日本には「抵抗」文化がない、とノーベル賞作家
 
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 2016/11/30 21:09 半歩前へⅡ
 
 
 
 
 
 ▼「抵抗」文化がない日本
 
  日本には「抵抗」という文化がないー。日本を訪れているノーベル賞作家のスベトラーナ・アレクシエービッチさんは、フクイチ(東電福島第一原発)の被災地である福島県を視察した後の11月28日、感想を述べた。
 
 
 
 この中で「国というものは、人の命に全責任を負うことはしない」と強調。また、被災地を訪れて感じたことは、「日本社会には、人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことだ」と言った。
 
 
 
 続けて「祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかも知れない。全体主義が長く続いた私の国(旧ソ連)では、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていない。日本はなぜなのか」と疑問を呈した。
 
 
 
 「日本社会に人々が団結しての『抵抗』がない」はいい指摘だ。日本は伝統的に「オカミ」に逆らうのをよしとしない風潮がある。右翼も、左翼も、最後は長いものに巻かれる。そうすることが「無難」と判断するのである。
 
 
 
 なぜ、そうなるか?闘う前から「あきらめる」のだ。「オカミに歯向かったところで敵うわけがない」と何もせず、何も言わず、早々と白旗を掲げる。
 
 
 
 為政者にとってこれほどやりやすい国はないのではないか。時々、欲求不満の“ガス抜き”をしてやれば、後は好きに操れる実に便利な国だ。安倍政権下の状況がそれを示している。
 
 
 
 日本人は憲法で学んだ本当の「主権在民」「民主主義」を知らないのだ。「主権在民」とは国民が主人公なのだ。政治家ではない。私たち一人ひとりが日本の主役なのだ。
 
 
 
 その主役が一言も発せず、動きもしないというのでは情けない。「誰かがやってくれるだろう」、と棚からぼた餅が落ちてくるのを待っていても、何も落ちてこない。他力本願でなく、自分の足で進むしかないのだ。
 
 
 
 怒るべき時に怒らないようでは人間ではない。沈黙は金ではなく罪悪だ。ただし怒りは、バスが遅れたからと言って運転手を怒鳴りつけるのではなく、私たちの生活資金である年金に手を付け、巨額の損失を出しておきながら、平気で年金を削る輩に対してである。
 
 
 
 些細なことへの怒りでなく、惰眠をむさぼり、民の生活をないがしろにする巨悪に対しての怒りを忘れてはならない。