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2006年11月21日(火)

名球会とは?

テーマ:コラム

カネやん&番長

 日本プロ野球名球会(名球会)は78年に400勝投手、カネやんこと金田正一を発起人のもと発足した。メンバーは昭和生まれのプロ野球選手とそのOBで構成され、投手は200勝以上、打者2000本安打以上を有資格者とし、発足時のメンバーはカネやん以下、長嶋茂雄、村山実、稲尾和久、米田哲也、小山正明、山内一弘、江藤慎一、梶本隆夫、皆川睦男、広瀬叔功、そして当時はまだ現役だった王貞治、張本勲、野村克也、高木守道、土井正博、鈴木啓示であった。


 なぜ、参加資格が「200勝・2000本」なのか分からないが、一説ではカネやんが「投手はワシ(400勝)の半分でいいだろう」と決めたので、打者もそれに数字を合わせたという話もある。また、「昭和生まれ」に限定されているのは、セ・パ両リーグ(2リーグ制)で活躍した選手で発足したからというのが理由だそうである。しかし、裏を返せば、大正生まれで金田らのすぐ上の先輩にあたる川上哲治、別所毅彦、杉下茂らを除外するということであり、要はカネやんにとって邪魔な存在だったのだ。その錦の御旗はON、つまり王と長嶋、現在の名球会の副会長である。


 発足当時、戦後生まれ(少年時代ONに憧れた最初の世代である団塊世代)はほとんどの選手が名球会入りしていなかった。投手では鈴木啓示が200勝に達したぐらいで、打者ではまだ誰もいなかった。従ってONに憧れ、そして共に戦いもした世代でもある彼らの現役にとってはまさに目の前にぶらさがった人参が「ON会」入りの名誉であり、そのための200勝・2000本安打であった。

 

 しかし、名球会に入ると言う名誉は薄れてきている。ONの現役時代を知る世代はほぼいない。長嶋を崇拝していた落合は名球会入りを拒否。理由は「その記録に達しなくても優れた選手が多くいるのに、長くやっていればできる記録が判定基準になっているから。」だそうである。基準の不公平さに異論を唱えるとともに、名球会入りできなかった大選手に配慮したからと言われている。しかし、真相はおそらく、カネやんと落合の不仲が原因だろうと思われる。後に落合はプロ経験者なら誰でも入れるプロ野球OBクラブに加入している。


 最近だと、大魔神佐々木、工藤公康、駒田、清原、石井琢、野村謙二郎、立浪が名球会入りを果たしている。イチローは日米通算で2000安打以上を達成。野茂は保留になっている。名球会の入会に関しては国籍を問わないため、規約の改正(アメリカメジャーリーグにおける成績の算入)後はいわゆる「助っ人外国人」選手にも有資格者が出てきた。ただその成績の大半がアメリカであげたものであり、日本プロ野球の選手で構成される名球会の性格にそぐわないおそれがある。そのためか、名球会側も外国人選手への勧誘には消極的で、外国人選手は事実上排除されている状態である。

2006年11月12日(日)

印象に残る活躍しなかったドラフト1位

テーマ:思い出の選手

大森剛


大森剛(巨人)


 高松商業高校から慶大へ進学。慶応大学3年生の春、7人目となる六大学リーグ3冠王を獲得した。88年にはソウル五輪野球日本代表として出場。選手19人のうち大学生は野村謙二郎・笘篠賢治・大森の3名だった。当時の正力オーナーをはじめとして「慶応閥」を形成していた巨人。当然、大森が六大学3冠王を獲った時点で指名の確約をしていた。しかし、4年では全く活躍できず、巨人スカウトからは「大森は守れないし、1位で獲る逸材ではない。」との評価になったため、ドラフト1位指名が元木、2位が大森で89年のドラフト戦略は決定的となった。ところが、「高校生(つまり元木)の下はイヤだ。巨人の1位指名じゃないとプロへは行かない。」と、発言。これで巨人フロントは大森を1位指名せざるを得なくなり、結果として福岡ダイエーホークスに1位指名された元木は浪人することとなった。


 プロ入団した年のオープン戦ではそこそこ活躍。開幕一軍を手にした。そして、迎えた開幕戦。篠塚の疑惑のホームランで同点に追いついた後の9回2死2塁。大森の出番がやってきた。同じく背番号「24」を背負い、解説者デビューとなった中畑氏は「打席での雰囲気が違う、これは将来大物になりますよ。」キヨシの解説が後押ししたのか、大森のバットは快音を残し左中間へ。誰もがサヨナラだ!と思った瞬間、栗山(解説者)が超ファインプレーでこれをダイレクトキャッチ。鮮烈デビューは夢に終わった。

 栗山本人がプロ選手生活で最高のプレーと言うように凄まじいファインプレーであった。思えば、これが大森の悲運の始まりだったのかも知れない。1年目打率1割台で終えると、後は来る日も来る日も二軍暮らし。94年にはイースタン記録26本塁打という大記録を達成した。


 それでも、一軍からお呼びがかからなかった。理由は巨人史上最強の7番打者と言われた駒田が君臨し、92年には若大将原もファーストへ。94年にはミスター3三冠王落合が入団。左の代打切り札も吉村など付け入る隙が一軍には無かった。
しかし、そんな大森に転機が訪れた。96年広島を猛烈に追い上げるペナントレース中、落合が中日野口に死球を受け骨折。イースタン100本塁打を達成した大森が一軍に昇格。そして、初スタメンとなった中日戦で巨人キラーの中日今中からホームランを打つと、長嶋監督が「大森は左に強い、左の左殺しだ」とたった1本のホームランで代絶賛!暫定的に、ファーストのレギュラーポジションを手にしたが、結局パッとしない成績しか残せなかった。

 
 そんな大森のハイライトと言えば、96年のオリックスとの日本シリーズである。迎えた第1戦、2点ビハインドの9回裏、福王がいつもどおり四球を選ぶと杉山の代打大森が鈴木平から起死回生・同点ホー―ムランを放った。
お立ち台が見えそうになった瞬間、長嶋監督がパ時代、打率.361と打ち込まれたゲンちゃんこと河野をイチローにぶつけると、あっさりと決勝ホームランを打たれ、大森の一打は水泡と化した。

 翌年の97年開幕戦に「6番・ライト」で名を連ねましたが、ノーヒットに終わると、すぐさま見捨てられ、また元の2軍暮らし。挙句の果てには、98年シーズン中に近鉄、南、背尾とのトレードで巨人を追われることとなった。近鉄では「5番ファースト」の椅子が用意されていたが、左肩を故障。さらに「元・巨人軍」(ザ・マサダ刊)では、吉岡や石毛が新天地に意欲を燃やしていたのに対し、大森は「巨人の選手で終わりたかった」と未練タラタラ。これでは活躍を望むべくもなく、99年寂しく引退した。

 

 引退後は慶應閥のため、巨人フロント入り。現在はスカウトとして第二の自分を作らないように頑張っている。

2006年11月10日(金)

ロイド・モスビー

テーマ:思い出の選手

モスビー



ロイド・モスビー


 巨人の助っ人外国人はハズレが極端に多い。他球団で活躍するもわざわざ大金を積んで引っ張ってくると途端に全く活躍しないということが常である。巨人に来た助っ人外国人で最強と呼び声高いのがクロマティである。数年前「魁!!クロマティ高校」の作者を名前を無断で使用されたとして訴えたことがあったが、あれからどうなっているのだろうか。


 クロマティの次に活躍した選手といえば、モスビーであると思う。92年に目立った補強もなくシーズン開幕を迎えようとしていた。表向きはファーストに原を、ライトに駒田をコンバートしたぐらいで、外国人はケアリー、ペレスの刺身のツマのような新外国人と、性格だけで残留が決まったゴンザレスという助っ人外国人がいただけでだった。レフトを守る予定だったゴンザレスが中学生並みの低レベルの守備を見せつけ、外野手の補強は必須となった。そこで白羽の矢が立ったのが、メジャー169本の本塁打、280盗塁の実績を持つバリバリの大リーガー・モスビーであった。


 この補強は急遽決まったことではなく、キャンプ中から獲得に向けての調査が行われていた。しかし、モスビーサイドの代理人はあのランディ・バースの代理人として悪名を馳せたミロ・サンド。巨人側が潤沢な資金を持っているのにもかかわらず、金をせびられるのをビビり獲得が遅れたと言われている。


だ が、モスビーは「優勝を狙えるチームに行きたい」と巨人入りを希望し、開幕後になってようやく巨人との契約が成立。晴れて巨人の一員となった。何を考えているの分からないくらいクニャクニャした身のこなしが独特であった。その陽気さと相まって、ブラッドリー以来性格重視の外国人選びに奔走していた巨人にとっては願ってもない逸材だった。その陽気さの点でクロマティ2世とも呼ばれた。


 モスビーは来日直後から順調に打ちまくり、最下位に沈むチームの大黒柱として活躍した。一部では「モスビー効果」なんていう言葉も聞かれた。チームは6月になると今までBクラスにだったのが嘘の様に大躍進を見せた。一時は首位にも届くばかりの勢いであった。このチームの大躍進とは逆にモスビーはホームシックにかかって、来日当初の打撃は鳴りを潜め、打率は2割4分台にまで落ち込んだ。そして、巨人はこの92年において阪神、ヤクルトと三つ巴の大激戦を来る広げたが、大久保の化けの皮がはがれるのと軌を一にしてモスビーのバットも調子を取り戻す。きっかけは、家族の来日だった。初年度は勝負強い印象を首脳陣に与えた。


 首脳陣は早々に契約延長も決め、さらにはブルージェイズ時代の同僚バーフィールドも来日した。相乗効果でどれだけ打つのかと期待されたが、モスビーは開幕戦で右足の親指を痛めると長期離脱となってしまった。この年は原や岡崎、駒田も絶不調に陥ったため、いつまでも湿っている打線の起爆剤として、まだ充分に回復していないまま一軍にモスビーは呼ばれた。案の定、6月には故障が悪化し帰国してしまうなど痛めた右足親指はいっこうに快方に向かわなかった。結局、93年シーズン打率246、本塁打4本とまったく期待はずれに終わり、シーズン終了を待たずして帰国となった。

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