犬と猫の区別もつかない

                                                       ◇まゆつば国語教室23
 
 
高校の現代文の教科書に、言語学者の鈴木孝夫さんの文章がよくのっています。その中に、
 
「言葉がなければ、犬と猫の区別もつかない」
 
という一節があります。
生徒はこれがどうしても分からない。
はあ? なに言ってんの???
 
そりゃそうですよね。常識では、そんなことはありえない。
「イヌ」「ネコ」という言葉がなくったって、イヌとネコという全然違うものはもともと存在している。区別がつかないなんて、ありえない。
──と考えます、普通。
 
つまり、
もともと別のものとして存在している二つの動物に、日本人なら「イヌ」「ネコ」、イギリス人なら「dog」「cat」という名称を与えているだけだ。
ちょうど、それぞれの商品に、違った名前のラベルを貼るように。
──そう考えるのが常識です。
 
でも、言語学は違います。
モノの世界は混沌であり、もともとの区別など存在しない。
言葉で区切ることによって、「区別されたそれぞれの事物」が初めて生まれる。

であるならば、
「イヌ」「ネコ」という言葉で区切ることによって、「イヌ」「ネコ」という別々の事物が初めて生まれる。
逆に言えば、
「言葉がなければ、犬と猫の区別もつかない」。
 

↓下の絵を見てください。
近所の川へ釣りに行ったら、土手がこんな様子でした。
(マウスを使ってペイントで書いたので、ぐしゃぐしゃですが……)
 
 
さて何と思うでしょう。
 
何も思わない?
そうですよね。何も思わない。
せいぜい、「草が生えてるなあ」「雑草が生えてるなあ」ですよね。

次の絵。
ふと庭を見ると、こんなのがいました。
ひどいけど、とりあえず動物らしいのが二匹いますね(笑)
 
何と思いますか?
イヌとネコがいるな。変だけど……。
そうですよね。「イヌとネコ」ですよね。変だけど。
 
で、もう一度、先ほどの絵を見てください。
何が言いたいかお分かりでしょうか。

先ほどの「草」をよく見ると、一本一本の草の背丈にものすごい違いがありますね。
「イヌとネコ」の大きさの違いと、「草」のなかの背丈の違い、どちらが大きいでしょう。
 
草の方がそれぞれの違いが大きいのに、ぼくらは「草」とか「雑草」とかの一語でひとくくりにしてしまう。
そして、「個々の草の違い」にほとんど意識が向かない。
あえて注意を促されなければ、それぞれの違いが「見えない」ことすらある。
 
言葉というのは、そういうものなんです。
 
興味がある対象は、別の言葉で分割する(別のものと認識する)。
興味がない対象は、別の言葉で分割しない(別のものとも認識しない)。
 
ぼくらが「イヌとネコの区別がつかないなんて、ありえない」と思うのは、ぼくらがそれらに興味を持ち、「イヌ」と「ネコ」という名前を与えて区別しているから──なんですね。
興味がなければ、「草」と同じように、別の名を与えることをせず、区別もしない。
 
たとえば、超巨大な肉食獣が言葉を持っていれば、イヌとネコを、他の小動物と一緒に「クエルモン」という一語でひとくくりにしてしまうでしょう。
たとえば、細菌が言葉を持っていれば、それらを、他の動物と一緒に「ハイリコメルモン」という一語でひとくくりにしてしまうでしょう。
それは、ぼくらが土手の多彩な植物を、「草」とひとくくりにしているのと同じなんですね。
 
しつこいですが、
 
「イヌ/ネコという別の言葉を与えること」と、「イヌ/ネコは別のものだと認識すること」は、まったく同じだということです。
 
 
言語学のこの考え方は、哲学や文化論をはじめ、さまざまな分野に応用されています。
大学の先生とか評論家とかが文章を書く時の“常識”ともなっています。
この考え方をベースにして(常識だから説明抜きで)、その先の議論をどんどん展開していきます。
大学受験をする人は、知っておかないとつらいです(笑)