大地震に際して(続き)

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2日目

朝目覚めると、周りの人たちのひそひそ話が聞こえてきた。「これからどうする?」「もう携帯のバッテリーが死んじゃったんで、連絡の付けようがないよ~」「じっちゃんが迎えに来てくれるって」多くは若い人たちの声だった。

とにかく一人なので、皆の動きを偵察していたら、ホテルの人が新聞の号外を配っていた。「枚数がないので、皆でお読みください。」そんな声を聞くと、我先にって新聞をもらえない性格なので、遠慮しながら一応手を伸ばしてみたが、やはり新聞を手にすることはできなかった。でも、隣に座っていた(というか、寝ていた)山形から出張に来たという女性たちが読み終えた新聞を渡してくれた。でっかいカバンをみて、どこからかと聞いてくれた。「アメリカから・・・」って言うと、なんだか驚きながらも新聞と昨晩もらって食べなかったパンを1個くれた。なんかすごく嬉しくて・・・

新聞を読んで驚いた。

今日朝一番にその場所に行き、大阪に向かう事になっていた仙台空港が津波で埋まっていた。昨日行っていた場所からさほど遠くない街全てが、やはり津波で壊滅的状況。

1995年1月17日を思い出した。

あの日は、二男の誕生を心待ちにした嫁さんと長男で神戸の家を離れ嫁さんの実家にいた。ごーって感じの音と縦揺れで、地震の恐怖を知り、その揺れの長さに長男は泣いていた。
その揺れが直接の原因であったかどうかは確かではないが、嫁の動揺がその日の出産につながったのは事実である。神戸の震災の日、それは二男の誕生日でもある。
翌々日、神戸の家が気になり、今思えば無謀にも阪神甲子園から須磨区白川台の自宅まで8時間半かけて一人で歩いて帰った。灘区を過ぎた辺りから、つぶれた家屋だけはなく、多くの泣き声と共にたくさんの亡骸を目にした。長田を過ぎる頃は、すさまじい匂いとの戦いだった。涙が自然と出て止まらなかった。こんなことは2度とないだろうと思っていたのに、まさか又自分がその現場にいるとは・・・。
$僕の周りで起こっている事

朝7時半頃には地下の電気が完全に切れると言う事で、外に出されることになった。1階に戻ると、近くの避難場所の地図を渡された。ホテルの備品であるマットカバーを持っていたのをホテルの人は見逃してくれる。それどころか、大きな紙袋をくれて、「これにいれて行かれては」と笑ってくれた。次回もメトロポリタン仙台に泊まろうとその時思った。

さ~て、どうしようかと考えたけど、月曜日のアポもあるしと仕事の事が気になり、仙台に残ってこの余震を体験するよりは、申し訳ないけど南に下ろうと決心した。その時、義兄が仙台近くに住んでいる事を思い出し、無事が気になった。パソコンの電源が残っていたのでその電源を使いiPhoneをチャージして実家に電話してみた。通常使う携帯のバッテリーがない為、掛けれる電話は、記憶している実家や自宅のみ。何度かトライしてやっと掛ったのは実家。人一倍心配しているお袋は冷静に義兄の携帯を教えてくれた。新幹線で一駅南。仙台から50Km程離れた蔵王白石に単身赴任にしている兄貴を頼る事にした。義兄に後で聞いたのだが、彼の携帯もまったく通じず、掛ける事も受けることもできなかったのに、僕からの電話のみ着信履歴も残らず、何故か電話を取ったと。何だかすごく驚く事だが、神がかり的に義兄と話す事が出来た。彼の務める会社でも大きなダメージがあって、会社に出勤している様子だった。

「いざ南へ」と言っても、地上に出て分かったが、新幹線も在来線もバスも何もかも止まっている。方法はタクシーのみ。仙台駅のいつもは100台以上待機しているタクシー乗り場に行ってみた。たくさんの人がシーツやマットを抱えて寒さをしのぐように待っていた。小型、中型、大型と待ち合わせる場所は3か所。一番ラインの少ない大型の乗り場に並んでみた。10分ほどで前に、後ろにいた人たちが場所を移動し何故か前から3番目の位置に付けた僕は、「これはラッキーかも」と思いながら、財布に円キャッシュがある事を確認し、タクシーが来る事を願って待つことにした。

しばらくして、中型なのに間違ってか大型の乗り場に舞い込んだタクシーに3人の男性が乗り込んだ。聞こえてくる交渉は、「東京まで行ってくれる」というもの。タクシーの運転手さんも目をくりくりさせながら、難しいと思うけど、行けるところまで行ってみましょう。という感じ。これは遠距離でもチャンスはあると思い、そこからひたすら待つことになった。気づいたら、僕の後ろに待つ人はドイツ語で話す60歳前後の夫婦であった。一生懸命、「ここはどこなんだ」と地図を見ながら不安そうに過ごしている。思わず声をかけてみた。「どこに行くの?」と。彼らは「全く分からないけど、福島で核爆発の可能性があると聞いたので、一刻も早くこの地を出たい。Yamagataというところには新幹線があると聞く。そこまで行きたいのだが」英語もあまり上手じゃない旅行者にとってこの体験はあまりにもかわいそう過ぎる。又、彼らの周りには彼らが言っている事を分かる人間も見渡したところ僕しかいないようで、現状の報告と僕のプランを話した。

「一緒できないですか?」という彼らのOfferを断る理由も勇気も僕にはなく、では一緒にタクシーを待って新幹線の南の駅近くに移動しようという事で合意した。しかしそこからが長かった。タクシーを待ち始めたのは朝の7時半。僕たちの順番が大型タクシー乗り場の1番になっても、一向にタクシーは来ない。こんなことってあるのかと思うほど、車の姿はない。ラインを作って待つ人たちの表情もだんだん暗くなっていく。風も冷たく、僕ですら寒いと感じるそれは、それは長い時間だった。約5時間が経過した12時半頃、ドイツ人の夫婦の女性が「私がどこかでタクシーを探して連れてくる。」と言いだした。3人の荷物の量は、一緒に歩いて探し行くには大きすぎるし、ましてやあと1台来れば乗る事が出来ると言う位置だけに、その場を放棄してどこかに出かけるのはリスクが高すぎた。

女性は勇気を持って駅から少し離れたところに立って手を挙げ続けた。それから1時間半が過ぎ、ドイツ人のご主人と僕はすっかり諦めていたが、タクシー乗り場にドイツ人女性の大きな声での呼びかけが聞こえた。

「タクシーを捕まえたけど、どこに行くかも分からないからドライバーに説明して」

荷物を置いたままタクシーに走り寄って、行きたいところを説明した。そしてそのドライバーは我々の行き先を受け入れてくれた。

このドライバーの話によると、以前はJTB虎ノ門支店で働いていた旅行代理店勤務経験のある人で、外国人が可哀そうに思えて声をかけたとの事。偶然にも英語の少し分かる運転手さんだった事が幸いした。6時間以上立ち続けた足はタクシーに乗り込むと、今までの緊張を解きほぐす様に一気に筋肉痛となって現れた。ラジオで情報を得ながら、又運転手さんの娘と連絡がついていないという話を聞きながら、感謝一杯で、南へと向かった。

1時間程走ったところで、兄の勤める会社の看板を偶然見つけた。行きすぎたタクシーにUターンしてもらい、不安いっぱいで工場の守衛さんに兄の名を告げた。守衛さんは優しく、兄の居場所を教えてくれ、そこまで連れていってくれた。たまたま門で一緒になった方は、僕が兄に話しかける前に、「うちの息子がここで働いていると思うのだが、連絡がつかなくて不安である」と焦った口調で問いかけていた。

義兄の会社も大きなダメージを負ったようだが、本人はいたって元気な様子。ドイツ人が一緒している事を説明し、義兄の車とタクシー2台に分かれ、先ずはドイツ人の宿泊先を確保しに兄が目処をつけてくれた。

ホテルに着くと、電気も水道も出ないホテルだが、ツインで4,000円という格安料金でドイツ人を迎えてくれた。何だか自分のミッションを終えたようで、安堵の気持ちを持って久しぶりの義兄との出会いを嬉しく感じた。事情を再度ドイツ人に説明すると、「明日の南へ行く場合は絶対一緒させてくれ」というものだった。断る理由もないので、自身は義兄のアパートに向かい、翌日8時過ぎにホテルに来る事を約束した。

義兄は単身赴任で生活をしており、いわゆる1ルームマンション。電気も水もない家だったが、本当に兄の温かさにとても安堵の気持ちを覚えた。僕がアパートに入ると、兄はまた会社に戻ったが、夜6時過ぎには会社の売店からもらって来たというお菓子やご飯に3切れの豚肉を付けて持ちかえってくれた。すごく久しぶりの僕にとって豪勢なDinnerだった。

ビールも飲み、色々な報告を終え、二人とも疲れからか夜の9時には眠りについた。夜中は何度となく余震が続き、たびたび目は覚めたものの、地下街で寝る事を思えば、快適な一晩だった。
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