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Sun, December 26, 2004

仲正昌樹『ポスト・モダンの左旋回』

テーマ:哲学・思想
◆仲正昌樹『ポスト・モダンの左旋回』世界書院、2004年11月

ときどき(私にとって)難解な箇所があるのだけど、日本の「ポスト・モダン」の思想家・評論家と言われる人たちへの痛烈な批判はかなり説得力がある。

仲正氏が批判するのは、要するに表象=代行が持っている暴力あるいは抑圧的な力であろう。「われわれは、○○だ」と「われわれ」を持ち出して、その価値観を押しつけてくるもの。また、微妙な差異にこだわり、「マイノリティー」には語り得ないものがあるとして、その「代弁」をしようとするもの。こうした人たちが、著者にとって「典型的な左翼」のイメージであるという。要するに、どちらも自分たちこそ「真理」を持っていると錯覚し、それを盾にしながら敵を批判(いや批難)しようとする人たちなのだ。

私自身は、後者の「マイノリティー」を結果的には代弁するような形で(つまり、「マイノリティー」をネタにして)、一方的に自分たちのイデオロギーを押しつけてくることに対して日頃から反感を持っているので、本書の「左翼」批判は、我が意を得たりという感じ。

さて、仲正氏がこうした「典型的な左翼」を本書で徹底して批判するのは、次の理由からだ。

《両者とも、まるで「神の言葉」のような究極の"基準"を持ち出して、相手の発言を封じてしまうからである。(p.290)》

「神の言葉」を持ち出して、相手に何も言えないようにする。そうして、自分たちだけが語りを続けるのでは、「対話」などあり得ないだろう。「「上」から抑圧してくる「啓蒙主義者」も、「下」から拘束してくる「差異主義者」も、本当の「対話 dialogue」を回避して、「ひとりよがり」を押し通そうとする点ではよく似ている(p.290)」というわけだ。

ポスト・モダンの話になるとしばしば言われるように、「大きな物語」の語りが失効して、「小さな物語」=差異ばかりが流行するようになった。その典型が、柄谷行人あるいは浅田彰だったというわけだが、その柄谷が再び「大きな物語」へと方向を変えたのではないか、それが本書でいう「左」への転回だ。

ところで、著者は柄谷やフーコーに憧れて「小さな物語」を志向する人たちを、こう批判している。

《しかしながら、柄谷やフーコーの「小さな物語」に憧れる人たちのほとんどは、「大きな物語」の限界を感じて、それに対する「批判」として「ミクロ」を志向しているわけではない。「大きな物語」を扱うのは大変だし、批判を受けやすいから、手軽な「細かい話し」に手をだしているにすぎない人たちがやたら目立つ。「活動」するにしても、自分は「細かい話し」にだけ専念しているというポーズを取っておけば、大きな「責任」を回避することができる。(p.302)》

このあたり、けっこう共感してしまう。著者は、「小さくなってしまった話」を再び、「大きな物語=歴史」へと繋いでいくことに反対するわけではない、と言っている。問題はその戻り方にあった。かつて、ポスト・モダンであった人たちが、「左」へと転回するのを批判するのも、戻り方が良くないからである。著者は言う、「日本の元ポスト・モダニストたちのやっているのは、理論的・実践的な整合性のない、雰囲気的なものだと思っている。「空気」に流されているだけである(p.303)」と。安易に「大きな物語」に依存するのもダメだし、かと言って「小さな物語」に終始しているだけでもダメだ、ということだろう。

というわけで、タコツボからいかに脱出するか、というポスト・モダンを批判する際には考えなければ行けない問題が現れる。これは、難しい。本書でも、まだその見通しは立てられていない。「どうしたら穴蔵から出て、「他者」と「対話」できるようになるか考えるべきである(p.306)」と述べるに留めている。この問題は、もう言われはじめてから何年にもなるだろうけど、未だに説得力のある解答が示されることってないなあと思う。それだけ深刻でかつデリケートな問題なのだろう。私も「大きな物語」と「小さな物語」を接続する仕方が分からない。


著者: 仲正 昌樹
タイトル: ポスト・モダンの左旋回
Thu, December 23, 2004

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

テーマ:海外の文学
◆エミリー・ブロンテ(河島弘美訳)『嵐が丘(上)』岩波文庫、2004年2月
◆エミリー・ブロンテ(河島弘美訳)『嵐が丘(下)』岩波文庫、2004年3月

これも、吉田喜重の映画『嵐が丘』に触発されて読んだ。さすがに、世界の文学でも10本の指に入るであろう傑作だ。めちゃくちゃ面白い。岩波文庫だと上下2巻になっているが、あまりの面白さにあっという間に読み終わってしまう。

その面白さとは何だろう。まず挙げられるのは、登場人物たち。それぞれが強烈な個性(現代風に言うならキャラが立っている)を持っていて魅力がある。悪の権化、復讐の鬼と言えるヒースクリフはもちろんのこと、彼の熱烈な愛の対象となるキャサリン。キャサリンの兄、ヒンドリー。キャサリンの夫となるエドガー・リントンとその妹のイザベラ。そして、この壮絶な物語に深く関わり、そして語り伝えることになるネリー。そのネリーの話を聞くことになるロックウッドに至るまで、どの登場人物も忘れがたい印象を与える。

また、この物語の形式も非常に興味深い。吉田喜重の映画では、物語の形式に能の要素を取り入れていたのは、実は原作の構成に忠実であろうとしたのだろう。冒頭は、ロックウッドが嵐が丘にやって来るところだ。ロックウッドが、ヒースクリフから、もとはリントン家だったスラッシュクロスのお屋敷を借りることになったためだ。そして、ロックウッドはヒースクリフおよびこの嵐が丘に何か怪しげなものを感じて、家政婦のネリーからこの壮大な物語を聞くことになる。

でも、途中でたしかロックウッド自身がネリーから聞いたことを語る、という場面があったと思うので、きちんと物語の構成(誰が語っているのかとか、語っている時間は?)を調べるとけっこう複雑になっていると思われる。物語の最後は、きちんと冒頭の場面に繋がっていくし、なにより物語を聞き終わった後に、再びヒースクリフに会うと「この人物が、あの恐ろしい人物のヒースクリフなのか!」と一種異様な臨場感を読者の私は感じる。

エミリー・ブロンテ、恐るべし。


著者: エミリー・ブロンテ, 河島 弘美
タイトル: 嵐が丘(上)
Tue, December 21, 2004

藤原審爾『秋津温泉』

テーマ:日本語の文学(昭和)
◆藤原審爾『秋津温泉』集英社文庫、1978年11月

吉田喜重の映画『秋津温泉』は、ヒロイン新子の激しい「情念」を描いたものだったが、原作のこの小説は映画のような激しさはなく、しっとりと落着いた静かな雰囲気のなかに、女性たちの秘めた情熱を描いている。

小説は、かなり私小説的だと思う。藤原審爾が自分の体験を描いたという意味の私小説ではなくて、一種のジャンルとしての私小説といった意味でだが。

文庫には、井伏鱒二の解説が収められている。これによると、藤原審爾は、この「秋津温泉」を戦争中の21歳の時に書き始めたという。21歳で書いた小説とは思えないほど老成しているというか、現代の目から見ると「おやじ」くさい視線の語り手だ。主人公の周作が、彼をとりまく女性たちを見る目が「いやらしい」。これも、時代のコードといえば言えるのかもしれない。

周作をとりまく女性たちとは、まず早くに両親を亡くした周作を育ててくれた伯母がいる。この伯母を見る視線もいやらしくて、近親相姦的な雰囲気をかもし出す。この伯母に連れられてやってきたのが秋津温泉で、ここで周作は同年代の女の子、直子と知り合う。周作も病弱な、言うなれば「お国のため」にならない貧弱な身体の持ち主だが、直子もまた病を抱えている。周作は物語中、終始この直子の影を追ってしまうことになる。話はズレるが、たしか村上春樹の『ノルウェイの森』も「直子」という名前だったのでは。日本文学では、「直子」は病弱な女性なのだろうか?

それから、周作とつかず離れずの関係にあるのが、温泉旅館の女将の新子だ。映画は、小説に登場する伯母や直子を切って、新子と周作の物語に変えている。映画の新子は、小説に登場する女性たちを集約した存在であるという指摘もなされている。

病弱で、まともに働くこともできない周作だが、なぜかこれらの女性たちに好かれるのだからまったく不思議な物語なのだ。こんなにモテモテの周作なのに、彼はあろうことか直子とも新子とも結婚せずに、別の「木綿のような女」と結婚して一人娘までいる。そして、直子や新子の幸せを祈るとか言いながら、秋津温泉に通って、新子との関係をズルズルと引きずっているのだ。男性中心主義を批判する視点から読むと、もちろんいい加減なひどい男なのだ。

その批判はともかく、私にはいまいち周作がどうしたいのか分からない。私の想像力や読解力がないからかもしれない。なんで、周作は直子や新子のどちらかと結婚しなかったのか、ということが気になって仕方がない。舞台となる秋津温泉という場が、いかにも「桃源郷」ような空間である。周作は、数年おきに「桃源郷」にやってきて、女性たちのもてなしを受け、生きる力を得て山を降りていく。女性たちとの間に禁忌を設けるのは、周作の中で永遠に「桃源郷」を守り続けるためなのだろうか。

著者: 藤原 審爾
タイトル: 秋津温泉
Mon, December 20, 2004

三島由紀夫『金閣寺』

テーマ:三島由紀夫
◆三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫、1960年9月

要するに、「金閣寺」に火をつけてしまった青年の物語だ。この青年が、変な妄想癖というか被害妄想があって、けっこう笑える人物。女性と性関係を入ろうとすると、決まって女性の胸に「金閣寺」が見えてしまって、不能になってしまう。この青年の妄想は、「金閣寺」だけではない。子どものころ、「有為子」という密かに思いを寄せていた女性がいたのだが、この「有為子」のイメージもしばしば青年の前に現れる。変な話なのだ。

また、この主人公以外にもおかしな人物がたくさん登場する。戦争中、出征する際に恋人の乳を欲しがる男とか、戦後になって、娼婦の日本人女性を連れて金閣寺にやってきたアメリカ兵が、主人公にこの娼婦のお腹を踏め!と命令したりするわ、内翻足という障害をもった柏木という主人公の友だちは、主人公に向かって「吃れ!吃れ!」と怒鳴るし、金閣寺の老師は年がら年中買春しているわ、まともな人物は、主人公の友人の鶴川ぐらいなんじゃないか。この鶴川も困難な恋愛で、自殺してしまうようだし。

おかしなエピソードが満載の小説なのだけど、非常に真面目に書かれてあるから、なおいっそう面白いのだ。笑い話なんだけど、語っている本人は笑い話だと思っていない、そんなおかしさがある。一番最後の文章も三島らしくていい。

《別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。(p.330)》

放火事件を起こした直後にタバコを吸っているこの余裕さ。死ぬつもりで、「小刀」と「カルモチン」なんて買って用意していたくせに、あっさりとそれを捨てて、「生きよう」と思ってしまう青年。小説の主人公にしては、何か欠けているような気がするのだ。そんなおかしなところが、愛すべきキャラクターなのかもしれない。


著者: 三島 由紀夫
タイトル: 金閣寺
Sun, December 19, 2004

小川洋子『妊娠カレンダー』

テーマ:日本語の文学(平成)
◆小川洋子『妊娠カレンダー』文春文庫、1994年2月

この文庫には、表題作である「妊娠カレンダー」と「ドミトリイ」そして「夕暮れの給食室と雨のプール」が収録されている。私は、小川洋子の小説を今回はじめて読んだのだけど、この3つの作品、どれも面白かった。特に、ミステリアスなあるいはちょっとホラータッチな「ドミトリイ」にはまった。

「妊娠カレンダー」は芥川賞受賞作。姉が妊娠した様子を、同居している妹が淡々と記述している。妊娠という出来事を、新しい生の誕生を言祝ぐ物語といった紋切り型にはめずに、身体の変容つまりある意味「変身物語」としてグロテスクに描いていることが興味深い。

「夕暮れの給食室と雨のプール」は、結婚を間近にした女性が引っ越しをする。そこに現れたとある宗教勧誘をする父と子。この父子が、なぜか学校の給食室をいつものぞいている。どうしてそんなことをしているのかをこの女性に語るという物語。この男は、子どもの頃泳げないというコンプレックスを持っていた。そんな時、突然物が食べられなくなってしまう。それは、給食室でおばさんたちが大量の給食をつくっている光景を見てしまったからだった。

この給食を作る光景が、グロテスクに描写される。「妊娠カレンダー」でも姉がつわりがひどかったときに、食べ物の匂いをひどく嫌うようになるが、この男もまた食べ物の匂いに、不気味さを感じている。こうした匂いに代表される五感の鋭さが、小川洋子の特長なのか。

そして、「ドミトリイ」は、とある寂れた学生寮が舞台。主人公は、かつてこの学生寮で暮していた。ある時、10何年も合っていなかったいとこから電話があり、この学生寮を紹介してくれるよう頼まれ、このいとこの世話をするようになる。そして、今やさびれて住人のほとんどいない学生寮へ向かう。

ここで、両手と片足が義足の管理人の先生と主人公は再会する。この先生の設定からも分かるように、この小説でも身体の変容が主題となっている。それから、主人公はたびたび学生寮を訪れるようになり、体が病で衰弱していく先生の世話をするうちに、先生からどうしてこの学生寮が寂れてしまったのか、その理由を聞くことになる。

物語では、先生の身体とこの建物がまるで一心同体のように思える。物語が展開するにつれ次第に、先生そしてこの学生寮の存在が謎めき、幻想的な館に迷い込んだ主人公の物語になるところがすごく面白い。学生寮の入寮したいとこに、主人公がどうしても会えなくなってしまう不気味さも謎めいた雰囲気を出して効果的。とてもうまい小説だと思った。

著者: 小川 洋子
タイトル: 妊娠カレンダー
Sun, December 19, 2004

四方田犬彦編『吉田喜重の全体像』

テーマ:映画研究・批評
◆四方田犬彦編『吉田喜重の全体像』作品社、2004年8月

吉田喜重の全体像というタイトル通り、初期作品から『鏡の女たち』までを、5人の論者が論じた本格的な吉田喜重論集となっている。

私が面白い、興味深いと感じた論文は次のものである。

岡田茉莉子を論じた斎藤綾子の「女性と幻想―吉田喜重と岡田茉莉子」。吉田喜重の小津論を参照しながら、吉田が小津から何を継承したのかを論じた木下千花「継承と断絶―吉田喜重と小津安二郎」。四方田犬彦の3本の論文「母の来歴―『エロス+虐殺』」「『嵐が丘』と継承の問題」「母の母の母」は、四方田お得意の物語論となっており、物語を腑分けし分析する手際の良さに脱帽する。『エロス+虐殺』は、私には難解な作品で、いったいどんな映画だったのか理解できなかったので、四方田の論文は非常に参考になった。

最後に、この本のもとになったシンポジウムでの吉田喜重の講演内容があり、吉田のフィルモグラフィーをはじめとした詳細なデータが収められており、今後の吉田喜重研究にとって重要な論文集になっている。


著者: 四方田 犬彦
タイトル: 吉田喜重の全体像
Sat, December 18, 2004

金井美恵子『噂の娘』

テーマ:日本語の文学(平成)
◆金井美恵子『噂の娘』講談社文庫、2004年12月

すごく面白い小説なので、一気に読んでしまったが、しかし何か大きな中心となる筋があるわけではないので、どんな小説なのかを語るのが難しい。でも、すごい。

どうやら、母のお葬式をすませた女性が、子どものころを回想する物語らしい。事情は分からないが、病気の父がいて、どこかの病院に入院しており付きっきりで母が看病している。なので、この女性と弟が美容院に預けられているというのが、この小説の状況らしい。

物語の状況、登場人物たちの事情を、はっきりと示せないのは、語り手がほとんどそうした事情について話さないからだ。この小説の文体は、一文が読点でだらだらと繋がれており、非常に息の長い文章だ。会話の部分も、カギ括弧で括らず、地の文と同じレベルにある。私の第一印象は、樋口一葉の作品のようだな、というものだった。

また、特徴としてモノの描写が多いし、映画や小説などの物語がたくさん挿入されている。モノや映画や小説にまつわる「記憶」の断片が集積された小説、それがこの『噂の娘』なのだ。記憶の断片が、必ずしも一つの脈絡をもって語られるわけではなく、何の前触れもなく、別の話に変わっていたり、同じ文章がズレながら反復されたりもしている。私は、読みながら「アレ?」とひどく混乱してしまった。しかし、この複雑さがもたらす読みの混乱は、小説にどっぷり浸かってしまうとけっこう気持が良い。

「噂」なんてうまくタイトルをつけたものだと感心する。そもそも、この小説の舞台が美容院だし、さかのぼれば髪結い床は「噂」の集積する場所ではなかったか。美容院という舞台設定には、そのような文学史の記憶が含まれているのだろうし、また語りのスタイルも「噂」の特徴を活かしたものになっているのではないか。こうした実験的な手法に惹かれる。もっともっと深く読み込みたいという欲望を刺激するのだ。


著者: 金井 美恵子
タイトル: 噂の娘
Fri, December 17, 2004

内藤朝雄『いじめの社会理論』

テーマ:社会科学
◆内藤朝雄『いじめの社会理論 その生態学的秩序の生成と解体』柏書房、2001年7月

いじめの構造を理論的に明らかにしている。ちょっと私にはその理論的な説明が難しくて、きちんと理解できたかどうかは心許ないが、いじめの根本に、全能図式(つまり、己の望むことを実現すること)と利害図式が接続されていることを指摘しているのはかなり納得した。いじめっ子は、なにもストレス発散のために、衝動的に暴力を振るったりしているわけではない。いじめを行う際には、自分の行動がどう周囲に影響を及ぼして、それが自分自身のとってどんな得になるのかきちんと計算しているのだ。いじめっ子や暴力を振るう人のこういうところが嫌だなと思う。

あと、リベラリズムを底にした社会設計の提案がなされ、それをもとにした新たな教育制度案を最後に示している。ここでは、「教育チケット」なるアイデアが登場する。これは、教育に関してのみ利用することができる特殊な貨幣を発行し、これを収入に対して逆比例的に配分することによって、教育の機会平等を図ろうとするものだ。地域通貨に似ているのかなと思った。

で、このチケットを利用して、さまざまな学習サポート団体にアクセスして、個々人が思考錯誤しながら学習をし、必要な認定試験に合格することが目指される。学習サポート団体は、合格させなければ、人が集まらなくて消滅してしまうから、質の高いサポートの提供が要求される。このアイデアでは、「魅力と幸福感による淘汰」が重要になっている。これによって、教え方が悪いくせに暴力を振るう教師がいる団体や、いじめが蔓延する団体が淘汰されていくだろう。このアイデアは、けっこう面白いかも。


著者: 内藤 朝雄
タイトル: いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体
Wed, December 15, 2004

浅羽通明『ナショナリズム』

テーマ:哲学・思想
◆浅羽通明『ナショナリズム』ちくま新書、2004年5月

この本も『アナーキズム』と同様に、とても興味深い一冊だった。日本における「ナショナリズム」の思想史を辿っているのだが、知識人レベルの「ナショナリズム」を分析するだけではなく、大衆文化レベルにおける「ナショナリズム」を分析しているのが特色。

本書の第七章では、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』が取り上げられ、第八章では司馬遼太郎が論じられている。大衆文学やサブカルチャーの面から思想史を論じたことが面白いし、本書のなかでもっとも読み応えがあるのもこの二つの章であることは間違いない。


著者: 浅羽 通明
タイトル: ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門
Fri, December 10, 2004

浅羽通明『アナーキズム』

テーマ:哲学・思想
◆浅羽通明『アナーキズム』ちくま新書、2004年5月

今まで、浅羽通明の本はあまり好きではなかったけど、この本は面白かった。アナーキズムがどんなものなのか、よく知らなかったし、ましてアナーキズムの思想家の本などこれまで読んだことがなかった。なんとなく「危ない」思想という先入観があって、関心が湧かなかったのだ。

しかし、この間『エロス+虐殺』を見て、大杉栄が気になった。大杉栄といえば、日本で最大のアナキストだと言える人物だった。

一切の権力を否定し、個人の自由を尊重するアナーキズムと、そのような強い自我を否定し、相互扶助・相互監視で秩序を保つ農本共同体的なアナーキズムの二つが日本のアナーキズムにあったことが指摘される。誰にも頼らない強い個人と、そうした強い個人を消して仲間内で一体となる共同体主義という二つの面。強い個人を望む側にとっては、近代的自我以前のこうした共同体主義いわゆる「世間」には我慢ができないだろう。相容れない二つのアナーキズム。浅羽は、この矛盾する二つのアナーキズムを対立させるのではなく、共存させる道を主張する。ノージックや網野善彦などを参照して、複数の秩序、社会原理が棲み分けることで共存させよう、というのだ。

《ここから、不自由な「世間」も、強い個人から成る戦士共同体も、それぞれ居所を得る多様性ある世の中、不自由を選ぶ自由も許容される、メタ・アナーキズムの構想が導けないだろうか。(p.279)》

このアイデアに、共感を覚える。私自身が強い個人になれそうにないし、どちらかというと不自由や不快なことがあっても、ぬくぬくとした「世間」のほうが良いと思っていたからだろう。以前の日記で、ほどほどの自由で良いと書いたことを思い出した。

私も個人の自由は理想的だと思うし、「世間」の不愉快さも充分に知っている。でもやっぱり「世間」的な安心・安全なほうがいいという気持のほうが強い。監視社会は嫌だけど、だけど危険と隣り合わせの「自由」な生活も嫌だというわけだ。だから、棲み分けというアイデアはけっこう良いものかもしれない。個人の自由を絶対とする人と、やっぱり世間のなかで暮したいという私のような人が、ともに存在していける世界。そのような多様性のある世界なら歓迎だなと思う。


著者: 浅羽 通明
タイトル: アナーキズム―名著でたどる日本思想入門

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