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Mon, November 29, 2004

三島由紀夫『ラディゲの死』

テーマ:三島由紀夫
◆三島由紀夫『ラディゲの死』新潮文庫、1980年12月

ラディゲはフランスの作家だ。三島がこの夭折の作家に非常に憧れていたのは有名な話である。私もラディゲが好きだ。文学の研究をしようと決心したのもラディゲが原因だったし。ラディゲを読んでいなかったら、文学など研究することはなかっただろう。なにしろ、ラディゲを読むまでは、本などまったく読まなかったのだから。

だから青春時代あるいは10代でラディゲに出会うことは危険なことなのである。10代の人間には、ラディゲは毒である。読んだら最後、もうその世界から抜け出すことはできないだろう。もう人生に未来などないと思った方がよい。10代でラディゲなど読んではいけない。「死」の覚悟がないかぎり、ラディゲに触れるのは危険だ。文学とは「死」そのものなのである。

したがって、夭折しなかった私は、けっきょく「文学」に触れることは一生ないだろうと思う。「文学」に触れていれば、生きてなどいられないはずだから、といつも思う。

話が逸れてしまった。三島は、ラディゲの死をコクトーを通して描いた。ラディゲになれなかったかわりに、せいぜいラディゲの死を書くしかない。夭折できなかった者の悲しい作品である。それを読む私は、もっと卑小な人間でしかないのだが…。

この短篇集には、三島の10代のころから31歳までの作品が入っている。10代で書いた「みのもの月」などは、谷崎風の小説だけど、まだまだ幼い印象。よく書けていると思うが、第一あまり面白くない物語だ。

気になるのは、「首」を主題にした短篇が二つあること。一つは「山羊の首」。もう一つは「日曜日」である。

「日曜日」は、同じ役所に勤める恋人二人が、日曜日ごとにデートをする話。だが、ある日のデートで混雑している駅のホームで押され線路に落ちてしまう。そこで起きた荒唐無稽な悲劇。

 腕を組んでいたので、一人で死ぬことは困難であった。幸男が顛落し、斜めに秀子が引きずられて落ちた。ここでもまた何らかの恩寵が作用して、列車の車輪は、うまく並べられた二人の頸を正確に轢いた。そこで惨事におどろいて車輪が後退をはじめると、恋人同士の首が砂利の上にきれいに並んでいた。みんなはこの手品に感服し、運転手のふしぎな腕前を讃美したい気持になった。(p.135)

こんなことがあるわけがない。こういう馬鹿げたことをさらりと書いてしまう三島が面白い。

「山羊の首」は、女たらしの話。この女たらしが、戦争中に田舎娘を口説いていたとき、たまたま切られた山羊の首を見つけてしまう。それ以来、あらゆるところにこの山羊の首が現れて、山羊の目に見つめられているように感じてしまう男が登場する。これなんて、『金閣寺』みたいだ。たしか『金閣寺』でも、主人公が女と寝ようとすると、金閣寺が現れてダメになってしまうのではなかったか。何かに取り憑かれてしまう男というのも三島的モチーフなのかもしれない。

著者: 三島 由紀夫
タイトル: ラディゲの死
Sat, November 27, 2004

三島由紀夫『音楽』

テーマ:三島由紀夫
◆三島由紀夫『音楽』新潮文庫、1970年2月

三島の精神分析嫌いは有名だが、この小説はその精神分析を題材にしたものだ。解説のなかで、澁澤龍彦がこの小説を「推理小説のごときサスペンス」を持たせて書かれてあると指摘しているが、これはその通りだと思う。不感症の弓川麗子の過去に、いったい何があったのか。彼女は、どうして不感症になったのか。それを精神分析家が、推理して治療していく。

この精神分析家は、麗子の語る断片的な物語から、ある一つの物語を想像/創造していくという点では、小説家とまったく同じことをしているのではないか、と思う。この観点から深読みしてみると、作家が作家について語った自己言及的な物語なのかもしれない。

たとえば、精神分析との絡みでいうとハロルド・ブルームの「影響の不安」あたりを参照したくなる。

「いいわ、きっといつか兄さんを矮小な赤ん坊に変えて、私の子宮へ押し込んでやるから」という、神話的な悪意を凝らしたのであった。
 これこそ麗子の全症状の中核にあるものだった!そしてこの観念は、他の多くの観念を倒錯した形にみちびき、「兄との行為による兄の子の妊娠」という観念を、純潔の観念と同一視させてしまった。それさえ守っていれば、永久に純潔でありうる、という奇怪な考えが抱かれたときに、麗子の不感がはじまった。同時に麗子は「無原罪の母胎」を信じるにいたった。何故かといえば、妹が兄を生むというような不条理な母胎こそ、無原罪でなければならないからである。(p.222)


ここでは、父と息子ではなく、兄と妹という関係なのだが、自分より先に生れた者を、自分が生みたいという欲望がある。先行する者の影響をいかにして振り払うか。そうしたとき、倒錯した欲望が生れている。この記述は、とても興味深い。

著者: 三島 由紀夫
タイトル: 音楽
Sat, November 27, 2004

蓮實重彦『シネマの記憶装置』

テーマ:蓮實重彦
◆蓮實重彦『シネマの記憶装置』フィルムアート社、1997年3月(新装版)

この本も昔読んだことがある。第Ⅰ章の「シネマの記憶装置」という文章がすごい。まさに蓮實的文章といえるもので、約50ページほど切れ目なく続く文章がある。これはけっこう読むのが大変だ。正直何度か眠くなってしまった。読む者に苦行を強いるエクリチュールとの闘い。蓮實批評を受け入れるか、拒絶するかは、この文章を肯定するか否定するかにかかっているのではないだろうか。私は肯定派である。

著者: 蓮實 重彦
タイトル: シネマの記憶装置
Fri, November 26, 2004

三島由紀夫『美しい星』

テーマ:三島由紀夫
◆三島由紀夫『美しい星』新潮文庫、1967年10月

ある日、円盤を目撃したことから、自分は地球人ではなく宇宙人なのだと悟った家族の物語。エンターテイメントの小説ではなく、「純文学」のなかで、こんな荒唐無稽な設定の物語を書いた三島。しかも、けっこう面白い。三島はこの小説を書くために円盤観測の会に参加し、一時期かなり円盤に興味をもち、その実在を信じていたという。

この小説で圧巻なのは、第八章と第九章である。ここでは地球を滅亡することを企む羽黒助教授一派が、主人公の大杉重一郎と対決することになる。地球を救い出すべきか、滅ぼすべきなのかということを巡って、延々と議論を戦わす。文庫の解説の奥野健男も言うように、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の場面を思い浮かべるのも無理はない。当然、『カラマーゾフの兄弟』との影響関係を考えられる場面である。奥野は、「『美しい星』は、日本における画期的なディスカッション小説であり、人類の運命を洞察した思想小説」と評している。「ディスカッション小説」と聞けば、バフチンの「対話」ということになるだろう。

宇宙人であることを意識している大杉一家は、父重一郎、妻伊余子、長男一雄、長女の暁子の四人家族である。この家族で、重一郎はある種のカリスマ性を持っており、一雄は「政治」、暁子は「美」を担う役柄になるが、妻の伊余子だけはなんの特徴もない。宇宙人という意識はあるものの、そのほかには何もない妻というのは、けっこう辛いのではないか。

だから、夫が癌であることが判明したとき、ひどく通俗的な行動にでる。

伊余子はこの宇宙人の家族が、彼女を除外して、一つの秘密のために結託したという風に感じたのである。そのとき秘密の性質がどんなに人間的なものであれ、彼らは超人間的な直観でそれをつかんだにちがいなかった。何事につけ常識外れの良人や子供たちが、ひそかに伊余子の平板な感受性や古風な堅実さを莫迦にしているのではないかという怖れは、かねて彼女の心に巣喰っていた。こんな仲間外れが面白くなかった伊余子は、この大事な瞬間に、却って自分の乏しい直観に対する虚栄心を働かし、しゃにむに秘密に参与したふりをしようと力めた。
伊余子はベッドの端に崩折れて、泣きじゃくりながら、こう言った。
「ごめんなさい、……知っていたんです……知っていたんです……どうしても言えなかったの」(p.346)


周囲が才能を持っているのに、自分には何もない。だけど、自分は「普通」の人間ではないという意識=虚栄心が、どうしようもなくつまらない演技へと走らせる。とても宇宙人らしくない伊余子の振舞いなのだけど、私は共感してしまう。物語では、伊余子一人、ほとんど語られることのない人物なので、余計に愛おしくなるのだ。もっと、良い役割を与えてあげれば良かったのに!


著者: 三島 由紀夫
タイトル: 美しい星
Thu, November 25, 2004

蓮實重彦『監督 小津安二郎<増補決定版>』

テーマ:蓮實重彦
◆蓮實重彦『監督 小津安二郎<増補決定版>』筑摩書房、2003年10月

この前、ちくま文庫版のほうを読み終えたが、今回は去年出版された<増補決定版>を読んだ。

文庫版からあらたに書き加えられたのは、「憤ること」「笑うこと」「驚くこと」の三章である。他の章は文庫版と同じ。おそらくほとんど手は付けられていないと思う。

やはり、この本は面白い。他の小津論を読んだことがないので、比較はできないけど、きっとこの本より面白い論はないだろう。

これまで読んだことのある蓮實重彦の本では、一番のお気に入りになる。映画論では『映像の詩学』が今までは一番好きだったけど、『監督 小津安二郎』のほうが良いかも。

しかし、今回の版で、三つの章がつけ加えられたけど、おかげでますます小津論が書きにくくなったのではないか。「憤ること」の章などは、私も考えていたことが書かれてあり、その内容を超えるようなことは書けそうにない。今後の小津安二郎研究で、いかにしてこの蓮實本を超えるか。難しい作業が待っている。


著者: 蓮實 重彦
タイトル: 監督 小津安二郎
Wed, November 24, 2004

永井均『私・今・そして神』

テーマ:哲学・思想
◆永井均『私・今・そして神――開闢の哲学』講談社現代新書、2004年10月

久しぶりに永井均の本を読んだ。私は、同じ講談社現代新書から出ている『「子ども」のための哲学』が好きなので、この本もけっこう楽しみにしていた。

永井均は、いつも自分の問題を自分のやり方で解いていくという感じで、その姿勢に憧れる。まあ、そうして独自の哲学を展開してきたのだが、それが「神の存在証明」という哲学の王道のような地点に来てしまったことが本書で明らかになる。だから、タイトルに「神」なんて言葉がついていたのか。

それでも、永井的な哲学は続く。存在論的証明の脅威は、「それが正しいならどの神についても一般的に成立してしまうこと」で、つまり「現に存在しているあの神を、それだけが現に存在しているあの神を指せない」。デカルトの「我思うゆえに我あり」も同様。それが正しいならば、現に存在している「この私」を指せない。デカルト自身、この言明は誰にでも当てはまると言うのだから。(p.184)

後半は、「私的言語」の問題を扱っており、この箇所は改めてじっくりと読みたい。私自身、一番興味のある問題なので。私的言語の不可能性から私的言語の可能性へ。すべての始まりとしての私的言語。


著者: 永井 均
タイトル: 私・今・そして神―開闢の哲学
Tue, November 23, 2004

三島由紀夫『太陽と鉄』

テーマ:三島由紀夫
◆三島由紀夫『太陽と鉄』中公文庫、1987年11月

この文庫には、「太陽と鉄」と「私の遍歴時代」の二つが収められている。「太陽と鉄」は、三島の身体論すなわち「肉体」という問題を考える際に重要となるエッセイである。

三島はこのエッセイの冒頭で、こんなことを述べている。

私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶだろう。(p.9)

三島は、小説ではどうしても表現しにくいものが自分のなかに堆積しているように感じていると告白している。この「私」と、言葉として発せられた「私」の間にズレが生じること。言葉の「私」に収まらない、「私」とは何かと三島は考える。そして、たどり着いたのが「肉体」であった。

このエッセイのなかで、三島は言葉を不純なもの、肉体を汚染するものとして呪詛している。言葉を扱うのが小説家であるにもかかわらず、言葉を激しく嫌う。言葉は、この「私」から現実や肉体を奪うのだ。

こうして、三島が求めるのは言葉という媒介(媒体)を介さずに、直接現実と触れることだ。媒介を経ない直接的に世界とコミュニケーションを行うユートピアを目指す。つまり、このエッセイは、反媒介(メディア)論なのである。


著者: 三島 由紀夫
タイトル: 太陽と鉄
Sun, November 21, 2004

難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』

テーマ:哲学・思想
◆難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』光文社新書、2004年11月

現代思想のリーダーとして最適!。この本は、欧米などによくある思想書のアンソロジーを目指したものだ。取り上げられた思想家は、ソシュール(難波江)、ロラン・バルト(内田)、フーコー(難波江)、レヴィ=ストロース(内田)、ジャック・ラカン(内田)、サイード(難波江)の6人である。もちろん、著者らも自覚してあるように、これだけではとても現代思想を覆いきれないし、フランス系に偏ったものだ。しかし、新書一冊にあれもこれも望むのは土台無理なことだ。それよりも、この本で著者らが目指したことのほうが大切だと思う。すなわち、これらの思想家の思想を「ツール」として、どうやって使ったらよいのか、その「パフォーマンス」の一例を示したことだ。

この本で論じられている6人の思想家は、日本でもすでに何年も前から知られており、当然入門書や解説書の類も多い。したがって、すでにこれらの思想に触れている人などは、この本を読んでもそれほど新鮮な刺激は受けないだろう。この本は、まだ思想に触れたことがないか、少しは知っているが、それをどうやって使うのかが分からない人向けの本だと思う。

思想を理解することは難しい。この中の一人の思想家を理解しようと思ったら、けっこう大変なことだ。一方で、新しい思想はつぎつぎと入ってくる。私は、思想書を読むのが苦手なので、思想を充分に理解できないし、ましてその思想をどの場面で、どのように用いたら効果的なのか分からない。だから、こうした教科書のような本があると助かる。とりあえずのパースペクティブが得られるからだ。

また、思想の「使い方」を知ることも重要だと思う。私の経験にすぎないけれど、思想の内容はなんとなく分かるが、それをどこにどうやって使ったらよいのかが分からないということがあった。フーコーの本を苦労して読んだ。だけど、私は現在までその経験を有効に生かしたことがない。これは、せっかく苦労して思想を理解しても、宝の持ち腐れではないか!。なんてもったいないことだろう。したがって、「この場面で、この思想を使う!」ということを知っておくのも必要なことだと思う。

あとがきで、内田氏は「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」と学生に向かって言う、と書いている。パソコンの動く仕組みもよく知らない、テレビがどうして映るのかもよく分からないが、それでも日々パソコンを使い、テレビを見ている。道具は、使っている内に「何をする」ための道具なのか、自ずと分かってくるだろう、と。

たしかに使ってみて理解できることもあるのだろうなあと思う。これもまた身体論の一つなのかもしれない。思想を頭ではなく身体として用いるために、本書はそのガイド役となるだろう。

あと、この本の内田氏の論はどれも面白いものだが、とくにコミュニケーションの観点から思想家を読み解いているように思える。情報(意味)のやりとりではなく、コミュニケーションにまつわるメタ・メッセージに注目している。こうしたコミュニケーション理論は、たとえば北田暁大のメディア論に通じるところである。内田氏と北田氏が似たような方向に向かっているのではないかと思う。


著者: 難波江 和英, 内田 樹
タイトル: 現代思想のパフォーマンス
Sat, November 20, 2004

三島由紀夫『不道徳教育講座』

テーマ:三島由紀夫
◆三島由紀夫『不道徳教育講座』角川文庫、1967年11月

「不道徳」というタイトル通り、「世間」の常識にあえて反することをやや挑発的に書いた逆説が好きな三島らしいエッセイ。

「教師を内心バカにすべし」「大いにウソをつくべし」「人に迷惑をかけて死ぬべし」など、ずらりと「不道徳」な章題が並んでいるのだけど、発表時はそれなりに刺激があったかもしれないが、時間を経た現在では、やや古くささを感じてしまうかも。特に、「性」のモラルに関する話は、三島が考えていたよりも現在ははるかに「不道徳」になったのかもしれない。これは、風俗を題材にした文章では仕方がない。それでも、昭和40年代のモラルがいかなるものであったのかを知る重要な資料にはなるのではないか。


著者: 三島 由紀夫
タイトル: 不道徳教育講座
Fri, November 19, 2004

市川浩『<私さがし>と<世界さがし>』

テーマ:哲学・思想
◆市川浩『<私さがし>と<世界さがし>』岩波書店、1989年3月

市川浩といえば身体論である。身体論といえば市川浩なのである。一時期は多くの研究者や批評家が参照していた。日本近代文学研究も例外ではない。いまでも現象学をかじった人は、つい市川浩を引用してしまうのではないだろうか。

そんなこんなで、私も身体論に興味があるのでいつかは著作を読まないとなあと思っていた。講談社の学術文庫には、『精神としての身体』とか『<身>の構造』があり、どちらも有名な本だ。「錯綜体」とか「身」という概念が、批評家の心を打つらしい。

こういうことを漠然と知ってはいたが、私はこれまで直接市川浩の本を読んだことがなかった。この前、『漱石と三人の読者』を読んでいたら、市川浩の言葉がちらっと引用されていた。その元が、この『<私さがし>と<世界さがし>』だった。そこで、さっそく古本屋で探して手に入れ、読んでみたのだが…。

寺山修司の批評とか『去年マリエンバートで』の批評は、けっこう面白いことが書かれてあった。だけど、率直に言って面白い本ではない。理論的な考察を進める四章あたりは、ざんねんながら「退屈」としか言いようがない。現象学を学んだ人(鷲田清一とかだけど)がよく行う言葉の語源から「文化」を論じていくスタイルって、昔は流行したけど今はもう古いと思う。この方法は、どこか「文化本質主義」的な匂いがする。すごく危うい。うさんくさい。

この本を読んだら、一気に市川浩への興味が薄れてしまった。この本を読む前までは、身体論の大家として、ひそかに憧れていたのだが。それも幻だったか。辛抱して、他の本を読んでみるべきか。悩むところである。

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