◆江国香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫、2005年2月

今、女性作家の短編小説を探しているので、この短編集を読んでみた。江国作品ははじめて読んでみたが、これは自分とは合わない世界の物語だなと思った。

ほとんどの作品の登場人物が、今風にいえばセレブっぽくて、おしゃれでそれなりの豊かな生活をしている。そしてつきあっている恋人がいて、だけどその恋人はたいてい結婚していたりする。生活も恋愛も表面上はクールに決めているけど、実は孤独なんだといった物語――

こういう物語は苦手だ。というのも、自分とは縁遠い世界で、まったく「リアリティ」を感じることができないからだ。というか、こういう物語に「リアリティ」を感じたり、共感したりする読者とはどのような人なのだろうか。そのほうが気になる。

江國 香織
泳ぐのに、安全でも適切でもありません

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◆綿矢りさ『夢を与える』河出書房新社、2007年2月

前2作とすっかり雰囲気が変わっていたのに驚いた。いかにも「小説」らしくなっていて、それは作者の技術が良くなったのかもしれないが、逆に言えば「小説」という枠の中にきれいに収まってしまって、『インストール』や『蹴りたい背中』のときのようなふてぶてしさが無くなってしまっているように思う。

主人公が芸能人ということで、『蹴りたい背中』に登場していたモデルの女性を発展させた小説なのだろう。他者にどのように自分が見られるのかという自意識は、『インストール』以来、綿矢作品の主題になっていて、だから人に見られることが仕事である芸能人が主人公になったのか。

それはそれとして、主人公の「夕子」に、前2作の主人公の女の子に見られた「本能」というものを感じることができなかった。たとえば、思考よりも先に男の子の背中を蹴ってしまうような本能が見られない。

たしかに、正晃と出会って、性欲の赴くままに正晃との性交を繰り返すという点では、本能的な人物と言えるのかもしれない。だが、それは前作に比べると、矛盾した言い方になるが、小説の展開上計算された本能に思える。

おそらくこの小説が優れているのは、唯一肉体を持った人物の「多摩」を登場させたことにあるのではないか。多摩と夕子が魚の干もの作りをする場面がもっとも印象的だった。他の登場人物は夕子をはじめみんな肉体を欠いているなかで、「多摩」だけが肉体を持った人物として造形されている。だから、夕子は多摩に親近感を覚えていたのだろうし、最後に夕子が向かうのも多摩だったのだろう。夕子は肉体を自分自身の肉体を求めていたのだ。だが、すべてが崩壊して、肉体が自分自身に戻ってきたとき、その肉体は衰えていた。

巽孝之が本作の書評で、本作の特徴として「両親の恋愛から数えて四半世紀ほどの長い歳月を扱っているわりに、流れている時間がたえず「現在」であり、いっさいの「歴史」がうかがわれないことだろう」と指摘し、このような時間性の欠如に21世紀初頭の「不気味なリアリティ」を見ている。この読みは、なるほどその通りであろう。本作は、時間(歴史)を欠いた空間のなかで、肉体を欠いた登場人物たちが喘いでいる世界を描いているのだ。

綿矢 りさ
夢を与える

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◆高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』文藝春秋、2007年1月

けっこうボリュームのある本なので、読み終えるのに時間がかかるかなと思ったが、いざ読み始めると面白くて一気に全部読んでしまった。保坂和志にせよ、この高橋源一郎にせよ、最近、小説家による小説論が熱い。

ここでは、自由であると思われている小説が、実はそうではなく非常に不自由な制限の下にあることを繰り返し述べている。つまり、小説の制度批判だ。また、近代小説では死者の物語が量産されてきたことに触れている。死者は誰にもわからない絶対的他者である。この誰にもわからない、書けない存在である死者の代弁者として文学が書かれてきたことへの違和感が吐露されている。死者は口がきけないがゆえに、誰かが代弁者として死者の物語を語る。ここでは、こうした言葉のあるいは文学の暴力への批判がなされていると思う。

死者の声を聞くことができないことを良いことに、「ニッポンの小説」は、死者を虚構の発現する場として利用し続けてきたのかもしれない。このことは反省されるべきだろう。

とはいえ、本書に感じられる純粋性への憧れというか志向が気になる。どうして、ここにきて、意味に汚染されていない「存在」をいかにして書くかということが重視されなくてはならないのか。言語に表象され得ないモノと言語の関係、あるいは小説との関係をもう一度考え直そうという試みなのだろうか。純粋性へのこだわりが気になって仕方がない。

高橋 源一郎
ニッポンの小説―百年の孤独

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◆左近司祥子『哲学のことば』岩波ジュニア新書、2007年2月

全8章で構成されている。取り上げられているテーマは、た とえば人間は何か、愛、友情、生と死、私とは何か、といったもの。そして、哲学者の言葉をいくつか引用しながら、これらのテーマについて論じていくスタイ ル。テーマ自体は興味のあるものだったが、全体を通じていまいちな内容だった。

わかりやすいようで、微妙に理解しにくい本だ。

左近司 祥子
哲学のことば

◆パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』ちくま新書、2007年2月

けっこう面白い。批判や否定よりも「つっこみ力」の必要性を説く。

批 判や否定の言辞は、相手の間違いを指摘してつぶしていくだけだ。つっこみはそうではない。つまらない「ボケ」も、つっこみ次第では面白くなる。そうすれ ば、たしかに議論が広がっていくかもしれない。「つっこみ力は、場を盛り上げようというサービス精神と自己犠牲の精神が息づいている点で、批判や批評、メ ディアリテラシーとは一線を画します」(p.63)というが、これらの精神は何かを議論する場では重要だなと思う。

また、「メ ディアリテラシーや論理力がなかなか受け入れられないのは、それを使う人たちの態度が間違っているからなんです。そこにあるのは容赦のない否定ばかりで、 愛がありません。権威に刃向かう勇気がありません。そしてなにより、笑いがなく、つまらない」(p.103)という言葉から、ついこの間まで、世間を賑わ せていた「生む機械」発言を巡る野党の批判を思い出す。野党の批判があまり効果的でなかったのは、その批判が面白くなかったからだ。批判ではなくて、 「つっこみ力」で世間に笑いを引き起こしていたら、政治の流れは変わったかもなどと思う。

パオロ・マッツァリーノ
ちくま新書 645

◆細川英雄『日本語教育は何をめざすか 言語文化活動の理論と実践』明石書店、2002年1月

日本語教育、特に「日本事情」の授業に関する論考。理論的な著作。

こ とばと文化をどのように日本語教育のなかに位置づけるか。いろいろと刺激的な内容が書いてあり、参考になることが多い。私はもともと比較文化も勉強してい たので、やはり「文化とは何か」という問題に大いに関心がある。本書では、あるモノや事に触れたときに、個人のなかに生じる「文化」認識、つまり富士山を 見て、「これが日本の山なんだ」とか歌舞伎を見て日本の伝統文化なのだと感じること、そうしたものを「文化」と呼ぶ。したがって、Aという人物には「文 化」と感じないモノが、Bという人物には「文化」と感じるモノもある。「文化」は各人各様に存在するというわけだ。だが、各個人が心のなかで「これが文化 なんだなあ」とおもっているだけでは、他者にはその人の「文化」観がわからない。そのために、自分の「文化」認識を表現することが大切になる。内言から外 言へ移すプロセスをことばと文化を総合する活動として、著者は主張し、その理論と実践を行っている。

何か特定の事象なり現象を 「文化」と称して、知識を一方的に教える教育よりも、たしかに魅力的だ。ことばの学習や生活のなかから、何かに気がつき、気がついたことを調べ、それをこ とばにして他者に理解させるといった一連の作業は、別に第二言語習得教育に限らず、どんな人にも重要なことになるだろう。

細川 英雄
日本語教育は何をめざすか―言語文化活動の理論と実践

◆小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年9月

きわめて個性的な日本文学史で、日本文学の有名作品を解説したような教科書的な本とはことなり、本書では著者の文学史観に沿って語られている。

個 性的なものの一つに、時代区分がある。たいてい日本文学史を語るときには、奈良時代、平安時代、鎌倉時代云々とか、あるいは文学部で習うのは上古、中古、 中世、近世、近代といった時代区分なのだが、本書はまず古代から始まり、つぎに中世第一期となり、次に中世第二期、中世第三期と移り、最後に近代で終わ る。中世第一期は、いわゆる平安朝の文学、中世第二期ではいわゆる中世の文学(能や連歌など)、そして中世第三期では俳諧を中心とした江戸期の文学が解説 されている。近代については、あまりページが割かれていない。

もう一つの特徴は、文藝の展開を秩序づける立場として、著者が「雅」と「俗」という表現理念を認め、文藝史はこの二つの交錯によって形成されているとしたところだろう。

著 者は、「序説」のなかで、「雅」と「俗」について少し触れている。それによると、われわれには「永遠なるものへの憧れ」があるという。この憧れは、宗教や 藝術とか科学といった形で表現されたり、それらを媒介にしてわれわれは永遠なるものへと連なっていく。そして著者は、「永遠なるものへの憧れ」は二つの極 を持つとも言う。一つは「完成」であり、もう一つは「無限」である。「完成」の極が、「それ以上どうしようもないところまで磨きあげられた高さをめざす」 のに対し、「無限」の極は「どうなってゆくかわからない動きを含む」と説く。そして、著者は、前者が「雅」であり、後者が「俗」と呼ぶとしている。

独 創的な内容というのは、言い換えればかなり癖のある内容で、少々理解しにくい箇所もあるのだが、それでも時折興味深い指摘などがあり、読んでいてハッとさ せられる。たとえば、江戸の後期の文藝に現実逃避の精神を認めていたりして、なるほどなと思った。日本の文学の知識を得るには適当ではないかもしれない が、一人の文学者の文藝史観を味わい楽しむ本なのだろう。

小西 甚一
日本文学史

◆坪内逍遙『当世書生気質』岩波文庫、2006年4月

はじめは少々読みにくい文章だが、慣れてきて語り手の調子に乗ってい くと、非常に面白い。物語の途中で、本筋に関係あるのかなと思うような、書生の会話が描かれてたりして、現代の小説は趣が異なるが、それもまた味わい深 い。二葉亭の『浮雲』もそうだが、なんとか自分たちの手で「小説」を作り上げようとする努力が感じられる。だから、登場人物の会話には、たとえば「小町 田」と「田の次」の物語を「小説めいた」と評する言葉何度か現れるが、小説(語り手)がこれは「小説」なのだということを自身に言い聞かせながら語ってい ると言えるだろう。どのような書き方をしたら「小説」になるのか。何が「小説」的な表現なのか。そんなことを試行錯誤しながら書き進めているようだ。

場面転換の処理とか現代の目からみると、ずいぶんと下手だなと思うかもしれない。当たり前と思う表現方法が、かつては当たり前ではなかったのだ。このことを知るだけでも、この小説は非常に重要だ。

坪内 逍遙
当世書生気質

◆細川英雄『日本語教育と日本事情-異文化を越える-』明石書店、1999年10月

日本語教育には、「日本事情」とかそれに類した名称の授業がある。要するに、言葉だけ身につけても、その言葉の背景となる社会や文化を知らないと、言語をうまく運用することができないという理由から、このような授業が行われているのだと思う。

私 自身も、いきなり「日本」について、学生に教えることになったのだが、問題は何を教えたらよいのかわからないことだ。私の場合、とりあえず教科書を手渡さ れ、それを教えるように言われたので、今学期はその教科書に沿って教えたのだが、正直大失敗だった。失敗の原因はいろいろあるが、いちばん残念だったなあ と反省したのは、結局教科書に書かれている知識を一方的に教えただけになってしまったことだ。

とはいえ、「日本」について何をど のように教えたらよいのだろうか。中国で出版されている「日本事情」に関する教科書を年末にいくつ見てみたが、どれも似たような内容でがっかりした。つま り、日本の地理の説明から始まって、政治や経済の説明、伝統文化や文学の紹介といった内容。昨今の文化論でよく言われることだが、「日本」あるいは「日本 人」と一口に言ってもその姿は多様である。なので、教科書に書かれている「日本」に私自身違和感を覚えてしまう。内容が間違っているというのではなく、な ぜ「日本」の伝統文化だといって、歌舞伎や能を教えなければならないのだろうとか、日本の季節や地理について教えなければならないのだろうかと疑問に思う のだ。もちろん、歌舞伎や能について知らないよりは知っている方がいいし、日本の県の位置関係など知ることも大切だ。しかし、それをわざわざネイティブが 教えることなのだろうかと悩んでしまう。

教科書で描かれる「日本」と私の考える「日本」が異なるという点も問題だ。いったい「日 本」とは何なのだろうと迷ってしまう。いくらネイティブといっても、日本社会のあらゆることを私が知っているわけではない。そんな自分が「日本」の何を教 えることができるのかわからない。結局何をしたらよいのか不安を抱えたまま今学期が終わってしまった。私自身消化不良だったし、学生も消化不良だったにち がいない。

というわけで、今年は「日本事情」の授業について研究してみようかなと考えている。著者は「日本事情」の教育に関して、すでに何冊かの本を出しており、この分野でのパイオニア的存在であるが、それらの本を参考に何か自分なりの方法や理論が導き出せればいいなと思う。

異文化教育とか比較文化論というのは、机上の学習だけではリアリティを感じられない。実際に自分が巻き込まれてみて、はじめてその大切さや困難さを実感した。

細川 英雄
日本語教育と日本事情―異文化を超える

◆金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店、2003年1月

ずっと積ん読状態にあったのだが、お正月の休みの間に一気に読んだ。

「役割語」とは何か。定義がなされているので、それを引用してみる。

ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。(p.205)

たとえば本書でも分析の対象となっているが、役割語の一つに<博士語>がある。鉄腕アトムのお茶の水博士は「親じゃと? わしはアトムの親がわりになっとるわい!」というふうに「じゃ」とか「わし」といったいかにも<博士>がしゃべりそうな言葉づかいをしている。現実の世界で、博士のみんながみんな、このような話し方をするわけでもないし、というか、現実社会ではこのような話し方をする人に会ったこともないのだが、この言葉づかいを見ると即座に<博士>を思い浮かべてしまう。

本書は、どうしてこのような言葉づかいが現れたのかを、日本語の歴史から検討したり、役割語がいかなる効果をもたらすのかなどを論じている。非常になじみ深い言葉だが、よく考えてみると不思議な言葉である役割語。その謎は奥深い。


金水 敏
ヴァーチャル日本語 役割語の謎