲学・思想
◆ジャック・デリダ(合田正人/中真生訳)『ユリシーズ グラモフォン』法政大学出版局、2001年6月

『存在論的、郵便的』を読んだところだったので、少しは理解できるかなと思って読み始めたが、例の如くこの本でデリダが何をしようとしていたのかが分からなかった。ま、いいか。

そんななかで、気になる箇所を発見。ちょっと引用してみる。

《「アクション」――それは言語行為、いやむしろ後で見るように、エクリチュールの行為なのだが――のなかのこの二重性、この内的戦争こそが出来事、それも真実においてあったところの出来事そのもの[he war]なのだ。つまりは戦争であり、戦争の本質なのだ。(p.49)》

「アクション」――この言葉から想起するのは、もちろんあの作品すなわち阿部和重の「ABC戦争」だ。何か関係があるのか、あるいは直接的な関係がなくても「アクション」という語を手掛かりに、デリダと「ABC戦争」を強引に接続させて読解してみるのも面白いのではないか。デリダの本を読みながら思ったのは、誤読すること、誤読に可能性を見出すことが重要なのだろうということだ。誤読の哲学、これがデリダなんじゃないか、そんな妄想を抱いてしまう。

デリダから阿部和重を読むのは、誤読でもなんでもないのだが(阿部和重の作品のどれかに「デリダ」の名があったはず)、阿部和重が作品中で先行する作品に自己を投影した読みを披露するように、文学や哲学の書を誤読してみたいものだ。


著者: ジャック デリダ, Jacques Derrida, 合田 正人, 中 真生
タイトル: ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと
Tue, January 25, 2005

東浩紀『存在論的、郵便的』

テーマ:哲学・思想
◆東浩紀『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』新潮社、1998年10月

数年ぶりに読んでみた。今読んでも充分面白かった。しかし、第3章と第4章が、まだまだよく理解できない。苦手な箇所。また時間を置いてから、読み直さないとダメだ。

哲学や思想、ましてデリダ研究の専門家ではないので、そのあたりの現在の状況を知らないが、どうなのだろう?やはりこの本が取り上げられ分析(あるいは転移?)の対象となっているデリダのテクスト、『葉書』に代表される時期のデリダの研究は、いまだにそれほど行われていないのだろうか?最近のデリダ関連といえば、どうも「正義」論あたりでしばしば見かけるのだけど。ということは、デリダが「政治」に言及するようになったころのテクストが関心の的になっていないだろうか。たとえば『法の力』とか。仲正氏も、どちらかと言うと、「政治」に介入していったデリダに関心がありそうだ。

70年代のデリダの奇妙な複雑なテクストは、未だに読解が困難で研究する人が少ないのだろうか?


著者: 東 浩紀
タイトル: 存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて
Mon, January 24, 2005

多和田葉子『旅をする裸の眼』

テーマ:日本語の文学(平成)
◆多和田葉子『旅をする裸の眼』講談社、2004年12月

全部で13章あり、それぞれの章に一つの映画のタイトル(おそらく。日本語のタイトルではないので、何の映画か調べないと分からない)が付されている。ベトナムからベルリンへ行き、そしてある男にボーフムに連れて行かれ、やがてパリへ移動する「わたし」がいる。「わたし」はひたすら毎日映画館に通い、何度も映画を見る。そんな「わたし」はパリで見た映画のなかで「あなた」に出会う。不法滞在という不安定な身なので旅の途中で出会った人の家に身を寄せながら、パリで映画を見る日々。「あなた」を見て、「あなた」に話しかけるように。

「わたし」の1988年から2000年までの物語と、「わたし」が「あなた」を見続ける物語の二つが交錯している。それぞれ文体が異なる。「わたし」が「あなた」に話しかけるように語る時は、「です・ます調」になっている。文体が急に変化する箇所などもあって、不思議な物語世界をかもし出している。

「わたし」が映画に出てくる「あなた」に萌えている、そういう物語だと言える。一方でまた「言語」萌えみたいなものもこの物語にはあるのではないかと思う。いや、もっと正確に言うと、多和田葉子という作家は「言語」に萌えているのではないか、とこの小説を読みながら感じた。私は、多和田葉子は複数の言語が入り交じる物語を書く作家である、という勝手なイメージを持っているので。


著者: 多和田 葉子
タイトル: 旅をする裸の眼
Mon, January 24, 2005

ジャック・デリダ、ジョン・D.カプート編『デリダとの対話』

テーマ:哲学・思想
◆ジャック・デリダ、ジョン・D.カプート編『デリダとの対話――脱構築入門』法政大学出版局、2004年12月

これは1994年10月にアメリカのヴィラノヴァ大学で行われたデリダを招いての「円卓会議」を記録したものに、編者カプートの注釈(というかデリダ論)を付けた本である。ちなみにカプートは、現代を代表する宗教思想家だそうだ。

脱構築入門と副題にもあるように、カプートの解説はひたすら「脱構築とは何か」という問いが中心となっている。カプートは、「「来るべき」正義、ならびに未来の肯定、これから到来すべき者たちの肯定」というデリダのモチーフ(あるいはメシア的モチーフ)を何度も取り上げている。来るべき者(=他者)への応答責任、これをカプートはデリダ論の重要な点と考えているようだ。

一つ、なるほどと感心した文章があった。

《「あなたはいつ来るのですか」
「今日です」
これが、一言で言った場合の脱構築である。(p.278)》

これは、うまい言い方だなと思う。けっこう私は気に入っている。


著者: ジャック・デリダ, ジョン・D.カプート, 高橋 透
タイトル: デリダとの対話―脱構築入門
Sun, January 23, 2005

阿部和重『シンセミア(下)』

テーマ:日本語の文学(平成)
◆阿部和重『シンセミア(下)』朝日新聞社、2003年10月

やっぱり面白いとしか言いようがない。どのようにこの小説の面白さを説明したらよいのだろう。

登場人物が多数いるように、この物語の主題もいくつも出てくる。性、権力、暴力、アメリカ、天皇、オカルト、共同体と個人、監視社会、インターネット…。どの主題から読んでみても、きっと興味深い解釈ができそうだ。

印象的なのは、登場人物が多数いるにもかかわらず、どの人物の「内面」もくわしく描かれているということだ。この小説が、大長編小説となったのも、それが原因だろう。「内面」が露出してしまっているというべきか。もちろんこの「内面」は読者だけが知る得ることであり、登場人物同士、お互いに何を考えていたり企んでいたりしているのか分からない。したがってゲーム論的な駆け引きが、多数の登場人物の間で行われることになるのだ。

またすでに指摘があるのだろうが、同じくある一つの土地を舞台にしたサーガということでは、中上健次をどうしても参照・比較したくなる。特に、「隈元光博」なる氏素性のはっきりしない人物は、たとえば中上の小説の「秋幸」であったりあるいは、「秋幸」の父である「浜村龍造」のようになる可能性もあったのではないだろうか。隈元光博は背の高い、非常に大きな体格をしているという身体的な特徴もまた、龍造-秋幸の系譜に連なる。そして、光博は田宮明と対決することになるのだが、そのとき発する次のような言葉もきわめて重要だろう。

《「お前の娘はな、厭んなるくらい俺とハメまくったんだよ、お父さん!だからもう、あんたと俺は、赤の他人じゃないんだよ、お父さん!これは否定できない事実なんだよ、お父さん!あんたはな、俺のお父さんでもあるんだよ!そうなんだよお父さん!あんたは、俺のお父さんなんだよ!アハハハ……」(p.382)》

何度も何度も「お父さん」という言葉が、光博から発せられている。素直に読めば、ここで「父殺し」の主題が鮮明に浮かび上がってくる。中上的な物語にこうして接近することになるだろう。

この物語では、たくさんの事件が同時多発的に生じる。終章でそうした様々な出来事の真相が「星谷影生」なる胡散臭い人物によって、一つの物語となってフリージャーナリストに語り伝えられる。これが阿部和重的な結末だなと思う。19世紀の小説にのような全知の語り手(=神の視点からの語り)による真相告白であれば、読者はすべてを読み終えた後に「事件の真相が理解できた」という気持になる。が、ここの語り手はいじわるなのか、自分では「真相」を語らず、神町を守っているというこの怪しげな人物「星谷影生」に語らせる。神町の歴史から、隈元光博の謎についてまで。たしかに、影生の語る話は事件のつじつまにぴったりとあう。だが、影生に信用がおけないがゆえに、別の「真相」があるのではないかという可能性を同時に含ませている。阿部和重は、物語を信用しているのだろうか。もちろん、物語が一つの結末に決着することに常に抗っているのが阿部和重という作家だと思う。そうした意味で、反=物語の作家なのだろう。とりあえず、そんなことが言えるのかもしれない。


著者: 阿部 和重
タイトル: シンセミア(下)
Sat, January 22, 2005

阿部和重『シンセミア(上)』

テーマ:日本語の文学(平成)
◆阿部和重『シンセミア(上)』朝日新聞社、2003年10月

上巻を読み終える。とりあえず、物語の半分を読み終えたところだ。すごく面白い小説。ここ数日、阿部和重の小説をまとめて読んでいるけれど、率直な感想を言えば、作品を発表するごとに「巧くなっている」と感じる。『シンセミア』は特に良くできた作品だなと思う。

ちょっと中上健次っぽいところが気になる。高橋源一郎の『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』を読み終えたところで、『シンセミア』を読むと、似ている主題があるので、二つの小説がなんだか絡み合ってきてしまう。二人の作家が同一主題を取り上げている、それに何か意味づけができるのではないか。そんなことを考えながら『シンセミア』を読書中。


著者: 阿部 和重
タイトル: シンセミア(上)
Fri, January 21, 2005

高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』

テーマ:日本語の文学(平成)
◆高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』朝日新聞社、2005年1月

「キムラサクヤの「秘かな欲望」、マツシマナナヨの「秘かな願望」、「唯物論者の恋」、「ウィンドウズ」、「小さな恋のメロディ」、「宿題」という5つの物語で構成されている。それぞれ独立した物語でもあるようだし、いくらか関連しているようでもある。とにかく、全体はタイトル通り「性」と「恋愛」が中心となっている。

「キムラサクヤの「秘かな欲望」、マツシマナナヨの「秘かな願望」という章は、他の章にくらべてやや長いのだが、ここでは二人の人物の物語が平行して語られ、最後に二人が交錯することになる。

その登場人物は、「女にもてる」という「欲望」を持つ男「キムラサクヤ(本名スズキイチロー)」と、「「愛してる」とか「好きだよ」と言われながら性交」することを願う「マツシマナナヨ(本名ナカノレナ)」の二人である。

キムラサクヤにせよ、マツシマナナヨにしろ、その身体に特徴がある。それゆえに彼らの欲望/願望が達せられない。キムラサクヤの容貌は、「中の下」ぐらいと言われるが、決定的に問題なのは、「脂性」と身体が発する「臭い!」においだ。この二つの問題によって、女性が近寄ってこない。それどころか他者から避けられている人物になっている。

一方、マツシマナナヨは醜い顔をしている。目は細すぎる、鼻は低い、顔全体が膨らみすぎで、顎が割れている。まぶたも腫れていた。顔だけが問題なのではない。マツシマナナヨは肥っていた。しかも「固太り」であった。大柄で骨も太く、そこに肉の層が堆積していた。肌はざらつき、身体中に湿疹もできている。さらに、マツシマナナヨには「顔」や「身体」よりもさらに深刻な問題があった。

《マツシマナナヨには、若さというか、精気というか、そういう「活き活きした」なにかが、つまり生命力が欠けていた。(p.47)》

二人をここまで醜く描くのはどうしてなのだろう。醜い二人にとって、「恋愛」あるいは「性交」は可能なのか。そういうテーマなのだろうか。キムラサクヤのおぞましい体臭。マツシマナナヨの身体の汚らわしさ。これらから、思い出すのは「天人五衰」の物語だ。汚穢にみちた身体を持つ人間、キムラサクヤとマツシマナナヨ。この二人は地上に墜ちた「五衰」の人なのではないか。

この物語で、この二人以外に中心となるモチーフが女性雑誌だ。『JJ』『CanCam』『Oggi』『with』『25ans』などなどたくさんの女性雑誌の名前が登場している。そしてマツシマナナヨはさまざな女性雑誌を隅から隅まで熟読しているし、キムラサクヤは女性雑誌で「オナニー」をしたりする。物語は、「女性雑誌」に溢れている言説の夥しい引用がなされている。とりわけ、二人が愛読しているのが『JJ』である。

汚穢に満ちた身体の二人に比べて、女性雑誌のモデルは「美しすぎる」。キムラサクヤは、そう感じた。彼には、モデルはみんな同じような顔、身体に見えた。でも美しかった。また、モデルたちは「セックスの話をしない」ということにも気づく。まるで性器が存在しないかのようだとキムラサクヤは思う。彼女たちに「セックスついて訊いていいのだろうか」などと考え込んでしまうキムラサクヤであった。

醜い身体と「美しすぎる」身体が、こうして対立する。こうした対立から、すぐに広告批判、強いては資本主義への批判を読み取るのはワンパターンすぎる。高橋源一郎が、そんな単純な物語を書くとは思えない。では、この物語をどう読めばよいのだろう?。そう考えるとけっこう難しい。キムラサクヤとマツシマナナヨは、アダルトビデオに出演し、そして二人が「性交」することになるだろう。醜い二人が、アダルトビデオのなかで性交すること。そのことをどう意味づければよいのか。このへんがまだ解釈できない。

「女性雑誌」「アダルトビデオ」「恋愛」「性交」…。これらは「幻想」でまとめられる。そうすると、「幻想」と醜い身体という「現実」の対立の物語。これでもワンパターンの解釈だ。これ以外の読み解き方を探さなければ。


著者: 高橋 源一郎
タイトル: 性交と恋愛にまつわるいくつかの物語

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