動物は、危険を感じた相手と敵対したがります。
そうやって、自己防衛しようとする、生存本能です。
勝てるかもしれない相手だったらわざわざ戦おうとするし、
勝てそうにない相手だったら隷従することもあります。
そうやって、犬が吠えることもあるし、熊に襲われることもあります。
熊に襲われても素手で勝てるひとはまれでしょうから、熊に出遭ったときには戦わないほうがよいですね。
死んだふりして助かっているひともいます。
もっとも、死んだふりをしたら熊が警戒して調べにくる可能性が高いので、あまりおすすめはしません。
「嫌い」という感情は、自分の生存にとって都合が悪いと感じるから起こります。
「嫌い」と「怖い」は、本質的な部分はおなじです。
自己生存本能なのです。
表層的な、形式的なちがいから、「きらい」と「こわい」でそれぞれに語彙があるのでしょう。
実際には、感情というのはとても曖昧なものです。その曖昧さを表現するために、語彙が多数つくられたのです。
ほとんどの生物は、実害がなさそうならば戦いません。
ところが、人間は観念で生きる自我中心的な動物なので、
実害がないとわかっても、
嫌いな相手に対してわざわざ戦いを仕掛けたがる傾向があります。
「嫌い」という感情が暴走するのです。
わざわざ戦おうとせずに、喧嘩を売らずに、ぷいっとしていれば、実害がないことが多いのです。
それなのに、喧嘩を売る奴がいます。
そういうのは、自己洞察のできていないガキです。
ガキとおとなの差は、自己洞察をしようとしているかどうかの差です。
いつも危険を感じている、怖がりな人間は、自己保身をしなくちゃいけなくなります。
だから、自己の強さをひけらかして安心しようとする奴がいます。
誰にも逆らわせないで、なにもかもが自分の都合のよいように動いていないと気がすまないわけです。
ですから、こういう奴は実はとっても怖がりです。
嫌いな相手がいたらいちいち喧嘩を仕掛けないと気がすまない、
ほかのひとがみな自分の都合のよいように動いて隷従していないと気がすまない。
本当は、いちいち喧嘩を売っていたらキリがないし、
そういう奴は、ほかのひとたちから嫌われます。
こういう奴はわざわざ加害してくるわけだから、嫌われるわけです。
さて、しばしば、「いじめは、いじめられる方にも問題がある」とも言われていますが、
その指摘は因果論であって、罪悪論ではありません。
いじめは、加害する奴に罪悪があるのは明白です。
因果、原因の議論と、罪悪、責任の議論は、区別しなければなりません。
いじめられるほうは実害を起こしていないのに、いじめるほうが実害を起こしているのならば、
いじめる奴の罪悪なのは明らかです。
そして少なくとも、いじめる奴というのは、ほぼかならず、自己洞察のできていないガキです。
子どものうちはガキが多くて、いじめはよく、子どもの間で起こります。
大概の者は、歳を重ねていくうちに、自己洞察の意識がついてきたおとなになって、いじめをしなくなります。
ところが、少なくともいまの日本では、大人のいじめがよく見受けられます。
ということは、いい歳こいてもガキだということなのでしょう。
あるいはもしかすると、昔も大人のいじめは多かったのかもしれませんが。
人間の生存本能は過剰です。
ほかの生物は大概、生存本能が適度で、つりあいがとれています。
人間の生存本能が過大だからこそ、たとえば、いまの人類の人口も70億を超えているわけです。
そういう「異常増殖」が起こっているわけです。
人類は、地球を食いつぶしている「癌細胞」です。
人間にとってみれば、秩序にしたがわずに異常増殖して母体を死なせてしまう癌細胞は、悪にみえるでしょう。
けれど、当の癌細胞も、生き残りたくて必死なのかもしれませんね。それで、自分のことばかりで、自分の立場・役割をわすれてしまう。
地球と人類にしても、人間と癌にしても、おなじです。フラクタル(相似関係)にできています。
ほかの多くの生物も、自己洞察のできている人間も、いじめはしないし、戦争もしないでしょう。
いじめをする生物とか、戦争をする生物とかいうのは、「進化」が中途半端なのです。
自分を客観的にみることができる、つまり自己洞察のできているおとなというのは、
自分の観念を超越している、自我を超えている、覚醒した(さとった)ひとです。
もともとの日本のひとたちも、戦いたがらずに、たがいに共存共生をめざしていた、さとったひとたちだったかもしれません。
少なくとも、かつての為政者には、そういうひとが少なくなかったのでしょう。
いまの人類には、我に凝り固まっている人間が多数います。
そして、いまの日本人も、我に凝り固まった理屈で生きています。
その域に達していないガキだからこそ、偉そうな態度をとって、必死に生きたがります。
ガキからみれば、我のないひとのことを理解することができないかもしれませんが、
ガキだからです。中途半端だからです。
そういったガキの群れが、しょっちゅうガタガタ言って、世の中を荒らしているのです。
ですから、いまの日本は衆愚です。
我がなければ、世界全体を、宇宙全体をみわたして、己の生き方、役割を追究することができます。
たとえば、釈尊にしても、あるいは古代の日本の「かみ」クラスのひとたちにしても、その域に達していたわけでしょう。
Jesusだって、あえて被虐されて、ついには処刑されてしまったけれども、あえてそれが自己の役割だと思っていたわけなのでしょう。
わざわざ喧嘩を売るのはガキです。
そういうガキに対しては、ときには叱り諭し、ときにはあえて殴られてやらないといけないのかもしれません。
やられたらやりかえすというのでは、ズタズタになるばかりです。
我のない覚ったおとなというのはときに、あえて被虐されてあげることもあるのです。
「おせちもいいけどカレーもね」というような日本人の良心は、
客観的な良し悪しと、自分の好き嫌い・相性の問題とが区別できているから言えるのです。
自分が生きるために都合が悪い相手でも、自分に対して実害を加えてくることがなければ、あえて喧嘩を売る必要はありません。
嫌いな相手を潰す必要はないし、むしろそうしてはならないのです。
虫も、病原体も、鬼も、自分のところに寄ってこなければそれでいいのです。
「嫌い」は「怖い」であって、それは自己生存本能からくる主観的なものなのだということを、わきまえないといけません。
そうしてはじめて、おとななのだといえるでしょう。