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2012-01-20 16:36:35

神戸の大震災を思い出して <1月19日編>

テーマ:地震
1995年1月19日の朝も寒かった。

次男も元気にしている様子。大阪から甲子園までの電車が動いたという情報を得て、地震から48時間経っても全く自宅の状況が見えない中、とにかく自宅に戻ろうという気持ちを抑えることが出来なくなった。TVでは、まだ燃え続ける街並みの様子が映し出されていた。もう48時間も経っているのに・・・。

電車を乗り継ぎ、阪神甲子園球場の目の前にある甲子園駅までたどり着いたのは、まだ朝9時前だったと記憶している。駅に降りて最初に感じたのは、大きな荷物を担ぐ人が多いこと。又、本来ならスーツ姿の多い時間帯なのに、皆が着の身着のままで足早に、そして顔に緊張感の漂う人が走りすぎていた。

とにかく自宅の方向に向うしかない。真っ先に目に飛び込んだのは、ブロック塀が崩れた国道沿いの家や、マンホールのふたがはるか遠くに飛ばされたために見られる大きな穴、そして割れた窓ガラスの破片。

今まで車でしか走ったことのない国道43号線を西に進むと、いよいよ崩壊した家屋や隆起した道路が生々しい姿を見せ始めた。歩く速度での目線は、その光景をじっくり目に焼き付けていく。すさまじい光景が、進めば進むほどより非現実的な光景に変わっていく。尚西に進むと、1階部分が完全になくなった家屋に泣きながら呼びかけている女性の姿をみた。

何度も書くが、もう地震から48時間以上も過ぎているのに。

潰れた家屋の横にはビニールに包まれたご遺体も並んでいた。

2時間半も歩かないで、東灘エリアに来た。当時ハンブルグに駐在していた上司のご自宅前に着いた。ご両親が住まれていた実家は、海外赴任をされる前に何度もお邪魔したお宅である。外から見る分には全く亀裂も入っていなければ、傾いていることもなくご両親はその場にいらっしゃらなかったが、携帯電話でお宅の前からハンブルグに電話して、ご自宅が無事であったことを伝えることが出来た。海外にいて、神戸のことが気になっていた上司やご家族には、吉報であったと思われる。

「すまんな、ありがとう」という言葉をもらったが、ご両親の居所が分からず心配は変わっていなかった。

もうひとつ伝えなければならなかったことは、密接する両隣の2階建ての家は、完全に崩壊して、見るも無残な状況になっていること。後でわかった事だが、ご近所さんの中には多くの亡くなった方がいらっしゃった。ほとんどが圧死だったようである。

気を取り直し、又西へ進んだ。

三宮駅に到着する前に見た光景は、フロアが潰された神戸新聞のビルや完全に崩れ落ちているよく行った飲食の雑居ビルなどなど、焼け落ちた家屋などもあり、まさに爆弾が落とされたような写真で見る戦後の映像と同じであった。

TVのニュースで見た高速道路から落ちそうになっているバスもそのままだった。

三宮では自転車の鍵を壊す警官の姿があり、聞くと、「移動を急ぐ人は乗り捨てられた自転車を使っていいよ」という緊急措置をとっていた。その行為は、警察の判断なのか、その警察官の判断なのかは分からないが、既に17Kmの道のりを5時間以上歩いてきた僕にとっては、与えられた自転車は本当に嬉しかった。「後で戻しておいてな!」と声を掛けてくれた警察官の方に礼を言って、寒空を一生懸命漕いだものである。

この頃に、近所に住む友人に連絡がようやくつき、彼とその家族の無事を確認。その喜びが自宅への坂の続く道のりを進む勇気を与えてくれた。

長田区に近づくと、消防車や救急車の数が増え、異様なにおいと煙に包まれていった。オレンジ色の火が見えることもある。街中が焼き尽くされていく。自転車を漕ぐ自分の顔に当たる風は、熱を帯びていた。自然と涙が出て、不安と焦りが心を埋め尽くしていった。

甲子園を出て8時間が過ぎた頃、ようやく須磨区の自宅近くにたどり着いた。自宅マンションがはっきりと見える位置に来たとき、自分の家が存在することに喜びを覚え、又同じタイミングで携帯で連絡を取った友人が別の友人と2人で打ちの様子を見に来てくれていた。甲子園から30Kmの道のりでった。

今まで見た光景に登場した人には申し訳ないと思ったが、自宅と友人の無事を確認した我々は抱き合うように喜んだ。目には又涙が・・・・

マンションの玄関を開けようと鍵を差込みカチャっという音と共にその鍵は開いた。中の様子を早く見たい気持ちと、怖い気持ちの両方が手を震えさせた。そして、ノブを握って思いっきり開けようとしたが、10センチも開かずに何かに引っかかった。

$僕の周りで起こっている事

マンションそのものが大きく揺れたため、中のバーロックが倒れ勝手に鍵がかかってしまっていた。どれだけ揺れが凄まじかったかが想像できた。そのため家の中に入るには時間がかかった。


家の中は、思った通りのありさまで、一番印象に残ったのは、リビングの端にあった大型のブラウン管テレビが台所を越えて玄関近くまで飛ばされていたこと。

もし2日前に、ここで妊婦の家内がいたなら、いったいどうなっていただろうか。この場所で破水していたらどうなっていただろうか。色々な事を考えると、前年に亡くなった祖父や叔父が自分たちに運をくれたように思えた。又その日に産まれてくれた子供にも大阪の実家へ逃げることを事前に告げてくれたように思い、感謝した。

亡くなられた方々には本当に御冥福を祈るばかりであるが、1月17日の次男の誕生日を迎えるたびに、この3日間を思い出す。今元気に家族皆で過ごさせてもらっていることに、改めて感謝したい。



明日の通勤も自転車で行こう。




追記:それから15年後の東北の地震に、又自分が仙台にいあわせるなど、この時には考える事も出来ない。
2012-01-19 15:44:03

神戸の大震災を思い出して <1月18日編>

テーマ:地震
今日は、Californiaでは考えがたいほど寒い1日だった。こちらに移ったのが1996年7月で、それ以来16回目の冬であるが、今まで経験したことのない格別な寒さを感じる。何せ、家の前に停めてある車が凍り付いているのだから。

さすがに、今日は会社に運ぶ大きな荷物があったことを口実に自転車の通勤を回避し、ガラスを「解凍」してからエンジンをかけた。

17年前の1月18日の朝、二人の子供の親となった初日の朝、やたら早くに目が覚めた。前日の震災と子供の誕生という話は、本当に現実だったのかを、起き立ての頭で考えていた。


夢であって欲しいという部分と、早く病院に行って子供の顔を見たいという二つの心があったことを今でも記憶している。

一方でテレビをつけると、どの局も神戸の街の様子を映し出していた。

灘区の辺りで阪神高速が完全に崩壊してしまっている様子
僕の周りで起こっている事

長田区が街中白い煙で覆われて、火柱もまだ見えている。僕の周りで起こっている事

崩壊した高速道路から今にも落ちそうになっている大型バスの姿僕の周りで起こっている事

自分の住んでいる町とは信じがたい光景が飛び込んでくる。そもそも4日前にはあの高速道路を通って大阪に来たので、TVで見るその映像は別の国で起こっている事件のように思えて仕方がなかった。

余震が続く中、神戸に戻りたいと思ったが、前日の渋滞を考えると、とても戻れない。大阪の病院にいるとはいえ、少し不安に思える家内と次男の顔を見ることが優先と思い、病院に向った。

武双山というお相撲さんにそっくりな顔をしている次男を見て震災の様子を忘れる。だが、ふとわれに返った時には、連絡のつかない友人たちの事が気になった。(因みに息子は、3歳くらいから10歳くらいまでは千代大海に似ていたなぁ~)
僕の周りで起こっている事-武双山

そして、自分の住んでいるマンションはどうなっているのだろうか。近所の人たちは無事なんだろうか。神戸市須磨区白川台の5階建ての小さなマンションの状況を知ることは、あの時代まだ難しかった。

Twitterもない、FaceBookもない、そもそもインターネットも携帯もほとんどない時代。
たった17年前だが、この17年の発展は凄まじいものであったことを、今更ながら感じている。

たまにかかってくる電話は、東京や富山に住む親戚からが多く、大阪にいる自分たち以上に神戸の様子を理解していなかった。「おめでとう」という言葉と、「心配やね」「気の毒な・・・・」という言葉を一度に受ける環境にはなかなかな慣れることが難しかった。

落ち着かないまま、1日が過ぎ、明日こそは何としても自宅に戻ろうと決意した。TVで見る映像が実際に眼前に現れるまでは、震災そのものを信じたくなかったものである。

そして、又17年後の今日と同じような寒い夜がやってきた。

明日に続く.....


2012-01-18 15:45:15

神戸の大震災を思い出して <1月17日編>

テーマ:地震
しかし、長いことBlogを書いていなかったもんである。FaceBookに頼り切って、このサイトを見るのも今年初めてかな。


最近健康のために自転車通勤を心がけているが、カリフォルニアにしては、やたらと寒い朝、自転車を漕ぎながら、1995年1月19日、神戸の町を自転車で走っていた日の事を思い出した。あれは地震の翌々日のことだった。


アメリカでは、今日が1月17日。

次男坊の17歳の誕生日。当時神戸に住んでいた僕たちにとって忘れることのできない日になった。


1994年の春過ぎに親戚の中でもっとも慕っていた叔父と祖父が相次いで亡くなった。生まれて親戚が亡くなるという経験を、父方の祖父母以外にしたことがなかった自分にとっては、「死」と言うことを深く考えさせられたものである。その後、家内が僕と結婚するまで同居していた祖母がなくなり、その直後に義父までもが他界した。1994年は親族を4人も亡くすという、本当に人生を考える年になった。

明けて、喪中の1995年。今年は良い年になると信じていた。

1月末に二人目の子供の出産予定をしていた家内の実家に帰そうと、1月14日からの3連休を利用し、長男を連れて神戸から車で大阪に向った。義母は、義父のいない生活にまだ慣れずとも、新しい孫の誕生を「生まれ変わり」の気持ちを抱いて楽しみにしていた。

3連休も終わり、成人式の振り替え休日であった1月16日の晩には、翌日の出勤のことのみを考えて、まさか一生で忘れられない日になるとは思ってもみなかった。

そして、

朝早く皆が寝静まる中で、ど~んという音とと共に揺れは始まった。


今までの体感の中では一番長い揺れ


たんすが倒れそうになっている。長男と身重の家内を守ることだけが本能的にとった自分の行動だった。

揺れが治まりどこで何が起こったかを知ろうとラジオをつけた。自分の住んでいるマンションの様子をいち早く知りたいと思い、ラジオ関西の周波数を選んで、流れてくるアナウンサーの緊張感漂う声の一言一言に聞き入った。

驚いた.....

ラジオ関西は、自宅のあった神戸市須磨区にある放送局。アナウンサーの声は震えながら、「今、離宮道に出てみましたが、あちらこちらで家の崩壊があり、燃え始めている家屋も見られます」と実況していた。朝、6時半にもなっていない時間であった。

大阪の実家では、蛍光灯が落ちて壊れたり、水屋の中の食器が落ちて割れるという被害はあったものの、とにかく神戸の自宅のことが心配で、早く出勤し、その足で神戸の自宅を見に行こうと思い、まだ朝早い時間に車で大阪市内の会社に向った。出掛けに、家内が、「ちょっとお腹の様子がおかしいけど、まぁ予定日も先の話やし大丈夫やろう。気をつけて自宅を見てきてな」と送り出してくれた。

その後、車を走らせ大阪市内の会社に来て、ほとんどのパーティションが崩れており、僕が会社に着くまでに拾い上げられていたが、卓上のPCはほぼ全部Deskから落ちていたようだ。

色々な問題はあるものの、会社の無事を確認した後、上司に断りを入れ、神戸の自宅に向おうと再度車に乗り込んだ。しかし、会社の駐車場から出て国道に入った瞬間に「道が途切れて走ることは出来ない」というラジオからの情報を受け、こんな日に車で神戸に向うことが無謀であることを悟った。大阪の自分の実家にも電話が通じない状況だったので、神戸とは反対方向で車の流れもあった実家に戻った。

到着したのは、昼を過ぎていた。「船が大時化で揺れているようだった」と母は割れた食器や粉々の額縁の掃除していた。

その頃であろうか、家内から一本の電話が入った。まだ携帯電話の普及する前であったが、僕はいち早く大きなモトローラの携帯を持ち合わせていたので、家内と話すことが出来た。

「破水した」「病院行かな。早く来て」

通常は1時間もかからない実家と家内の実家を、渋滞に巻き込まれ5時間以上かかって戻った。その途中、家内から、義姉から、義母から何度も電話がかかり、情報を伝えてくれる。

最後の電話は、まさに病院の手前の交差点を曲がったところ。


「もう産まれるでぇ~~~~」義母の声は叫びに近かった。


病院の駐車スペースが見当たらず、怒られるの覚悟で、救急用の駐車場にハザードを灯し分娩室に駆け込んだ。

その直後、看護婦さんの「先生、産まれます~~~~」という叫びと共に、新しい命は「次男」という肩書きを持って元気良く泣き声をあげた。

その日を振り返って、朝からの自分の行動を反省したり、前年に亡くなった親族への感謝をしたり、そして、何よりも神戸で被災されている多くの人やまだ状況の分からない自宅のことを心配したりしながら、次男の健やかな表情を見て、地震当日の長い1日が過ぎていった。

この日連絡が取れたのは、一部の親戚のみで、神戸の友人にも全く連絡がつかない状況。不安と次男を胸に翌日どんな行動をとるべきかを考えながらベッドに入った。あまり眠れなかった。

翌日に続く.......









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