命の選別

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私は口唇口蓋裂として生まれた。私の兄も口唇口蓋裂であった。

兄が生まれた時、親にとって最初の子供ということもあり、皆から「赤ちゃん見せて」と言われて見せると、一様に皆黙り込んだようだ。親としてはこれほどの屈辱はなかろう。

私を身ごもった時、母親は「今度こそは。。。」という願いを込めて私の出産を決意した。そして、兄よりも醜い私の姿を見て、母親は半狂乱になったそうだ。

その話を聞いた時、「生まれた時に母親を半狂乱にさせる自分の存在とはなんだろう。」その後も問い続けてきた。

小学校の低学年の頃にはよくいじめられた。子供は純真で素直なので「お前、なんでそんなに変な顔なん?」とい無邪気にからかわれたりした。泣きながらよく学校から帰ったものだった。

高学年から中学生ぐらいになると異様に「強さ」に憧れた。あまり考えがあった訳ではないが、もうからかわれてバカにされるのにウンザリしていったのだろう。からかってくる人間は、片っ端から殴りかかっていった。返り討ちにあってボコボコにもされることも数知れずあったが、相手が何人いても、いかに喧嘩が強かろうと絶対に引かなかった。

そのせいか、あまりバカにされることも少なくなっていったし、からかわれても、それを笑いに変えるギャグも身に着けていった。クラスでも人気があった方だと思う。自分なりの生きていく術を身に着けていった時期である。

また、うちの親父は、仕事もせず毎日酒を食らって近所でも有名な酒乱であった。警察でも大暴れして何度も迎えに行った。

そんな家庭環境もあったのかもしれないが、周りからは常に「可哀想」という目でしか見られていなかった。そういう周囲の目に晒され続けていると「自分は幸せであってはならない存在なのか」とも考えた時もあった。

ちょっと余談が過ぎた。おそらく私の親も、そして私自身も、ちょっと普通の家庭より「苦労」はしたのかもしれない。でも「子育て」には苦労はつきもので誰でもそれなりの苦労は経験しているだろう。それぞれがそれぞれに苦労しているのは間違いないことだと思う。

そこに気づけたとき、「苦労」と「不幸」とは違うのだという結論に至った。周りがどのように思おうとも、どんなに苦労をしていても、「幸、不幸」を決めるのは自分自身であって他人じゃない。

だから、妻が身ごもった時に、生まれてくる子供がどのような障害を持っていたとしても、そのことだけは自分の経験も踏まえてきっちりと教育していこうと覚悟した。

案の定、娘は「先天性食道閉鎖症」という病気をして産まれてきた。やっぱりショックはあったが、半狂乱になることもなく誰の責任にすることもなく、子供自身が「不幸」だと受け止めるようにだけは絶対にさせないというつもりで育ててきた。

今では彼氏と恋愛を楽しんでいる。そりゃ、親には言えない悩みはあるだろうが、それは通常の思春期に感じている悩みであって、自分の障害についての悩みではないと確信している。

妻も30過ぎから「脊髄小脳変性症」を発症し、今では障害者施設に入所して寝たきりの生活になった。私にとっては子供よりも妻の病気の方が本当に大変だった。精神的にもかなり追い詰められていった。

色々な経験を通じて、乗り越えられたという実感と自信があるから言えるのかもしれないが、やっぱり「苦労」と「不幸」とは違う。

おそらく、今のように「出生前診断」があったなら、私は間違いなくこの世に生存していないだろう。母親の愛情は疑ったことはないが「あの時やったら1万円ほどで堕ろせとったのに。」と冗談まじりでよく言われていたからだ。

ひょっとしたら、妻も存在していなかったかもしれない。この私とて娘が病気で産まれてくると知っていたならどのような選択をしていたかは分からない。おそらく産んでいたであろうと信じていたいが。

知らなくていいことまで知らなくても良い。子供が幸せになるかどうかなど子供自身が決めることであって、親にもそんなことを決める権利はない。

健常者で産まれたとしても、苦労はつきもの。

独善的な勝手な判断で「命の選別」をすることには断固として反対する。

「ソフィーの選択」という映画が昔あったが、そこではアウシュビッツで自分の二人いる子供の内、どちらか一人を殺し、どちかか一人を生かすかを母親に選択を強いるという場面がある。

「あたしに選ばせないで」、「あたしには選べません」と母親であるソフィーは嘆願するが、結局は錯乱状態に陥り、選んでしまう。。。

「命の選別」とはそのように重いものだろうと思うし、そうでなければならない。

「出生前診断」はその「命の重さ」をとことん軽くしてしまうのではないか?

障害児を生んだとて反省する必要など全くない。きちんと育てればそれでいいのだ。

ましてや、コストの問題で「命の選択」を迫るのは、金と命を秤にかけて、金を選ぶようなものだ。

こんな社会は異常としかいいようがない。

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「障害児を生んだ親は反省しろ」で炎上の医師も...広がる生の選別と障害者差別の思想
2015年6月25日 13時30分 LITERA(リテラ) http://lite-ra.com/2015/06/post-1219.html
野崎泰伸『「共倒れ」社会を超えて 生の無条件の肯定へ!』(筑摩書房)

 先日、ある医師がFacebookに投稿した記事が大炎上を起こした。内容は以下のようなものだ。

〈障害の子どもさんが生まれるというのは、いかに産む前妊娠前に両親が食と生活が乱れているかの証、それは一生かけて反省しなければなりません。それを抱えてその子を一生守り続けていくことが、真の親に課せられた試練なのです♪〉

 障害をもった子どもが生まれた責任は親にある──。こう書き記したのは、自ら"キチガイ医"と名乗る、NPO法人薬害研究センターの理事長であり精神薬の断薬を行うTokyo DD Clinicの院長である内海聡医師。以前から"抗うつ剤は覚せい剤と基本同じ"と言ったり、生活保護受給者を"クレクレDQN"と評するなど、ネット上で炎上を繰り返してきたが、今回の彼の主張には産婦人科医の宋美玄氏が〈障害児を産むことは『親のせい』『不摂生』などではないことは改めて説明するまでもありません〉〈産婦人科医としてはっきり否定いたします〉と反論。

 一方、乙武洋匡氏もTwitterで「うちの親にも深く反省するよう、よく言っておきます(笑)」と反応し、こちらも話題を呼んだ。

 しかし、内海医師は炎上後も〈障害者の親は一生反省してもらってけっこう〉と述べるなど、発言をますますエスカレートさせている。自らのオカルト的信仰を主張するためには、障害者を差別し、傷つけることもいとわない。そのメンタリティは「障害者は前世の因縁」などというインチキ新興宗教の教祖とほとんど変わりがない。

 さらに愕然とするのは、この内海医師に対して「障害があるとわかって産むのもおかしい」「言ってることは間違ってない」「一生国に迷惑かけるんだからね わかっていて生む奴は批判されて当然」などという肯定的な意見が目立つことだ。

 こんな差別丸出しのグロテスクな意見が大手をふってまかりとおるとは......。しかし、こうした「障害児は生むな」という反応は、近年、とみに増えている。とくに、妊婦の血液を採取して胎児の染色体や遺伝子を調べる「新型出生前診断」が2013年4月から導入されるようになってからは、"異常が分かれば中絶すればいい"という意見が散見されるようになり、事実、導入開始から1年半で1万2782人が出生前診断を受け、羊水検査などで異常が確定した176人のうち、人工妊娠中絶をしたのは167人、妊娠を継続したのは4人という。

 内海医師は障害のある子を育てることを〈試練〉と表現したが、出生前診断の結果による中絶率の圧倒的な高さを見ても、多くの人が「障害をもった子は生めない」と考えていることがわかる。だが、なぜ障害をもった子を生めないと思うのか、その社会的背景が論じられることは少ない。

 今年3月に発売された『「共倒れ」社会を超えて 生の無条件の肯定へ!』(筑摩書房)は、こうした問題と真正面から向かい合う。著者である野崎泰伸氏は自身も〈肢体に先天的な障害〉をもち、現在、立命館大学大学院で教鞭をとる倫理学を専攻とする学者だ。

 野崎氏は、この出生前診断について、〈じつはこの社会は、「新型」検査が、生命の選別を行うツールであるということから目を逸らしているのではないか〉と指摘。そして、問題の本質は〈費用対効果の良し悪しをひとつの判断基準とする制度設計をし、障害があるとコストがかかるという理由で〈望ましくない生命〉であるとする優生思想にあります〉と述べる。

 まず、よく知られているように、ナチスドイツにおいては優生思想に基づいて〈「生きるに値しない」重度の障害者や遺伝病、あるいはアルコール依存の人たちをガス室に閉じ込め、抹殺した〉という歴史がある。他方、日本でも同様、戦中に「国民優生法」を施行し、障害をもつ人々への不妊手術を実施した。さらに戦後には「優生保護法」と名を変え、〈「不良な子孫」を産ませない〉政策がとられた。しかも、「遺伝性疾患」に加えて、精神病や精神薄弱、ハンセン病なども対象となり、本人の同意もなく行われた不妊手術の件数は、法改正がされた1996年まで約1万3000人にのぼる。

「障害をもつ人は、いないほうがよい」......このような考えには〈優生思想が深く関わっています〉と野崎氏は述べる。だが、ここで忘れてはいけないのは、「優生保護法」が運用された理由は「不良な子孫を産ませない」だけではない、ということ。そこには戦後の人口増加を減らしたい、福祉による経済負担を減らしたいという思惑もあったのだ。いわば、国家の経済的な都合を、「産んでいい子ども、産んではいけない子ども」という"命の選別"の問題にして広めたのである。

 そして、いま、新型出生前診断の導入によって、国家による〈直接的な管理〉から、〈個人やカップルが、障害をもつ胎児を「自発的」に中絶するように〉変わった。なかには、当事者に選択権が与えられるようになったのだからいいのでは?と思う人もいるかもしれないが、むしろ、いま浮き彫りとなっているのは、"当事者への責任の押しつけ"だ。

〈「新型」検査を利用するかどうかを、カップル、とくに妊婦の選択にゆだねることによって、つまり、「妊婦の自己決定」とすることによって、大半の責任を当人たちに押しつけているように思えるのです〉

 しかも、検査によって障害が認められ中絶を選択する人は、前述したように圧倒的な数字だ。なぜ中絶を選ぶのか、その理由を野崎氏はこう分析する。

〈(検査結果によって中絶を選ぶ人は)心のどこかで、障害をもっていることは、いのちの質が劣っていることだと思っているはずです。ここで言う「いのちの質」は、多くの場合、育児に要するコストに見合うだけの成果が見込めるかどうか、で決まっています。つまり、ここでは、より多くのコストをかけて育てなければいけない生は、資源を無駄遣いする劣った生であると捉えられているのです〉

 コストの問題ではなく、障害をもって生まれれば、その子が苦労するから産まないのだ──そう反論する人もいるだろう。だが、それでも野崎氏は〈しかしそれは、あまりに一面的な考え方ではないでしょうか〉という。

〈百歩譲って、障害をもつ人がこの社会で生きようとすれば苦労が絶えず、かわいそうなこと──私はそう思いません──だとしても、そうした見方は、今の社会はけっして変わりはしないという前提に立っています。そこまで障害者に苦労を強いて、かわいそうな存在にしてしまうこの社会とは、いったい何なのでしょうか。(中略)そこを問わないまま、妊婦やカップルによる「自発的」な選択の是非を論じても、問題の本質は何も変わりません。障害があるというだけで、障害者が犠牲の構造に巻きこまれていることこそが問われなければならないのであって、それこそが出生前診断に関する真の問題なのです〉

 選別される生などない。障害をもつことが"生きづらい"、その社会のあり方そのものが問題なのだ。しかし、一方で社会は、このような意見に耳を貸さない。〈現安倍政権は、異質な人間を排除し、同質な人間をのみ成員とする社会を作ろうとしているように思えてなりません〉と野崎氏も言うように、排他的な〈閉じた社会〉化はよりいっそう進んでいる。

〈この社会において私たちは、「生そのもの」を一般化・抽象化していく圧倒的な権力に巻きこまれています。しかも、その状況は、「どうせこの社会は、すぐには変わらない」「そんなことをしても仕方ない」と口にしてしまいたくなるほど、深刻なところまできています。福島第一原発が起きても原発がなくならないのは「仕方ない」、ヘイトスピーチがあるのは「仕方がない」、この社会の役に立たない人間に社会保障なんて必要ないし、死んでいったとしても「仕方がない」......。こうした風潮が、「生そのもの」を一般化・抽象化し、私たちに「犠牲」を強いたり、自ら率先して「犠牲」を受け入れるよう仕向けたりするのです〉

 いまの日本の社会では、〈社会のあり方に疑問があっても何も言わないのが美徳〉とされ、〈異論が出ても黙殺されてしまい、社会の「同質性」はそのようにして保たれ〉ていく。言っても無駄、言わないほうが得......そう思い込ませる社会は、無論〈権力の作用〉によってつくられている。これを突破するのに必要なのは、このお手盛りの構造に抗うことなのだ。

「障害をもった子どもの責任は親にある」という主張や、「障害をもった子は産まれなくていい」という論調がまかり通る、現在の社会。それがいかに思考停止の状態か、ぜひ本書を読んで多くの人が考えてみてほしい。
(田岡 尼)
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