ほぼ日刊ベースボール

野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。


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江本孟紀
 




江本は、プロ入団後わずか1年にして、他球団へのトレードが決まる。南海の捕手兼監督だった野村克也が東映のルーキーだった江本を密かに観察していたのである。野村は、江本を獲るために、東映のエース格に成長してきた高橋直樹の獲得を希望し、それを拒否されるのを待っていたかのように江本獲得を切り出して成功させた、と言われている。野村の眼力は、確かだった。江本は、南海移籍1年目に16勝を挙げて、一気に南海のエースへ登りつめたのである。




江本は、長髪に口髭という容貌を売り物にしていた。しかし、南海の野村監督は、74年、チームに長髪禁止令を出した。監督をする度に「野球は頭の外を使ってやるんじゃなく、頭の中を使ってやるもんだ」と言っていた理論である。しかし、江本は、ただ1人その指令に反抗し、髪を切ろうとしなかった。困った球団側は、江本と交渉にあたった。導き出された妥協結果。それは、江本の年俸を50万円上げる代わりに髪を切る、というものだった。つまり、江本は、髪を切るだけで50万円を稼いだのである。




81年8月26日、江本は、ヤクルト戦に先発する。この時点で江本は、4勝6敗と苦しんでいた。防御率は悪くないのだが、勝ち星に恵まれなかった。しかも、江本は、この年、投手陣の柱としての起用をされておらず、この日の先発も前日に急遽言い渡されるというものだった。これじゃ、機嫌がいいはずがない。とはいえ、この日の江本は、好調だった。7回まで1失点に抑え、4-1でリードを奪っている。だが、球数は既に127球に達していた。8回、江本は、息切れして3連打を浴び、4-2とされる。ここで、限界を感じていた江本は、ベンチへしきりに視線を送り、交代を待った。しかし、中西太監督は代える気配を見せず、ベンチは誰も動かない。続投だった。江本は、その後、2点を失い、4-4の同点にされて8回を投げ切った。戻ってきたベンチで江本は、グラブを投げつけ、ロッカールームへ向かった。ロッカールームの入り口で江本は、たまりにたまった鬱憤を記者たちにぶつけた。




「ベンチがアホやから野球ができん」




そう言い残して江本は、ロッカールームの中へ消えた。翌日、新聞各紙にはこの「ベンチがアホやから野球ができん」という言葉が踊った。上の命令は絶対、という縦割りの日本。学校で教師の指導が間違っていても、会社で上司の判断が誤っていても、なかなか下から上にもの申すってことは容易じゃない。マスコミは、それを代弁した江本の刺激的な発言に飛びついたのだ。江本のこの発言は、全国民に知れ渡ることになり、大騒ぎになった。結局、江本は、阪神から発言の責任をとらされて退団し、そのまま引退することになる。今だったらこの程度の発言で退団に追い込まれるようなことはないだろうけど、当時の世情はそれを許さない古い体質だったのだ。本人は「アホ」くらいとしか言ってない、とずっと言い訳をしているが、普遍の名言として永遠に残るに違いない。




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高知商業高校から法政大学へ進学。その後、社会人野球の熊谷組を経て、71年にドラフト外で東映フライヤーズに入団。その年は0勝に終わる。しかし、南海の野村克也の目にとまり、翌72年、南海に移籍して16勝13敗、防御率3.04という見事な成績で一躍エース格となる。73年には12勝を挙げて南海のリーグ優勝に大きく貢献した。この年、シーズン10ボーク、1試合3ボークという日本記録を樹立。日本シリーズでは第1戦で完投勝利を収めたものの、ONを擁する巨人に1勝4敗で敗れ、巨人に日本シリーズ9連覇を許した。


76年には江夏豊らとの超大型トレードで阪神に移籍。いきなり15勝9敗の成績を残して阪神でもエースとなる。79年まで8年連続2桁勝利を記録した。しかし、まだ先発投手として活躍していた81年8月、試合後に「ベンチがアホやから野球ができん」という首脳陣批判の名言を残して現役を引退。92年、参議院議員の比例代表区で当選し、国会議員となる。04年、大阪府知事選に出馬し、プロ野球選手出身として初の知事を目指したが、惜しくも現職に敗れ、次点だった。




長身から投げ下ろすキレのいい直球とシュートの2種類を主体とする投球で南海・阪神のエースに登りつめた。その一方で型破りな言動で多くの話題を提供し、先発投手として活躍しているさなかにやめてしまったことは惜しまれる。




通算成績(実働11年):113勝126敗19セーブ、防御率3.52。1130奪三振。



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金村義明




81年、甲子園に春夏連続出場を果たした報徳学園をエース・4番バッターとして牽引し、夏の選手権大会では強豪校を下して全国優勝の栄誉を勝ち取る。春夏通算の打率は.577。本塁打は3本。同大会には工藤公康(名古屋電気、後に西武→ダイエー→巨人)、荒木大輔(早稲田実、後にヤクルト→横浜)などが出場している。同年のドラフト会議で近鉄バファローズから1位指名を受け入団。この時、当人は長池徳士の大ファンであり、更に阪急沿線に住んでいたことから阪急ブレーブスを志望していた。あくまで本人の談であるが、阪急と既に交渉していたそうだ。だが、近鉄から指名を受け、泣きながら長池打撃コーチの自宅を訪ね、相談したところ、長池や三輪田勝利スカウトから「近鉄で頑張れ」と言われたことが近鉄入団を決意するきっかけとなったと言う。




入団直後は投手であったが、すぐに内野手に転向(甲子園で槙原寛己の剛速球を見てショックを受けたことや、工藤からホームランを放ったことが自信になったとの説がある)。序々に頭角をあらわし、86年からは羽田耕一に代わって三塁のレギュラーに定着、いてまえ打線の中軸として活躍する。その豪快なイメージから「いてまえ大将」のニックネームを頂戴する。かつて豪快だったパ・リーグのイメージを継承した最後の選手と言う声もある。




中村紀洋の台頭に押される形で、95年にFAによって中日に移籍。しかし、セリーグでは目立った成績を残せず97年開幕直後に小野和義との交換トレードで西武に移籍。西武では主に代打・一塁手・指名打者として出場し、近鉄・西武の2球団でリーグ優勝に貢献した。99年現役引退。テレビで引退の理由を「痔であった時清原和博に強烈な浣腸をされてヤバイ事になったのが響いた」と語っているが定かではない。


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加藤英司
 




PL学園在籍時の66年9月、ドラフト4位で東映から指名されたが、拒否して社会人野球の松下電器に進んだ。松下電器でも活躍を見せた加藤は、67年11月のドラフトでも南海から10位指名を受ける。しかし、これも拒否して社会人野球に残った。そして、68年11月のドラフトで今度は阪急からドラフト2位で指名を受け、プロの道に進んだ。この年の阪急のドラフトは1位指名、サブマリン山田、7位指名が世界の盗塁王福本であった。このドラフトが阪急の黄金時代のきっかけになったと言っても過言ではない。




加藤は、犠牲フライの名手であった。犠牲フライを狙って打つことは極めて難しい。投手も犠牲フライを打たれないように球を投げてくるからである。現役19年間で何と6度の犠牲フライ王に輝いている。73年に10犠飛で1度目の犠牲フライ王になると、78年に10犠飛、80年にも10犠飛、81年8犠飛、82年9犠飛、84年9犠飛とシーズン最多犠打を記録し、犠牲フライを打ちまくった。3割以上9回を記録したアベレージヒッターである加藤は、ミートの巧さなら折り紙付き。ノーアウトか1アウトなら確実に1点が計算できるバッターだったわけである。加藤の通算犠飛は105。これは、王貞治をしのぎ、野村克也の113に次いで歴代2位の記録である。隠れた賞賛すべき記録である。




87年、プロ5球団目の南海にいた。加藤は、阪急を出て以降、他球団での適応に苦しみ、球団を転々としていた。阪急は、以前チームメイトとして阪急の黄金時代を築いた山田久志が投げていた。6回裏、加藤は、その山田から通算2000本安打となる本塁打を放った。かつてチームメイトであった284勝投手の山田久志から本塁打を打って2000本安打を決めたことはよほど嬉しかっただろう。




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PL学園で活躍した後、松下電器を経て69年、ドラフト2位で阪急に入団。2年目に35試合出場ながら打率.333を記録すると3年目の71年にはレギュラーを獲得し、打率.321、25本塁打、92打点の活躍で一躍、チームの中心選手となる。チームもリーグ優勝を果たし、ここから阪急の黄金時代が始まることになる。72年には日本シリーズで打率.417、2本塁打の活躍を見せたものの、巨人に敗れている。73年には打率.337で首位打者を獲得。75年には打率.309、32本塁打、97打点の活躍で初めて本塁打を30本台に乗せるとともに打点王にも輝いた。阪急もリーグ優勝を果たし、その貢献度の高さからシーズンMVPに選出される。日本シリーズでも広島を破っての日本一に貢献した。76年に82打点で2年連続打点王を獲得すると、77年には打率.319を残し、5年連続3割以上を記録した。79年には打率.364、35本塁打、104打点という自己最高の成績を残し、首位打者、打点王の二冠王に輝くが、阪急は優勝を逃している。82年に21本塁打を打ちながらも打率.235に終わると、水谷実雄との大型トレードで広島へ移籍。




広島では肝炎に悩まされて低迷するも、84年には再びパリーグの近鉄に戻り、85年には26本塁打を記録する。86年には巨人に移籍したが、87年には南海へ移籍。その年に通算2000本安打を達成し、現役を引退した。




低い重心を保ちながら鋭く踏み込んでコンパクトに振り抜く打法で、阪急黄金時代の中心打者として安定した打撃成績を残した。高い打率を残しながらも一発の魅力を秘め、勝負強いバッティングで3度の打点王にも輝くなど、阪急在籍期間に7度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。




通算成績(実働19年):打率.297、347本塁打、1268打点、136盗塁。MVP1回(75)首位打者2回(73・79)打点王3回(75・76・79)最高出塁率3回(76・77・79)ベストナイン5回(73・75~77・79)ゴールデングラブ賞3回(75~77)

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権藤博
 




権藤 博


鳥栖高校からブリヂストンタイヤを経て61年に中日ドラゴンズへ入団。同年のオープン戦で28回3分の1を投げて自責点1(防御率0.31)という驚異的な成績を残し、1年目よりエースとして大車輪の活躍。この年チーム試合数130の半分以上に当たる69試合に登板、そのうち先発登板は44試合。35勝19敗、投球回数429 1/3回、奪三振310、防御率1.70を記録。




連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤」という言葉も生まれた。当時はまだ先発ローテーションなどなくエース格の投手が優先的に登板していた時代。同年パ・リーグでは西鉄の稲尾和久が78試合に登板し42勝の日本記録を樹立しているが、こと先発登板に限定すれば権藤ほどの連投は戦後久しく例が無く度肝を抜かれた。翌年は多少数字を落とすも、61試合に登板(先発登板39)、30勝17敗、投球回数362 1/3回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し2年連続最多勝に輝いた。酷使による疲労で球威が落ちた3年目1963年は10勝、1964年は6勝に終わり打者に転向したが芽が出ず、68年に投手に再転向。同年引退した。




引退後73年~77年、80年~83年に中日投手コーチ。東海テレビ野球解説者を経て88年~89年に近鉄バファローズ投手コーチ、91年福岡ダイエーホークス投手コーチ、97年横浜ベイスターズバッテリーチーフコーチ。98年に横浜監督に就任し、チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。00年に監督退任。現在は野球評論家として東海ラジオ放送、文化放送、スポーツ報知に出演。古巣の東海テレビでも本数契約で出演している。




自身の体験から「投手の肩は消耗品」が持論。横浜の監督となった98年には抑え投手の佐々木主浩を不動の中心とし、対して中継ぎ投手にはローテーションを組み連投による疲労を最小限に抑制。。(だがダイエーコーチ時代、下柳剛に関しては「奴はどれだけ放っても壊れない」として例外。制球力をつけさせるために毎日登板させていた。)攻撃時の打者へのサインは最小限に止め選手の自主性に任せるなど、多様な采配を見せた。権藤の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、権藤の現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、現代のプロ野球に多大な影響を与えた。




同じ九州出身の大投手・稲尾を尊敬しており、投球フォームから普段の歩き方まで稲尾を模写するという私淑ぶりだった。もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評価を受けていた。東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向して欲しいという要請があったという。




指導者としては直言居士で、たとえ上司であっても間違った意見にはトコトン喧嘩を挑むタイプであり、近鉄時代には仰木彬監督との不仲説も噂されたほどであった。一方で「審判は絶対である」という原則を遵守し、判定には殆ど異議を唱えることが無かった。横浜時代、選手が「抗議して下さい」と頼んでやっと腰を上げたという逸話がある。

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仲田幸司




昭和57年夏の甲子園に、まるでファッション雑誌のモデルのような、「イケメン」ピッチャーが颯爽と現れた。

沖縄・興南高校仲田幸司。彼はアメリカ人の父親と日本人の母親との間に誕生したいわゆる「ハーフ」だった。ルックス的には同じハーフで現在プロで活躍中のダルビッシュにも決して負けていなかった。

また同じ年、3年生として最後の甲子園に登場していた「都会的な」早実の荒木大輔にはない「ワイルドさ」が仲田幸司にはあった。




興南高校は、当時2年生だった仲田幸司と、後に西武ライオンズに入団する同じ2年生キャッチャーの仲田秀司との「2年生バッテリー」を中心としたチームで、1回戦で明野高校を3-2、2回戦で熊谷高校を2-1で破り3回戦で名門・古豪広島商業と対戦した。

2年生バッテリー中心の「フレッシュな」興南高校と「老練」「試合巧者」の広島商業。




まるで「対象的」とも言える両校の対決は、両校の特徴が非常に色濃く反映されたかのような試合となった。




前半は「フレッシュ」興南高校が圧倒的に押していた。

2点を先制し、広商打線を仲田幸司が完全に抑え込んでいた。

長身サウスポー仲田幸司が左腕から投げ下ろすストレートと落差の大きいカーブは威力満点で、5回まで広商打線はノ-ヒット。

さすがに試合巧者の広島商業もランナーが出ないことには、持ち味である「機動力」「小技」も発揮しようがなかった。

しかし、6回仲田幸司は広島商業の毒牙にかかった。




言い換えると6回の攻撃は広商が広商らしさを存分に発揮した「広商劇場」のようでもあった。

また、仲田幸司にとってはその後の野球人生を暗示するかのようなイニングにもなってしまった・・・。




フォアボール、エラーと興南高校がわずかに見せた「スキ」に、バント・盗塁・エンドランといったお得意の「機動力」を絡ませ、「たまたま出た」と言ってもいいヒット2本で4点も取って「まんまと」逆転したのである。ヒット2本、ワンチャンスで4点。少ないヒットで最大限の効果を引き出す。昭和48年に作新学院の「怪物・江川」を攻略した伝統は、時代が変わっても脈々と受け継がれていた。広商恐るべし。伝統恐るべしである。


結局その試合、広商が放ったヒットはその回の2本だけで、その後はろくにランナーも出なかった。仲田幸司のピッチングは6回を除いては非の打ち所のない「完璧なもの」だった。一方の興南打線も広商エースサイドスロー池本の前に沈黙し、そのまま4-2で広島商業が逃げ切ったのであった。古豪・広商をわずか2安打に抑えながら敗れた悲運のエース仲田幸司。



仲田幸司は、類稀なセンスを持ちながら、その後もどちらかというと「勝負運」のないピッチャーだった。




翌年のセンバツでも一回戦で、光山のいた大阪・上宮高校をほとんど完璧に抑えながら、たった一本の逆転ホームランに泣き、夏の甲子園ではなんと、同じ広島商業に前年と同じような試合展開で敗れた。

プロ入り後は主に「マイク仲田」と呼ばれることが多かった仲田幸司は、阪神のピッチャーとして甲子園のマウンドに立ち続け、「いつまでも垢抜けしない」ピッチングで中村監督や故・村山監督を悩ませながらも阪神ファンに愛され続け、最後はロッテでプロ生活を終えた。




しかし亀山ブームに沸いた92年は仲田にとっても唯一といっていい絶好調のシーズンだった。




1992年スライダーをマスターした仲田は、好調なチームの勢いにも乗り自身初の2桁勝利(14勝)に初タイトル(最多奪三振)を獲得、オールスターにもファン投票で選出、チームも前年最下位から2位へと躍進し最高のシーズンとなったのである。




仲田といい、上原晃といい、大野倫といい、沖縄の投手はどこか悲運・不運がともなう。しかしだからこそ太く短い輝きが、彼らを自分たちの記憶に刻み込むのかもしれない。

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