ほぼ日刊ベースボール

野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。


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マック
 







好調巨人にあって、ホリンズが5番を打っている。



巨人というと自前での外国人選手獲得の下手くそさは有名であり、その割にはがんばっているようである。しかし成績自体は並。李、二岡が離脱しているために5番を打っているようなもので、やはりイマイチ感は否めない。



そんな巨人にあって、過去、来日前から非常に楽しみだった選手がいた。シェーン・マックである。亡くなったカービー・パケットと共にツインズの主力をはり、当時、えげつないシンカーで脅威の奪三振、話題をさらっていたスコット・エリクソン、エース、ジャック・モリスらと、1991年のワールドシリーズにチームを導いた選手である。

ナショナルリーグからアトランタ・ブレーブスがしており、ワールドシリーズ史上初めてとなる前年最下位チーム同士の対戦で非常に注目していたシリーズだった。



マック自身はカリフォルニア州立大では1984年にロサンゼルス五輪に出場した。1985年のドラフト1位でパドレスに入団。1990年にツインズに移籍。1992年には、日米野球のMLB選抜で来日している。



1995年に読売ジャイアンツに入団(背番号12)。打走守の三拍子揃ったプレーでメジャーリーガーの実力を発揮した。非常に真面目な選手であった。肩は弱肩だったものの、その守備力は非常に優れており、数々のファインプレでチームの危機を何度も救った。

巨人が自前で取ってきて、失敗しなかった数少ない外国人選手と言える。

ちなみに、マックが退団してから今年に至るまで、自前で獲得した外国人選手は全員失敗に終わっている。
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リッキー・ヘンダーソン
 




トップバッターというと一般的なイメージは俊足でとにかく塁に出られる打者、というのが思われるところである。そこから考えると、高橋由伸はセオリーから外れているように見える。



しかし投手の立ち上がりの不安定さ、のっけから点を取られる恐怖心等考えれば、パンチ力のある打者がトップに座るのは攻める上で非常に効果的でもある。

しかしたった一度のパンチ力だけクローズアップするのは軽率である。その後の打席はどうする?という疑問が当然成立する。というところで今年の巨人を考えると、高橋由伸の出塁率は4割を超えており、塁に出るという先頭打者の役割を充分に果たしているといえよう。



しかし、パンチ力があって、塁に出られて、走ることのできる選手がいたら、その選手は理想の先頭打者といっていいだろう。というところで忘れてならないのは、リッキー・ヘンダーソンである。



1979年6月24日にメジャーデビューを果たし、その年に33盗塁を記録した。翌シーズン100盗塁で盗塁王を獲得して以降、1980年から1986年にかけて7年連続盗塁王に輝いた。特に1982年には年間130盗塁という大記録を達成。それまでのメジャーの通算盗塁記録であったルー・ブロックの938盗塁を大きく上回り、(現時点で最後のメジャーでのプレイとなっている)2003年時点で通算1406盗塁を達成している。



盗塁の能力は特筆すべきものがあるが、驚くべきは打撃力。通算打率こそ.270台だが、出塁率は.401。イチローの通算が.380だからトップバッターとしての責務をいかに果たしていたか分かるだろう。



そして目を見張るのが先頭打者本塁打の数。通算81本。これも不滅の記録だろう。独特のクラウチングスタイルから四球を選ぶべくじっくりと待ち、好球が来たら逃さない。ボンズに抜かれたが、得点と四球の当時のメジャー記録は、ヘンダーソンの前はいずれもベーブ・ルースが保持していた記録であり、長らくアンタッチャブルな記録を破ったことの意義は非常に高い。



残念ながら守備はさほど上手くはなく、肩も弱い。よってレフトが定位置だったが、その攻撃能力を見れば歴代ナンバー1の先頭打者といって過言でないだろう。
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長池徳士
 




内角に悩まされる選手は多い。清原も苦手なのでなく、内角の避け方を知らないため、内角球による故障が多い。それくらいプロの投手の投じる内角球はえげつないものがある。



阿部慎之助。天才と呼ばれる。その由縁は内角球のさばきにある。

どんなに近い球も腕をしっかりたたみ、腰の回転で巻き込むように打つ。父は高校時代、習志野高校で掛布をさしおいて4番打者。サラブレッドの血が流れているのだろう。



過去、内角球をいとも簡単にさばく選手がいた。長池徳士である。



阪急ブレーブスが常勝球団へ、劇的に変わったときの四番打者だった。長池徳士は鈴木啓示(近鉄)や堀内恒夫(巨人)らと同じに、一九六五年秋に制定されたドラフトの一期生。

東京六大学の先輩、スーパースター長嶋茂雄の後継者をイメージした背番号「3」。注目を一身に浴びたが、プロの厳しい内角攻めに遭い、お手上げになった。西本幸雄監督、青田昇コーチの熱心な指導が姶まった。



打撃には一家言ある二人だが、指導法は微妙に違う。混乱した長池は「どちらか一人にして下さい」と、注文をつけた。すると西本は「アオちゃん、頼む」。OBを含め、教えてくれる人すべての顔を立てて迷路をさまよう若手が多い。長池がはっきりと主張しなければ、きっと行き詰まったに違いない。



青田が教える内角打ちは、シンプルだった。向かってくるボールの内側に左手のグリップを出せ、左足のステップをスイングより早く、の2点に尽きた。ただ、ぶっきらぼうな口調なので、さっぱりわからない。すると、スカウトの藤井道夫が”意訳”して長池に伝えた。藤井は五〇年代の阪急でプレーした渋い打者。スカウト転向後は長池を中学生のころから追い、球団に獲得を進言し続けた。スカウトの意地もあった。しかし、自らの打撃論を押しつけず、青田の意図を、かみ砕いて伝えただけ。出しゃばって若手をつぶすOBとは、この点違った。



一年日の後半から真価を発揮し始めた。三年目の六七年には、スペンサーに代わって四番にすわった。二十三歳。当時の十二球団の中で最年少の四番だった。内角打ちに磨きがかかり、27ホーマー、78打点をマークした。

三番へ移ったスペンサーは出塁すると「併殺を恐れずに打て。打ち損じのゴロになったら、オレのスライディングで野手を吹き飛ばしてやる」と、若い新主砲を励ました。

「あれで気が楽になった。アオさん、藤井さん、スペンサー・・・。本当にいい人に恵まれた」と、幸運の出会いを懐かしんだ。

六九年には41ホーマーを打ち、初の本塁打王になった。

同時に初タイトルの101打点を合わせて二冠王。MVPにも選ばれ、八年連続本塁打王だった野村克也を追うパ・リーグの看板選手にのし上がった。

そのころの長池は左肩にアゴを乗せて投手を真正面に見据える、ユニークな構えをしていた。師匠の青田は退団していたが、その教えを下地に試行錯誤して「最もボールが見やすい形」を身につけた。七一年に二度目のMVP、七三年に二度目の二冠王。アゴ乗せスタイルは、長池のトレードマークになった。



西本監督時代には、Ⅴ9時代の巨人に五度敗れた。初対決の六七年、シリーズ前の西宮球揚でのONの打撃練習に圧倒された。七一年の第3戦、山田久志が王貞治に打たれた逆転サヨナラ3ランは「右翼の守備位置で、一歩も動かずに見上げた。あの打球は、今も目に浮かぶという。



七五年からパ・リーグは指名打者制を採用、長池は初代の「ベストDH」になった。だが「野球をしている気がしなかった」と回想した。打って、守ってリズムに乗るが、それができないもどかしさ。それ以上に、若返りと守りの強化からはみ出す悔しさ。代打起用に反逆し、東尾修らとの交換トレードも拒否した。400ホーマーは軽いつもりが、七九年の引退時には338本にとどまった。



引退後は阪急を皮切りに、西武、南海、横浜、ロッテで打撃コーチを務めた。名コーチ青田の”最高傑作”だった長池に、内角打ちの極意を求める選手、チームは後を絶たない。「教わったことを自分流にアレンジする選手でないと、大成しない」と青田は言った。身をもってそれを示した長池が、またユニホームを着る日は遠くあるまい。

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外木場
 



通産ノーヒットノーラン7度を達成しているのがノーラン・ライアン。通産5714奪三振でメジャー史上最高の豪腕投手といえよう。

日本では誰か。沢村栄治、江夏豊、松坂大輔と日本を代表する投手は列挙できる。しかしノーヒットノーランの通算数を基準とするならば、日本最高の3回を記録している外木場義郎といえよう。



鹿児島県出水高校から九州電気通信局を経て1964年9月に広島カープへ入団。

翌1965年10月2日に阪神を相手にノーヒットノーランを達成し、初勝利を飾る。

その後、一軍と二軍を行き来する生活を続けるが4年目の1968年に根本陸夫監督に代わると素質を見抜かれて一気にエースにのし上がり、21勝14敗、防御率1.94の成績を残して最優秀防御率のタイトルを獲得。広島を球団創設以来初のAクラス(3位)に導いた。

この年の9月14日の大洋戦では2度目のノーヒットノーランを完全試合で飾っている。

そして、1972年4月29日の巨人戦では3度目のノーヒットノーランを達成し、沢村栄治の記録に並んだ。

1975年には20勝13敗、防御率2.95、193奪三振という素晴らしい成績で弱小球団だった広島を悲願の初優勝に導いている。

その反動からか、1976年からは右肩痛に悩まされ、1979年限りで現役を引退した。



伝説として残っているのは初勝利をノーヒットノーランで飾った試合のインタビュー、「何ならもう1回やりましょうか」発言であろう。この発言は多少の物議を醸したが、実は記者の質問が「実力ですか?」というようなあまりに失礼な質問だったらしく、むっとした外木場が答えた言葉がそのまま報道されてしまったというのが実情である。現に外木場は、見た目も含め銀行員のような折り目正しい人物である。



また特に内角のシュートしながら浮き上がってくる殺人的なストレートは打者を震え上がらせ、頭に死球を受けた田淵幸一が病院送りとなっている。

この死球をきっかけに耳あて付きのヘルメットが義務付けられたというのだから衝撃的な事件だったのだろう。ちなみに田淵の左耳は難聴のままである。



ストレートと分かっていても打てない、藤川球児や中里のような驚異的な伸びとはまた異質の、「殺人的」としか形容しようのないストレートはもし映像を見る機会があるのなら一見の価値はある。
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中田翔






玉島商業相手に2試合で3発。いよいよ中田が高校通産本塁打記録の86本へ迫ってきた。ただちょっと思うのはマスコミが過熱しすぎである。記録への興味ばかりで中田のバッティングを適正に判断した報道が圧倒的に少ないように感じる。



個人的には1年生の甲子園デビュー戦、春日部共栄戦が鮮烈だった。打っては1年生とは思えない身体をいっぱいに使ったフルスイングでホームラン、投げても不安定な辻内を好救援、146キロも記録した。打者としては1年生の時のあのスイングが、荒削りながらも非常に魅力的だった。ボールを線でとらえ、身体のしなりで飛ばす、理想的なスイングだったように思う。



もちろん記録としてホームランを重ねている今も評価に値はすると思う。しかしボールを点でとらえ、下手すれば振ったところにボールが来たようにも見えてしまう現在のスイングは、レベルの高い相手にはやはり苦しめられるだろう。PL時代の清原のようなしなやかさと、相手投手との圧倒的な力の差は、どうしても感じられない。



大阪桐蔭の西谷監督も中田の投手としての資質を認めているようだが、個人的にも投手としての方がプロで活躍できるように感じる。肘に不安を覚えつつも、投げた試合はしっかりと抑えるあたり、打撃以上の安定感を感じてしまう。そしてあの喧嘩っ早そうな性格。とにかくあと10キロは体重を減らし、投手としてのしなやかさを取り戻し、肘の不安がなくなって腕が上がるようになれば、パワーピッチャーとして非常に魅力的な素材になるといえよう。



筋力トレーニングが普及し、効率的に筋力を上げられるようになってから、球場の広さが変わったかと言えば、広くなったとしても10mほど。甲子園にいたっては変わっていない。変わらない環境で球児の体力は向上している現状で、本塁打数が増えるのは当然である。



素質がある選手だけに、プロはきちんと彼の適正を見抜き、潰さずに育成して欲しいものである。

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