この小説は、アメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの初めて出版した長編小説であり、彼の出世作です。ヘミングウェイが実際にパリで体験した出来事を小説にしたと言われています。


マイライフ・アズ・ア・ひっち


時代は第一次世界大戦後、主人公のアメリカ人・ジェイクはパリに在住する新聞記者です。
彼の仲間たちは皆、第一次世界大戦中に青春を過ごし、戦争体験を通じて、既存の思想、道徳、宗教に不信の念を抱き、またアメリカ文化の俗物性に絶望し、無気力に酒や享楽に溺れる日々を送っています。


ジェイクはその戦争が原因で子供を作ることができない性的不能な身体になってしまっています。ジェイクと愛し合っているブレットは、不能のジェイクとは一緒になることが出来ず、ジェイク以外の男から男へと渡り歩きます。性的不能であるがゆえに、ブレットを蔭からしか愛してはいけないと決心しているジェイクは、そんな奔放で自堕落なブレットを見守り、付き合いを続けています。


作家、貴族、伯爵などの仲間とともに、レストランで飲み明かしたり、釣り旅行に出かけたり、スペインの闘牛の祭を見に行くようなシーンが続いていきます。一つ一つのシーンは細かい描写で情景がはっきりと思い浮かぶような描写なのですが、それと同時に、ロストジェネレーションの無気力感、虚無感を感じるような淡々とした変容の無いリズムで場面が続いていきます。


私が一番好きな場面は、ジェイクが友人のビルと鱒釣り旅行をしている場面です。二人は、宿泊しているホテルで、おいしいものを飲んだり食べたり、釣りの準備をしたりします。釣りに行く朝は、ホテルの料理人に作ってもらったチキンと固ゆで卵のランチ(これがとっても素朴でおいしそうな描写なのです。)とワイン2本を持って、出かけていきます。


鱒釣りをする川に到着すると、冷たい水が流れる浅瀬にワインを沈めて冷やしておきます。たっぷり釣りを楽しんだ後、木蔭で、冷え切ったワインとランチを楽しみながら、二人はグダグダと他愛もない話を続けるのですが、時に会話の中には本音が入り混じったりします。夜は、釣った鱒を調理して堪能しながら、またもやワインを何本も空けて飲んだくれるのです。描写がとても繊細で、二人と同じものを食べたり飲んだりしたくなります。


その後、二人は、パンプローナへ闘牛見物に出かけ、ブレットとそのフィアンセ、その他友人と合流をします。そして、ブレットは若い闘牛士と駆け落ちするという事件を起こし、駆け落ち先で相手と別れ、フィアンセではなくジェイクに助けを求める電報を送ってきます。


「ホテル代が払えないの、迎えに来てくれない?」


忠実なるジェイクは、「明朝到着する、愛している」と返信をします。


彼はつぶやきます。


「これでいいのだ。恋人を旅立たせて、ある男と馴染ませる。次いで別の男に彼女を紹介し、
そいつと駆け落ちさせる。そのあげくに、彼女をつれもどしにいく。
そして電報の署名には、“愛している”と書き添える。そうこれでいいのだ。」


ブレットが滞在しているホテルまで迎えに出向いたジェイクは、何も聞かずにブレットの面倒をみます。そして、帰り道で、観光馬車に揺られながら、ブレットがつぶやくのです。


「ジェイク、私とあなたとだったら、とてもうまくいくはずなのに・・・」


それに対して答えるジェイクの言葉に、この作品の全てが集約されています。


「そうだね、そう考えるだけでいいじゃないか。」


この一言に、煮え切らずにブレットとつかず離れずの距離を保つジェイクの狂おしいまでの悲しみ、そして、戦争で生きる希望を失ってしまった男の深い孤独感があふれ出ているのです。


※「日はまた昇る」はいろんな人の翻訳が出ていますが、新潮文庫・大久保 康雄さんの訳が秀逸です。