ほぼ日刊ベースボール

野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。


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鈴木 啓示



時としてその投球フォームだけで見るものを魅了する選手がいる。美しい投球フォームは、つまり無理がない。無理がないということは故障につながらない。




「草魂」を胸に投げ続け、317勝を挙げた不滅の名サウスポー、鈴木啓示。万年Bクラスの近鉄一筋でのこの記録はまさに不滅の数字であろう。無四球完投が歴代1位の78試合、通算被本塁打が560でこれまた歴代1位。コントロールのよさもさることながら、逃げずに勝負の彼の投球姿勢がうかがえる。


育英高等学校から1965年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は阪神タイガースの1位指名が有力とされていたが、阪神は鈴木を指名しなかった。新人の年にオールスターに出場し、同じ左腕で先輩の金田正一にカーブの投げ方を習おうとしたら、「教えて欲しければ銭もってこい」と言われて、それまでの尊敬心から一転して敵愾心を燃やすようになる。後に金田がロッテの監督になったとき、ロッテ相手に勝ち星を稼ぎロッテキラーとなる。




入団1年目に10勝。翌年から5年連続20勝をあげエースに。1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。1969年に24勝で最多勝。1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)で2度目のノーヒットノーラン。速球派投手らしく1967年から1972年まで6年連続で最多奪三振に輝くが、1972年頃から奪三振数が半減し、投球内容の質も低下。




その後、1974年に就任した西本幸雄監督の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。1975年、4年ぶりに20勝以上をあげ防御率も2.26。奪三振数は減少したが無駄な四球と失点も減少。1977年200勝達成、20勝で最多勝。翌1978年も25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率にも輝いた。同年に10試合連続完投勝利も記録。この年は見事な投球で往年の剛球が蘇り最多奪三振も記録。1979年・1980年にチームのリーグ優勝に貢献した。


投球のすばらしさもさることながら、牽制球の技術に優れ、盗塁王の福本豊が神部年男と並んでもっとも苦手にしていた投手である。福本は8mmフィルムによる投手の研究に力を入れたが、そのきっかけは鈴木、神部対策だった。




往年の監督としての評価は誰もが知るところ。野茂が彼を嫌ってドジャースへ飛び立ったのは有名な話である。自らの実績への自負と、これがあったからこそ現役時代を支えた自己主張の強さが、監督として選手をサポートする役割を超えてしまったのかもしれない。また当時は野球界におけるトレーニング方法の変革期でもあり、走り込み、投げ込み中心の旧来のトレーニング信奉者の彼にとってタイミングの悪い時期だったのかもしれない。




監督としての失敗が彼のイメージを損なってしまったが、そうはいっても現役時代の輝きは褪せるものではない。歴代で美しい投球フォームの持ち主は誰か聞かれたとき、必ず脳裏に浮かぶ投手である。

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平松政次




シュートを武器にして活躍、復活を遂げた投手は多い。最近でもメジャー入りした黒田はじめ、巨人上原も習得に力を入れている。実はメジャーにはシュートという球種自体が存在しなかった。フォークを引っさげてメジャーで活躍した各投手に次いで、今度はシュートピッチャーが活躍する構図。黒田、小林、そして来年はいよいよ上原か、と楽しみである。



このシュート、球の威力に反比例して投げられる投手が少ないのは、肘を壊すという迷信があったためといえよう。バレーボールやテニスでもフォロースルーは腕を外に捻るが、この理屈にのっとれば野球のシュートで肘を痛めるということはない。結局は正しくないフォームが故障の原因、と言えよう。



さて、切れ味鋭いシュートのことを形容してカミソリシュートというが、歴代でいちばんのカミソリシュートと言えば、平松政次であろう。しかしアマチュア時代にはシュートを一切投げていなかった。



岡山県立岡山東商業高等学校時代の1965年、春の選抜高等学校野球大会で39イニング連続無失点の大会新記録を樹立して優勝。同年、第1回ドラフト会議で中日ドラゴンズに4位指名を受けるが入団拒否。社会人野球の日本石油に入社した。翌1966年、第2回第2次ドラフト会議で大洋ホエールズから2位指名を受けるが入団保留。1967年8月8日、都市対抗野球で優勝し、大会終了の2日後、大洋に入団。1・2年目はチャンスがなく、1軍選手が雨天のため体育館で練習をした際に、冷やかしで投げさせられたのが、本人も初めて投げたシュートであった。初めて投げたシュートは胸元に食い込み、驚いた1軍選手がコーチに報告してチャンスが到来したという。全盛期には、ど真ん中のボールが、右打者の体に当たるくらいまで変化したとまで言われている。



入団当初から最多勝を獲得するころまでは、無骨な大洋選手の中にあって唯一の端正な顔つきという事もあって、「プリンス」などと呼ばれていたが、故障が多く、打たれ弱いため、だんだんと「ガラスのエース」と呼ばれるようになってしまった。



巨人戦に強く、巨人キラーとして名を馳せたのだが、元々は巨人志望。

入団1年目の背番号は投手としては珍しく3をつけているが、これは長嶋茂雄にあやかったというんだから筋金入りの巨人ファンだったわけだが、翌年背番号を27に変えてから巨人キラーに成長する。



巨人戦通算51勝は金田正一(65勝)に次ぐ歴代2位。ただし、金田は国鉄時代の通算353勝の1/5に満たない65勝なのに対し、平松は通算201勝の1/4以上を巨人から挙げている。また、金田はV9時代の巨人と対戦していないが、平松は全盛時代にV9時代の巨人と対戦していること、金田は65勝72敗と負け越しているが平松は51勝47敗と勝ち越していることなど、記録面から見ても平松が屈指の巨人キラーとして活躍したことが窺える。



甲子園優勝投手で、投手として名球会入りしたのは現在のところ平松だけである。(ただし王貞治と柴田勲が打者として名球会入りしている。)なお、甲子園優勝投手でプロ通算200勝を記録した投手としては他に野口二郎(237勝)がいるが、野口は大正生まれのため名球会員ではなかった。また、200勝以上の投手のうち、プロで現役としての優勝経験がないのは奇しくも野口と平松だけである。



温厚そうに見えるが、実は短気で気が強い。ある試合でKOされたあと、利き手の右手でベンチにあった扇風機を叩き壊したことがある。当時の扇風機の羽根は金属製であり、大怪我をしても不思議ではなく、無傷で済んだのは奇跡としか言いようがない。本人も「一歩間違えば投手生命が終わっていたかも。無茶をやった」と述懐している。

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米田哲也





先発完投が投手の華、そんな浪花節に潰れていった投手は数知れず。

初登板でノーヒットノーランを達成した近藤真一は、高校時代を経て既にボロボロだったとも言われる。一応日本でも投手の肩肘のケアが浸透し、投球数も意識的に少なくするようになり、自ずと投球回数、登板試合数も減ってきた。

記録は塗り替えられるためにあるというが、特に野球における投手の記録は、金田の400勝はじめ、今後塗り替えられることのない、まさに金字塔になっていくのが見て取れる。



日本において歴代2位の記録を誇るのが、元阪急の米田哲也。通称ガソリンタンク。

いくらでも飲めてしまう酒豪振りを例えてのガソリンタンクであったが、彼の無尽蔵のスタミナがその異名に結びつき、グランド上でもガソリンタンクと呼ばれるようになる。



鳥取県立境高等学校から1956年阪急ブレーブスに入団。この際に阪神タイガースとの2重契約が発覚したが、コミッショナー裁定により阪急への入団となった。このため阪神に入っていたらプロ野球の歴史も大きく変わっただろう、と言われる。1年目9勝、2年目に21勝をあげて以後エースとして活躍。先にエースとして活躍していた左腕の梶本隆夫と共に「ヨネカジ時代」を成した。1966年に25勝で最多勝。同年200勝を達成。



1967年に18勝をあげて球団初優勝に貢献。1968年には自己最高の29勝をあげMVPに輝く。1971年に史上3人目の通算300勝達成する。しかし1974年上田利治監督が就任すると、登板機会が激減し、志願して1975年シーズン途中に阪神タイガースに移籍するが、350勝まであと2勝と迫りながら1976年限りで自由契約となる。1977年には阪急時代の監督だった西本幸雄氏が率いる近鉄バファローズに移籍し、史上2人目の通算350勝を達成し、同年引退。



ライバルとして同時期の左のエース梶本隆夫と同世代の300勝投手・小山正明を挙げている。小山について「小山さんがガクっと衰えていくのを見て、自分まで闘争心がなくなってしまった。小山さんがもう少し頑張ってくれていたら自分も400勝くらい行ったかも知れない」と語っている。なお、やはり同世代の大投手で対戦も多かった稲尾和久については、彼が相手だととにかく勝てないので「ライバルというより悪魔のような存在」だったそうである。



体調管理やスタミナ確保にも関心を寄せ、登板した夜に時間をかけてゆっくり食べる「米田ディナー」は有名。どれくらい科学的な根拠があったかは不明だが、食事ひとつとっても徹底したプロ意識があったのは、昔の選手に対して強く感じる。



野球科学が進み、環境や理論はよくなったが、それを使いこなす選手のプロ意識があってこその環境や理論。今に比べて昔は野球のレベルが低かったというそもそも論をよく聞くが、仮に昔の選手に今の環境があったら、と思うと、そうとも言えないように感じてしまう。



通算で949試合登板はもちろん歴代1位。ちなみにそんな米田は故障での長期離脱が一度もなかったそうである。
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小山正明





精密機械。彼の異名である。

過去、日本プロ野球においてこの異名をとった選手が果たしていたか。寸分違わぬコントロールの持ち主であることは必須条件。大切なのはそれでいて勝てる投手であること。




アメリカ大リーグに目を移せば、その異名をとるのは後にも先にもただ一人、グレッグ・マダックスである。ただ彼の場合、針の穴を通すようなコントロールという質でなく、打たせて取るピッチングがそのイメージにつながった感がある。

長谷川はじめとするメジャー経験者は、マダックスの変化球・ツーシームの切れや緩急が出色だったという。そしてコントロールがいいというイメージからくるマダックスゾーンなるものが、彼のストライクゾーンを広げた。実際、体の開きがほとんどない、球の出所のわかりにくいフォームから、全盛期は特に恐ろしいほどの変化球のキレ。多少甘いところに入ってもゴロを打たせることのできた積み重ねが、彼をコントロールピッチャーとして印象付けたのだろう。




話を戻すが、となると、厳密な意味でボールの出し入れができる投手というとメジャーでは聞かない。しかし日本で、320勝もの勝ち星を重ねた小山正明、彼が正真正銘の精密機械といえるかもしれない。


小山はバッティングピッチャーとして入団し、藤村富美男、金田正泰などベテラン相手に指名されることが多かった。打ちやすいストライクに入らないと、藤村は黙って隣のゲージに移動して行ったがそれが一番こたえたらしい。クビにならないように必死だった。後年、「戦争帰りの人たちはとにかく怖かった」と述懐しているという。




小山の現役時代を知る者は口をそろえて小山の投球フォームを絶賛する。そのフォームはまさに「飄々」という言葉がふさわしく、無駄な力が一切入っていないバランスの取れたものだった。、顔をゆがめ全力投球する村山実とは好対照のスタイルだった。小山本人も「ゆったりしたフォームからビュッとホップする球が来るから打者も面食らったんじゃないか」と語っている。




そのためかザトペック投法の村山との確執はよく言われるが、二人のプレースタイルが対照的だったことがうわさを膨らませた。小山は大量点でリードしていても、鬼の形相で投げ続ける村山に「適当に力抜かないとパンクしてしまうぞ」と声をかけたという。しかし村山は「力抜くとキャッチャーまでとどかないような気がする」と答えたという。小山は「なんだあいつ、かっこつけやがって」と思っていたそうである。だが、村山の葬儀の際、小山は「頭に白いもの(白髪)が目立ち、この年になって村さんの言葉がようやくわかるようになった」と述べている。二人の関係はそれほど険悪ではなかった、と関係者の多くは証言している。




またその小山が解説をつとめていたゲームで、阪神の井川慶が好投していたが、味方の打線によって大量リードの援護を受けた直後に連打を浴びて失点した。実況のアナウンサーがどんな投手でも大量リードのときに手を抜いてしまうようなことがあるかという問いに「それはあります。一人を除いて。」と話し、さらに誰ですかと聞かれた。小山は、ただ一言「村山」と答えた。小山が村山をどれだけリスペクトしていたかが伺える。




その後、山内和弘との世紀のトレードにより東京(ロッテの前身)に移籍した小山は独身寮に単身赴任していた。入団したばかりの村田兆治が、徹夜マージャンから朝帰りしたとき、ランニングに出かける小山と鉢あわせした。村田はとっさに何も言わず、自分の部屋に逃げ込んだという。その後練習中に村田が謝りに行くと「お前ほどの才能がありながらそれを無駄にするのはさびしくないか」と諭され、300勝投手に声をかけられた村田は感激したという。




後年パリーグだったため決して派手なイメージはないものの、まさにお手本のような投手。技術だけでなく、その考え方を後世に残したい大投手である。

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外木場
 



通産ノーヒットノーラン7度を達成しているのがノーラン・ライアン。通産5714奪三振でメジャー史上最高の豪腕投手といえよう。

日本では誰か。沢村栄治、江夏豊、松坂大輔と日本を代表する投手は列挙できる。しかしノーヒットノーランの通算数を基準とするならば、日本最高の3回を記録している外木場義郎といえよう。



鹿児島県出水高校から九州電気通信局を経て1964年9月に広島カープへ入団。

翌1965年10月2日に阪神を相手にノーヒットノーランを達成し、初勝利を飾る。

その後、一軍と二軍を行き来する生活を続けるが4年目の1968年に根本陸夫監督に代わると素質を見抜かれて一気にエースにのし上がり、21勝14敗、防御率1.94の成績を残して最優秀防御率のタイトルを獲得。広島を球団創設以来初のAクラス(3位)に導いた。

この年の9月14日の大洋戦では2度目のノーヒットノーランを完全試合で飾っている。

そして、1972年4月29日の巨人戦では3度目のノーヒットノーランを達成し、沢村栄治の記録に並んだ。

1975年には20勝13敗、防御率2.95、193奪三振という素晴らしい成績で弱小球団だった広島を悲願の初優勝に導いている。

その反動からか、1976年からは右肩痛に悩まされ、1979年限りで現役を引退した。



伝説として残っているのは初勝利をノーヒットノーランで飾った試合のインタビュー、「何ならもう1回やりましょうか」発言であろう。この発言は多少の物議を醸したが、実は記者の質問が「実力ですか?」というようなあまりに失礼な質問だったらしく、むっとした外木場が答えた言葉がそのまま報道されてしまったというのが実情である。現に外木場は、見た目も含め銀行員のような折り目正しい人物である。



また特に内角のシュートしながら浮き上がってくる殺人的なストレートは打者を震え上がらせ、頭に死球を受けた田淵幸一が病院送りとなっている。

この死球をきっかけに耳あて付きのヘルメットが義務付けられたというのだから衝撃的な事件だったのだろう。ちなみに田淵の左耳は難聴のままである。



ストレートと分かっていても打てない、藤川球児や中里のような驚異的な伸びとはまた異質の、「殺人的」としか形容しようのないストレートはもし映像を見る機会があるのなら一見の価値はある。
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