12月31日更新分:ルールおじさん【石頭FBノート】 | 手上のコイン Blog

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五月天の石頭がFBのノートに書いている日記を、ちょこちょこ翻訳しております。おかしいところがあれば、ご指摘くだされば幸いです。

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ルールおじさん

十数年前のとある夏、彼は僕らをワーゲンの9人乗りのミニバスに乗せて、北部から街をひとつまたひとつと南下した。それは宣伝の為のバスだったが、笑い専用車でもあった。
あの頃まだ新人で、苦境を乗り切るには自ら運転し、急ぎ足で台湾全土のラジオ局で告知をしてまわるしかなかった。昼間は告知、夜には大勢で部屋に集まって、攻略の難しいルールでゲームをする。勝者は一人だけ、敗者の末路は悲惨だ。

そういった凄まじいルールはみな、彼が決めていた。発想は周到で、処罰は残忍。ギャンブラーを身の裡に飼っている僕らは、こういったルールで渡り合いながら中南部のラジオ局を巡った。そしてその時、彼に「ルールおじさん」という称号を与えた。

長年の、おじさんのルールの遺伝子は、僕らに完成度の非常に高い演出をさせてくれた。このようにせわしなく、複雑な事業体で、こうやってひとつの大型の産業機器を運行するには、精神力と体力はもう言うまでもないが、更に重要なのはミスを減らす能力だ。そしてそれは、既に彼の思考の無意識的部分となっている。

しかし、このような思考ロジックは、彼と、彼の子供たちとの関係性の間には見られないし、彼の可愛い子供たち自身には何のルールの縛りもみられない。
ステージ裏にこの姉弟たちが出現するだけで、大人たちの再三の笑い声と驚きが伝わってくる。何故なら、コンサートのスクリーンの中の悪の集団とヒーローは、彼にとっては実在する存在だからだ。毎回、バンドメンバーがステージに上がる前に彼らが告げる別れは、本当に僕らが変身して地球を救うスーパーマンになるような気にさせる。ルールおじさんの子供たちの、あの頑張って、の声はそんな真心とファンタジーなのだ。

たぶん、彼が自分と彼の子供たちの間に定めた唯一のルールはルールを作らないことだ。それによって彼の子供たちはこのように自由奔放な大脳を持っている。いつも、僕は自分を省みさせられる。自分が空想する力をとっくに失ってしまったのかどうかを。そして、大人が作った脆くつまらない価値観で我が子を制限してはいないだろうかと気づかされる。

昨日、学校で学生の自由絵画を募集した。選ばれた者の作品は、将来学校の外壁の一面を飾るらしいが、僕は損得勘定を持ち合わせていないし、うちの二人の子供たちにもない。一人は机の上で、一人は床に寝ころんで想像力に任せ自由奔放に、好きなように描く。側で僕は彼らの想像力を感じる。それは純粋で、無邪気で、ルールなどなく自然に生まれてきたものだ。

さっき読んだ法華経の中の一つの章で、お釈迦さまが説法をすると、地上には千万億個の菩薩が出現する。その時長い間、現実世界にあってどのようにこの情景を理解するべきかと思い悩む。
だがその答えは、もしかしたら僕らの子供たちがもっているのかもしれない。