2015年11月8日(日)、善光寺散策の続きです。

善光寺境内の散策を終えて、

この後は長野駅に向けて表参道を歩きました。



善光寺表参道の入口まで戻って来ました。

木の板にも「善光寺参道」と書かれています。



その脇には「長野市道路元標」なるものがありました。

道路元標(どうろげんぴょう)とは、

道路の起終点を示す標識のことだそうです。



ここには次のように書かれているそうです。

長野市大字長野字元善町461番地先

北緯36度39分 東経138度11分

標高392.08メートル


長野駅に向かって道路の左側を歩いていると、

最初に目に留まったのが大きな赤い唐辛子。

善光寺参りのお土産として七味唐辛子は有名ですよね。

私も「八幡屋礒五郎」に入って1種類買ってきました。



ちょうどお向かいには、

レトロな感じの善光寺郵便局がありました。



ふと足下を見ると、

可愛いリンゴをデザインしたマンホールが・・・。

ちなみに真ん中の花も「リンゴの花」。



最初の交差点「大門」交差点を左折。



次に訪れたのは「武井神社」。

妻科神社・湯福神社とともに

善光寺を守護する善光寺三社の一つです。



社名のいわれは二説あり、

信濃宝鑑(明治34年発刊の名所・旧跡の案内書)では、

諏訪大社の領地を武井(武居)といい、

同じ御祭神を奉祀することから武井神社と称すと・・・。



神官・武居祝(たけいほうり)一族が奉齋したことから

武井神社と称した・・・という説があります。

昔は「武井明神・諏訪明神」と呼ばれていましたが、

現在の社名となったのは、文化4年(1807年)です。



拝殿には、江戸から平成までの

「御柱祭行列図」大絵馬4枚が掲げられています。

こちらはwebからお借りした江戸時代のもの。



神事の御柱祭は、諏訪大社の御柱祭と同じ寅年と申年に、

武井神社、妻科神社、湯福神社の善光寺三社に

水内大社を加えた4社が交替で勤行します。




せっかくここまでやって来ましたが、

見逃してしまったものが「雷電の力石」です。



この石はもともと神社の東側を流れる

鐘鋳川に架かる橋として使われ、

「武井橋」と呼ばれていました。

この橋を架け替える時、古い橋は武井神社に

奉納されることになったのですが、

重くて運ぶことができません。


それを相撲の巡業で善光寺に来ていた

雷電為右衛門が持ち上げ、神社まで運びました。

以来、この石は「雷電の力石」と呼ばれ、

この上に子どもが立つと丈夫に育つそうです。


雷電は、江戸を沸かせた信州出身の大力士。

厚さ30cm余、3畳ほどの大きさで、

4~5tはある大石だそうです。


何を思ったか、お友達はこの可愛いおみくじを購入。



これで武井神社はおしまい。



武井神社のちょうど真向かいに

「ちょっ蔵おいらい館」というのがありました。



善光寺門前の代表的な商家の一つを保存。



入口を入った所にこんな蝋人形が・・・。



建物の中では休憩もできますし、

奥には蔵があって、今はギャラリーです。





再び表参道の大門交差点に戻ると、

またまたお友達が発見して教えてくれました。



なんと交差点の角に「猫や」なるお店があったのです。



その名のとおり、猫グッズのお店です。

入らないわけがありません。

本当に細長い店内は人のすれ違いがやっとですが、

所狭しと可愛いニャンコがいっぱい並んでいましたよ。



もちろん、荷物にならない程度の小物を

いくつかお土産に買いました~。


この「猫や」の横を通って、

大門交差点から西へ少しく歩くと「西方寺」があります。



安養山極楽院西方寺(さいほうじ)は、

浄土宗の開祖・法然上人が善光寺を訪れた時に、

現在の権堂の往生院の地に開創したと伝えられています。

また、弘法大師が大同二年に建立した宝乗寺が

その時に浄土宗に変わったとも言われます。



境内入口の脇には六地蔵+赤地蔵。



全国的にも珍しい赤いお地蔵さま。

赤は魔除けであり、

善光寺を守るために四方に祀られました。


webより


東は高土手、北は横山に同じ赤地蔵があります。

この願掛け赤地蔵、

姑と舅の悩みから守るとも言われています。



西方寺は、浄土宗大本山善光寺大本願の菩提所であり、

江戸時代には7年間善光寺の仮本堂となりました。

その時の善光寺の天蓋と香炉が残されています。


webより


天井絵や外陣の欄間の彫り物も

一見の価値があります。

本堂の天井には、380枚の江戸期の草月、動物、

怪物などの絵が描かれているそうです。


webより


本堂は建坪112坪、十一間四方の大建築です。




1700年、善光寺の仮本堂となった後、

1751年、1760年、1773年等に火災に遭いましたが、

善光寺天蓋、観経曼荼羅、釈迦涅槃図が

当時のまま残っています。



本堂は明治4年(1871年)6月に、

中野から県庁が長野の地へ移った時、

西方寺を県庁として長野県が始まりました。

総職員51人中47名が、赤いジュータンを敷いた本堂へ

靴で上がり勤務しました。


西方寺の傍らには「紫雲石」があります。

紫の石の上に善導大師の御顔の像が乗っていました。



一方で、越後の国柿崎の郷で、

海中より善導大師の御体の像が引き上げられたので、

取り寄せてみると合致し一体の善導大師像となりました。

そこでそれまでの宝乗寺の名を改めて、

善導寺としました。


webより


その後、川中島合戦(1553、1561年)の後、

天正元年(1573年)に武田信玄が没し、

天正6年(1578年)に上杉謙信が没した後の

天正10年(1582年)に武田勝頼が没すると、

越後の上杉景勝が同年に川中島から海津城へ入り、

この像を奪って越後の高田の地に安置して

善導寺と名づけました。


これにより、善導寺と称していたのを、

西方寺と改めたと「蓮門精舎旧詞」に記されています。


こちらは平成23年6月に完成した

「立体曼荼羅二尊極楽堂」。



平成22年6月にダライ・ラマ14世法王による

大仏開眼式が行われてからちょうど1年、

全ての壁画(菩薩画)が完成して、

堂内に仏の世界が開けました。



高さ8尺(2.4m、台座除く)重さ2tもの

日本初のチベット塑像。


webより


壁画の八菩薩は、観音菩薩(慈悲)・勢至菩薩(威徳)・

弥勒菩薩(当来)・文殊菩薩(智慧)・普賢菩薩(善徳)・

除蓋障菩薩(除障)・地蔵菩薩(地安)・虚空蔵菩薩(福徳)。



私達の生活を全方位から守って下さいます。

製作にはチベット特有の葉や砕いた顔料に

にかわを混ぜて絵具を作り、

メンリ派の伝統技法と絵師の才能によって描かれました。

各々縦1.5m横1mもの菩薩画はチベットでも稀な大きさで、

精緻で立体的に浮き出てくるような画法。


私たちは実際には中には入りませんでしたが、

見所満載の西方寺さんでした。


(つづく)