ヨーロッパ・中近東・アフリカ

―イギリス
ロンドン
―イタリア
ローマ/フィレンツェ/ミラノ
―オーストリア
ウィーン
―スイス
チューリッヒ
―スペイン
マドリッド/バルセロナ
―ドイツ
フランクフルト
デュッセルドルフ
ミュンヘン
―トルコ
イスタンブール
―フランス
パリ
―オランダ
アムステルダム
―ロシア
モスクワ
―ドバイ
ドバイ
―エジプト
カイロ

アジア

―インド
デリー
―インドネシア
バリ島
ジャカルタ
―韓国
ソウル
―カンボジア
カンボジア
―シンガポール
シンガポール
―タイ
バンコク/パタヤ/
チェンマイ/シラチャー
プーケット島
―台湾
台北
―中国
上海
北京
香港
マカオ
ハイナン
大連
成都
青島
―モンゴル
ウランバートル
―ベトナム
ホーチミン/ハノイ
―マレーシア
クアラルンプール/
ペナン島/ランカウイ島
コタキナバル
―モルディブ
モルディブ
―フィリピン
セブ
マニラ
―ラオス
ビエンチャン/
ルアンパバーン
―バングラデシュ
ダッカ
―日本
札幌
東京
名古屋
大阪
九州
福岡
熊本
鹿児島
ハウステンボス・長崎
沖縄
―スリランカ
コロンボ

太平洋

―グアム
グアム
―サイパン
サイパン
―ハワイ
ホノルル
コナ/マウイ

オセアニア

―オーストラリア
ケアンズ
シドニー
ブリスベン
ゴールドコースト
パース
メルボルン
―ニュージーランド
オークランド
―フィジー
フィジー
 
2007年12月19日 02時12分36秒

日本とトルコ

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トルコはなぜ親日なのでしょうかはてなマーク


星トルコ人の親日感情の理由にはいくつかの説があります星


ひらめき電球日本近海で遭難にあったトルコの人々を日本人が救助したというエルトゥールル号遭難事件

ひらめき電球トルコにとっても対立関係であったロシアに日露戦争で日本が勝利したことなどの歴史的なもの

ひらめき電球日本が経済大国として近代化に成功したことと、それを作り上げた日本人の勤勉さに対しての感心さからもきていると言われている



多くの方がご存知だとは思いますが、改めて紹介したいと思います

    

                      星大きな映像はこちら から星


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1人でも多くの人に知って欲しい事実です・・・

この事実を知ってからトルコに行くと、より一層良い旅が出来るのではないかと思います流れ星天使流れ星                      

                                        Mika

2006年10月04日 00時00分40秒

ワードカップ日本・トルコ戦 その5

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ワードカップ日本・トルコ戦


『2002年ワールドカップ』は日本と韓国の各地のスタジアムで熱戦につぐ熱戦をくりひろげていた。一次リーグを突破した日本は6月18日、決勝トーナメントの緒戦で強豪のトルコと対戦。宮城県営スタジアムを埋めつくした観衆の熱気と興奮は頂点に達した。前半12分だった。トルコのユミト・ラバラのシュートが、日本のGKの手をかいくぐってネットを揺らした。


スタンドの観衆もテレビの中継に釘づけの人たちと、日本の同点や逆転を期したが、トルコの守備は固い。
この息づまる熱戦を、公民館の中に特設されたテレビの大型画面の前に集まって見守っている人たちがいた。その人たちの手には、日本とトルコの国旗の小旗が握りしめられていた。そして声援は、「どっちも勝て!」だった。和歌山県串本町の人たち。なぜなら、串本町こそ日本とトルコの友好発祥の地で、いまも交流を続けているからだ。
宮城県営スタジアムの熱戦は、トルコが前半で挙げた1点を守りきって準々決勝に進出。準決勝で韓国を下して3位決定戦の勝者となったことは、まだ記憶に新しいところだ。 

  

2006年10月03日 23時56分10秒

テヘランに孤立した日本人を救出したトルコ航空 その3

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テヘランに孤立した日本人を救出したトルコ航空


日本とトルコの友好のきっかけをつくったエルトゥールル号の遭難事故は、いまや歴史の彼方、日本では小中学校で教えられることもなく、「地方史のエピソードのひとつ」とった扱いしかされていないようだ。しかし、トルコでは社会科に当たる授業でこどもたちに教えられてきていた。それを実証するできごとがあった。場所はイランの首都テヘラン。時は1985年(昭和60年)。イランへ侵攻したイラク軍との, いわゆる“イ・イ戦争”のさなかのこと。イラクの大統領サダム・フセインは、5年前から始まったこの戦争の長期化にしびれをきらし、「3月20日午後2時(日本時間)」をタイムリミットとして、この期限以降にテヘラン上空を飛ぶ航空機は、“軍用機であろうと民間航空機であろうと、いかなる国の機体であろうと、すべて撃墜する」と布告した。
テヘラン在住の日本人は、技術関係者や商社関係の家族など約1000名。事前に国外脱出をしていた人たちもいただが、およそ300名が期限を目前に空港ロビーにかけ込んできた。
ドイツやイタリア人は自国の航空会社の臨時便で次つぎに退去していくが、日本人は埒外。どこの航空機も自国民優先なのだ。日本の外務省は日本航空に緊急の救援機派遣を求めたが、「帰路の安全が保証されていない」ことを理由に、派遣を見合わせるといってきた。空港にとり残された日本人は、最終的に200人あまり。刻々と迫るタイムリミット。テヘランの日本大使館の野村豊大使は、この事態を何とか打開しなければと、日頃から親交のあったトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えた。
「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」
大使の要請を受けたトルコ航空は、すかさず2機の航空機をテヘランのメヘラバード空港へ飛ばし、215名の日本人全員を乗せ、タイムリミットぎりぎりにトルコ領空へとって返したのだった。

エルトゥールル号の遭難は大きな悲劇だったが、民間レベルの友好と親善の始まりでもあった。技術協力、経済協力、トルコ北部大地震の被災地への支援・・・。日本とトルコの親密で、良好な関係は、一朝一夕で築かれたものではない。日本からの旅行者が年々ふえていることもうれしい。一度訪ねると、二度、三度と行きたくなる。筆者はまだ三度しかトルコを旅していないが、数年前に訪ねたアナトリア地方の農家のおじさんは、筆者の肩をたたいて言った。
「わしらとあんたがた日本人とは兄弟なんだ。たぶん、1万年も前からね。だから何ごとも分かり合えて、うまくいくのさ」
その時にすすめられたチャイの、何とうまかったことか。こんどは北部の村や町を訪ねてみたい。


http://www.turkey2003.jp/index.html  より

2006年10月03日 23時48分53秒

快男児 山田寅次郎 その3

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快男児 山田寅次郎


オスマン帝国は「エ号」の生存者の救助や遺体の収容に献身的な力をつくしてくれた大島村の人たちに対し、3000円(現在の6000万円相当)を贈った。感謝の大きさがあらわれた金額である。沖村長はこれを村民に分配することなく銀行に預け入れ、その利息を村全体のためになることに使った。
一方、日本国内でも新聞社の呼びかけで義捐金が集められて犠牲者の遺族に送られたりしたが、個人でも募金を始めた青年がいた。山田寅次郎である。旧沼田藩の家老の子として1866年(慶応2年)に江戸で生まれた山田は、小学校をおえると英語、ドイツ語、フランス語などを学び、16歳で茶道「宗偏流」の家元、山田家の嫡子になった。文才にも恵まれていた山田は、当時一流のジャーナリストたちと親交を結び、新聞に才筆をふるっていた。「エ号」の遭難事故の発生は、彼が24歳のとき。熱血漢の山田は、
「近い将来に日本と修好条約を結ぶべく、アジア大陸の西端よりはるばる、1年もかけて来日してよしみを結びながら、不運にも熊野灘の暴風雨にのまれし心情を思えば、胸張り裂ける思いなり。同じアジアの民として、犠牲者たりし人々の心情、いかばかりなりや」
とのキャンペーン活動を展開。全国各地で演説会を開いて、1年でほぼ5000円(現在の約1億円)の寄付金を集めると、外務大臣青木周蔵のもとを訪ね、「これをトルコに送り、遭難者遺族への慰霊金にしてほしい」と依頼した。
山田も偉いが、青木も偉い。
「これは君個人が集めた天下の浄財。君自身が届けに行き、国交樹立の日のため、国情をよく見聞してほしい。たまたま、わが国がフランスに発注した軍艦を引き取りに、海軍の仕官たちがヨーロッパへ発つ。便乗して行くといい」
青木のすすめで、山田は単身イスタンブールへ旅立ち、会見したアブドゥル・ハミド二世にまず、山田家伝来の鎧兜と太刀を献上した。オスマン帝国の高官は山田に、思いがけない要望をした。
「これからのわが国を背負って発つ青年士官たちに、日本語と日本の精神や文化について教えて頂きたい。このお願いをする日本人は、あなたで二人目です」
「喜んでお引き受けしましょう。して、一人目の日本人というのは、どなたです?」
答えは、「エ号」の生存者69名を送還する「比叡」に乗船して訪トを果たした時事新報社の特派記者、野田正太郎だった。野田こそ、トルコに定住した最初の日本人に他ならない。野田は病いを得て帰国して行ったが、山田は優秀な陸軍士官と海軍士官に日本語と“日本学”というべき精神論を講じた。その士官のひとりが、1923年(大正12年)に「トルコ共和国」を誕生させた近代トルコの父、ケマル・アタチュルクだった。後年、山田と再会したアタチュルクはそれを明言。山田当人を大いに当惑させたと言う。
山田は士官学校の教師を辞した後もイスタンブールに留まり、ガラタ橋の近くに日本の工芸品を商う店を構え、“日ト貿易”の出発店を築いた。これらを発展させたのが、「大阪日土貿易協会」である。日本とトルコの通商の基礎づくりを固めるかたわら、山田は日トの共通の敵であるロシアの動きをさぐって本国へひそかに伝える諜報活動を展開。あのバルチック艦隊がボスポラス海峡を抜けて日本へ向かうであろうことと、いち早く日本に伝えていた。
日本の近代史の中で、山田ほど波乱万丈の歴史を生きた男は少ないのだが、なぜか小説でも映画でも描かれていない。山田はトルコに12年間在住し、トルコを第二の故郷にした男。民間レベルで日トの友好と親善のいしづえになったが、1914年(大正3年)に第1次世界大戦が始まると、トルコはドイツ側につき、日本はフランスとロシア側についたため、日トは準交戦国になってしまい、山田は帰国。紙巻タバコの洋紙を製造する製紙会社を経営する実業家への道を歩みだした。
第1次世界大戦の終結から6年。すなわち1924年(大正13年)5月、日本はトルコ共和国と正式に国交を結び、翌年にはイスタンブールに正式に日本大使館が、東京にはトルコ大使館が開設されている。東京のトルコ大使館の開設に当たっては、それまで“民間日ト大使ともいえる役割を果たしてきた山田が、何くれとなく助言し、援助を惜しまなかった。
山田は東京にトルコ大使館が開設されたこの年の秋、「大阪日土貿易協会」を立ち上げて理事長の職につくと、両国の貿易事業のp実行にとりかかった。その一方、「エ号」遭難の地の樫野の墓地に慰霊碑を建てるべく、募金集めに奔走した。こうして建立されたのが、昭和天皇が1929年(昭和4年)の行幸のおりにおまいりうぃされた慰霊碑である。
山田は1957年(昭和32年)まで生き、91歳の天寿を全う。日トの架け橋になった、かけがいのない民間人として記憶に留めておきたい人物である


http://www.turkey2003.jp/index.html   より

2006年10月03日 23時31分40秒

大島村民と十九名の生存者 その2

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大島村民と十九名の生存者

現在は串本町に編入されているが、大島は当時「大島村」といい、三つの集落から成っていた。東部の樫野、中部の須江、西部で串本と向かい合う大島とである。樫野の区長は夜を徹して遭難者の収容と手当てに当たったが、夜があけると大島地区へ急行。村役場へかけ込んで村長の沖 周(おき しゅう)に「一大海難事故」の発生を報告した。沖村長は冷静にして迅速に指示した。郡役所や県庁への連絡、医師や巡査の招集、各戸から1名の人手をだすようにといった手配をすると、舟で遭難現場の樫野へ急いだ。
樫野の大竜寺と小さな学校と灯台に収容されたエルトゥールル号の生存者が69名にのぼった。もとより寒村だったが、大島村の人たちは生存者に食べてもらおうと、ニワトリや卵やサツマイモなどを持ち寄ってきた。自分たちのあすの食糧にもこと欠くというのにだ。また、はだか同然の生存者たちに、浴衣なども提供している。
沖村長は、「樫野では十分な手当てもできない」と、17日午後、生存者を大島地区の蓮生寺へ移し、日本の汽船に神戸の外国領事館への通告を頼んだ。神戸港に居合わせたドイツの砲艦ウォルフ号が大島港に現われたのは、9月19日。生存者は同艦にて神戸の病院に移送され、手厚い看護を受け帰還の日を待った。
帰還の日は思いのほか早く実現した。日本の海軍が「比叡」と「金剛」の2隻で送り届けることにしたからで、東京の品川湾を10月5日に出航。2隻は翌1891年(明治24年)1月2日にイスタンブール到着をはたし、国をあげての歓迎を受けた。
エルトゥールル号の犠牲者の正確な人数は定かでない。横浜出航時の乗員数が596名とも609名ともいい、確たることは不明なのだが、初期の墓碑は犠牲者を581名と記している。
生存者が帰国の途についてからも、大島では遺体や遺品の収容と捜索がつづけられ、10月7日までに239体が埋葬されている。埋葬は遭難現場を見おろす、樫野埼灯台手間の村有地。最初の墓碑は事故の翌年に大島村と県知事名で建てられたが、1929年(昭和4年)には「大阪日・土貿易協会」によって追悼碑が建立された。この年、和歌山県南部を行幸された昭和天皇が墓前に手を合わせられたことを伝え聞いた新生トルコの指導者ケマル・アタチュルクは、エルトゥールル号の墓地の大改修と、トルコ式の弔魂碑の建立をきめ、1937年(昭和12年)にこれを完成させた。そして序幕祭の式典は「エ号」遭難50周年を2年繰り上げて行われた。
弔魂碑の大理石の塔が白くまばゆいこの墓地公園には、ガムの包み紙1枚落ちていない。芝生の回りには四季、花々に彩られている。地元、樫野の人たちがいま手入れと清掃を欠かさないからだ。また、樫野小学校(現在は統合され、串本町立大島小学校)の児童たちは「エ号」遭難の翌年から学校行事のひとつとして、墓地の清掃をつづけてきている。トルコの海軍の関係者と民間人もこと地を訪れると、小学校に立ち寄って謝意をあらわしていくと言う。「エ号」の遭難から今年は112年。串本町とトルコの「草の根民間交流」は途切れることなく、「樫野」こそ日ト友好のメッカなのである。なお、串本町はトルコのヤカケント町とメルシン町と姉妹縁組を結び、親善の契りを深めている。

日本の政府は、この季節が台風シーズンであることや、エルトゥールル号が建造から30年も経ていることを懸念。出航を長期に延長し、船体の修復を万全にしてからの帰国をすすめたのだが、一行は帰国を急いだ。「本国からの通達」をその理由にしたが、横浜ではコレラが猛威をふるっており、10数名の将兵が命を落としていたからではないかと言われている。
エルトゥールル号は太平洋岸を南下して行き、紀伊半島の先端をかわして神戸港へ入るべくコースをとった。だが、熊野灘にさしかかった艦が折から北上中の台風の真っ只中へ突入していく形になってしまい、出航2日目の晩、樫野埼付近の岩場で座礁。船底からの浸水で機関が蒸気爆発をおこして船体が割れ嵐の海へ沈んで行った。


http://www.turkey2003.jp  より

2006年10月03日 22時58分02秒

エルトゥールル号の遭難事件 その1

テーマ:なぜトルコ人は親日

エルトゥールル号の遭難事件

♪ ここは串本 向かいは大島
仲を取り持つ 巡航船・・・ ♪

と、民謡『串本節』にうたわれている「紀伊大島」は、東西に8km、南北に4kmほどにお島だ。1890年(明治23年)9月16日のひどい嵐の夜のことだった。島の東端の樫野崎灯台の戸をたたく者があった。全身ずぶぬれで、衣服もずたずたの外国人の男たちが数人、助けを求めてきたのである。男たちは半死半生だった。
灯台の滝沢技師は宿直の助手を樫野区長の家へ走らせて急を知らせ、ただちに介抱に当たった。樫野崎沖は熊野灘でも名だたる海の難所。灯台の明かりをたよりに岸をよじ登って助けを求めてきたかれらが、遭難した外国船の乗務員であろうことは、一目瞭然だった。滝沢技師はかれらとの会話を試みた。さし当たって知りたいのは、どこの国の人たちかということ。だが、言葉が全く、通じない。そこで技師は、世界の国々の国旗がのっている「万国信号ブック」をひらいて、かれらの国の国旗を指してもらった。指されたのは、三日月と星がデザインされた、オスマン帝国(トルコ共和国の前身)の国旗だった。
「トルコ国といえば確か3ヶ月ほど前、親善使節団を乗せて横浜に入港し、大歓迎を受けたと。新聞に書かれていた。もしや、その船が遭難したのでは・・・」

  

滝沢技師の憶測したとおりだった。トルコと日本の交流のさきがけになったのは、後に「東京日々新聞」の社主になった福地源一郎である。1871年(明治4年)に岩倉具視の西欧視察団に加わった福地は同年、イスタンブールでオスマン帝国のスルタン、アブドゥル・ハミト二世に会見の栄を得た。1875年(明治8年)には、日ト両国間で通商条約締結への交渉が開始されている。西欧列強との不平等条約に不利益を押しつけられていた両国は、平等の条約締結をめざしたが、列強との摩擦を恐れ、機が熟すまで見送ることになった。
1887年(明治20年)に日本の小松宮彰仁親王の訪問を受けたアブドゥル・ハミト二世は、その返礼として、オスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする大使節団を日本へ送りだした。使節以下600名あまりの将兵を乗せたエルトゥールル号は2344トン。全長46メートル。600馬力の機関を持つ木造の機帆船で、速力10ノット。オスマン帝国海軍の巡洋艦で13の砲門を備えていた。出航前から老朽化が心配されてはいたが、1889年(明治22年)7月15日にイスタンブールを出航し、日本への長途についた。故障や資金不足に悩まされながらの苦難の旅で、スエズ、アデン、ボンベイ、コロンボと寄港し,シンガポールで越年。サイゴン、香港、福州、長崎と北上して、横浜港に接岸したのは、6月7日。出航から11ヶ月弱の月日が要されていた。
明治天皇とも会見した特派使節の一行は、各地で盛大な歓迎を受けて3ヶ月の滞在を終え、遭難2日前の9月14日に横浜港を離れて帰国の途についた。


http://www.turkey2003.jp/index.html  より

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