Thu, September 30, 2004

『自由の平等』

テーマ:社会科学
◆立岩真也『自由の平等 簡単で別な姿の世界』岩波書店、2004年1月

一筋縄では読み解けない本だ。すくなくとも私のような不勉強な人間には。『私的所有論』のつづきとなる本だと思うのだけど、そもそも『私的所有論』もまともに私は理解できていないので、著者が主張したいことをどうしても掴みかねる。

私が作った物や産み出したものは私のものだ、という一見すると自明のように感じられる「私的所有」という概念に「待った!」とかけるということで良いのだろうか。本当に、私が産み出したものは私のものだと言い切れるのか。疑問を差し込む余地がないか。

そこから、「分配」の問題ももう一度考え直されるだろう。公平な「分配」とはいかなることか。誰が、誰にどれぐらい「分配」するのか。「分配」を受ける側の問題はなにか。このあたりを、ねばり強くけっして軽やかとは言えない思考のプロセスを展開するのだが、著者が粘り強くても、読み手の私は粘りがないので、途中で降参してしまった…。

立岩氏は、けっして難解な言い回しなど用いて書いているわけではない。ここに書かれている考えは、とても興味があるので、なんとか読み解いていつか理解したい、と思う。「私的所有」について考えること、たとえば、これは著作権という問題を考える時に非常に有効だと思える。だから、この本は現代社会を分析する際に必要となると思われる。でも、難しい。
Thu, September 30, 2004

『物語の体操』

テーマ:文学研究・批評
◆大塚英志『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』朝日文庫、2003年4月

これは、小説をこれまで書いたことがない人を対象に、小説が書けるようになるまでのレッスンを6回に分けて論じたものだ。

その方法は、批評的に言えば、構造主義、ナラトロジーの応用だ。つまり、物語の構造(文法)つまりパターンを身につけてしまえ、ということなのだ。その際、ナラトロジーの使える所だけを抜き出して用いるというところが大塚英志らしい。

この本は、第一に小説の書き方を身につけることを目指すものだけど、また同時に「物語」への批評という面もあるという。たしかに、批評にとって、ジャンルの性格を見抜くことは必要だと思う。その点、手っ取り早く物語の構造を知るには、この本は役に立つ。物語理論の本を本格的に勉強しようとすると、けっこう難しい。実は、本格的な物語理論への橋渡しの役もこの本は果たしているのだ。
Thu, September 30, 2004

『反=近代文学史』

テーマ:文学研究・批評
◆中条省平『反=近代文学史』文藝春秋、2002年9月

中条氏の「書評」はたしかに面白し、かつ有益な情報となっている。中条氏の書評は、本を買うときに参考になっている。なので、この文学評論も期待していたのだけど、面白いのは、漱石と谷崎を論じた箇所ぐらいだろうか。

この本で、取り上げられている作家は、夏目漱石、泉鏡花、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、稲垣足穂、夢野久作、三島由紀夫、渋澤龍彦、山田風太郎、村上龍、筒井康隆と盛りだくさんである。著者の「偏愛」する作家ということも論じられた理由でもあるけれど、「内面のドラマを追求する=近代文学」という枠組みをすり抜けてしまう作家たちを、ここでは「反=近代」の作家として取り上げているのだ。そういう意味では、教科書的な文学史からは異端視されるような作家も混じっており、タイトル通りの構成になっている。

でも、評論としてはいささか芸がないというか、それぞれの作家への切り込み方に工夫がなかったなあと感じる。率直にいえば、少々退屈だったのだ。これは、私の単なる印象でしかないのだけど。

それにしても、中条氏は物語を要約するのが非常に巧みなのだ。要約が巧い、ということはそれだけ物語の読みが鋭いということなのだろう。この点は感心する。要約の妙手といえば、四方田犬彦がいるわけだけど、中条氏も負けず劣らず、要約のテクニックには目を瞠るものがある。先に芸がないと述べたが、要約という芸があった。本当に要約に関しては一流である。
Thu, September 30, 2004

大塚英志『物語消費論』

テーマ:サブカルチャー
◆大塚英志『物語消費論』角川文庫、2001年10月

今週は、大塚英志の本ばかり読んでいる。人それぞれ感じ方は異なると思うが、私には、大塚の文章はすごく読みやすい。大塚の文体のリズムと私の読むリズムが、うまくかみ合うことが多いということだろうか。人によっては、大塚英志の文章は読みにくい!と言うので、決して大塚の文章が優れたものというわけではないのだろう。ともかく、大塚の本は読みやすいので、スランプの時とか、どうしようもなく何も手がつかないというような精神状態の時に読むと、さらさらっと読み終えることができるので、ちょうど良い気分転換になる、というわけなのだ。個人的に、大塚の「思想」というか批評にも関心を持っていて、ずっと追跡しようと思っているという理由もあるのだけど。

この本は、大塚の評論の中でもけっこう有名なほうだと思う。「ビックリマンシール」を仕組みを分析し、子どもたちが「物語」を消費することに夢中になっていることを示したものだ。断片化された「物語」から、ちらりとかいま見ることができる「大きな物語」。大塚の言葉で言えば、「大きな物語」は「世界観」にあたり、断片化された物語は「趣向」ということになる。この「世界観」さえあれば、あとは「趣向」をとっかえひっかえに物語を産み出すことが出来るようになる。それは、作り手と受け手の非対称性が崩れたことを意味するだろう。一人で物語を産み出し、それを消費することが可能になったのだ。これが、<モノ>という記号と戯れる消費社会の「終末の光景」なのだと述べていた。

大塚は民俗学を専攻していたので、こうした消費社会分析や評論に民俗学を応用するのだけど、この「民俗学」という方法もどこか精神分析と似て怪しさを時折感じる。メモをしていなかったので、記憶違いかもしれないが、大塚自身も何かの本で、民俗学の危うさを書いていたように思う。その危うさというのは、民俗学のタームを用いると、けっこうなんでも説明できてしまうということだ。精神分析でも、同じように専門用語を使うとうまく説明ができてしまうということがある。マジックワードのように精神分析や民俗学のタームを使うことで、文学や文化を読み解くが可能なのだ。ある社会現象に対して、これは民俗学で○○と言われるものだよ、とか説明されると「なるほど、そういうことか!」と一見現象の本質を理解したようになるけれど、それがあまりにもうまく当てはまりすぎて逆におかしいと感じてしまう。うまい説明ほど、あやしいものなのだ。

それは、80年代にマーケティングにおいてこうした「知」が利用されたということとも関わっているのかもしれない。今、盛んに産学協同とか産学提携といったことがひどくもてはやされているけれど、ニューアカの時代のような結果にならなければいいなあ。


著者: 大塚 英志
タイトル: 定本 物語消費論
Thu, September 30, 2004

『原稿用紙10枚を書く力』

テーマ:エッセイ
◆斎藤孝『原稿用紙10枚を書く力』大和書房、2004年10月

文章を書くための方法についての本を、また買ってしまった。どうしたら良い文章が書けるのか、その方法を知りたいというのもあるのだけど、ほかに他の人がどんな方法で文章や論文を書いているのかということがすごく気になるのだ。特に、売れっ子の作家や評論家が文章を書くために、日々どんなことをしているのかがとても気になって仕方がない。そして、影響を受けやすい私は、すぐにその方法を取り入れたりしてしまうのだけど…。

斎藤孝といえば、音読ともうひとつは3色ボールペンだ。この本も、これらのテクニックを使った文章法を説明している。とりわけ、3という数字は、長い文章を書くときの土台となるものである。

長い文章を書くとき、やみくもに書き始めても途中で必ず挫折してしまう。書く前に準備が必要となるわけだが、ここでは3つのキーコンセプトを用意するとよいらしい。なぜ3つなのか。

二つだと、なかなかオリジナリティを出すのはむずかしい。しかし、3つのキーを組み合わせて、そこから何か共通したコンセプトが引き出せるとおもしろいものが出て来るという。この時、類似した内容を3つ組み合わせるよりも、できるだけそれぞれに距離があるものを組み合わせ他方がよい。一見、共通性のないものに、繋がりを見出す。ここに書き手独自の視線が生れるからだ。

このアイデアは、たしかに使える。自分のことを省みると、論文を書くとき、つい同じ内容の材料を組み合わせて使うことが多い。どうりで、単純で底の浅い考えしか出てこなかったはずだ。簡単に繋がるものを組み合わせてみても提示しても、読者にインパクトを与えるのは難しい。

これはいろいろな場面で使えるという。たとえば、書評を書くときにも、自分が読んだ本で気になった箇所を3つ取りだして、それぞれに自分の考えを書き、その3つをいかにしたら繋げられるかを考えるだけでも、長い文章が書けると述べている。なるほど!

それからこの原稿用紙10枚を書く力という点にちょっと引かれた。大学に入った頃、10枚のレポートを書くのにどれほど苦労したことか。そんなに長い文章をどうやって書いたらいいのか分からず、やみくもに原稿用紙に字を埋めていったことを思い出した。たしかに10枚は大きな壁だ。実は、今でも壁だ。しかし、目下のところ私の本当の壁は、原稿用紙50枚だったりする。

斎藤孝は、たくさん論文を書くことで、10枚の壁を越え、文章法も体得していったようだ。やっぱり、研究者はたくさん論文を書かないとダメですな。
Thu, September 30, 2004

『映画への不実なる誘い』

テーマ:蓮實重彦
◆蓮實重彦『映画への不実なる誘い――国籍・演出・歴史』NTT出版、2004年8月

すごく内容が面白いので、一気に読んでしまう。この本は、2002年秋から2003年初頭にかけておこなわれた仙台での講演が元になっているという。だから、語り口調となっていて、読みやすい。

テーマは、「国籍」「演出」「歴史」の3つ。まず、「国籍」では映画において国境、国籍の概念が通用しないことの指摘がなされる。今風にいえば、国民国家の枠組みを軽々と超えてしまうのが映画だ、ということになるのだろうか。

さらに、ここでは具体的な映画の分析として、モーパッサンの『脂肪の塊』が各国においていかに翻案されていった様子が語られる。知らなかったのだけど、『脂肪の塊』がフランスはもとより、アメリカ、ソ連、そして中国、日本で翻案され映画化されているという。そこで、どうして『脂肪の塊』が各国で翻案され映画化されたのか、その意味を探ることになる。で、そのなかで、映画の「複製」の力が説明され、差異への感性の重要性が述べられている。このへんは、蓮實批評に親しんでいると明瞭に理解できることだ。

「演出」の講義では、映画は最低限「男と女と階段」があればできる、ということを具体的にはヒッチコック『汚名』を中心とした分析を通して語られている。

「歴史」では、ゴダールの『映画史』を読み解いている。読み解く鍵は「女性」である。というのは、『映画史』において、ゴダールは「女性」を召喚したかったのではないか、と思わせる仕掛けが施されているからだという。そんなわけで、『映画史』に現れる「女性」についての分析が始まる。『映画史』は見ても、良く分らない作品だったので、この一つの見方はとても参考になった。

蓮實批評の入門編として、とても面白い本だと思う。
Thu, September 30, 2004

『監督小津安二郎』

テーマ:蓮實重彦
◆蓮實重彦『監督 小津安二郎』ちくま学芸文庫、1992年6月

最近あらたに出た『監督小津安二郎』ではなくて、わざわざ古本で、この文庫版のほうを買って読んでみた。実は、この本を読むのは初めてになる。どうも好きなものは、後にとっておく癖があって、蓮實重彦の批評のなかで一番読みたいと思っていたこの本を、今の今までずっと取っておいたのだ。

しかし、今年、小津の映画をいくつかみて、やはりこの小津論は読んでおかねばなるまいと思い、ようやく読む決心がついたというわけだ。

小津の映画を見た後なので、なるほど書いてあることがよく分る。だからすごく面白かった。

小津の映画では、階段が写らない、というのをあらためて指摘されると、たしかに階段を真正面から写した画面の記憶がないのだ。だけど、『秋刀魚の味』のラストでは、この階段が写っているとあって、この映像をはっきりと覚えていない私は、なんともくやしい。こんな重大な映像を見逃しているなんて…。私の目はふし穴か、とくやしがる。

これまで、小津映画を語る人々は、一様に「~がない」という否定形で語ってきた。しかし、この本は、そのような「~がない」という欠如を指摘した否定で語るような貧しさにまっこうから対立する。ここでは、画面に写しだされている「細部」(けっして画面に写っていないものではない)を積み上げていくことで、小津映画に対する批評の「貧しい」言説を相対化する。「細部」を積み上げることで、自ずと理解できるのは、小津の映画の「豊かさ」である。小津の映画には「~がない」などと軽々しく言うことはできないだろう。「~がない」と小津の映画を指摘して何かを語ったような人は、画面を見ていない人であると言えるだろう。わたしたちは、そのような凡庸さから小津映画を解き放たなければならない、と思う。だから、せっせと小津の映画を上映している映画館に足を運ぶわけなのだった。
Thu, September 30, 2004

『小説から遠く離れて』

テーマ:蓮實重彦
◆蓮實重彦『小説から遠く離れて』河出文庫、1994年11月

作家の資質も異なるし、方法意識も異なるのに、なぜかある時期の長編小説が、みな同じような説話論的な構造をしている。これはいったいどういうことを意味しているのか。というのが、本書の大きな問題となる。そこで召喚される作家は、たとえば村上春樹、井上ひさし、丸谷才一、大江健三郎、中上健次、石川淳といった面々。たしかに、バラエティに富んだ選択だ。これらの作家の作品を中心に分析されるのは、「小説」ではなく、あくまで「物語」であるということが重要。すなわち、ここでは「形式」が問題となっており、おいおい文体や思想といったものは無視されるだろう。説話論的な還元という方法によって、すくい取られた「形式」の同一性にとりあえず驚いてみせることから、本書はスタートするのだ。

では、こうして取り出された「物語」とはどういうものであったか。それは以下のようなものだ。

《とにかく、どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の委譲」にかかわるものであり、そこで委譲されるべき権力と発見さるべき貴重品とは、深い関係があるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛が、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ。貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。(p.237)》

ここまで還元されてしまうと、作家としてはきついのではないか、と思ってしまう。あとは、細部を入れ替えたりすれば、それなりの物語が出来てしまうのが面白い。この本では、大塚英志の『物語の体操』とはちがって、これを使って物語を創作するレッスンをするわけではないが、やっていることを二人とも同じなのだ。蓮實重彦の場合、この「形式」が批評の基準となり、この「物語」=「形式」からどのように距離をとっているのかが論じられることになるだろう。で、まあやはりというか村上春樹は×で、中上健次は○ということになるのであるが…。
Thu, September 30, 2004

『マンガの深読み、大人読み』

テーマ:サブカルチャー
◆夏目房之介『マンガの深読み、大人読み』イースト・プレス、2004年10月

期待して読んだのだけど、あまり面白い内容ではなくて残念。私としては、マンガ文化論や市場論を語る夏目房之介より、マンガ表現論の夏目房之介のほうが好きだ。表現論のほうが、断然面白いし、説得力がある。ぜったい表現論のほうが、マンガ研究に貢献できるはずだ。文化論や、市場論などマンガを読んでもどうせ理解できない大学院生や研究者に任せれば良いではないか。

だいたい、文化論などをやる研究者は、文学研究でも同じだけど、作品を読んで解釈することができない人たちなのだ。自分で読んで理解できないので、文化論とか市場論などのように作品外について研究しているわけで、それは作品を読めないコンプレックスの裏返しなのだ。「どこぞの国では、日本のマンガがこんな風に受けとめられている、びっくり!」みたいな文化論なんて、退屈な話にすぎない。

だから、夏目房之介のように、高いレベルで作品の表現を分析できる人が安易に文化論などにすり寄っていってはダメだ。「文化本質主義」などど若造に批判されても気にせず、がんがん表現分析をしてほしいものだ、と思う。

この本は、3部に分かれていて、1部がエッセイ、2部が『巨人の星』と『あしたのジョー』の徹底分析。3部が、マンガ文化論という構成になっている。やはり、読み応えがあるのは第2部だ。作品分析とインタビューで構成されており、製作現場の雰囲気がよく分かる。資料的にも貴重だし、内容も面白い。

逆にひどく詰まらない内容なのが第3部。ここは、いかにもマンガ学会っぽい言説になってしまっている。おそらく、この界隈の人たちとの交流が、夏目房之介の言語に悪い影響を与えてしまったのだろうなと感じる。

それにしても、三島由紀夫が『あしたのジョー』が読みたいばかりに、編集部まで雑誌を購入しに来たというエピソードは、ちょっと感動的だった。
Thu, September 30, 2004

『表層批評宣言』

テーマ:蓮實重彦
◆蓮實重彦『表層批評宣言』ちくま文庫、1985年12月

昔読んだものを再読。ずっと前に読んだ当時は、まだ批評や思想などに全然触れたこともなかったのに、いきなりこんな本を読んでしまって、まるで異星の言語を読んでいるような気分を味わったことを思い出す。今回は、そこまでひどく理解できないということはなかったけど、それでも簡単には読めないなあ。言っていることは、他の蓮實本と同じで(たとえば『物語批判序説』とか)なんだかんだ言っているけど、どいつもこいつも「制度」(=「物語」)内にとらわれて、その中で批評をしているだけではないか、ということだ。

「制度」内で語っている、と言われると私など「凡庸」な思考ばかりする人間にはちょっと(いやかなり)痛い。私も日記で、いろいろ他人の批判らしきことをつい書いたりするけど、その批判そのものが紋切型だったりする。後から気が付いて、なんて自分はダサいのだろうと恥ずかしくなったりするわけだけど。

結局どうすればいいのか、ということが問われるわけだけど、蓮實的にはひたすら「肯定」せよ、「表層」しかないことを自覚せよ、ということになるだろうか。深さや距離をねつ造して、それらしき物語(あるいは風景)に収まることに対して、「批評」とは「「作品」を風景に対する荒唐無稽な過剰として機能させ、風景を崩壊へと導く読み方にほかならない(p.227)」というわけだ。

「~がない」「~が書かれていない」という否定的な批判ではなくて、「ここにも~がある」「あそこに~が書かれている」というような肯定的な批評をすることを目指そうと決意する。そんなテクニックを身につけたい。

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