ほぼ日刊ベースボール

野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。


テーマ:

サチェル・ペイジ
 


サチェル・ペイジ




ジャッキー・ロビンソン
 


ジャッキー・ロビンソン




 メジャーの永久欠番は質量ともに数が多い。さすがはヒーローを求める国だけのことはある。監督でも19人、ヤンキースだけでも17人、複数球団で永久欠番になった選手や、一つの背番号に複数の選手が永久欠番として残されているのもある。20世紀の初頭の選手で背番号がない時代の選手も含まれる。本当にすごいのは凄いのはジャッキー・ロビンソンの全球団共通永久欠番の「42」である。日本プロ野球界に来る助っ人アメリカ人選手が好んで42を付けたがるか分かる。




 ジャッキー・ロビンソンは黒人初のメジャーリーガーであり、そのパイオニアとしての偉業を讃えたものであることは言うまでもない。現在では当たり前の様に主力選手として活躍する黒人メジャー選手への門戸を切り開いたという偉大な功績に対しの全球団永久欠番である。いかにもアメリカらしくて良い話であると思います。もう一人伝説の大投手、サチェル・ペイジも加えても良い気がする。




 日本にも沢村賞という先発完投型の投手に送られる最高の賞があるが、アメリカにも同様にサイ・ヤング賞がある。サイ・ヤングは実働22年、906試合7356イニングを投げて511勝 316敗、完投749、完封75、奪三振数2803。通算防御率2.63の記録を残した漫画でもそこまでは描けない超人的な投手である。サイ・ヤング賞があるぐらいだから、彼こそ日本プロ野球で言う沢村に匹敵する伝説No.1投手かと言えば、実はそうでもない。サイ・ヤングの記録もとてつもなく凄いがサチェル・ペイジとなるとさらにその上をいく。




 サチェル・ペイジは主にニグロリーグにで活躍し、生涯に2600試合以上に登板。少なくとも2000勝以上、奪三振数30000万、完封300、完全試合55、、1日3勝、年間105試合に登板して104勝、月に29回先発、などなどもはや意味が分からない記録が残っている。日本で酷使投手と言えば、「鉄腕」稲尾だが、稲尾も赤子に感じるサチェル・ペイジの記録である。また、当時のニグロリーグは大リーグよりも実力は上とされ、その実際の対戦成績は、ニグロリーグ側の309勝102敗と言われている。サチェル・ペイジはそのニグロリーグの象徴であった。




 当時のアメリカ野球ではローテーションという発想がまだ無く、投手は調子がよければ毎日投げるシステムであったそうだ。「権藤、権藤、雨、権藤」の権藤は5年で潰れたが、それを何十年も一人でやった感じである。また、ペイジが所属した黒人大リーグでは完全なスターシステムの投手起用であり、ペイジが投げる事で観客を集めていたので、ほぼ連日のように先発完投するのは当たり前であったようだ。投げると言ってもダブルヘッダー、トリプルヘッダーもいくらでもあり、ペイジがそのすべてを投げるのまた珍しくも無く、当たり前であった。




 想像を絶する登板数であるが、ペイジはこれを平然と投げ抜き、全く衰えを知らない快投をし続けた。その実力は彼が本気で投げた球を打ち返させるものは誰もいないと言われた。よくやったSHOWに、9回裏に故意に四球で無死満塁にし、さらに野手を全員ベンチに下がらせ、ペイジと捕手だけで対決すると言うものがあったそうだ。そこでも必ず残りの打者を簡単に三者三振に打ち取ったと言う。そこまでだと見ている方は面白くない気がする。




 ジャッキー・ロビンソンがメジャーの門戸を開け放つまで、黒人選手は黒人リーグで活躍するしかなかった時代であった。それでも白人メジャー選手と対決する機会はあり、オフシーズンに白人オールスターチームと黒人オールスターチームの対抗戦がよく組まれたそうだ。当時の選手には良い副収入源だったようで有名選手が多数参加している。




 もちろんペイジは常に黒人チームのエースであり、実際にペイジと対決した白人選手のコメントが断片的に残っている。ベーブ・ルースもチャーリー・ゲリンジャーも誰もペイジを打つことが出来なかったと証言している。その球速は、当時の白人メジャーの代表的速球投手で、「火の玉」とまであだ名されたボブ・フェラーと較べても、「フェラーの珠がチェンジアップのように見えた」と言われていた。当時にスピードガンがあれば、170~180キロぐらい出ていたのではないか。




 ペイジも晩年の48年になってようやくメジャーに参加が許された。年齢は諸説あるが、一番有力な説でなんと52歳。56歳の時に12勝10 敗の成績を残してメジャーから一度去るが、12年後の65年に68歳になったペイジはメジャーに再び復活し、なんと先発をする。3回を投げて被安打 1、奪三振1、無失点に抑える投球を見せた。球場は伝説の老雄ペイジの投球に感動し、全米中のトップニュースとして駆け巡った。




 ベーブ・ルースやゲリンジャー、チャーリー・フォックスを手玉に取ったペイジが、ピート・ローズやハンク・アーロンと同じリーグの舞台に立った。。70歳になってもメジャーで十分通用するのであれば、全盛時の実力はどんなものであったかと思う。残念ながら全盛時の活躍はニグロリーグであったがゆえに歴史の闇に埋まり、永久欠番にはならなかった。




 それぞれの永久欠番のエピソードもまた永遠に語り継がれると思う。

AD
いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
最近の画像つき記事  もっと見る >>

テーマ:

掛布雅之
 




 ミスタータイガースと呼ばれた人は初代藤村富美男、2代目村山実、3代目田淵幸一、4代目掛布雅之である。田淵をカウントするかしないかで反論がある方もいるかもしれないが、ここでは入れる。このうち藤村の10番、村山の11番は永久欠番である。3代目の田淵はトレードされたことや、残した成績がやや見劣りする点から永久欠番にならなかったのであろう。




 掛布が活躍した時代は阪神にとって苦難の連続であった。毎年戦力が低下し、優勝争いから年々遠ざっていった。その時代の阪神ファンの唯一の希望が掛布の打撃であった。当時の阪神の人気を一身に背負っていたのは間違いなく掛布であり、弱体化する攻撃陣の中で唯一光っていたのも存在だった。残した成績も本塁打王3回、打点王1回、ゴールデングラブ賞6回となかなかのものであり、何よりファンの記憶に残っている選手であった。




 彼が永久欠番の対象にならなかった原因は幾つかあると思う。85年の優勝の年は、シーズンを通して4番を打ち、 3割40本と目覚しい活躍をであった。ただ、3番にプロ野球史上最高の助っ人とのバースがいたために印象が薄れてしまった。バースは3冠王、MVPも文句無く受賞している。バックスクリーン3連発の伝説にも参加しているが、やはりバースの影に隠れている印象は否めない。この年のダイナマイト打線の主役はやはり神様バースであり、掛布はその成績にもかかわらず脇役に甘んじた事は否定できない。

 

 さらに、引退後の経過を見るとフロントと何らかの確執があった事は容易に推測できる。掛布ほどの選手であれば、将来の監督候補とされるはずである。掛布が江夏ばりのダーティーなイメージがあれば別だが、実績、人柄からして監督の有力候補になるのが自然だとも思う。ところが引退後はあっさり日テレの解説者に就任した。それが何を意味するかといえば、タイガーズとと縁を切るということと同意義語に近いものがある。引退後の彼は監督は愚か、コーチにさえ就任していない。




 彼程の選手であれば、引退後も永久欠番にならなくても、その背番号を引き継ぐものにはかなりの配慮をされると思う。しかし栄光の31番はごく普通の背番号としてポンポン流用されている。この辺りの様子を見てみても、確執は間違いなくあったと想像できる。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

吉田義男
 


(写真:牛若丸こと吉田義男)




 野手で打撃の成績以外を評価されて永久欠番になった選手はたった一人である。それは「ムッシュ」こと吉田義男である。「牛若丸」とまで称された吉田は他の追随を許さず、「華麗なるフィールディング」と呼ばれた広岡達朗は彼がいたために一度もベストナインに選ばれなかった。




 守備で言えば、永久欠番になった捕手は誰もいない。グラウンドの監督として捕手ほど重要なポジションは無いと言われるが、誰も永久欠番に名を列ねていない。「ささやき戦術」が有名な野村克也の場合は、選手時代の実績もさることながら、監督としても名将と言われるだけの成績を残している。また、王、長嶋に対し、人気の無いパ・リーグを支え、ヤクルト、阪神、楽天と弱小球団を強くしたその手腕は評価されるべきである。しかし、古巣南海を追われた経緯があり、南海自体も消滅。個人的には、南海はその事情よりもプロ野球界に貢献した部分を評価するという器の大きさを見せてほしかった。




 次に思い浮かぶのは巨人のⅤ9を支えた森祗昌。一部では野村より高く評価する声のある選手でしたが、同時期にONが君臨しており、野村が「俺は月見草」とボヤいたように、王、長嶋のまぶしすぎる光の前に、完全に影に隠されてしまった。他にも西武黄金時代を支えた伊藤勤も捕手としては候補に挙がるかもしれないが、少し物足りない。




 期待を寄せるのが、ヤクルト古田。吉田義男も '85の優勝とあわせ技で永久欠番となったので、プレーイングマネージャーとして優勝をするようなことがあれば、彼も今後の実績次第でヤクルト初の永久欠番になる可能性は十二分にある。ただし、ヤクルト初となれば、「小さな大打者」若松勉とのダブってしまうので難しい面もある。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

スタルヒン
 


写真:スタルヒン




 200勝でも極めて希少価値の高い大記録ではあるが、300勝投手となると記録でしか確認できない。300勝を最後に達成したのは鈴木啓示が84年に達成した。あれから20年以上経っても近づく可能性のある投手すらいない。鈴木を含めて300勝以上の投手は6人。400勝投手「カネやん」こと金田正一、「ガソリンタンク」350勝米田哲也、「精密機械」320勝小山正明、「豪腕」310勝別所毅彦、「史上初の300勝投手」303勝スタルヒンと鈴木啓示である。このうち米田は18年連続10勝以上の日本記録を持ち、スタルヒンはシーズン42勝、38完投の前人未到の大記録を持っている。また、米田は阪急黄金時代に貢献し、小山も阪神、ロッテの優勝の牽引車となっている。別所は巨人の第2期黄金時代の主力投手であり、スタルヒンも沢村が兵役で抜けた後の巨人支える大黒柱として巨人の第1期黄金時代の立役者の一人であった。




 6人の中で永久欠番になっているのは、金田と鈴木の2人である。彼ら以外の4人は300勝以上の記録なのにもかかわらず、永久欠番ではない。その理由はなぜか?




 まず、米田に関してはは阪急入団2年目から積み重ねてきた連続2桁勝利の記録を続けるために、シーズン半ばで阪神に移籍している。また最後は350勝の記録達成のために近鉄に移籍した。18年連続2桁勝利を達成した阪神が1年半、350勝を達成した近鉄が1年ではどこも永久欠番にしづらかった。現役時代のほとんどの勝ち星をあげた阪急も去り際が悪い印象があり、永久欠番という訳にはいかなかった。


 


 別所の背番号が永久欠番にならなかった理由は2つ考えられる。一つ目は時代的に南海からの移籍組であったことが挙げられる。もっともこれは後の金田が覆しているが・・・。もう一つはその移籍の経緯である。別所の移籍は後に「別所引き抜き事件」として球界の事件簿に今も残るほどの騒ぎを起すこととなった。当時の南海は球界での力が強かった。巨人は戦後の球団再建に立ち遅れ、36年近畿(この年は南海はこう名乗っていた)、37年阪神、38年南海と3年続けて優勝を逃し、巨人には戦後の初優勝が使命となっていた。そのためにライバル南海のエースである別所を38年のオフに引き抜いた。現在で言えば、「空白の一日」江川事件のような騒ぎであったようである。別所にはダーティーなイメージが付いてしまったために、永久欠番にならなったと推測される。


 


 小山は不運であった。62年阪神優勝を村山実とともに実現させた大エースである。しかし翌年に「世紀のトレード」で大毎の主力打者山内一弘と交換トレードされた。大毎からロッテに球団が身売りされても小山は黙々と投げ続け、70年には16勝を挙げてロッテの優勝に貢献している。もっと言えば、72年に引退し、73年に大洋のコーチに就任しているが、弱体投手陣を見かねて突如現役復帰、4勝4敗の成績まで残している。結局「世紀のトレード」でキャリアを中断されたのがマズようである。移籍先が地味なパ・リーグであったのも小山の名を歴史に埋没させた可能性がある。あのまま阪神で活躍していたらという「たら、れば」は無意味だが、もしそうなっていても300勝まで積み上げられたかはまた別の問題となる。結局のところ当時の阪神が投の2大スターであった小山と村山の二頭体制を維持できず、安易に打の山内とトレードした犠牲になったとも言える。残った村山実が永久欠番であることも皮肉である。


 


 スタルヒンは戦前を代表する大投手である。戦前の名投手は沢村を筆頭に兵役のためその活躍を寸断され、通算としてはさほどの成績を残していない。ただ、その中で白系ロシア人であるスタルヒンは兵役の義務は無く、唯一活躍を続けて記録を積み上げた。活躍当初は怖ろしく古く、職業野球聯盟が結成される前の大日本東京野球倶楽部のアメリカ遠征から参加している。スタルヒンは兵役にこそ行かなかったが、戦争の影は確実に彼にも影を落とした。元はロシア人ですから特高の監視の目は常に周りに張り巡らされ、プロ野球自体も戦局悪化のため縮小に継ぐ、縮小を重ねる中での活躍となった。巨人も主力選手を次々に兵役に奪われ、他球団もまた同様の状態となった。そんな状態で巨人が5連覇できたのは、彼が絶対的なエースとして活躍したことが大きかった。

スタルヒンの功績は巨人にとって極めて重要であった。彼の存在なくして戦前の巨人はあり得なかった。それほどの功労者にもかかわらず。戦後は巨人を離れる。当時は移籍とかトレードなんてものではなく、退団であった。これも的確な表現ではない。なぜなら 44年の戦時中最後のリーグの後、各球団は解散状態となり、46年にリーグに球団が復活した。スタルヒンはリーグが再建された際に巨人に参加しなかった。よくよく考えれば、終戦の翌年にリーグが再建されただけでも奇跡であったし、スタルヒンにしてみれば再び野球が仕事になるかどうか疑問であったであろう。進駐軍の通訳をすることの方が食べていくためには良かったと判断したためであった。

球界に復帰したのは46年であるが、巨人ではない。恩師の藤本定義の縁とはいえパシフィック、以後は太陽ロビンス、金星スターズ、大映スターズ、高橋ユニオンズ、トンボユニオンズとどれもこれもその後消滅した弱小球団を渡り歩いている。日本初の300勝も55年の話であり、これを大記録として注目されないほど日本プロ野球が成熟していなかったということか。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

鈴木啓示
 




 プロ野球球団史上に残る名選手であり、その活躍を讃えて永久欠番になったもの達がいる。昭和30年代に黄金時代を築いた西鉄の主力選手である「鉄腕」稲尾の24番と「豪打」中西太の6番である。中西は怪我のため打者としてはやや短命であったが、その豪打は九州のファンを熱狂させた。稲尾に至っては「神様、仏様、稲尾様」とまでファンに言わしめた超一流で投手であり、その全盛時代の記録のすごさはいくら時代が違うとはいえ人間業ではないものであった。当然のように西鉄の永久欠番になったが、西鉄という球団がいわゆる「黒い霧事件」の後、経営が低迷し、太平洋クラブに身売りされた。そのどさくさにまぎれ、彼らの永久欠番は失効してしまった。




 最近で言えば、最後の300勝投手、近鉄の「草魂」こと鈴木啓示である。本当に弱かったお荷物球団の近鉄で投げ続け、さらにはホームグランドは本塁打がとても出やすい球場として名高い藤井寺や日生球場であったにもかかわらず、300勝という大記録を作った投手である。鈴木もまたその功績を讃えられて永久欠番である1番を与えらたが、近鉄もまたオリックスに吸収合併され、誇り高いその永久欠番もまた失効してしまった。




 その存在すら永久に無くなってしまった「永久欠番」を考えると、プロ野球球史の中でも考え深かい事実である。印象に残るがその存在が残らない、なんとも言えない永久欠番である。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。