浄瑠璃寺 (じょうるりじ) の情報をメッセージでいただいたのは、去年の今頃だったと思います。
私はそれまで、このお寺のことを全然知りませんでした。
国宝の、九体の阿弥陀仏があるということで、是非行ってみたいと思いました。
アクセスを調べると、所在地は京都府なのですが、行き方は JR 奈良や近鉄奈良からバスで約25分です。
我が家からはちょっと遠いため、時間に余裕がある時に行こう・・・とそのままになっていました。
つい先日、無性にこの浄瑠璃寺に行きたくなり、行きたいと思った時がベストなタイミングなので、張り切って行ってきました。
バスを降りると、お寺まで3分程度で着きます。
都会の喧騒から離れたのどかな山里で、この日はお天気も良く、ハイキングに行ってるような気分になりました。
お寺までの道にはクマバチが数匹いて、ブンブンいいながら飛んでいます。
時々、道のど真ん中に、それも顔の高さにいて、こっちを向いてブンブンいっていましたが、刺すような感じでも、拒絶の雰囲気でもなかったので、 「ちょっとよけてくれないかなぁ」 と言うと、ブンブンいいながらどこかへ飛んで行きました。
ああ、春だなー、と思いました。
お寺の境内に入ると、右手に本堂、左手に三重塔があります。
まずは本堂の仏様に御挨拶を・・・と本堂に行きました。
正式な参拝は、三重塔の中にいる薬師仏が先だそうです。 (パンフレットに書かれていて、後で知りました)
受付で拝観料を支払い、本堂を裏手からぐるりと回って、中に入ります。
本堂には九体の阿弥陀如来像が安置されています。
中に入ると、その阿弥陀仏は 「ほー」 と声が出るくらい美しく荘厳で、お堂の中は良い波動で満ちていました。
どのような雰囲気なのか、先に写真を見ていただこうと思います。
お堂の中は撮影禁止ですので、パンフレットの写真をお借りしています。
お堂に入った私は、まず、一体一体じっくりとお顔を拝見させていただきました。
自分と一番波長が合うのは、どの阿弥陀様か感じ取るためです。
全部の阿弥陀様にご挨拶をして、一番好きだと感じた、左から3番目の阿弥陀様の前に座りました。(腰かけが置いてありますのでじっくり仏様を見ることが出来ます)
そこで、10分くらい、阿弥陀様のお顔を見ていました。
その間、何人かの参拝客が本堂に入って来、一通り見て手を合わせ、出て行っていました。
お顔を見つつ、阿弥陀如来に帰依する昔の人々について考えました。
昔のお百姓さんなどは、働いても働いても生活は苦しかったはずで、その苦しい日々から抜けられない現実を、どうやって受け止めていたのだろう? と思いました。
阿弥陀仏を拝むことによって救われていた、ということは、死んだ後に極楽に行くことが心の支えだったわけで、それで本当に救われていたのだろうか? とも思いました。
今生きることがつらくて、その悩みが解決されないのに、遠い未来の死んだ後の保証で納得出来るものなのか? と疑問だったのです。
いろんなものを読むと、昔は飢饉や疫病の流行などで、飢えや病気に苦しみ、身分制度もあり、現世で救われる望みがないため、阿弥陀如来を信仰して来世の幸せを祈願した・・・とあります。
でも、私だったら「豊作でありますように、お腹いっぱい食べられますように、病気になりませんように」とお願いすると思います。
・・・と、まあ、最初の10分くらいはそんなことを考えていたのですが、阿弥陀様のお顔を見ているうちに、だんだんその答えがどうでもよくなってきました。
それからさらに15分くらい、今度は何も考えず、ボ~~~っと、ただただお顔だけを見ていました。
シーンとした心地よい静寂の中、阿弥陀様だけしか私の視界にはなくて、周囲は良い波動で包まれており、なんとも言えない満たされた気持ちになりました。
すると突然、「落ち着いたか?」と目の前にいた3番目の阿弥陀様が声をかけてきました。
その言葉で気づいたのですが、たしかに私は落ち着いていませんでした。(変な日本語ですがニュアンスは伝わるかと思います)
昔の人の心情をあれこれ考えていたのは、自分に不安や悩みがあってモヤモヤしていたからで、そのせいで心が安定していなかったのです。
「落ち着いたか?」と聞かれて、〝あれ? 本当だ! 心が安らかになっている!〟と自分でもビックリしました。
ただ仏像のお顔を見ていただけなのに、不安だの暗い気持ちだのが消えて、穏やかな海のような、そんな気持ちになっていたのです。
不安や悩みの原因自体は消えていませんが、それを不安に思う、悩みに思う、その感情の苦しみが消えていたのです。
う~ん、不思議だ、と思っていると、「死んだのち、私の元に来ると思うとどうか?」と、優しく聞かれました。
たった25分程度でも、仏像を通してでも、こんなに心が安らいで幸せな気持ちになるのだから、本物のおそばに行ったらどれだけ魂が癒され、満たされるのだろう・・・と想像すると、幸福感でいっぱいになりました。
人間は必ず死にます。
死ぬまでの短い間、生きているわけで、その生きている間の悩みや苦しみは死んだら消えます。(自殺は別です)
永遠に続くように錯覚している人生だけど、近い将来必ず死ぬわけだし、死んだら阿弥陀様がこれ以上の安らかな幸せな気分にしてくれる・・・だったら、それまでの間、頑張ろう! という気持ちになりました。
昔のお百姓さんなどもそう思ったのだろう、と納得出来ました。
この部分は、実際に阿弥陀様に不安定な気持ちを落ち着かせてもらう感覚を体験しないと、文章だけでは伝わりにくいかもしれません。
というか、伝わっていないような気がしますが、これ以上うまく文章にすることが出来ないです~。
すみません。 (TωT)
その後、中央にある他よりも少し大きな阿弥陀様の前に座って(こちらは座布団が敷かれています)手を合わせました。
この阿弥陀様も優しく教えて下さいました。
仏像を見てでもいいし、死んだ後この仏の元へ行くと思ってでもいい、それで心が安らぐ、ザワザワした心が落ち着く、不安が消える、というのはとても大事なことである、と言います。
そういう穏やかな心でいると、亡くなった時に成仏しやすいそうです。
不安や苦しみ、不満、イライラ、恨みつらみ、そういう落ち着いていない心は、成仏の妨げになると言っていました。
時々心を落ち着かせるために、仏像を利用するとよい、そうです。(落ち着いた心を持続するのは難しいので、時々、仏像を見にいって、穏やかになりなさいということです)
なるほど~、と勉強になりました。
お堂の中には、ちょっとした販売物などがあり、女性の係の方が出口付近に座っていました。(読書をしていました)
参拝客は普通5分程度で出て行くのですが、私は40分以上そこにいたので、この人長いなぁ、と思われたかもしれませんが、仏様にありがたいお話をたくさん聞けてよかったです。
本堂を出て、池の回りをぐるっと回り、三重塔を見て、お寺を出ました。(薬師仏は秘仏なので扉は閉まっていました)
今回、私に結構気分が暗くなる不安や悩みがあったから、阿弥陀如来を信仰する気持ちや、阿弥陀仏に帰依する人の死生観などが理解出来たのだと思います。
この浄瑠璃寺に来るには本当にベストなタイミングだったわけで、ご縁というのはこういうことなんだな、と思いました。
神仏のご加護はまことにありがたいです。
この浄瑠璃寺と参拝セットのように言われているのが岩船寺で、浄瑠璃寺から歩いて30分なので、そちらへも行ってみました。
次回に続きます。
左手に三重塔が見えます。こちら側はこの世を表現しているそうです。
本堂は、この世を表現している池の向こう側から、阿弥陀如来のお顔が見えるようになっています。
帰りもクマバチがブンブンいいながら飛んでいました。正面でじっとしてるところを写真に撮ろうとするとサッサと逃げていきます。負けてなるものかと必死で撮った一枚です。