伊藤智仁(元ヤクルト) | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

スライダー。90年代を代表する球種と言っていいだろう。

今では高校生ですら「自称」スライダーを放る投手はごまんといる。

スライダーという球はその名の通り、ストレートに近いスピードで横滑りする球のことをいい、よく耳にする縦のスライダー、あれはこの球種の定義から外れてしまっている。正確には「小さく割れる縦のカーブ」だろう。



小言はさておき、元々スライダーをいちばん最初に投げた投手は誰かというと、古くはインディアンスの火の玉投手、ボブ・フェラーと言われている。

もっとも彼の場合、豪速球が自然に曲がっていたものであって意識して投げたものではなかったろうが、偶然にせよ意図的にせよ、豪速球に「クッ」と横に流れられたら打者としてはたまったものではない。

そしてこのボブ・フェラーのスライダーを史上最高のスライダーと仮定するならば、日本で彼に一番近づいた投手は元ヤクルト・伊藤智仁と言って過言ではないだろう。



ちなみに彼の経歴は以下の通りである。



京都・花園高 - 三菱自動車京都。高校時代は2年生秋の京都大会で優勝し近畿大会に出場する。元木(巨人)、種田(中日)のいた上宮に敗退し、甲子園出場なし。三菱自動車京都に進み、バルセロナ五輪日本代表のエースとして、銅メダル獲得に貢献。広島、オリックス、ヤクルトの三球団に指名され抽選によりヤクルトへ。



彼が最も輝いたのはルーキーである1993年、快刀乱麻を切るという言葉があるが、彼のピッチングはまさにその言葉がぴったりのものだった。流れるように美しいフォームから繰り出される最速153km/hのストレート、そして当時広島の江藤をして「ホームベースの角から角に曲がった」と言わしめた高速スライダー、あの投球は神々しくさえあった。

特に6月9日の巨人戦、筆者も生で観ていたが、観ていて鳥肌が立つスーパーピッチングだった。巨人の打者は5回までに12三振、切れに切れた伊藤のスライダーはまさに魔球、ストレートと思ったら外角を鋭くかすめるスライダー、歴代の強打者の中でも打てる者がいるのだろうか、と思わざるを得ない内容だった。

9回2死までノーヒット・ノーラン、16奪三振、あとひとつ三振を奪えばノーヒット・ノーランとセ・リーグ1試合奪三振記録のダブル達成、誰もがそれを疑わなかった次の瞬間、ドラマが起こった。一呼吸打席を外し、息を整えた巨人・篠塚に、次の投球をライトスタンドに運ばれてしまったのである。結果はサヨナラ負けであった。



この年、伊藤智仁は7勝2敗4完封、109回126奪三振、防御率0.91で新人王に輝いた。後半は肘を故障したため、この年実働3ヶ月での恐るべき数字である。



しかし1年目の輝きと引換えに、そしてあのサヨナラ負けが暗示していたかのように、彼の野球人生は坂道を転げ落ちるように転落していく。

その後11年間、常に故障と向き合いながら、そして周囲の「もう一度あの輝きを」という期待を背に負いながら頑張ってきたが、二度とあのスライダーが復活することはなかった。一時はストッパーに転向、カムバック賞も受賞したが、全盛期のスライダーはもう見ることができなかった。

そして最後の2年間も故障のため登板できず、以下の引用が彼の最期だった。



14.2度と冷え込む秋空のもと、フロント、一軍コーチ陣が見守る中で562日ぶりに実戦マウンドに上がった伊藤。その結果は、あまりにも悲惨だった。最初の打者は「この日最速となる136キロの外角直球で見逃し三振」(10月25日付『日刊スポーツ』)に打ち取るが、二人目の初球、通算僅か9球目、打者の背後を通る暴投を放った瞬間、彼の肩はまたも壊れた。

「何かが起こったのは明らかだった。静まり返るグラウンド。マウンドを降りた伊藤はベンチに戻ると小川2軍監督らの前で何度も右腕を振る。しかし、右肩の痛みは取れなかった。『これ以上投げられません』

トレーナーの治療を受けながら、涙がこみ上げた。谷川コンディショニングコーチは『一過性の亜脱臼。生まれつきのルーズショルダー(肩関節が緩い症状)で本来なら右肩を固めてから登板に向かうんだが、そういう準備をしていなかった。それだけせっぱ詰まった精神状態だったんでしょう』と話した」(同日付『スポニチアネックス』)。




まるで花火のように一瞬の輝きを放ち、彼は引退を迎えることになる。

以下は彼の引退時の言葉である。



再びこのマウンドに帰って来ようと自分なりにめい一杯努力したつもりです。

歯がゆいとき、苦しいとき、もちろんありました。

その時、野球がやりたい、野球が好きだという気持ち、そして、大切な仲間、そして家族、ファンの声援がありました。

今、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう。

たくさんの人々に出会い、そしてたくさんの愛情に囲まれ、その中で、大好きな野球ができたことを今私は大変幸せに思います。

最後にもう一度、私を支えてくれたチームメイト、球団関係者、スタッフ、家族、そしてファンのみなさん、本当に本当にありがとうございました。




相次ぐ怪我に泣かされ短命に終わってしまった彼だったが、あの芸術的なスライダーの輝きはプロ野球史に燦然と輝くものだろう。

あの古田をして「過去受けた中で最高の投手」と言わしめた伊藤智仁、その言葉は伊藤を気遣ってのものでなく、古田自身の本音に違いない。