学校の怪談 ~トイレ掃除の華子さん~ No.9
僕は泰明くんを背負って廊下を歩いた。隣には華子さんが険しそうな顔をして並んで歩いていた。
「あの、助けていただき、ありがとうございました」
華子さんは僕の方を向いて、一生懸命に笑った。まるで自分は大丈夫だからと言わんばかりの、痛々しい笑顔だった。
「私たちの世界の問題。二人は、それの巻き添えになっただけだよ。ごめんね、怖い思いをさせちゃって」
「いいえ、僕は大丈夫ですけど……」
そう、僕は大丈夫だ。ただ僕の背中で気を失っている泰明くんが心配だった。今日あったことは全部忘れて……なんて言っても無理だろう。彼はもう、幽霊を知ってしまった。
華子さんが僕の背中に視線を向けた。
「そうね、生徒に見られてしまったことは、最悪の事態ね」
やっぱりそうなのだ。泰明くんがどうして夜の学校をふたたび訪れたのか、その理由はわからない。しかし、泰明くんには下手な嘘はもう通じなくなった。今はまだ僕の背中で大人しくしている。
「正直に言いましょうか、華子さん」
華子さんは無言で頷いた。もうそれ以外に道は残っていないのだろう。例えそれが、幾多の生徒を危険に晒す結果になったとしても。
「それにしても、さっきのは何だったんですか」
さっきのとは音楽室にいた悪霊のことだ。昨日今日と続けざまに幽霊が現れて、僕はこれからも頻繁に幽霊と接触することになるんだろうな、と予感のようなものがあった。僕は華子さんに助けられたけど、僕一人だとなす術がなかった。もしあの場に華子さんがいなければと思うと、ぞっとした。
「あれは、この学校の七不思議の一つ。二つ腕の亡霊、よ。夜な夜な音楽室でピアノを弾き、獲物を待ち伏せる。ピアノの旋律に誘われた人を、二本の白い腕で締め上げて、殺す。私を冥府へ葬った後に、じっくりと二人を殺すつもりだったんでしょう」
ぞくりと震えた。二人とは紛れもなく、僕と泰明くんのことだ。
「この学校には、まだ、あんな幽霊がいるんですか?」
訊ねる声が震えた。あんなのが他にもいると思うだけで、背筋か凍りつくような錯覚に陥る。昨日、華子さんから悪霊の存在は聞いていたけど、話を聞くのと目の当たりにするのではまるで違った。夜の学校がとてつもなく怖ろしい場所のように思えた。
「ええ、いるわ」
いる。やっぱりそうなんだ。あれだけじゃない。他にも悪霊がいるんだ……。
「この学校には七体の幽霊がいる。故に、学校の七不思議。二つ腕の亡霊は、私が冥府へ葬った。この学校には後六体、いてはいけないモノがいる」
「華子さん、なにか僕に出来ることはありませんか?」
知ってしまった以上、学校をそんな危険な場所にしておけるわけがなかった。でも、七不思議の一つ、二つ腕の亡霊は華子さんが冥府へ葬ることが出来た。それが僕にも出来れば……。
「幽霊を消す方法は一つ。冥府へ葬り去ることだけ……。幽霊に触れているあいだに、私が二つ腕の亡霊に発したのと、同じ言葉を言えばいい。それが出来れば、人でも幽霊を葬ることができる」
華子さんがやったことと同じことをすれば、幽霊は消滅するのか。確かあの時、闇へ還れ、と。無理だと思っていたけど、それなら僕にも出来るような気がした。
「でも、明弘には無理。幽霊を葬り去ることは出来ない」
「どうして!」
思わず声を荒げた。さっき同じことをすれば幽霊を消せると言ったのは華子さんだ。
「ううん、出来ないんじゃなくて、させてくれない。触れているあいだに言葉を紡がないといけない。あの時、悪霊は私の口を塞いで言葉を紡がせようとしなかった。でも、人が同じことをしようとすれば、とたんにすり抜け、言葉が終わった後に今度は口を塞がれて殺されてしまうわ。だから、貴方に出来ることは、今日のことを、忘れること」
「でも!」
「大丈夫、夜の学校は私に任せてくれればいいから。それともなに? 私が悪霊に負けるとでも思ってるの?」
臭い物には蓋をして、全てを任せる。華子さんだけを危険に晒して、僕は今までの生活を送ってもいいのだろうか。頷いてしまうと、僕はずっとこのままのような気がした。
生徒の為と言いつつ、自らの保身をいちばんに考えてしまう。それでいいのだろうか。全てを任せたら、もう二度と、華子さんには会えないような気がした。
「それでも、僕だって教師です。悪霊をこのまま野放しにすることも、華子さんに全て任せることも出来ません」
華子さんは驚いて、すぐに険しい顔になった。
「そのために、命を落とすことになっても?」
「そのために、命を落とすことになっても。一緒に戦わせてください」
「貴方、死んだら、私と同じになるわよ」
どういう意味で言ったのか分からない。ただ、華子さんは自分の話をするとき、悲しそうな表情を浮かべる。
「華子さんがいるなら、寂しくありませんよ」
華子さんの表情がふっと柔らかいものへと変わった。呆れられたのかもしれない。でもそれが僕の本心だった。
「バカねえ、明弘が死ぬときは、私が消えた後だから……」
僕が死ぬときに華子さんは消えている。それは、僕を一緒に戦わせてくれるという意思の現われだった。
梅雨が終われば夏が来る。
幽霊の季節。
今年の夏は、今まででいちばん長い夏になる予感がしていた。それでも隣に華子さんがいてくれるのなら、それはそれで楽しい夏になるのかもしれない。
「明弘って本当にバカ」
「それって、教師にいちばん言っちゃいけない言葉だと思うんですが……」
自分でも頭はいいと思っていないけど、悪いなりに努力して今の職についたんだから。それにバカ呼ばわりされて、教え子に示しがつかない。
「じゃあ言い換える。明弘って本当にバカなくらいの、お人好し」
「それを華子に言われる筋合いはないよ」
華子はくすくすと笑った。だってこの幽霊は、なんの見返りもなしに、夜の学校を一人で守ってくれていたのだから。
その後、僕たちは事務室で山田さんに、今夜起きたことを包み隠さず話した。泰明くんが目を覚ましたとき、正直に幽霊の存在を打ち明けた。納得してくれたかは微妙だけど。
一方、山田さんはというと、いつかこんな日が訪れることを予感していたらしく、大して驚いてもいない様子だった。いつものように笑い、あまり無茶をしないように、と念を押された。
次の日の朝。正しくは一時間目が終わった後の休憩時間に事件が起きた。久々に登校してきた泰明くんが、休憩時間、ずいぶん慌てた様子で僕のところへ来た。
「と、戸山先生! 女子トイレに、華子さんがいる!」
「えっ!?」
驚いた。華子が昼間に姿を現したことは、僕の知る限りではないことだったし、山田さんも夜にしか見たことがなかった。
そもそも、昼間の学校に幽霊が出るのか?
僕は慌てて女子トイレへと駆けた。
すでに女子トイレの周りには人だかりが出来ていた。集まった子供達には華子が見えているようだ。
「わっ、ほんとに幽霊だ。透けてるよ、透けてる」
「触れない、ふっしぎ~」
自分の腰までしかない子供達に取り囲まれて、華子は苦笑いを浮かべていた。しかし、その表情は満更でもないようだった。
「は、華子! なんでいるの」
僕の思い違いでなければ、華子は人前に出ることを嫌っていた。あれだけ人を遠ざけてきたのに……。
「あっ、明弘だ。やっほ~」
あまりに気の抜ける挨拶をしてくる。と、周りに集まった生徒をすり抜け、僕の元までやってきた。
「どうして、貴女がいるんですか!?」
「どうしてと言われても……だって私は、この学校の幽霊だよ?」
「意味不明です!」
「ほら、昨晩泰明くんに、全部話しちゃったよね」
「はぁっ、それが、今の状況と何か関係あるんですか?」
周りで子供達が僕たちの関係を探るように、ひそひそ話を始めていた。元カップルで死が二人を引き裂いただの、僕が華子を崖から突き落とした、その仕返しに現れただの、根も葉もない妄言ばかりだ。
「大いにあるわね」
「意味不明です!」
どうして泰明くんに話したことと、華子がここにいることが関係あるんだ。昨日、少しだけ華子の考えていることが分かったと思ったが、やっぱりあれは勘違いだったようだ。
「ほら、落ち着いて、こんな時にこそ深呼吸。ひっひっふ~、ひっひっふ~」
「ラマーズ法はもういいです。それと、小学生の前で、その呼吸法はやめて下さい」
興味を持ってしまうから。ついでに言えば、さっきから子供の何人かが「ラマーズ法ってなに?」と聞いてくる始末だ。
「あのね、明弘。一人が知ったら、幽霊がいるって噂は瞬く間に広がっていく。夜に忍び込んで確かめようとする生徒が現れるってことは、前にも言ったわよね?」
「ええ」
華子がようやくまともな話を始めたので、僕も落ち着いた。
「それなら、幽霊を怖がらないようにすればいい。ほら、みんな怖がってないでしょ?」
教室のドアから顔を半分だけ出して震えている女の子はいるけど、おおむね人気者だ。この場所に来たとき、まるで客寄せパンダだなと思ったくらいだし。
「でも、悪霊を見てみたいという生徒が、現れたら……」
声を潜めて耳打ちをした。
「大丈夫よ。そのために私がいるし、明弘がいる。私はこの子たちを守るために、消えられない。明弘もこの子たちを守るために、死なせない」
華子は子供の頭の上に手を置いた。触れられない。ただ、頭をなでるような仕草をする。
「それにさ、消し去るべき相手が増えたわけでも、減ったわけでもない。ただ、最初から負けられないの。それとも明弘、昨日の言葉は嘘だったの?」
「……そうですね、一緒に戦いましょう」
大切な”人たち”を守るために。
トイレ掃除の華子さん 了





