住民運動

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昨日のデモの報告と感想を述べておこうと思う。

 

デモ前の集会において、オウム真理教家族の会代表である永岡さんが今回も来られていて挨拶をされていた。

 

オウムの危険性を早くから気付いていたにもかかわらず、事件を防ぐ事が出来なかったことにお詫びをされていた。自らもVX でオウムに殺されかけ、後遺症に苦しみながらも精力的に活動されている姿には本当に頭が下がる思いである。

 

永岡さんの言動と上祐の言動を比較するだけでも、いかに上祐が幼稚で自分勝手であるかもよくわかる。上祐は事件を終わらそうと考えているようであるが、被害者さんにとっても、住民にとっても、家族の会にとっても、何一つ事件は終わってはいない。あれほど沢山の苦痛と悲しみを与え続けてきて、自分達だけが解放されたいなどという思うこと自体がいかにワガママで自分勝手な考えであるかですら理解できていないのであろうな。

 

そして抗議文を読みあげてデモの行進が始まったのだが、抗議文では、ハッキリとひかりの輪は観察処分を外すために出来た団体であると指摘していたことに驚いた。よく調べあげている。ひかりの輪の会員でも、どのような経緯でひかりの輪ができたのかという歴史すら分かっていない人が多いであろうし、歴史を知っていたとしても冷静に分析できている人は殆どいないであろう。

 

ひかりの輪がアレフM派の時代には、真理(麻原の教え)の灯明を消さないためにも独立しようと会員を集め、独立前には「観察処分を受ける団体が二つできても仕方ない」といって、観察処分を外すことを目的にできた団体なのである。反省や総括をして努力を重ねていき社会融和に努めていき、その結果として観察処分が外れるような団体が出来上がっていくというものではなく、鼻から観察処分を外すためにはどうすれば良いのかという政治的な打算の上で設立された団体であるということをしっかりと理解しておくべきであろう。観察処分を外すためには社会融和が必要だと考え、反省総括をして宣伝をしていき、観察処分を外すためには宗教が邪魔だと思えば、宗教ではないと言い出す。それだけのこと。

 

逆に考えれば、全ての行動が観察処分を外すために行われてきたので、観察処分が外れてしまえば、もはや社会融和も必要ないし、再び宗教にするかもしれないし、反省も総括も必要はないということなのである。

 

その団体の欺瞞性の本質を最初にズバリと指摘していた。さすがに16年も監視活動を続けてきたことはある。私も団体内から同じことを言い続けてきたのであるが、誰にも相手にもしてもらえなかったが、社会的な視点からは、やはりこのような認識に至るのだろうなと感心させられたし、自分の考えが偏ってもなかったのだろうと安心も頂けた気がする。

 

その後の抗議文には河野さんなどの一部被害者や評論家、映画監督、宗教学者などが取り込まれ宣伝に使われている事実を指摘し、賠償金も宣伝にしていることを追及している。そして、これも感心したのだが、アレフの脱会支援のことも指摘し、アレフを悪と看做して、ひかりの輪を正義とする独善性をも指摘している。

 

輪の法則とか一元論で善悪を超越するというひかりの輪の教義をそっくりそのままブーメランとして返っていていることを皮肉的に糾弾しているかのようであった。

 

そして最後の方では、やはり抗議文の受け取り拒否をも指摘していた。三ヶ月前からデモの日程を知らせているにも関わらず、10分間の時間も取れないことはありえないと考えるのが自然であるし、一回だけならまだしもここ最近はずっとである。意図的に受け取り拒否しているとしか思えないし、事実そうなのであろう。

 

そして一番最後に、監視活動を続けている住民に対して上祐自らが暴言を吐き恐怖を与えていることも糾弾していた。その態度、行動を見れば住民に対して、敵対心を抱き、攻撃的な姿勢を取っている事実は明らかであるし、それが話し合いの姿勢とはほど遠いものでしかないことは十分に本人も理解もできるであろうに。

 

しかしながら、ひかりの輪のHPでは住民運動に対して、自らの行動は棚に上げておいて、団体が話し合いを拒絶しているのではなく、住民側が話し合いを拒絶しているようなことを書いている。

 

住民が話し合いに応じないのは事実であろう。ここに論点のすり替えの技術が入っているのであるが、住民側は話し合いを求めているのではなく、抗議文の受け取りを求めているのである。それくらいのことはしてもよいだろうに。それすらも拒絶するというのは住民の意思を無視するということであり、社会融和を掲げて設立した団体の取るべき態度であるとは到底思えない。

 

団体側の主張を考えるなら、団体存続を前提とした話しあいであろうということは想像できる。しかしながら住民側が求めているのは解散なのである。解散を前提とした建設的な話し合いであるなら住民側も受け入れることはあるだろう。しかしながら、存続を前提とした話し合いなど到底受け入れられないし、住民を丸め込もうとする意思があからさまでもある。結局は話し合いがしたいのではなく、自分達の意思を押し付けてくるだけだろうし、住民とも対話しているなどと宣伝に使われるだけにかならないだろう。住民側としてはそれは絶対に認められないし、そんな話し合いは建設的どころか地域社会の崩壊をも意味する破滅的な話し合いでしかないのである。

 

だから、存続を前提にしている限りは話し合いの余地はない。ひかりの輪ができることは住民の抗議の声を受け止め続けること。団体として続けるということは、そういうことだろうに。観察処分しか考えていないから、本当の反省がないし謝罪もない。それくらいの誠意は事件の反省として生まれてきても当然であろうと思う。

 

それどころか、暴言を住民に吐いては恐怖を与えている。

 

どこが反省?

 

永岡さんは自分が殺されかけても、事件を止められなかったことを悔いていらっしゃる。そのことを思えば、本当に上祐に腹が立って仕方がない。とっとと解散しろ。

 

勉強会の話しもしたかったのだが、あまりにも長くなりそうなので、次回にする。
 

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