石原都知事が都として尖閣諸島の購入をするという旨の主張をした。

この一報を聞いたとき、「なかなかうまいことをするな」と私は思った。

我が国の尖閣諸島に接する態度は竹島や北方領土とは異なる。
竹島は韓国が、北方領土はロシアが不法占拠している。従って、前者は韓国やロシアに不法占拠である旨を抗議し、領土を奪還せんとするのが我が国の基本的なスタンスである(実際立退き等を要求するべきかは外交政策の問題として存在するが、不法占拠である以上自分の下へ取り返すべきだということそのものは変わらない)。

一方、尖閣諸島は我が国が実効支配をしている。従って、我が国にとって尖閣諸島について領土問題は存在せず、中国が尖閣諸島について自分の領土だといったところで「外野が何か言っている」という程度の話であり、相手にする必要は無い。

メディアやインターネットでの政治家の発信を見る限り、尖閣諸島の購入という話は一朝一夕で練られた話ではないことは明らかだ。尖閣諸島が私有地であることは、知っている人は前から知っていた話である。

今回の石原都知事の発表は、①尖閣諸島は日本人の私有地であるということ、②①であることを前提として中国が地権者に働きかけをしていたこと、を明らかにしたことに最大の意味がある。

尖閣諸島は我が国の行政区分(沖縄県石垣市)が敷かれ、我が国の主権が及ぶところであるから、同所が日本人の私有地であれば、他人に譲渡しない限り、やがては国庫に帰属することになる(民法959条という根拠条文もある)。

尖閣諸島が日本人の私有地である事実は、我が国が尖閣諸島を実効的支配をしていることの証となる。

そして、中国がこの地権者に譲渡の働きかけをしていたということは、現時点で我が国が実効的支配をしていることを是認しているということになる。領土の帰属という点でみたら、中国にとって不利な材料であることは間違いない。

しかもこの発表をワシントンで行った。我が国において中国に対して強い態度で接するべきではないという風潮は相当に強い。もし、国内で発表しようとしたら発言そのものを止めようとするなど速やかに妨害工作が行われたことだろう。
しかし、国外で言われてしまっては止めようがない。



ここまでは概説的な話である。本題はここからだ。

石原都知事の行動は、政治的にみて効果的なものであったといっていい。

しかし、尖閣諸島が我が国の実効的支配にあることを国際社会に示したところで、今後もそれを続けられるか保障は全くない。いくら領土を奪う目的での他国への武力行使が国連憲章上禁止されているからといって、絶対侵攻を受けることは無いということにはならない。

だからこそ、今回我が国の実効的支配を強く示した石原都知事の行動を中国の逆鱗に触れるからといって戒める意見も多い。

それを分かっていながら、石原都知事は今回の行動に及んだ。しかもその行動プランはかなり現実的なものであり、「やっぱやめます」なんていう後戻りは出来ない行動である。中国は今後石原都知事や地権者などに対して、より積極的な工作活動を行っていくだろう。
それを分かった上で何故今回の行動に出たのか。それは石原都知事は国土を守るべく本気になっているということだ。これが今回明らかになった一番大事なことだ。

国土を守るには、国家が国土を守る意思を持ち続けること、その意思を具現する実力を持ち続けることが重要である。いくら政策論を論じたところで、肝心の国土を守る意思が無ければ机上の空論で終わってしまう。意思があってこそ政策論も現実性を持つ。国土を守るという意思表明の重要性に比べれば、新党を作るといった話はあまり些末なことである。

私は、政策の妥当性云々以前に、一人の老人が本気で戦おうとする姿に心から敬意を表したいと思う。

しかし、戦いは後を継ぐものがいなければ負けてしまう。その意味では今回の意思表明に対して、我々の世代が(賛否問わず)どう呼応するのかが重要なことだ。私は、一人の若者として彼の戦う姿勢にどう応じるべきか。それが問題である。
第3回 どう法を擁護するか

 法をいかに説明し、人に従わせるか。換言すれば、公権力の行使を正当なものとして説明するために、法はいかなるものとして捉えられるべきか。

 井上先生は正義への企てとして法を捉えた。正義への企てであるかどうかを審査するためには、聴聞や不服申し立ての手続の重要性が浮かび上がる。

 Ronald Dworkinは法を実証主義のようにプロセスにのみ着目するのではなく、法を根拠づける原理に着目せよという。ここでいう原理とは個人の権利利益や集団の利益を指す。そうすると、法はいかなる権利義務を創出しているのかが主たる関心事であり、公権力の正当化根拠もここに置かれるのだろう。

 とすると、法は道徳(価値判断)とは無縁ではいられないこととなる。それ自体はなるほどもっともだと思う。ただ、法の原理の説明が納得できるかといえば、個人的には怪しいと思っている。ここの議論もやはり正義論に関わりがあるのだろうと一人納得。

 ただし、ここでいう権利義務という概念が普遍主義的であることは間違いないだろう。俗っぽくいえば、「どう考えても俺が正しいのや」と言い張るような概念と言えるだろうか。なんだか正義を安売りしてしまったようで若干の心残りが。

 法を原理との関係性において考えるということになれば、法としての要件を満たしているかを説明するに原理への言及が必要となる。私の理解では原理によって正当化可能な法をRonald Dworkinは「law as Intergity」と呼んでいるということだ。

 既にある法を正統な法(=従うべき法)ということを証明するためには、その法が権利義務に関して合理的である(※)ことを示さなければならない。

 そこで授業中扱われた設例は取得時効の制度をいかにして説明するかというものであった。

 端的にいえばこう説明できる。所有権は特権であり、noblesse obligeと同様、社会的義務を負う権利である。自らが所有権を取得するということは、他のいかなる者も法的根拠なくしてその所有権を取得できないということであり、いわば自分以外の全ての人に対して損失(経済学的にいえば機会費用)を押し付けているといえる。
 この損失に見合う所有権の行使をしていない者に所有権を取得する資格は無い。

 もっともここでは上の説明では不足だ。何故占有者が所有権を取得するのかという問いがある。これは今度考えてみることにしよう。
 
第2回 法概念論のミッション

 法とは何か

 こんな問いをして何の意味があるという横槍を入れる者もある。それが唯名論(正確には唯名論的規約主義)という。「法とは何か」の問いは結局の所各々が便利に応えているだけではないかということだ。
 
 これに対して法には本質が存在するという反論がある。反論の要旨はこうだ。人それぞれ定義があるかもしれないが、誰もが法だと思うものはあるだろう。その誰もが法だと思うものを解明するのか法概念論のミッションであると。

 ふむふむ。極端に懐疑的にならなければ、この指摘はなるほどもっともだと受け入れられる。

 ところで、法概念論とは満たすべき要件が明確に存在しているのだろうか。これがあれば法だろうという要素が5つ考えられて、そのうち3つあれば法であると考えることはできないだろうか。そうすれば、法のありかたは13通り存在することになる。当然要素も変われば、あり方の数も変化する。

 以上のようなメタ法概念論を踏まえて、ここから法概念論についての論者についての言及が始まる。
 
 法概念論を語るときに、考えるべき視点として道徳は法に内在するのかという問いがあった。この問いが重要性を帯びるのは、西洋における宗教紛争をみればよく分かる。

 この問いは裏を返せば、どういう法ならば従ってくれるのかという問いだとも考えられる。

 法を道徳とは切り離して説明することは出来るのか。H.L.A.ハートは法とは主権者の命令にあらず、承認(recognition)や変更(change)、裁定(adjucation)のルールを備えたものが法であるという。
 承認や変更、裁定のルールを備えていれば、承認前に法が指示するところの内容に異議を唱え、時流の変化に合わせて内容を変えることも出来て、仮に法が指示するところの内容に不満があれば、不服を申立てる機会があるということなのだろう。
 ざっくりいえば、どういう法か事前に分かり、それについて文句があれば言える機会があるなら、従っても良いということになるだろうか。

 ただ、何が承認のルールなのかといったときに、役人(スペシャリスト)が定めるルールであるというが、これ自体に価値判断が内在していることは否定しようがない。法と道徳を切り離そうとしても、結局の所法の説明に価値がもぐりこんでしまっている。
 では、ハートはいかなる価値判断をもっているかをみるに、それは人間(民衆)の恣意の抑制をするという法の支配であるという。

 どういう中身となるかが事前に分かること、不服を申立てる機会があることを重んじるというのは、実は法律を学ぶ者からするとスンと落ちるものがある。
 罪刑法定主義や公平迅速な裁判を受ける権利といった概念を念仏のように学ぶが、罪刑法定主義は前者であろうし、公平迅速な裁判を受ける権利は後者である。
 
 しかし、ここで念仏といったようにこうした価値判断が我が国にとって納得がいくものといえるかは実は定かではないと私は思う。あまりに念仏のように唱えているので当たり前のように聞こえるが、もう一度腕を組んで考えてみるとそうでもないように思う。

 危険運転致死罪が無かった時に、自動車の過失運転で子どもが死亡した親を前に、危険運転致死罪が出来た今「あの時は法律が無かったから仕方が無いですね」といえるだろうか。もしくは「厳罰化してよかったですね!」といえるだろうか。
 
現代法哲学 受講雑感

 「現代法哲学」なる科目を受講している。何故、受講したのかと聞かれれば、「成り行きです」としか言いようがない。ロースクールの授業は出席も取るから参加せざるを得ない。
 参加する以上は頭を働かせなければもったいない。そこで、頭を働かせた証としてここに各回の授業内容とそれについての雑感を記していきたいと思う。

第1回 法哲学とは何か
 私は哲学の授業とはどういう風に行うのかを知らない。風聞に耳を傾ける限り、「哲学をする」と「哲学の授業を受けること」は違うらしい。前者は例えば、「正しさとは何か」というテーマについてひたすら考えることを意味し、後者は「正しさとは何か」について考えてきた哲学者の話を聞くことを意味している。後者はつまり哲学者史である。

 さぁ、現代法哲学はどちらなのだろうか。

 さて、法哲学とはそもそも二つの分野があるという。一つは「法とは何か」を考えること。もう一つは「法とはどうあるべきか」を考えることであるという。前者は法概念論であり、後者は正義論だという。ここまでふーんとしか言いようが無い。

 「法とは何か」という問いにおいて重要なことは、「悪法も法か」についていかなる応えをするかということらしい。
 そもそも悪法って何だという疑問は正義論で扱うこととし、とりあえず問いの枠組みを知ることが法概念論のスタートであった。

 法概念論という世界において、自然法論を不正な法は法ではないと応え、法実証主義は不正な法も法でありうると応え、井上先生は正義へ企てを行っていない法は法ではないと応えるそうだ。この問いをよりリアルに感じる問いとして、強盗の要求と法とは何が違うのかという問いが紹介された。これを考えることはまさしく「哲学をする」ということだろう。

 そうは言われても、自然法論や法実証主義が何かを理解していない。応え方として上記の3つはありうるとは理解できるが、それ以上の理解を持つためには学習が足りない。とりわけ自然法論とその由来は知っていないと問題意識そのものをもてないのではないかと思ってしまう。

 ただ、何故論争になっているのかについては授業を手がかりにすると、以下のことが言えないだろうか。

 西欧は政教分離なぞありえないと言うほど、政教は密接に絡んでいた。法もまた多分に宗教的な存在であった。とすれば、宗教(ローマ教会)をめぐる論争はそのまま法の論争になるといえるだろう。
 その中で法への懐疑も生まれうる。例えば、宗教論争に負けた者を考えてみる。宗教論争に負けたのであるから、自分が「正しい」と考える考え方とは異なる考え方に服することになる。
 負けた人間が潔く服すればいいが、そうでない場合、もしくは論争に参加する人が増え、互いが互いを殲滅する程度に論争が激化した場合はそうはいかないだろう。 
 こうなると論争の火を消すことは難しい。だが、論争の火を消さなくても何とかならないだろうかと考える。

 そうして法を宗教と分離しようという考えが出てくる。法を宗教と分離するといったとき、宗教そのものを脱色する(例えば自由や権利といった形)のか、脱色した者も含め宗教的なものそれ自体から切り離すのか(例えば民主主義)、二つのものが考えられる。自然法論も法実証主義も井上理論もここから考えられないだろうか。

 スタートの回なので、出発点を考えてみた。 
 その際に着目すべき点として、①道徳は法に内在するのか、外在するのか、②法は記されることで慣習(convention)となるのか、記述以前に基準(norm)が存在するのかといった点があるようである。
エッセイも兼て。気になるニュースが二つ。

 一つは地震の報道だ。昨日、インドネシア・バンダアチェから南西434キロの地点、23キロの深さにある地点を震源とする地震があった。2004年のスマトラ島沖地震の誘発地震だという見方がされているらしい。

 我が国が遭遇した東日本大震災において、インドネシアから毛布・缶詰の援助やLNGの追加融通(詳細は外務省のサイトにあります)を受けた。こうした支援への恩返しとして、政府が今回の震災の被害状況を早急に把握し、政府が率先して迅速かつ適確な支援を行っていくことが、国際社会に生きる国としての務めであろう。

 そして、こうした務めは災害救助のときと同様、我が国の力試しの場でもあることを忘れてはならない。情報把握、分析、国境を越えた国家的活動、どれも国の力が試されるものばかりだ。

 なお、時を同じくしてメキシコ西海岸においても地震があったことを付け加えておく。

 
 もう一つは、韓国の議会(一院制)総選挙の結果についてだ。大方の予想を覆し、与党(セヌリ党)が議席の過半数を守った。
 他力本願なことを書くのは申し訳ないし、いつハンナラ党からセヌリ党へ改名したのかも知らないのだが、ホッとしたというのが正直な気持ちだ。
 年末の韓国大統領選挙の結果次第でもあるが、与党勢力が来年以降も政権を握るのか、野党勢力が政権を奪い返すのかは、朝鮮半島情勢に大きな影響を与える。李明博政権になってからの北朝鮮に対する制裁は、確実に北朝鮮に影響を与えている。今年はその制裁が続いていくのかどうかの分かれ目の年なのだ。

 もちろん、私たちにとっては、我が国が拉致問題や想定される有事を前に、北朝鮮に対していかなる態度を示していくかが重要である。ただ、時流を読み解くのもまた重要なことだ。