• 20 Jul
    • まゆつば国語教室 26

          nag とは? 「かく」とは?                                                                                      ◇まゆつば国語教室26     今回は、おなじみ「語源」に関するクイズを2つほど。   【1】 ak(明し、赤、あける……) kur(暗し、黒、暮れる……) har(春、晴れ、張る……) 「最後の母音の前までが、その語の本体」──と言いました。 では、 「nag」 という音は、どんな意味を表しているでしょうか。 最後に母音をいろいろつけて考えてみてください。 関係ありそうな言葉の群れから、意外な意味の世界が見えてきますよ。     【2】 物書きのみなさんの基本動作、「書く」。 なんで「かく」というんでしょう!   ──というのは、「かく」というのは訓読みだから、古来の日本語と考えられる。 でも、漢字が伝わるまで日本には文字がなかった、というのが定説です。とするなら、文字を「かく」という動作も存在しなかったはず……。 「書」という中国語の動詞を知った時、「かく」という動作がそれまでなかったのなら、音読みのまま例えば「書す(しょす)」なんて動詞ができそうなもの。(愛という概念がなかったから、音読みのまま「アイ」という日本語にしてしまったようなもの) あの動作、なぜ「かく」という日本語を当てたのか──という「?」です。            ('◇')ゞ  (=^x^=)  (^^;)  (〃∇〃)  (;´Д`)             ◆ヒント編◆   [1] メインは、古い断定の助動詞(たぶん)だった「し」をつけて、「そのような様子だ」という意味の形容詞になったものです。    ak→あかし  kur→くらし・くろし  har→ない? 「そのような様子」という形容詞があれば、どんな意味を表すのか見えますよね。   [2] 別の漢字を当てる「かく」を考えてみてください。writeと似たような動作を表す語はありませんか?            ('◇')ゞ  (=^x^=)  (^^;)  (〃∇〃)  (;´Д`)             ◆解答編◆   [1] nag + ashi → ながし(長い) nag + u   → なぐ(投げる・凪ぐ) nag + aru → ながる(流れる) nag + asu → ながす(流す) nag + amu → ながむ(眺める=古語で「ぼんやりと景色などを見ること」) nag + omu → なごむ(和む)   「和む」あたりは100%の自信はありませんが、たぶん、これらはすべて関連語だと思います。   「直線上に伸びていく感じ」がありませんか?   「ながむ」は女流文学や和歌によく出てくる重要語で、「物思いに耽る」と訳すことが多いですが、もとは、ずっと視線を外のひとところにとどめている状態をいう動詞です。 「凪ぐ」は水面が横から見ると直線上に長くなり、「和む」も心が揺れ動かずにまっすぐになっている状態です。   ちなみに、「ながる」「ながす」の語尾「る」と「す」は、自然な動きか、人為的な動作かを区別する言葉で、これは日本人の世界観にとって超重要な話なので、いずれまとめて……。   まっすぐ直線上に伸びていく感じを、古代日本人はnagという言葉で表した。 別の観点でいうと、「まっすぐ直線上に伸びていく感じ」が、古代日本人にとっては、世界を区別するための大事な要素だったということですね。 そのことも面白いと思います。     [2] めんどくさくなってきた、もとい、しんどくなってきたので、簡潔に(笑)   漢字でいうと「掻く」が一番近いかな。 伸ばした手を、手前の方に引き寄せる動作。   引っ掻く。 田んぼに水を入れ、土をかき混ぜるために引っ掻く「代掻き(しろかき)」。 引っ掻いた結果、地面などが「欠ける」。 後段の引き寄せることより、手を伸ばして触れる前段の方に重きを置いた「~をかける」(ほんとかな。これは自信ありません(;´Д`))。   中国人が毛筆でさらさらと文字を書いているのを見て、「伸ばした手を、手前の方に引き寄せる動作」じゃないか! じゃあ「かく」だよな。 ──昔の日本人たち、そう思ったんじゃないでしょうか。 まゆつばですが(^^;)

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  • 17 Jul
    • まゆつば国語教室 25

           女房言葉                                                                                           ◇まゆつば国語教室25   お久しぶりです。 帰宅したら、また家庭内のことでごたごたして消耗しています(;´Д`) 気分転換にプロフィール画像を若くしようと思い(笑)、「削除」をクリックしたら消えてしまいました(あたりまえ)。 で、新しい画像に変更できません。「作る」というボタンで、ピグの部屋とやらに誘導されるんですが、その先が不明。「着せ替え」とかできても、それを「プロフィール画像に保存」とかクリックしても、画像は入らない。 ま、どうでもいいっちゃ、いいことですが。 消耗ついでにぐちってしまいました。失礼しました<(_ _)> ※追加; 修復できました。ありがとうございます。     ということで、 【問題1】です。 ぷうっ、と出るやつ。 だれもいない時は気もちいいけど(笑)、そばに人がいる時は困ったやつ…… ところで、「おなら」って、なんで「オ・ナ・ラ」と言うんでしょう。   もひとつ。 【問題2】 ごはんをよそうやつ。 「しゃもじ」って……考えてみたら、なんか変な名前では? あれ、なんで「シャ・モ・ジ」と言うんでしょう。               ('◇')ゞ     (=^x^=)     (^^;)     (〃∇〃)     (;´Д`)       はい。ご存じの方は知っている(あたりまえ)。 これらは、女房言葉と言われるものです。   女房というのは、宮廷や上流貴族の家にお仕えする下級貴族階級の女性たち。教養があり、話し相手や子女の教育係、訪問客への対応係などをつとめます。 室町時代、政治権力は武士に移ってしまいましたが、宮廷では皇族・貴族たちが質素ながらも誇り高く文化的な(?)生活を送っていました。 そこの女房たち、食べ物やシモの話を露骨にするのはお下品!ということで、あれこれ隠語を使いました。   その一つが「おなら」。 「お」は尊敬とか丁寧とか謙譲とか、あるいは美称とかの役割をするもの。 本体は「なら」ですね。 「なら」とは一体………   はい。 「鳴らす」に美称の「お」をつけたんですね。 「あの、鳴らすもの、でございますわよ……」という感じ。   では、「しゃもじ」は? 「もじ」は「文字」です。「〇〇という文字のつくもの」という意味。 「あの、『しゃ』という文字がつくもの、でございますわよ……」   「しゃ」とは、「猫も杓子も」の「杓子(しゃくし)」のことです。 おならはもちろん、食べ物に関することも、高貴な女性がストレートに口にするのはお下品だ、という対象だったんですね。     女房言葉、今も使われているものがたくさんあります。 「お~」「~もじ」で考えてみてください。 (単なる美称として「お」がついているのも、たいていこの女房言葉です)             ('◇')ゞ    (=^x^=)    (^^;)    (〃∇〃)    (;´Д`)         【お~】 ・おかず(数々取りそろえるから) ・おなか(体の中あたりにあるから) ・おでん(味噌田楽から) ・おから(豆腐を搾り取った「殻・空」) ・おかき(鏡餅を割った「欠き餅」から) ・おみおつけ(御飯につけて出すから。「お・み・お」と3つ美称を重ねた)   同じような働きの「ご」をつけたものとして、「ゴボウ」もたぶんそうらしい。 まさに「棒」ですね。 このパターンの女房言葉は山のようにあるので、以下省略(笑)   【~もじ】 ・お目もじ(お目にかかる、から) ・ゆもじ(浴衣から)  *ちなみに「ゆかた」というのは「湯かたびら」、入浴する時の服でした。 ・かもじ(付け毛。かづら(かつら)から) ・ひもじ(空腹の意味の「干(ひ)だるし」から)   「ひもじ」というのは、女房言葉がそのまま形容詞になってしまった珍しい例です。 「もじ」の「じ」が、形容詞の語尾にときどき現れる「じ」(「すさまじ」「いみじ」「おなじ」など)と同一化してしまったんですね。

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  • 08 Jul
    • ボタン 再うp

      TOBE「ボタン」が予定通り(笑)落選だったので、アメ限から再うpします 暇をもてあましている方、自信をつけたい方(^^;)、お目汚しですがよろしければ……       ◇課題「ボタン」     押してはいけない                            「ええ、すごく気に入ったわ。でも……どうしてこんなに安いの」    店頭の張り紙を見て案内してもらった中古マンション。建物は少々年季が入っているが、室内はリフォームしたかのように真新しい。一人で住むには十分な広さだし、私鉄の駅にも近い。それが相場よりかなり安いのだ。 「たいしたことではないんですが……というより、私も意味がわからないんだけど」担当者はリビングを突っ切り、掃き出し窓の前に立った。 「売却の条件があるんです」 「条件?」 「ええ。売り主さんが、必ず守ってもらいたいと言うんです」  私は黙って次の言葉を待った。担当者は困ったような微笑を浮かべると、窓のわきの壁紙の、下の方を指差した。小さな赤いボタンがあった。 「このボタンを絶対に押さないこと」 「は? それ、何のボタンなの」 「教えてくれないんですよ。ただ、押してはいけないということだけで。……いや、無理にお勧めはしません。いい物件がまだたくさんありますから」  一瞬の躊躇のあと、 「買います」私は力強く宣言した。  わけが分からないが、要はそのボタンを押さなければいいだけのことだ。私の出せる金額で、これだけのマンションが他に見つかるとは思えなかった。  賃貸アパートから引っ越しを済ませると、私はぴかぴかのフローリングに大の字に寝そべった。天井が高かった。  小さな商事会社でOLを二十年務めてきた。ひとりで生きていくことを決意してからは、同僚たちの陰口に耐え、ひたすら貯金に精を出した。ようやく自分の城を手に入れた。首を回すと、掃き出し窓の外に、澄みきった青空が広がっていた。  ちら、と赤いボタンが目に入った。  いやなものが一瞬、胸のうちに動いたが、すぐに私ははじき返した。 「おかしな条件をつけたものね。何者なの、あんた。ほんと、馬鹿げてる」  一週間が過ぎ、一か月が過ぎた。  私は赤いボタンに触ることはしなかった。  押すとどうなるっていうの。毒ガスが吹き出るの? 天井が落ちてくる? まさかね。──そう思いながらも、何かが心にブレーキをかけた。いや、そんな大層な問題じゃない。試してみる価値さえないことだ。 「石田さん、最近、疲れてるんじゃないの」  課長が後ろに立っていた。はっとする。いつから私はパソコンの画面を睨んだままでいたのだろう。あわてて両手を動かす。 「顔色が良くないよ。少し休んだほうがいいんじゃないか」 「大丈夫です」と答えた語気が、思いのほかきつくなった。  トイレの外から、若い同僚の声が聞こえた。 「さっき見ちゃったのよ。エレベーターが開いたら、石田さんがボタンをドンドン叩いてたの。鬼みたいな顔してさ」 「何それ。更年期ってやつ? 怖い怖い」   三か月が経っていた。私は、自分でもわかるほどノイローゼになっていた。  押したい。押したい。このボタンを押したい──深夜のリビングに座りこみ、私は赤いボタンを睨みつけた。ぜいぜいと息が鳴った。人差し指の先をそっとボタンに近づけた。     何も起こらなかった。  石像のように固まったまま、私はぎらぎらと壁や天井を見回し続けた。  立ち上がり、キッチンや洗面所を確かめた。床に這いつくばって、調度類の陰も覗いてみた。異状はなかった。  翌日も、一週間後も、部屋に変化は起きていないように見えた。売り主の悪い冗談だったのだ。ボタン一つで大層なことが起きるわけがない。──理性ではそう確信しているのだが、心の底にモヤモヤした不安がうごめいたまま、どうしても消えてくれない。  仕事を休みがちになった。同僚が声をかけてこなくなった。課長は目を合わさないよう、パソコン画面ばかり見ている。   マンションを売りに出すことにした。もっと狭くて古い物件なら、買い換えることができるだろう。一日も早く転居したかった。  この半年間はいったい何だったのか。空しさでいっぱいになる。  空しさが、売り主への憎しみになり、世界への憎しみになった。仲介の不動産屋に、私は付け加えることを忘れなかった。 「一つだけ売却の条件がありますの。──このボタンを絶対に押さないこと」     ※これから、それぞれの親元の所を1週間ほど回ります。 ネットから消えるかと思います。あしからず、です<(_ _)>  

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  • 05 Jul
    • まゆつば国語教室 24

         名前を呼ぶ                                                         ◇まゆつば国語教室24     前回の「イヌとネコ」の話に、そらまめさんがリンクを貼ってくださいました。光栄です(*゚▽゚*)   そらまめさんの記事( ※ こちら=リンク予定(^^;))の概要は、   「物怪や悪魔や小人が、名前を言い当てられると、消えてしまったり霊力を失ったりするのはなぜか。名前になぜ、そんな力があるのか」 ということでした。   ──で、以下、ひと休みコメント。   名前を付けることは「漠然としていたものを、自分の頭の中で、明確な形を持たせて認識すること」だと思います。 名前を言い当てることは「すでに存在はしているけれど、自分には漠然としていたものを、自分の頭の中で、明確な形を持たせて認識すること」だと思います。 明確な形で認識できれば、対応法を考えることが出来る。 つまり、名前を付けること、名前を言い当てることは、相手を「対処可能な存在」にすること。 魔法や妖精、妖怪は、「わけがわからない」ことが力の源泉なんだと思います。 わけがわかった瞬間に、「普通」の存在になってしまう。 そんなことを思いました。     ──近代言語学の考え方です。 ちょっと単純すぎるだろ。もっといろんな要素がからんでいるだろ。 とは思いつつ、言語学理論が本質の一部を言い当てているような気もします。   さて、そらまめさんの記事から、古い歌を思いつきました。 万葉集の冒頭歌で、雄略天皇の作と伝えられる長歌です。 「名前を呼ぶこと」について考えさせられます。   籠(こ)もよ  み籠(こ)持ち   掘串(ふくし)もよ  み掘串持ち  この丘に  菜摘(つ)ます児(こ) 家聞かな  名告(の)らさね   そらみつ  大和の国は  おしなべて  われこそ居(お)れ   しきなべて  われこそ座(ま)せ  われこそは  告(の)らめ  家をも名をも   籠(かご)よ。美しい籠を持って── ふくし(土を掘る道具)よ。美しいふくしを持って── この丘で菜を摘んでいらっしゃる乙女よ。  家を聞きたい。名前をお告げになってください。 この、そらみつ(枕詞。青空が広がる?)大和の国は、すべて私が治めているんだよ。 すべて私が王座に坐っているんだよ。 私は名前を告げよう。家柄も名前も。   野原で若菜を摘んでいる乙女を見かけ、呼びかけた歌と言われています。 今回大事なのは「名告(の)らさね」「われこそは告(の)らめ」です。 (「さ」は尊敬の助動詞なので、相手の動作にだけついています)   知らない人に会って、まず名前を聞く──。 どうでしょ。 ノープロブレムな人もいそうだけど、「いきなり名前かっ((;゚Д゚))」と思う人が多いんじゃないでしょうか。 歌だから、いろんなやり取りを省略したとも考えられるけど、実は古代において、   「名前を尋ねる」ことは、求愛、求婚の意味を持っていた。   と考えられています。 それに答えて、名前を告げれば、求愛、求婚を受け入れたことを表します。   名前をつける(名づけ)という行為は、対象を認識して把握し、自分の頭の中に位置づけることです。 さらに言えば、対象を自分のものとすること、対象を「所有する」ことなんです。   だから、名前を聞くことは「自分のものとしたい」という意思表示、答えることはそれを了承することになります。   雄略天皇については、いろんな逸話が古事記などに語られています。もう一つ、有名な「引田部の赤猪子(ひけたべのあかいこ)」の話を──。   天皇が若い時、美和河(奈良・三輪山に接する川)のほとりで、衣を洗う乙女を見た。   天皇その童女に「汝(いまし)は誰(た)が子ぞ」と問はしければ、答へて白(まを=もう)さく「おのが名は引田部の赤猪子とまをす」と白しき。   そして天皇は、使いの者に「お前は結婚せずにおれ。宮廷に召し入れようぞ」と言わせた。 赤猪子は、お召しを信じて待ちつづけ、八十年が過ぎた。 ((((;゚Д゚)))))))! そして、老いさらばえたわが身を嘆きつつ、最後に宮殿に思いを告げに行く。   天皇は赤猪子を見ても思い出せない。 話を聞き、哀れに思い……しかし、今さら老婆と結婚は出来ない。 で、お互いに悲しい歌をやり取りする。   言いたいのは、ここでも、名前を聞いていることです。 それに赤猪子は答えて名乗る。つまり結婚(お妾さんの一人になる)の承諾です。 (しかし、「名乗る」って、ひどい当て字ですね。「告げる・声に出して伝える」ことを「のる」と言います。「のりと」の「のる」です。名前を告げるから「名告る」です。ついでに、白には「言う」の意味があります。告白、白状の「白」ですね)   なんだっけ。余談をすると本筋をすぐ忘れる(;´Д`)   名前を呼ぶことは、対象を所有すること、支配すること。── だから、たとえば、天皇の名前は呼んではいけない。 天皇を支配するなど、とんでもないことなのです。 天皇のことは「帝(みかど)」としか言わないし、過去の天皇についても諡(おくりな=死後につける呼称。本名ではない)で呼ぶ。=この部分、うっかりまちがえたので訂正しました<(_ _)> 今でもそれは同じ。天皇を名前で呼ぶことはありません。   (そもそも、「みかど」というのも「御門」であって、「尊いご門の中にお住まいの方」という意味ですね。名前はおろか、対象を直接指すこともはばかっているわけです。) (現代日本の会社でも、上司はふつう肩書きで呼ぶ。名前を呼ぶのは失礼だ、という感覚が残っています。)   古代の物語や、中世の昔話の時代には、もちろんそんな言語学的な理屈はなかったでしょうが、   「名前」は、そのものの「代わりのもの」(=そのものとほぼ同じもの)   だと直感的にとらえていたのだろうと思います。 だから、名前を知られると、名前を呼ばれると、「本体」もほぼ支配されてしまう。 妖精は消え、魔法は使えなくなってしまう。   言霊(ことだま)の思想は、日本に特有のものではありません。 おそらく、世界に共通の思想だと思います。

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  • 04 Jul
    • まゆつば国語教室 23

         犬と猫の区別もつかない                                                        ◇まゆつば国語教室23     高校の現代文の教科書に、言語学者の鈴木孝夫さんの文章がよくのっています。その中に、   「言葉がなければ、犬と猫の区別もつかない」   という一節があります。 生徒はこれがどうしても分からない。 はあ? なに言ってんの???   そりゃそうですよね。常識では、そんなことはありえない。 「イヌ」「ネコ」という言葉がなくったって、イヌとネコという全然違うものはもともと存在している。区別がつかないなんて、ありえない。 ──と考えます、普通。   つまり、 もともと別のものとして存在している二つの動物に、日本人なら「イヌ」「ネコ」、イギリス人なら「dog」「cat」という名称を与えているだけだ。 ちょうど、それぞれの商品に、違った名前のラベルを貼るように。 ──そう考えるのが常識です。   でも、言語学は違います。 モノの世界は混沌であり、もともとの区別など存在しない。 言葉で区切ることによって、「区別されたそれぞれの事物」が初めて生まれる。 であるならば、 「イヌ」「ネコ」という言葉で区切ることによって、「イヌ」「ネコ」という別々の事物が初めて生まれる。 逆に言えば、 「言葉がなければ、犬と猫の区別もつかない」。   ↓下の絵を見てください。 近所の川へ釣りに行ったら、土手がこんな様子でした。 (マウスを使ってペイントで書いたので、ぐしゃぐしゃですが……)     さて何と思うでしょう。   何も思わない? そうですよね。何も思わない。 せいぜい、「草が生えてるなあ」「雑草が生えてるなあ」ですよね。 次の絵。 ふと庭を見ると、こんなのがいました。 ひどいけど、とりあえず動物らしいのが二匹いますね(笑)   何と思いますか? イヌとネコがいるな。変だけど……。 そうですよね。「イヌとネコ」ですよね。変だけど。   で、もう一度、先ほどの絵を見てください。 何が言いたいかお分かりでしょうか。 先ほどの「草」をよく見ると、一本一本の草の背丈にものすごい違いがありますね。 「イヌとネコ」の大きさの違いと、「草」のなかの背丈の違い、どちらが大きいでしょう。   草の方がそれぞれの違いが大きいのに、ぼくらは「草」とか「雑草」とかの一語でひとくくりにしてしまう。 そして、「個々の草の違い」にほとんど意識が向かない。 あえて注意を促されなければ、それぞれの違いが「見えない」ことすらある。   言葉というのは、そういうものなんです。   興味がある対象は、別の言葉で分割する(別のものと認識する)。 興味がない対象は、別の言葉で分割しない(別のものとも認識しない)。   ぼくらが「イヌとネコの区別がつかないなんて、ありえない」と思うのは、ぼくらがそれらに興味を持ち、「イヌ」と「ネコ」という名前を与えて区別しているから──なんですね。 興味がなければ、「草」と同じように、別の名を与えることをせず、区別もしない。   たとえば、超巨大な肉食獣が言葉を持っていれば、イヌとネコを、他の小動物と一緒に「クエルモン」という一語でひとくくりにしてしまうでしょう。 たとえば、細菌が言葉を持っていれば、それらを、他の動物と一緒に「ハイリコメルモン」という一語でひとくくりにしてしまうでしょう。 それは、ぼくらが土手の多彩な植物を、「草」とひとくくりにしているのと同じなんですね。   しつこいですが、   「イヌ/ネコという別の言葉を与えること」と、「イヌ/ネコは別のものだと認識すること」は、まったく同じだということです。     言語学のこの考え方は、哲学や文化論をはじめ、さまざまな分野に応用されています。 大学の先生とか評論家とかが文章を書く時の“常識”ともなっています。 この考え方をベースにして(常識だから説明抜きで)、その先の議論をどんどん展開していきます。 大学受験をする人は、知っておかないとつらいです(笑)  

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  • 02 Jul
    • まゆつば国語教室 22

          愛と恋とloveと                                                          ◇まゆつば国語教室22     言語学の話。 もう少しだけ話しておかねば……と思ったので、続きをちょびっとやります。 前回は「コメとrice」「ムギとwheat」の話でしたが、今回は小説書きの皆さんにも縁の深いテーマ、 「愛と恋とloveと」──。(なんかかっこいい(^^;))     愛は中国語です。 これ、音読みです。 日本語で適当な言葉がなかったから、中国語の発音をまねて「アイ」と読んだんです。それがそのまま日本語として定着したんですね。 ちなみに訓読みは「めでる」「まな~」などなどと読みますが、「愛」という名詞とはちょっと意味が違います。   で、その「愛」。 今は「男女の恋愛」という意味が一番色濃く、それに「親子の愛」とか「人類愛」とか様々なイメージが加わっているようです。   元来の中国語で一番色濃いのは、孔子の言う「仁愛」のイメージだという気がしています。 「仁」とは、ひと言でいうと、思いやりの心でしょうか。 孔子が説く時、それは主に、上に立つ者(為政者)が下の者(民衆)を慈しむような感情を言うようです。   樊遲(はんち)、仁を問う。子曰(い)はく、人を愛す。   孔子が一番大切な徳目としている「仁」について、樊遲という人が問うと、孔子は「仁とは、人を愛することだ」と言います。   仁と愛の関係については、後世、儒者たちがいろいろ議論、解釈していますが、まあ、ざっくりいえば、同じようなものと考えていいと思います。   子曰、道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時。 (子曰く、千乗の国を道びくには、事を敬んで(つつしんで)信(まこと)あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以ってす。)   戦車千台を持つような国(かなりの大国)を治めるには、(為政者は)自分がやることを謹み、うそを言わず、国家の資金を無駄遣いせず、人民を愛し、民衆を使役するにはちょうどよい時機を見計らって行う(土木工事などに徴用するのは農閑期に行う)ことだ。   「愛」にはもともと、より一般的な愛情の意味がありますが、中国で「愛」と言う時、そのような「上から下へ」というニュアンスが色濃いんですね。 で、そういう考え方自体が、もともと日本にはなかった──というのが大事な点です。だから「アイ」とそのまま読んだ。     では、今の「恋愛」に近い感情は、日本ではどう言ったのか。 万葉集などに出てくる言葉としては「こい(恋)」「こふ(恋ふ)」でしょうか。 これは訓読みで、もともとの日本語です。 では、「こい」「こふ」とはどんな気もちでしょう。いつものように、音をいろいろいじって想像してみてください。     (・Θ・;)   "(-""-)"   (;´Д`)   (=^x^=)   ( ̄∇ ̄+)     はい。これは単純です。 漢字を当てると、「乞ふ」(欲しがる)から来た言葉ですね。 「物乞い」の「乞ふ」(笑) 前にあるものを欲しがるのが「こい」「こふ」です。 あの女が欲しい、あの男を手に入れたい──。 それが「恋」です。   我が背子(せこ)に 我が恋ふらくは 夏草の  刈り除(そ)くれども  生(お)ひしくごとし   あの方に私が恋する気持ちは、夏草を刈り取っても刈り取っても、どんどん生えてくるようなものです。   ああ、あの方が欲しくて欲しくてたまらない──。 孔子の「愛」とは、だいぶん違いますね。       さてさて、 これらは、西洋の「love」ともちょっとばかり違うようです。   「愛」と同様、「love」にも一般的な情愛の意味がありますが、西洋の「love」にはやはり、キリスト教の色がべったりとついています。   愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。                       (聖書・コリント人への手紙)   神のlove、人間同士のlove──そこにある大事な要素は、 「奉仕の心」「自己犠牲」だと思います。   イエス様が人間たちの罪を引き受け、ずっしり重いその罪を背負ってひとり処刑台へ歩いたように、「自分を犠牲にして他者に尽くす」というニュアンスが、「love」には濃厚に込められている気がします。 「献身」という言葉がぴったりかもしれません。   もちろん、ぼくらが今ふつうに使うloveの意味もあるわけですが、「あたし、カレシとラブラブなの❤」という軽さとは、やはり違うと思います。 (キリスト教に詳しいわけではないので、違っていたらどなたか指摘してください。)     日本語の「こい(恋)」と、中国語の「愛」と、西洋の「love」── それぞれ意味の中心が少しずつ違っている。 どれが正しいとか深いとかいう話ではなく、「視点」が少し違うんです。 言語学の言葉でいうと、「世界の切り取り方が違う」ということですね。

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  • 01 Jul
    • 近況2題

        感謝です   拙作「質屋」にたくさんコメントをいただき、ありがとうございました。 今回はこじんまりまとまった感じで、インパクトは弱いけど大きな問題もないかな……と思っていたんですが、 いやいや、 ブロ友様方から、さまざまなご指摘をいただくと、 なるほど! たしかに!  ということばかり。 自分では自分の姿がなかなか見えないものですね。 鏡で見えているつもりでも、実は左右反対だし、裏側の存在は意識から消えているし……。 最初に書き上げる時に、これを自分自身で気づけるのが「プロ」なのかもしれません。       めちゃおもしろい作品を発見   「小説家になろう」サイトで、笑い転げられる作品(小説?エッセイ?)を見つけました。 自費出版を手がける零細出版社で、派遣社員をする編集者(女性)が、「だめ小説」「だめエッセイ」など、各種だめ作品について、爆笑例文に鋭いツッコミを入れていくお話です。 ぼくはきのう、半日読みふけってしまいました。 面白くて、かつ、ためになりそうです。 お時間があれば、ぜひ訪問してみてください。 リンクも快く了解していただきました。   http://ncode.syosetu.com/n2304do/   リンクがうまくいっていなければ、作品名の 「作家になりたい人が多すぎる」 斎藤真樹 ──で検索してみてください。  

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  • 29 Jun
  • 28 Jun
    • まゆつば国語教室 21

           命をかけた男たち  後編                                                          ◇まゆつば国語教室21     ふと気づけば、まゆ国、20回の大台を超えてる(〃∇〃) たった20回で大台とはおこがましい!かたはら痛いわ\(*`∧´)/ と怒られそうですが、飽き性のわたくしとしてはこれ、すごいことなんです。 えらいぞ!(〃∇〃) (たぶん、ある日突然いやになってしまいそうですが……)   ということで、続きです。     軻、咸陽に至る。 秦王・政、大いに喜び、之を見る。 軻、図を奉じて進む。 図、窮まりて、匕首見(あらは)る。   簡潔に話が進みますね。日本の現代小説なら、これだけで数ページ書き込みそう。   秦の都・咸陽に着いた荊軻に対し、始皇帝・政は喜んで謁見を許します。 樊於期の首と、燕の地図を持参した──つまり、燕を裏切ってきた。これを手土産として秦に仕えたい、と申し出たんでしょうね。そういうことはいくらでもあった時代です。   (箱を開けて樊於期の首を見せた後)荊軻が地図をささげ持って、政の前に進み出る。 まさに、この距離を作るために、樊於期に自刎(じふん)までしてもらったんです。   巻物を広げるように地図を広げていく。広がった最後に、匕首(あいくち)が包んであった。 ──謁見の前に身体検査されるので、こうしないと武器を持参できなかったんですね。   王の袖を把(と)りて、之を揕(さ)す。 未(いま)だ身に及ばず。 王、驚き起ちて、袖を絶つ。 軻、之を逐(お)ふ。 柱を環(めぐ)りて走る。   迫力満点! 政の袖をつかまえて、匕首で刺す。 服の袖にかかったが、体には届かない、その瞬間、政は立ちあがって袖を破り捨てる。 逃げ出す政を、荊軻は追う。 柱の周りをめぐって走る。政が柱の陰に隠れるのを、鬼ごっこ状態で追いかける。   いやあ、ほんとに簡潔、的確。   秦の法に、群臣の殿上に侍(じ)する者は、尺寸(せきすん)の兵(武器)を操るを得ず。 左右、手を以て之を搏(う)つ。 且(か)つ曰はく 「王、剣を負へ。」と。 遂に剣を抜きて、其の左股を断つ。 軻、匕首を引きて王に擿(なげう)つ。 中(あ)たらず。   殿上にはべる者は、小さな武器も持てないきまり。 左右の従者は手で荊軻を殴りつけ、政に「剣を使ってください」と叫ぶ。 王様だけは剣を持っているんですね。 政は剣を抜いて、荊軻の左のももを切る。すぱっ( ̄□ ̄;)!! これまでか、と思った荊軻、最後のチャンスに賭けて匕首を投げる。   中を「あたる」と読むのは、「中毒(毒にあたる)」の「中」です。 「不中」──この二文字に、荊軻の無念の思いが凝縮していますね。たった二文字で、この重み。   遂に体解して以て徇(とな)ふ。 秦王大いに怒り、益(ますます)兵を発して燕を伐つ。 喜、丹を斬りて以て献ず。 後三年、秦兵、喜を虜にし、遂(つい)に燕を滅ぼして郡と為(な)す。   体解=体を切り刻む。 徇=さらしものにする(という意味らしい) すごいですね。中国の古典では、憎い相手の殺しかたが半端ない。   ちなみに、孔子の弟子の子路は、切り刻まれ、塩漬けにされ、敵兵たちに食べられたとか……"(-""-)"   始皇帝は、燕に討伐軍を派遣する。 あわてた燕王・喜は、首謀者である息子の丹を斬って、その首を始皇帝に献上した。 しかし三年後、始皇帝は燕をふたたび攻めて滅ぼし、秦のひとつの郡にしてしまいました。   前回、 時に白虹、日を貫く。 燕人、之を畏る。 とあったのは、まさに的中したんですね。(物語でも歴史書でも予言は必ず的中する) いやいや。 男たちの激しい闘いのドラマ、何度読んでも圧倒されます。

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  • 27 Jun
    • まゆつば国語教室 20

           命をかけた男たち                                                        ◇まゆつば国語教室20   えっと。 前回19のまゆつば、読んでいただけたでしょうか。 「ほしねこ占い」に紛れてしまったような気が……(^^;)   さて、今回は久しぶりに漢文で。(えっ… (・Θ・;))   いちおしの『十八史略』から、名場面を一つ。 始皇帝を暗殺せんとする刺客・荊軻(けいか)の話です。 『史記』がモトですが、今回は『十八史略』の方の文章です。 力強く格調高い文章に、うっとりさせられます。 うっとりしながら、当時の中国の男たちの“美学”にも触れてみましょう。     舞台は燕(えん)の国。今の北京を含む中国北東部。当時は辺境の弱小国です。 その燕の太子に丹(たん)という人がいた。 丹は若い時、強国の秦で人質になっていました。 弱小国の王が、子供を人質として強国に差し出すのは、当時よくありました。(始皇帝も人質になっていたことがある。) が、この丹に対して、政(始皇帝の名前です)は冷たく当たり、丹はずっと恨みに思っていた。それがすべての始まりです。   さて、秦の将軍で樊於期(はんおき)という人が、始皇帝に処罰されそうになって、燕に亡命してきました。 これも当時よくあったことで、ばれないように家族を連れて夜逃げするんですね。 丹は快く受け入れて、厚遇しました。   さてさて、政(始皇帝)への復讐に燃える丹は、荊軻というすごい武人がいることを聞きつけ、礼を尽くして招きます。 家や俸禄、家来を与えて、至れり尽くせり。 丹の厚遇に感じて、政を暗殺する刺客となることを承知した荊軻は、驚くようなことを丹に願い出ます。   軻、樊将軍の首及び燕の督亢(とくこう)の地図を得て、以て秦に献ぜんと請ふ。   始皇帝に近づくため、樊将軍の首と、燕の地図(地図は戦略上の重要機密。今でも独裁国家では詳細な地図を公表しない)を手土産にしたいというのです。   丹は樊将軍を殺すのに忍びず、首を縦に振らない。 そこで軻は、樊於期に直接交渉します。(直接交渉!)   「願はくは将軍の首を得て、以て秦王に献ぜん。必ず喜びて臣を見ん。臣、左手に其の袖を把(と)り、右手もて其の胸を揕(さ)さば、則(すなは)ち将軍の仇(あだ)報いられて、燕の恥雪(すす)がれん」と。 於期(樊於期)、遂に慨然(がいぜん)として自刎(じふん)す。   すごいですね。憎い始皇帝を暗殺するために、あなたの首をくれ、決して無駄にはしない──。 「慨然」とは、辞書には「憤り嘆く」「心を奮い起こす」とあります。樊於期は、よしわかった、と言い、自分で首をはねた。 『始皇帝暗殺』という映画では、水平にした刀を首の後ろに当て、両手で前へ……。   太子の丹はつっぷして泣き、首を箱に入れます。 鋭い匕首(あいくち、短刀)を探し求め、毒を塗って人に試みると、たちどころに死んだ──。 罪人とか捕虜とか下賤の民とか、こんなふうに簡単に実験台とか、神様への生け贄とかにされます(;´Д`)   いよいよ出立。 秦に向かう途中の易水(えきすい)という川のほとりで、荊軻は詩を吟じます。 一番の名場面です。   行きて易水に至り、歌ひて曰はく、 「風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒し。 壮士一(ひと)たび去りて、復(ま)た還(かへ)らず」と。   「また~ず」というのは、「不復~」なら「二度と~しない」、「復不~」なら「今回も~しない」と二通りありますが、ここはもちろん「不復~」です。 荊軻、生きて帰るつもりはありません。   時に白虹(はくこう)日を貫く。 燕人(えんひと)、之を畏(おそ)る。   白虹というのは、霧の時にまれに現れる白い虹で、兵乱の前触れとされました。 白い虹が太陽を貫くようにかかっているのを見て、燕の人々は大きな兵乱を予感して恐れます。   荊軻は、いよいよ秦の都、咸陽に入ります。                        つづく。 continued (=^x^=)

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  • 25 Jun
    • ほしねこ占い

        ▼わたしのねこのタイプは…     ほしねこ占いって   さっそく診断する     だとか……。 陰で努力……してない。 自分に厳しい……ことない。 他人に厳しくするな……はいはい、わかりました。   霜月さんのまねをして、やってみました。 おひまな方はどうぞ(笑)    

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    • まゆつば国語教室 19

          席を同じうせず                                                         ◇まゆつば国語教室19     きょうの日経新聞の裏面に、漢字学者の阿辻哲次さんのコラムが載っていました。 「席」を同じうせずの誤解──という題です。   男女、七歳にして席を同じうせず。 学校で男子と女子を分ける言葉になってきましたが、これは“読み間違い”だとのこと。   この言葉は、もともと中国の『礼記(らいき)』にあり、家庭内のしつけを説いた一節。 六歳になったら、数と方角を教えなさい。 の後に続く言葉で、さらに 十歳になったら、学校に行かせなさい。 とある。   七歳ではまだ学校に行っていなかったんですね。 で、「席」というのは、ほんとうは「むしろ」「ござ」のことだそう。 「むしろ」「ござ」は、その上にすわったり、寝る時にふとんとしてかけたりしていました。   小さい時は男女の子供をいっしょに寝かせていてもいいが、七歳になったら、別々のふとんを用意して、別に寝かせない──ということなんだそうです。   まあ、そりゃそうでしょうね。 七歳にもなれば、ひとつふとんで寝ていると、いたずらする子もいるかもしれない。 それが明治になって男女別学の根拠となったんだそうです。 「席」という語の意味を取り違えたんですね。 なるほど、です。           *      *      *     *   そう言えば、「初心忘るべからず」という言葉も、意味を取り違えられています。 「物事を始めたころの新鮮な気持ちや、意欲を忘れてはいけない」という意味で使われていますね。   これは、世阿弥の『風姿花伝』や『花鏡』にある言葉です。 『風姿花伝』では、   時分(じぶん)の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。 ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。 初心と申すは、このころの事なり。   と述べられています。 おお、すごいな、と観客からもてはやされたときの芸(=時分の花)を本物と思ってしまうと、真実の芸から遠ざかる。すぐに人々に飽きられて、芸の魅力はなくなってしまうぞ──。   『花鏡』には、   是非、初心忘るべからず。 時々の初心忘るべからず。 老後の初心忘るべからず。   と説かれています。難解な言葉なので、解釈はいろいろあるようですが、独立行政法人・日本芸術文化振興会のサイトでは、   世阿弥の「初心」は、若い頃の未熟な芸や、年齢ごとの芸の初めての境地を指しており、芸の向上をはかるものさしとしてこの初心を忘れてはいけないというのです。   と説明されています。 つまり、ある境地に達したと思った時の気もち、でしょうか。 でもそれは最終到達点ではない。そこから進化していかなければならない。たとえ老後でも、これだ、と思った瞬間を超えていかなければならない。   劇作家で評論家の山崎正和さんは、「初心」を、初めて舞台に上がった時のドキドキの気もち、とどこかで書いていました。 自分の表現が観客に伝わるかどうかは分からない、演じてみなければどう評価されるか分からない、そんな不安を持って舞台に上がるときの心を「初心」と解釈していました。 人間、慣れてくると「これで観客は喜ぶだろう」とうぬぼれてしまう。そして芸がつまらなくなっていく。初めて舞台に上がったときの、あの不安を忘れるな、自分の表現が伝わるかどうかは常に真剣勝負なんだ──と世阿弥は説いた、という解釈です。   文章を書いていくうえでも参考にしたい考え方ですね。 きょうは超真面目な内容でした(どうした!大丈夫か!)

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  • 23 Jun
    • 小物ばかり

      6月に投稿したもの。   ◇TOBE「花火」(公募ガイド) アメンバー様方のおかげで、第一稿よりは改善しましたが、入選レベルとなると、う~む。 このところ、発想力のなさが身にしみます。   ◇はちみつエッセイ(鈴木養蜂場) 6年暮らし、かみさんの故郷でもある長野の会社なので、がんばって書いてみたけど、訴えるものがない。ルーマニアを旅行したときの話だけど、う~む。訴えるものがない。   ◇絵本テキスト大賞 思いつくままストーリーを展開してみた。なんじゃこれ、という気がします。う~む。ぱらぱらと見て、ぽいされそうな感じ。ぱらぽいですね。期待ゼロ。   ◇坊ちゃん文学賞ショートショート部門 最初考えたやつは、テーマの「青春」じゃなかったので再考。 断念まぎわ、ふと古い作品(落選作)をリニューアルしてみようと思い、出してみました。う~む、な内容です。期待ゼロ。   ◇文章系は以上。量的には「よく出したな」ですが、出来はいつも以下。「いつも」が落選なので、「いつも以下」って一体…(;´Д`)   ◇小物はやけにたくさん出しました。 川柳、標語、俳句、ボケ、コピー など、20も出してしまった。 なんと、20! ばかみたいっす (;´Д`) 出来はすべて「う~む」です。 でも、これだけ出したんだから、ひとつくらい入賞しないかなあ。 1万円くらいほしい (=^x^=)   ◇純文学は断念 文学界新人賞みたいな大きいのはハナから目指してないけど、30枚くらいまででいける藤本義一とか、北日本とか、長塚節とか、ちょっと食指が動きました。 でも、長さにかかわらず、純文学はやはりむりそうです。 何が一番ネックかというと、   “訴えたいものがない”   これが一番のネックです。 「人間とは」とか「人生とは」とか、そういうのに深入りするのがめんどくさい。しんどい。きつい。だから気もちが向かない。 そういえば純文学って、この数十年まるで読んでいない……。   ということで、 しばらくは目標なし。 9月、10月締め切りあたりの児童文学系を頭の隅において、ぼうっと暮らしたいと思います。 子供を思い浮かべると、なぜか少し創作意欲が出てくる。 このブログの表題どおり、やっぱり目指すのは 「童話とショートショート」ですね(笑)

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  • 20 Jun
    • まゆつば国語教室 18

          ヘビ2題                            ◇まゆつば国語教室18     う~む。 前回の「強力(ごうりき)女性」の話、いまいちでしたね(;´Д`) 物語の動きが少なく、ほとんどが兄貴による「説明」として語られてしまうのが難点でした。 ということで、名誉挽回。汚名返上。 (「汚名挽回」はだめですよ(笑))   えっちネタをいきます(またか!) といっても、蛇の話です。 蛇というのは、その形状からして、古今東西、男性のシンボルと見なされますね。 フロイトもユングもそんなこと言ってたような気がします。   はい。 『今昔物語集』でもやはり……いや、ちょっと違うのも……という話です。 本朝世俗部巻二十九第三十九「蛇見女陰発欲出穴当刀死語」と、続く第四十「蛇見僧昼寝𨳯呑受淫死語」のハイライト。     <第三十九>   都の通りを歩いていた若い女。ふと尿意を催して、わきの垣根の方へ入っていきました。 召使いの童女は、もう終わるかなと通りで待っていたが、ふた時(四時間)を過ぎても戻ってこない。 (いつまで待ってる( ̄□ ̄;)!!  ばかか( ̄□ ̄;)?!)。   馬に乗った男が通りがかりました。 泣いている童女を見て、従者に問わせると(エラい人は直接話しかけないことが多い)、童女はかくかくしかじか。 馬を下りて探すと、死んだように倒れている女を発見。 押したり引いたりするが、動かない。 ふと、垣根の下を見ると……   男、きと築垣(ついがき。垣根)の方を思はず見やりたるに、築垣の穴のありけるより、大きなる蛇の、頭を少し引き入りて、この女を守りてありければ、 「さは、この蛇の、女の尿(しと)しける前を見て、愛欲を発して蕩(とろかし)たれば、立たぬなりけり」と心得て、前に指したりける一とひ(不明。匕首か)の剣の様なるを抜きて、その蛇のありける穴の口に、奥の方に歯をして、強く立てけり。   垣根の下に穴があり、穴の中に大蛇の頭がちらりと見える。この女を守るかのように。 「さては、この蛇が、女がおしっこしている“前の部分”を見て欲情し、女をトロカシて動けなくしてるんだ!」 と確信。刀を穴の前に、刃を奥の方に向けて立てた。   さて、従者どもを以って、女を済上(すくいあげ)て、それ(女)を去りける時に、蛇、俄(にわか)に築垣の穴より、鉾(ほこ)を突く様に出でける程に、二つに割(さ)けにけり。 一尺割けにければ、え出(い)でずして死にけり。早う(なんと)、女を守りて蕩(とろか)してありけるに、俄に去りけるを見て、刀を立てたるをも知らで(知らないで)、出でにけるにこそは。   従者に女をかかえ出させると、蛇は穴から出ようとして二つに裂けてしまった。 トロカシて守っていた女が急にいなくなったので、あわてて追いかけようとして、立てた刀に裂かれてしまったのでした。   かわいそうな蛇………ちがうか。   しかれば、蛇の心は、奇異(あさまし)く怖しきものなりかし。   だそうです。 蛇はやっぱり嫌われ者なんですね。 しかし、この女性、意識がもどって事情を知ったとき……(;´Д`)     <第四十>   こちらは、若いお坊さん。 お堂の中でうとうと居眠りをし、夢を見ました。   夢に、美しき女の若きが傍(かたわら)に来たると、臥して、よくよく婚(とつぎ)て淫を行ひつと見て、きと驚き覚めたるに、傍を見れば、五尺ばかりの蛇あり。 おびえて、かさと起きて見れば、蛇、死にて口を開きてあり。 あさましく恐ろしくて、わが前を見れば、淫を行ひてぬれたり。 「しかれば、我は寝たりつるに、美しき女と婚(とつぐ)と見つるは、この蛇と婚ぎけるか」と思ふに、物も思えず恐しくて、蛇の開けたる口を見れば、淫、口にありて吐き出(い)だしたる。   いやいや。 なまなましくて、訳せません。 適当に想像してください(*´з`) まあ、簡単に言うと、 夢で美人さんとやった💛と思ったのは、じつは、蛇とやってたんですね。 蛇の口の中に……訳せません。   ちなみに、「美しき女の若きが」というのは、前回も出てきた「同格の『の』」というやつです。 「美しい女で、若い女(人)が」。要するに「若い美女」です。   このお坊さん、恐れおののいたけれど、その後は特に何事もなかったとか。 最後の編者のコメントがちょっと面白い。   「畜生は人の淫を受けつれば、え堪へで死ぬ」と云ふは、まことなりけり。   「え堪へで」(え~打ち消し)は、「堪えることができないで」という意味でしたね。(授業はもういい!)   しっかし… 男の「淫」というのは、すごい破壊力なんですね( ̄□ ̄;)!! 動物が受けると死んでしまう((((;゜Д゜))) はい。今回は以上です。 女性のブロ友様がた、大変しつれいしました <(_ _)>

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  • 19 Jun
    • まゆつば国語教室 17

        おしとやかなだけじゃない                            ◇まゆつば国語教室17     言語学の話は疲れたので、ひと休み(笑) いつもの『今昔物語集』以外で珍しい話を……と探し始めたんだけど、あ、今昔にあれがあったな、とつい戻る(^^;) で、今回も毎度おなじみ『今昔』から、“おしとやかなだけじゃない”女性のお話です。 むかし甲斐の国(山梨県)に、大井光遠という相撲取りがいた。 離れに妹が住んでいたが、この妹、年のころは27,8歳。すごい美人でありました。   ある時、この妹の家に、人に追われた男が逃げ込んできた。 妹に刀を突きつけ、人質にとって立てこもった。 召使いが光遠の家にかけ込み、事の次第を告げると、光遠は平然として、「妹を人質にはできまい」。   「はあ……(・Θ・;?)」 意味不明な召使い、妹宅の隙間からそっとのぞくと、   九月ばかりの事なれば、女房は薄綿の衣一つばかりを着、片手しては口覆(くちおおい)をして、今片手しては、男の(男が)刀を抜きて差し宛てし肱(かいな。腕)を、やはら(そっと)捕へたる様にて居たり。   片手で恥ずかしそうに口を覆いつつ、もう片方の手は、刀を自分に当てている男の腕をそっととらえています。 女性らしい仕草と、ビミョーな気配をただよわせる片手…… さて、妹は、   左の手にて顔を塞(ふたぎ)たるを、泣く泣く其の手をもって、前に箭篠(やじの。竹)の荒造りたるが、二三十ばかり打ち散らされたるを、手まさぐりに節(ふし)のほどを指をもって板敷(いたじき)に押しにじりければ、朽木などの和(やわらか)ならむを押し砕く様に、みしみしとなるを、「あさまし」と見る程に、これを質に取りたる男も目を付けて見る。   泣きながら、口を覆っていた手で、足元に散らかっている竹を取ると、指で、竹の節のあたりを床に押しつけて、ミシミシと砕いてしまいました。 男は「あさまし」=びっくり( ̄□ ̄;)!!   そっと逃げ出した男、村人たちに捕えられてしまいます。 光遠、あざ笑って言います。 「もし、おまえが刀で突こうとしたら、腕をひねられて、かえっておまえの肩骨を切ることになるだろう。妹がおまえを打ち伏せて腹を踏んだら、おまえは身動きできない。」 ……いやはや。   「女房(女=妹)は光遠二人ばかりが力を持ちたるぞ。さこそ(そのように)こまやかに女めかしけれども、光遠が手戯れ(たわむれ)するに、とらへたる腕を強く取られぬれば、手ひろごりて、のがしつべきものを。哀れ(ああ!)これが男にて有らましかば、かなふ敵無くて、手なむどにてこそ(強い力士?などで)は有らまし。口惜しく女に有りけるこそ」   こいつの力は、相撲取りのおれの二人分なんだ。こまやかで女らしくしているが、おれがたわむれしても、かわしてしまう。ああ、こいつが男だったら、すごい相撲取り(? ここ、よくわかりません)になれるのに!   「男にて有らましかば、~手なむどにてこそは有らまし」の 「ましかば~まし」というのは、古文の授業で聞いたことありませんか? そう、「反実仮想」という表現です。事実に反して仮に想像すること。「もし~だったら、~なのにぃ」というやつです。 英語の「If I were a bird, I would fly in the sky !」というやつです。 (英語あぶない。前置詞がinでいいのか不安(;´Д`))   己よ、聞け。其の女房、鹿の角の大きなるなどを膝に宛て、そこら細き肱(かいな)を以って、枯木など折る様に打ち砕く者をぞ(打ち砕く者だぞ)。まして己れをば云ふべきにも非ず」と云ひて、男をば追ひ逃してけり。   「鹿の角の大きなるなどを」は、「鹿の角で、大きいものなどを」と訳すのが、大学受験までのルールです(笑) というのは、 「角の」の「の」は、「同格の『の』」と言いまして、「鹿の角」と「大きなるなど」が同じもの、文中で同じ資格で使われていることを表しているんです(難しい…)。 ぶっちゃけて訳すと、「鹿の角を……あ、それは大きい角なんだけど……それを、」という感じの表現です。   男を殺したりせずに(当時の話では、こういうとき普通に殺す)、説教して逃がしてやったんですね。 光遠、けっこうやさしい(*゚▽゚*)     女性はおしとやか── 貴族女性はそれがデフォルトですが(心の中はともかく(^^;))、庶民はけっこうたくましい。 道で若い女に目移りする夫を、力いっぱい殴りとばす奥さんも、『今昔』にはたしか登場したような。 庶民の女は、おしとやかだけでは生きられない?!   あ。 ちなみに、ぼくは土性沙羅さんのファンです(^^;)

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  • 16 Jun
    • まゆつば国語教室 16

          コメとrice、ムギとwheat  TAKE 2                            ◇まゆつば国語教室16     この話、皆さん、めんど臭くなってきたかも……。 小難しい話でもうしわけない <(_ _)> でも、「高校の国語」では、とても大事なところなので、もう少し引っ張ります(^^;)   では、まずコメとrice。 一番の違いは……           はい。育ててから食べるまでの「段階」の問題ですね。   田んぼに植わっているのは「イネ」です。 脱穀した実が「コメ」です。 炊いて食べる段階のものは「メシ」または「ごはん」です。   日本人はこれらを区別しています。 (「ごはん」というのは、元は音読みですが、「ご」をつけてほとんど大和言葉になっていますね)   これに対して、英語はすべてrice です。 田んぼに植わっているのも、粒も、炊きあがったものも、すべてriceです。   日本人にとってコメは生活に密着したもので、どの段階のものかを区別して対応する必要があったから、別の言葉で呼んだんですね。 英米人にとっては、コメはさほど密接ではない。どの段階のものであっても、「要するにriceでしょ」という感覚で済ませているんでしょう。   余談くさいですが、最近は「食べる段階のrice」を、 和食 → めし、ごはん 洋食 → ライス と無意識に区別することもありますね。     さて、それに対して、ムギ。 今度は西欧のほうが密接度が高そうですね。 はい。こちらは、「種類」に関して区別が細かいです。   小麦     → wheat 大麦      → barley ライ麦    → rye カラス麦  → oat   英語まちがっていたらごめんなさい(*´з`) 英語はすべて、まったく別の語ですね。 どの“麦”かで食べ方、育て方が違うから、つまり別の対応をしなければならないから、別の言葉で呼んだんです。 それに対して、日本語はすべて「麦」です。修飾語がついているけれど、「麦」であることに変わりはない。 「まあ、違っているようだけど、要するにムギなんでしょ」という感覚です。関心が薄いんです。   コメ ←→ rice    ムギ ←→ wheat と1対1の対応で勉強してはいけない、ということだけでなく、 日本語を母語とする人たちと、英語を母語とする人たちでは、「コメやムギとのつながり方が違う」、だから「世界の分け方が違う」ことを学びたい、ということです。          *    *    *    *    *   日本語は「雨」を細かく分類する、とよく言われますね。   はるさめ(春雨) つゆ(梅雨) さみだれ(五月雨) しぐれ(時雨) ゆうだち(夕立) ひさめ(氷雨) にわかあめ(俄雨) こぬかあめ(小糠雨) きりさめ(霧雨) こち(東風) おろし(颪) やませ(山背)………   まだまだいくらでも挙げられます。 季節によって、降り方によって、すごくたくさんの呼び名があります。 このうち、例えば「はるさめ」「きりさめ」などは「あめ」に修飾語がついているだけですが、「さみだれ」「しぐれ」「ゆうだち」などは、「あめ」とまったく別の語です。   英語はどうなんでしょ。 rainに修飾語がつくのはいくつかあるんだろうけど、で、showerとか別の語もあるんだろうけど、日本語に比べると「分け方」はおおざっぱな感じがします(これも違っていたらぜひコメントお願いします(^^;))   「だから日本人は繊細な感受性を持った民族なんだ」と話を発展させる人たちもいますが、その結論はともかく、まちがいないのは、   日本は雨が多いこと。 古くから稲作を中心にして生きてきたこと。 稲作はたくさんの水を必要とすること。 日照りで雨が降らなかったり、逆に、実りの時期に大雨で日照が少なかったりすると、生き死にに関わること。   ──それが、「雨」に対する強い興味の根っこにあるのではないかと、ぼくは思います。 生活のありようが、言葉を作っていくんですね。 (で、言葉がまた生活を作っていきます)

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  • 15 Jun
    • まゆつば国語教室 15

         コメとriceは? ムギとwheatは?                                                          ◇まゆつば国語教室15     言葉は、各言語集団が世界を認識する手段だ、という話の第2弾です。   注; 「言語集団」て、こなれない表現ですね。日本の場合は「日本語を母国語とする人」と「日本人」がかなり重なっているから、「各民族」と言ってもだいたいOKかも……なんですが、世界ではまったく事情が違う。ここでは「イギリス人」の話ではなく、「英語を母国語とする人」(たくさんの国の人々です)の話です。   コメ、ムギの話の前に、まず前々回「水とwaterは違う」の補足ですが、   マレー語(マレーシア語、インドネシア語)では、 水もお湯も、氷までも、同じair(アイール)という言葉で呼ぶそうです。 氷まで同じ言葉! 驚きですね。 ただし、「熱い」とか「固い」とか、必要に応じて修飾語は後ろにつきますが。   で、最近では、英語を取り入れて,氷を「ais」と言うようですが。   しかし、われわれから見ると明らかに別物の「水」と「氷」でさえも、その区別は絶対的なものではないということですね。   日本語の分け方(水/お湯)は、主に 「用途」に視点を置いた分け方。 英語、さらにマレー語は、 「存在自体の本質」に視点を置いた分け方、と言えるかも知れません。   つまり、どんな「視点」で世界を切るか、が言語集団によって異なっているわけで、どれが正しいとか間違っているとかいう話ではない。 視点、ものさしの違いにすぎないということですね。 「すぎない」という表現は誤解を与えるかも、です。 その違いこそが、文化の違いを形作る──ということです。   モノ自体の世界は「混沌」であり、中に区別など存在しない。 人間が言葉を使って、自分たちに都合のいいように区別を作り出している。近代言語学はそう考えます。 どのようにその区別を作るかが、それぞれの「文化」なのだ──というわけです。     脱線ですが、老荘思想も同じように考えます。 世界は混沌である。人間が言葉を使い、こざかしい知恵で、くだらない区別を作り出している。 「善」を作るから、「善でないもの=悪」が生まれる。 「美」を作るから、「美でないもの=醜」が生まれる。 儒家(孔子の学派)の言うような善悪の区別など幻想だ、美醜の区別など根っこがない。 できうれば原初の混沌に返り、自然のままの生き方をすべきなのだ。 ──というふうに考えます。   老荘思想は大好きなので、またいつか取り上げたいと思います。     ついでに、西洋の「二元論」についても、少し補足を。   二元論はキリスト教だけでなく、ギリシャ哲学にも色濃く流れています。 プラトンの「イデア」。 英語のidea(考え)、ideal(理想)の元になった言葉ですが、 たとえば「美のイデア」というのは、絶対普遍の美、「美とは〇〇である」の〇〇に当たるものです(と思いますが、違っていたらご指摘をよろしく(^^;))。   つまり、「絶対普遍のもの」が存在する──という前提ですね。 プラトンは、そして後世の哲学者の多くも、その絶対普遍の「真実」なるものを追い求めた。 これも〇✕式の二元論だと思います。   イデアにしろ、絶対神にしろ、「絶対普遍の真実がある」と考え、それを〇、そうでないものを✕とする二元論に変わりはない。 それに対して、言語論は、「絶対普遍の真実などない」と考えてしまうんです。 どんな切り口で世界を切り取ってもかまわない(それぞれの言語集団が納得して共有すればそれでよい)、切り取り方に優劣はない、と考える。   言語論が、西洋の長い長い伝統的思考法をくつがえす“爆弾”になったこと、なんとなくお分かりでしょうか。 (て、実はぼくも“なんとなく”しか分かっていないんだけど(;´Д`))   ついでに、この考え方、ここ20年くらいの大学入試評論文の定番です。この考え方が、言語論以外の分野にもものすごく影響を及ぼしているんですね。 基礎知識があるとないとでは、文章のわかりやすさが全く違う。──そういうジャンルの代表でもあります。 お子さんが高校生というブロ友様は、ぜひ、この間の記事を読ませてあげてください。     あれれ? 今回のテーマは、コメとムギの話でしたね。 疲れたので、それはまた次回……(;´Д`) <(_ _)> お暇な方は、コメとrice、ムギとwheatの決定的な「違い」を考えといてください(^^;)

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  • 12 Jun
    • まゆつば国語教室 14

           水無月トリビア                                                          ◇まゆつば国語教室14    すずかわさんのコメントで「水無月」という言葉が出てきたら、急にトリビアを語りたくなりました。どうでもいい小ネタを語りたがるのは、元教員の悪いくせ(;´Д`)   水無月は6月。梅雨の季節なのに「水の無い月」とは、これいかに。と思っていた人はいないでしょうか。ぼくは高校生のころ思っていました。   が、旧暦の水無月は、今の暦で言うと7月くらい。梅雨が終わるから、水が無くなるのもアリかな……とぼんやり思っていました。   モノの本によると「水無月」の語源は諸説あるようですが、ぼくが今、ナルホドと一番納得しているのは、次の説です。   「水無月」というのは、「水が無い月」ではなく、「水の月」という意味。 田植えが終わって、田んぼに水を引き入れる月。 ──という意味らしい。   古代には、「水」のことを「み」と言いました。これは確か。「水戸(みと)」「垂水(たるみ)」など例はいくつもあげられます。   そして、現代の「の」に当たる言葉(連体助詞)として、「な」と「つ」がありました。   「つ」の方は、 「夕べのころ」→「夕つ方(かた)」 「目の毛」→「目(ま)つ毛」 ※目は「ま」が元の音 「国の神」→「国つ神(高天原系でない土着の神)」 「中の国」→「中つ国(天上でも地下でもない地上の国)」 などなど。   「な」の方は、 「目の子(中心)」→「目(ま)な子」 「目の尻」→「目(ま)な尻(じり)」 「水の戸」→「水(み)な戸」=港 ※水(み)が登場 「水の元(流れの元)」→「水(み)な元」=源 ※臣下に下った皇族に「源」という姓を与えたのはこの意味。 「手の心(中心)」→「手(た)な心」=掌(たなごころ) などなど。   つまり、「水無月」というのは、「水の月」を意味する「みなつき」に「無」という漢字をアト付けで当てただけ、というわけです。         *    *    *    *    *   ちなみに、昔、6月30日には、一年の半分が終わったということで、厄払いをしました。 「夏越しの祓え」(なごしのはらえ)という行事です。   風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける   という百人一首の歌の「みそぎ」というのが、夏越し祓えの風景です。   このときに、宮中では、氷室(ひむろ)に蓄えていた氷を食したとか。   京都には、この季節に食べるものとして、「水無月」という和菓子があるようです。   (今回はなんか、いい感じにまとまりました (^^;))

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  • 11 Jun
    • まゆつば国語教室 13

        水とwaterは違う?                           ◇まゆつば国語教室 13   高校の現代文の教科書によく出ている話なので、ご存じの方も多いかと思います。知っている人はスルーしてください。    「水」と「water」──日本語と英語の違い、というだけでなく、じつは決定的に大きな違いがあるんですよね。 意味の違い。 つまり、指し示す対象の違い、です。何でしょう???         (^^;)  ( ̄▽+ ̄*)  (〃∇〃)  (;´Д`)  <(_ _)>  ('◇')ゞ       80度のH2Oのことを何と言うでしょう。   日本語 → お湯 英  語  →  hot water   英語ではhotという修飾語がつくけど、waterであることに変わりはありません。 でも、日本語では「熱い水」とは決して言いません。(科学分野では熱水鉱床とかありますが、日常語にはない)   つまり、日本語の「水」が「一定温度以下の液体状のH2O」を指し示すのに対し、英語のwaterは「液体状のH2Oすべて」を指し示すんですね。 「液体状の」と限定したのは、もちろん、個体なら「氷」「ice」、気体なら「湯気・蒸気」「steam」という全く別の語が存在するからです。   あ。「湯気」というのは「お湯が気体になったもの」という意味だろうし、「蒸気」というのは漢語だから純粋の日本語とは言えない。「気体状のH2O」については、日本人は「別物」という意識が弱かったようですね。 と、また脇道に入ってしまいそう( ̄□ ̄;)!! 戻ります。     水とwaterが違うのは分かったけど、で、それがどうした! と思われる方もあるでしょう。 でも、これはじつは、すごく大きなことなんですね。だから、言語学が現代思想に大きな影響を及ぼした。   水とwaterの違いから言えることは、   1)ある言葉がどのような対象を指し示すか、カッコよく言うと、「言葉が世界をどう切り取って分類するか」は、各言語集団によって異なる。   2)各言語集団のやり方に「上下」があるわけではない。どんな分類法も可能であり(恣意的=勝手=であり)、基本的に平等である。   ということなんですね。 当たり前と思うかも知れないけど、古代から近代までの西洋思想を貫く「二元論」(世界を〇と×に分けるやり方)と相反するんです。   西洋を「先進国」、その他を「後進国」と定義し(「未開」とはなんと傲慢な呼び方!)、先進国が後進国を導いてやるのだ、という発想を根本から覆すんです。   「神」がぐらついたあと、西洋近代を支えていた「理性」への信仰が、フロイトらの「人間は無意識に支配されている」という発見で再びぐらつき、近代の英雄たる「科学」が、進んだ先の核兵器や環境破壊でゆらぐのとまさにシンクロして、この言語学の考え方が新しい“現代”の文化を生み出していくんですね。 文化相対主義とか、文化多元主義とか言われます。ものすごくおおざっぱですが。   言葉というのは、コミュニケーションの手段であると同時に、というよりさらに根源的には、「世界をどう認識するか」という、人間の人間たる根本を形作っているものです。   ほかの言語を学ぶというのは、「まったく新しい世界認識の方法を学ぶ」という、きわめて刺激的な冒険でもあるんですね。 (なんか、今回かっこいいぞ(^^;))

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  • 08 Jun
    • 消しゴム再up

      TOBE「消しゴム」が落選確定したので、アメ限から再upします。 駄作です。はい。 しかも枚数調節のためむりに増量していたので、少し短くしました。それでも駄作……(笑)          昼下がり                       まばゆい光──。開きかけた瞼を思わず閉じる。しばし朱色の闇になじんでから、男はもう一度ゆっくりと瞼を開いた。   一面の青空。その中央に太陽がぎらぎら輝いていた。生暖かい風が男の頬や体をなでている。鳥のさえずりが風に乗って、軽やかに耳に飛び込んでくる。  両手を後ろ手について上体を持ち上げた。  草原だった。背の低い草の絨毯が広がっていて、その上に男は仰臥していたのだった。  遠くに深い森がこんもり茂っていた。男は森をめざして歩き出した。空腹を満たすものが、そこにありそうな気がした。途中で野ウサギや野ネズミに出会ったが、動物たちは地を這って逃げ、追いつくことができない。  本能の導きは正しかった。森には無数の木の実が成っていた。枝に手を伸ばして取った。高い枝に成っている実は、幹によじ登って取った。無心に食べているとき、近くの下草がガサッと音を立てた。身構え、とっさに顔を向けた。  人間?が立っていた。胸にふたつ、丸いふくらみがあった。これが女か──。 「こんにちは」  女が微笑を向けてきた。「私にも木の実を分けていただけないかしら」  妙な違和感を男は覚えていた。しかし顔には出さず、 「ああ。かまわないよ」ぶっきらぼうに答えた。  木の実を掌に山盛りにのせてやると、女は顔をうずめてむしゃむしゃ食べた。 「おいしい」ひと息ついて女が言った。 「ほしければ、いくらでも取ってやる」  男は胸を張り、力強く言う。なんだかおかしいという気がずっとしているのだが、それより、体の芯が無性にむずむずしてきた。  男は女の肩をつかみ、ぎこちなく地面に押し倒した。女はそれを待っていたようだった。  心地よい脱力感とともに、男は起き上がった。体のむずむずが収まると、心の違和感が耐えられないほど強くなってきた。男は戸惑いながら、思いきって女に尋ねた。 「なんか……どうも違うような気がするんだ」 「何が?」女が甘えた声を出した。 「あんたの容姿がさ。なんか違う」  とたんに女の表情が強張った。むっくと起きあがり、口を男に突き出した。 「はあ? 何が言いたいの」 「いや。言いたいというか……。変だろ、あんたの姿」  女の目に炎が燃え上がっていた。 「だから何が変なのよ」 「体がまん丸だし、足が棒っきれのように細いし」 「ぺっ」と、女がタネを吐き出した。 「ふうん。あんたが言う? 私だって変だと思ってたわよ。あんたって三頭身じゃない。信じられない。三頭身!」 「目が真っ黒で白目がない。それに顔の半分が口だ。でかすぎるだろ。……第一、鼻も耳もないじゃないか」 「なにさ。あんたなんて──あんたの顔なんて、ただのジジモクじゃないの」 「ジジモク?」  男が言ったとき、とつぜん女の顔が消えた。続いて胴体と手が消え、足が消えた。  あぜんとする男の顔が、同じく一瞬にして消えた。胴体も手足もすっかり消えた。  人間のいなくなった森に、明るい木もれ日が差している。となりの草原では、春のそよ風が、名もない草々を静かに揺らしている。                      * 「こら。そんなところに落書きしちゃいかん」  昼寝から目覚めて仕事部屋に戻ったJ氏は、机にかがみこんで鉛筆を動かしている息子をどなりつけた。 「外で遊びなさい。そいつは大事な設計図なんだ」 「ごめんなさいっ」  息子があわてて、消しゴムを紙の上に走らせた。灰色に丸まった消しかすを、ふうっ、と息で吹き飛ばすと、ドタドタ音を立てて部屋を出ていく。 「やれやれ。最後のやつはなかなか難しいんだよな」  J氏が仕事を始めて六日目の午後。日が沈むにはまだ時間がありそうだった。   注:ジジモク……丸や線をぐちゃぐちゃに書いたもの。       考えオチ、というやつです。 旧約聖書、創世記のパロディーでした。J氏というのは、エホバ(ヤーウェ)ですね。 「そう来たか」賞ねらいだったけど、 「ふむ。そう来たの。……だから何?」ですよね。 はい。失礼しました(^^;)           ※     ※     ※   「坊っちゃん文学賞」ショートショート15枚以内、の方にひとつ思いついてプロットを作ったんですが、ふと要項を再確認したら、ショートショートの方も「青春」がテーマのようでした。 小説部門だけだと思い込んでいた。で、じいさんばあさんの話を考えてしまった( ̄□ ̄;)!! 立ち直るのに少し時間がかかりそうです。   その他は、「恋の短歌」というのを見つけたので、応募しました。 奥出雲町が募集しているもので、優秀賞7首?に1万円相当の特産品と授賞式宿泊券がもらえます。 6月10日締め切りで、サイトから応募できます。 興味のある方は、急いでひねってください! 奥出雲町で会いましょう(笑)    

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