名前を呼ぶ

                                                        ◇まゆつば国語教室24
 
 
前回の「イヌとネコ」の話に、そらまめさんがリンクを貼ってくださいました。光栄です(*゚▽゚*)
 
そらまめさんの記事( こちら=リンク予定(^^;))の概要は、
 
「物怪や悪魔や小人が、名前を言い当てられると、消えてしまったり霊力を失ったりするのはなぜか。名前になぜ、そんな力があるのか」
ということでした。
 
──で、以下、ひと休みコメント。
 
名前を付けることは「漠然としていたものを、自分の頭の中で、明確な形を持たせて認識すること」だと思います。
名前を言い当てることは「すでに存在はしているけれど、自分には漠然としていたものを、自分の頭の中で、明確な形を持たせて認識すること」だと思います。
明確な形で認識できれば、対応法を考えることが出来る。
つまり、名前を付けること、名前を言い当てることは、相手を「対処可能な存在」にすること。
魔法や妖精、妖怪は、「わけがわからない」ことが力の源泉なんだと思います。
わけがわかった瞬間に、「普通」の存在になってしまう。
そんなことを思いました。
 
 
──近代言語学の考え方です。
ちょっと単純すぎるだろ。もっといろんな要素がからんでいるだろ。
とは思いつつ、言語学理論が本質の一部を言い当てているような気もします。
 
さて、そらまめさんの記事から、古い歌を思いつきました。
万葉集の冒頭歌で、雄略天皇の作と伝えられる長歌です。
「名前を呼ぶこと」について考えさせられます。
 
(こ)もよ  み籠(こ)持ち  
掘串(ふくし)もよ  み掘串持ち 
この丘に  菜摘(つ)ます児(こ)
家聞かな  名告(の)らさね  
そらみつ  大和の国は 
おしなべて  われこそ居(お)れ  
しきなべて  われこそ座(ま)せ 
われこそは  告(の)らめ  家をも名をも
 
籠(かご)よ。美しい籠を持って──
ふくし(土を掘る道具)よ。美しいふくしを持って──
この丘で菜を摘んでいらっしゃる乙女よ。 
家を聞きたい。名前をお告げになってください。
この、そらみつ(枕詞。青空が広がる?)大和の国は、すべて私が治めているんだよ。
すべて私が王座に坐っているんだよ。
私は名前を告げよう。家柄も名前も。
 
野原で若菜を摘んでいる乙女を見かけ、呼びかけた歌と言われています。
今回大事なのは「名告(の)らさね」「われこそは告(の)らめ」です。
(「さ」は尊敬の助動詞なので、相手の動作にだけついています)
 
知らない人に会って、まず名前を聞く──。
どうでしょ。
ノープロブレムな人もいそうだけど、「いきなり名前かっ((;゚Д゚))」と思う人が多いんじゃないでしょうか。
歌だから、いろんなやり取りを省略したとも考えられるけど、実は古代において、
 
「名前を尋ねる」ことは、求愛、求婚の意味を持っていた。
 
と考えられています。
それに答えて、名前を告げれば、求愛、求婚を受け入れたことを表します。
 
名前をつける(名づけ)という行為は、対象を認識して把握し、自分の頭の中に位置づけることです。
さらに言えば、対象を自分のものとすること、対象を「所有する」ことなんです。
 
だから、名前を聞くことは「自分のものとしたい」という意思表示、答えることはそれを了承することになります。
 
雄略天皇については、いろんな逸話が古事記などに語られています。もう一つ、有名な「引田部の赤猪子(ひけたべのあかいこ)」の話を──。
 
天皇が若い時、美和河(奈良・三輪山に接する川)のほとりで、衣を洗う乙女を見た。
 
天皇その童女に「汝(いまし)は誰(た)が子ぞ」と問はしければ、答へて白(まを=もう)さく「おのが名は引田部の赤猪子とまをす」と白しき。
 
そして天皇は、使いの者に「お前は結婚せずにおれ。宮廷に召し入れようぞ」と言わせた。
赤猪子は、お召しを信じて待ちつづけ、八十年が過ぎた。
((((;゚Д゚)))))))!
そして、老いさらばえたわが身を嘆きつつ、最後に宮殿に思いを告げに行く。
 
天皇は赤猪子を見ても思い出せない。
話を聞き、哀れに思い……しかし、今さら老婆と結婚は出来ない。
で、お互いに悲しい歌をやり取りする。
 
言いたいのは、ここでも、名前を聞いていることです。
それに赤猪子は答えて名乗る。つまり結婚(お妾さんの一人になる)の承諾です。

(しかし、「名乗る」って、ひどい当て字ですね。「告げる・声に出して伝える」ことを「のる」と言います。「のりと」の「のる」です。名前を告げるから「名告る」です。ついでに、白には「言う」の意味があります。告白、白状の「白」ですね)
 
なんだっけ。余談をすると本筋をすぐ忘れる(;´Д`)
 
名前を呼ぶことは、対象を所有すること、支配すること。──
だから、たとえば、天皇の名前は呼んではいけない。
天皇を支配するなど、とんでもないことなのです。
天皇のことは「帝(みかど)」としか言わないし、過去の天皇についても諡(おくりな=死後につける呼称。本名ではない)で呼ぶ。=この部分、うっかりまちがえたので訂正しました<(_ _)>
今でもそれは同じ。天皇を名前で呼ぶことはありません。
 
(そもそも、「みかど」というのも「御門」であって、「尊いご門の中にお住まいの方」という意味ですね。名前はおろか、対象を直接指すこともはばかっているわけです。)
(現代日本の会社でも、上司はふつう肩書きで呼ぶ。名前を呼ぶのは失礼だ、という感覚が残っています。)
 
古代の物語や、中世の昔話の時代には、もちろんそんな言語学的な理屈はなかったでしょうが、
 
「名前」は、そのものの「代わりのもの」(=そのものとほぼ同じもの)
 
だと直感的にとらえていたのだろうと思います。
だから、名前を知られると、名前を呼ばれると、「本体」もほぼ支配されてしまう。
妖精は消え、魔法は使えなくなってしまう。
 
言霊(ことだま)の思想は、日本に特有のものではありません。
おそらく、世界に共通の思想だと思います。