幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷から始まっています。

この思想を持つ人たちにとっては、南朝の方が正統となります。

が、現実には室町時代に南朝の系統は消滅し、以来北朝が正統となり、孝明天皇・睦仁親王ももちろん北朝です。

話は変わって、幕末、長州の田布施という所に、大室寅之祐という少年がいました。

この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫、光良親王の子孫です。

つまり南朝の子孫となります。

結論から言うと、睦仁親王とこの大室寅之祐はすり替えられました。

もちろん、薩長・岩倉の手によってです。

維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてくれる天皇が必要でした。

そこで吉田松陰の命を受けた伊藤俊輔が守役をしていた、大室寅之祐を替え玉としたのです。

吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除して正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活させようと考えていたのでした。

ここで、疑問が出てくると思います。

はたして天皇となる人のすり替えが可能なのか?

以下は、その証拠と言われているものです。

① 睦仁親王は神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。

ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしています。

② 睦仁親王が即位前に乗馬をした記録はありません。

天皇は鳳凰を飾った輿、 「鳳輦」(ほうれん) に乗ります。

乗馬は必要ないばかりか、公家は武士のたしなみである乗馬を下品だと見下していました。

ですが、明治天皇は鳥羽伏見の戦いで、馬上で閲兵しています。

③ 睦仁親王の生母・中山慶子の墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。

④ 明治天皇の ”皇太后” は父:孝明天皇の妻であるはず、なのに、明治天皇は自分の妻である一条美子を皇后ではなく ”皇太后” と呼ばせていました。

一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。

⑤ 明治天皇は左利きでした。昔は左利きは良くないとされ、高貴な生まれの人は必ず矯正されていました。

ましてや将来天皇となる人がそのまま・・・ということはありえません。

⑥ 16歳までの睦仁親王と明治天皇の字は明らかに違っていました。

睦仁親王はヘタクソで明治天皇は達筆だった、と言う人もいますが、私が両方の字を見た感想は、睦仁親王は書道の基本を押さえた字を書き、明治天皇はそうではない字でした。

明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。

自信がなかったためかどうかはわかりません。

短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。

⑦ 明治天皇は幼少期の写真とされているものと、まったくの別人です。

睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。

⑧ 明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。

⑨ 明治の新政府が出来て間もなく、まだ少年である天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。

⑩ 明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。

⑪ 明治35年、熊本にて軍の演習後の宴会出席を天皇が断ったため、山県有朋が 「士気にかかわる!」 と天皇に突っかかり、言い合いになります。

結局、天皇の方が折れて出席しているし、明治37年には大山巌も天皇の命令を無視しています。

⑫ 明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりして、明治天皇が大室寅之祐でなければ、敵の南朝を称えていることになります。

後醍醐天皇がいた吉野に建てた ”吉野神宮” の御由緒には 「近代日本の繁栄の基は明治維新にあり、明治維新の根源は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にありといわれます」 と書かれていて、北朝である明治天皇に対して不敬ではないか、と思われる内容です。

⑬ 明治44年、南朝・北朝のどちらが正統か、帝国議会で議論されました。

そこで驚くことに、天皇は北朝であるにもかかわらず、南朝が正統と決定され、明治天皇もそれを承認しました。

教科書も改訂されました。

⑭ 皇居には楠木正成の巨大な像があります。

まだ南朝が正統と帝国議会で承認される前、明治29年、寄付により設置されています。

敵将の銅像を、何故、堂々と寄付したのか? と疑問がわきますが、すり替えを知っていたと思えば納得もいきます。

実際に皇居に行って、北朝の天皇が中にいらっしゃると思って見ると・・・なんとも奇妙な感じがします。

すり替えられている、という根拠になっているものをいくつか挙げてみましたが、他にもまだあります。

このようにして、皇統はひそかに北朝から南朝にすり替えられたのでした。

続きます。






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