マタイ21章12~13で、イエスが宮に入った時の様子が書かれている。

 

21:12 それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

 

私は、最初にこの聖句を読んだ時、穏やかで、愛の方、イエスが、そこまでなさるのを、奇異に感じたものです。

人間的に考えると、とても感情的ともいえる、力任せのイエスに違和感を覚えたものです。

というのも、それ以外の場所で、実力行使はないからである。

 

そして、しばらく読み込んでくると、イエスの宮に対する思いの強さを知るようになります。

わたしの祈りの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだと、書かれているからです。(イザヤ56.7)

神の宮とは、何と聖なるところでしょう。

 

さて、そう考えると、いささか、心もとなく感じるのが、私のことである。

聖書に書かれているように、私達は、既に神の宮になっている。

 

Ⅰコリント3.16

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 

私は、神の御霊である聖霊様が、宿っておられることを知っており、実感もしている、と思っている。

しかし本当に知っているのか、イエスの行動を思い起こす時、はたして、と思う。

つまり、知っているということは、知っているにふさわしい行動をとっているということだが、残念ながら、いまだ、心もとない。

 

私は、神の神殿なので、宮の中をきれいにしておく必要がある。

つまりは、余計な考えを、取り除いておく必要があるのだ。

しかし、残念ながら、神の神殿に不必要な、自分のこの世的な思いなどが、残存している。

イエスが、はっきりと実力行使したように、私は、それを追い出す役目があるのだろう。

 

私は、神の神殿であり、私はその中の祭司になっている。

信じられないと、思うことすらある。

とても光栄で、感謝なことである。

私が、何かを思い考えるのも、すべては、神との関係が中心にあらねばならない。

つまりたえず、神が中心にいらっしゃる必要がある。

そうすると、神の宮にふさわしくないものは、追い出す責任がある。

それは、自分の意志が行うことなのだろう。

継続性も求められる。

日々の習慣、取り組みが大切なのだろう。

これらもまずは、神への語りかけ、そしてゆだね、祈りが前提なのだろう。

 

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