現代法哲学雑感 第2回

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第2回 法概念論のミッション

 法とは何か

 こんな問いをして何の意味があるという横槍を入れる者もある。それが唯名論(正確には唯名論的規約主義)という。「法とは何か」の問いは結局の所各々が便利に応えているだけではないかということだ。
 
 これに対して法には本質が存在するという反論がある。反論の要旨はこうだ。人それぞれ定義があるかもしれないが、誰もが法だと思うものはあるだろう。その誰もが法だと思うものを解明するのか法概念論のミッションであると。

 ふむふむ。極端に懐疑的にならなければ、この指摘はなるほどもっともだと受け入れられる。

 ところで、法概念論とは満たすべき要件が明確に存在しているのだろうか。これがあれば法だろうという要素が5つ考えられて、そのうち3つあれば法であると考えることはできないだろうか。そうすれば、法のありかたは13通り存在することになる。当然要素も変われば、あり方の数も変化する。

 以上のようなメタ法概念論を踏まえて、ここから法概念論についての論者についての言及が始まる。
 
 法概念論を語るときに、考えるべき視点として道徳は法に内在するのかという問いがあった。この問いが重要性を帯びるのは、西洋における宗教紛争をみればよく分かる。

 この問いは裏を返せば、どういう法ならば従ってくれるのかという問いだとも考えられる。

 法を道徳とは切り離して説明することは出来るのか。H.L.A.ハートは法とは主権者の命令にあらず、承認(recognition)や変更(change)、裁定(adjucation)のルールを備えたものが法であるという。
 承認や変更、裁定のルールを備えていれば、承認前に法が指示するところの内容に異議を唱え、時流の変化に合わせて内容を変えることも出来て、仮に法が指示するところの内容に不満があれば、不服を申立てる機会があるということなのだろう。
 ざっくりいえば、どういう法か事前に分かり、それについて文句があれば言える機会があるなら、従っても良いということになるだろうか。

 ただ、何が承認のルールなのかといったときに、役人(スペシャリスト)が定めるルールであるというが、これ自体に価値判断が内在していることは否定しようがない。法と道徳を切り離そうとしても、結局の所法の説明に価値がもぐりこんでしまっている。
 では、ハートはいかなる価値判断をもっているかをみるに、それは人間(民衆)の恣意の抑制をするという法の支配であるという。

 どういう中身となるかが事前に分かること、不服を申立てる機会があることを重んじるというのは、実は法律を学ぶ者からするとスンと落ちるものがある。
 罪刑法定主義や公平迅速な裁判を受ける権利といった概念を念仏のように学ぶが、罪刑法定主義は前者であろうし、公平迅速な裁判を受ける権利は後者である。
 
 しかし、ここで念仏といったようにこうした価値判断が我が国にとって納得がいくものといえるかは実は定かではないと私は思う。あまりに念仏のように唱えているので当たり前のように聞こえるが、もう一度腕を組んで考えてみるとそうでもないように思う。

 危険運転致死罪が無かった時に、自動車の過失運転で子どもが死亡した親を前に、危険運転致死罪が出来た今「あの時は法律が無かったから仕方が無いですね」といえるだろうか。もしくは「厳罰化してよかったですね!」といえるだろうか。