甘い泥

テーマ:

ユダヤ人の共同体、キブツを舞台にした作品。


1970年代のイスラエル、主人公のドビルは母とともに平等と共同生活を理想とした共同体、キブツで生活する13歳の少年。ドビルの母、ミリは、数年前に父親を亡くした際、不安定な状態になり精神病院に入院したことがありましたが、その時にスイス人のボーイフレンド、ステファンと知り合います。キブツでは、投票が行われステファンの滞在を許可、ステファンがキブツにやってきます。ところが、ステファンは、飼い犬を巡るトラブルからドビルに手を出した隣人からドビルを守るため、怪我をさせてしまい、キブツから追われます。ステファンがキブツを追われた背景に隣人の企みがあったことに気付いたミリは激怒し、隣人を襲うのですが、そのために、病院に入れられてしまいます。やがて、退院したものの症状はどんどん悪化していきます。母を何とか助けようと、フランス語ができる同級生の協力を得て、ステファンから母への手紙を偽造して母を慰め、ステファンにも母の名で手紙を出します。ステファンからは、航空券が二枚送られます。これで、ドビルとミリは、キブツを抜け出すことができる...ハズでしたが...。


同じ価値観や思想を共有し合えるもの同士が自分たちの理想を実現できる集団を共同で生活する。そうすれば、一般の社会との軋轢をあまり感じず、自分の信じた道を追求し、その中で満足して生活することができるはず...。


けれど、その集団の縛りがキツイほど、時として、その集団に完全にどうかできない人間を生み出していくものです。理想に純粋に殉じようとすればするほど、窮屈になり、排他的になる。そして、そこから落ちこぼれていく人間を作っていく。


規則で決められていても、その規則を破った時の罰則がどんなに厳しくても、規則を破る人は後を絶ちません。刑罰を重くしても、必ずしも犯罪が減らないように、人はルールを破らずにはいられない生き物なのです。


規則を破る人間を全く出さないようにするには...、規則を全廃するしかないのでしょうね...。


本作で描かれているキブツも、今では、随分、緩やかなものになっていて、それなりに、一般の社会の価値観にあわせる部分もできてきているようです。やはり、理想を純粋な形のままで持ち続けることは難しいのでしょう。


けれど、本作の主人公とその母は、1970年代のキブツの中で、傷つけられ、壊されていきます。

時に、宗教は子どもが子どもらしくいることを認めようとしません。構成員が限られ、一般の社会から離れている集団を維持するためには、それなりの数の働き手が必要。そんな余裕のない集団においては、子どもの存在は重荷なのでしょう。そして、子どもの親が心置きなく集団に貢献できるようにするためには、親たちを子育てから開放する必要があるということなのでしょう。宗教団体、特に、新興の狂信的な団体では、子どもが親から切り離され、集団で養育されるのははよくあること。


ミリは、キブツに追い詰められ、精神を破壊されていきます。けれど、キブツを離れられない。"キブツを抜け出すための条件が整わない"というより、それを望んでいなかったように見えます。これほどまでにキブツに痛めつけられながら、何故、そこを出ようとしなかったのか。けれど、同時に、息子がキブツから抜け出し、外の世界で生きていくことを望みます。


ミリが、自分自身はキブツから出ようとしなかったのは、他の社会を知らなさすぎたからなのか、キブツに植えつけられた価値観や思想から完全に開放されることができなかったからなのか、


人々が集まって一つの共同体を作り上げることの難しさ、理想を美しい形のままで抱き続けることの難しさを考えさせられます。


そこには、確かな理想があったはずなのに、時に、深く人を傷つけてしまう。もしかしたら、あまりに強い理想があったからこそ、それについていけない人を酷く切り捨ててしまったのかも知れません。


理想郷における現実と矛盾。


そんな切なさ、哀しさをイスラエルの美しい自然が包み込みます。美しい舞台で繰り広げられる悲劇が胸に痛いです。

AD

ナヴァラサ

テーマ:

男が女になり、古代叙事詩を再現するクーヴァガムの祭は、実在する南インドの女装フェスティバル。


13歳の少女、シュエータは、思春期の多感な時期を迎えています。ある日、叔父のガウタムが女装しているところを目撃し、ショックを受けます。問い詰めるシュエータに、ガウタムは、自分が性同一障害であることを告白。まもなく、クーヴァガム村で開かれるヒジュラ(身体は男性でありながら、心は女性な人々)の祭りで女として生きることを誓うつもりであることも打ち明けます。ちょうど、両親が家を空けたチャンスに、クーヴァカムへ向う叔父を追います。村への道は、祭りに参加するヒジュラたちで一杯。そのうえ、ボビーと名乗るヒジュラは、道案内して欲しいとシュエータを追い回し...。


男が女になり、古代叙事詩を再現するクーヴァガムの祭は、実際に南インドで行われているお祭り。


子どもから大人の女になろうとしている(というよりは、周囲に大人になるよう圧力をかけられている?)少女の「大人の女」として遇されることに対する困惑する姿と、戸惑いながらも、叔父を通して性同一障害の問題への理解を深めていく姿が重ねていく手法は上手かったと思います。


そして、本作のクライマックスであるサード・ジェンダーの人たちが集まる一大フェスティバルであるクーヴァガムの祭り。その映像は、迫力がありますが、全体の構成や展開は、あまり工夫がなく、映画作品として面白いものになっているかというとそうではないでしょう。けれど、社会的な問題を取り上げながらも、派手な色彩に溢れ、賑やかな音楽に彩られた娯楽性たっぷり作りになっていて、インド映画ならではの雰囲気が出ています。そして、私にとっては、未知の世界であるサード・ジェンダーの人々の世界を垣間見せてくれる映像には興味を惹かれました。


それにしても、インドという国は奥が深い。ガウタムたち、性同一障害の人たちへの社会的な偏見は根強くある様子ですが、他方では、彼らが主人公になれる祭りがあり、盛大に開催されているのです。インドという国の懐の深さを実感させられた作品でもあります。


ラストで見せるシュエータの成長した姿、そして、その大人になったシュエータの後押しを受けて一歩前進するガウタムの姿は、清々しく好感が持てました。



ナヴァラサ@映画生活



http://www.eigaseikatu.com/tb/tb?movie_id=17679

AD

マザー・テレサ

テーマ:

マザー・テレサの半生を描いた作品です。


1946年、インドのカルカッタ。カトリック修道院内の女子校の教師だったマザー・テレサは、イスラム教徒とヒンズー教徒の抗争で負傷したインド人を助けたことで、修道院長と対立してしまいます。このことがきっかけとなり、「修道院の中ではなく、街へ出て、貧しい人々のために働くことこそが自分のすべきこと」と考えるようになり、一人で街へ出て、人々に救いの手を差し伸べるようになります。マザーは、自分の信念に従った活動を行えるように、「神の愛の宣教者会」を設立し、ローマ法王庁からも認可を受けます。マザーの「最も貧しい人々に仕える」ための様々な活動は、誤解や反発を受けたり、スキャンダルにも巻き込まれるなどのトラブルにも遭いますが、徐々に、力強い協力者も得ていき...。


何か一つのものを貫いた人生の何と潔く強いことか。


マザーの信念は実にシンプル。なすべきことは「最も貧しい人に仕えること」。そして、それは神が自分にさせていることで、自分のしていることが神の意思に叶うことであれば、そのために必要な資金なども神により用意されるのだから、資金集めなどのために思い煩う必要はない。


そんなマザーのやり方は、周囲から見れば危ういもの。支援する対象となる人も支援する側の人も数が増えてくれば、それを維持するために資金や人を上手く動かすための組織を何とかしようと思うのは、ある意味、当然のこと。けれど、マザーにしてみれば、そのための手間や費用は本来の目的とは異なる余計な仕事なのでしょう。


あらゆることを削ぎ落として、信じることを成し遂げようとする姿には、決して、威圧的なとこるがあるわけではなく、あくまで、静かで穏やか。けれど、あくまで真っ直ぐに信じる道を突き進もうとする強い意志を宿した瞳は澄み切っていて、その純粋さは、周囲もたじろいでしまうほど。


だからといって、狂信的で全く融通が利かないといった感じでもなく、聡明でユーモアもあり、親しみやすい一面も見せています。


マザーの行動は、時として誤解も生み、スキャンダルに巻き込まれもします。しかし、そうした雑音に捉われることなく、信念の元に前進し続けたマザーに、周囲は、徐々に理解を深めていきます。一つのことを貫き、それを周囲に認めてもらうために必要なこと、それは、まず、自分自身が強く信じること、そして、信じることを達成するために真っ直ぐに進み続けること。


36歳から87歳のマザーを演じきったオリビア・ハッセーが見事。


マザー・テレサの成し遂げてきたことを描くには、116分という時間は短すぎたのでしょう。やはり、全体に浅い感じ、端折った感じは否めません。もう少し、時間をかけても良いから、もっと、ポイントになる部分は丁寧に描いてほしかった気はします。


マザー・テレサという人物についての入門編テキストとしては、それなりに上手くまとまっていて分かりやすかったと思うのですが...。


ただ、できるなら、もっとエピソードを絞り込んでも、マザー・テレサといく稀有な存在と出会える感動を味わえる作品を観たかったような気もします。



ジェネオン エンタテインメント
マザー・テレサ デラックス版

マザー・テレサ@映画生活

AD

チョコレート

テーマ:
日活
チョコレート


最近、ケーブルTVに加入し、TVで映画を丸ごと観られるようになりました。


2005年に「キャット・ウーマン」でゴールデンラズベリー、最低主演女優賞を受賞の際のスピーチで、その素晴らしい人間性を示したハル・ベリーが主演し、2001年に黒人として初めてアカデミー主演女優賞を受賞した作品としても有名です。


夫を電気椅子で処刑された黒人女性、レティシアとその処刑に関わった白人の看守、ハンクの運命的な出会いとその後の繋がりを描いています。


二人の間を結んでいたものは何だったのか?互いに相手に愛情を感じて、他の誰でもなくその相手を必要として結びついたというより、互いの孤独や喪失感、やるせなさが二人を結び付けたという感じがします。ラブストーリーというより、現代社会に生きる人の孤独や絶望を描いた社会派ドラマという印象を受けました。


夫を失い、たった一人の子どもである息子を失い、収入を得る道も失い、家賃を払えず家も追われたレティシア。黒人差別がまだまだ強く残る南部での生活は、そんなレティシアにとって厳しいものでした。


ハンクは、父親から黒人蔑視の思想を受け継ぎますが、ハンクの息子であるソニーは、黒人に対して偏見なく接しています。けれど、ハンク、祖父(ハンクの父)と同じ職業に就いているソニーは、死刑執行の際、動揺からミスを犯します。そんなソニーの不甲斐なさを責めるハンクと祖父。この三世代の考え方、生き方に世代間の違い、生まれ育った時代の違いが表現されています。「男らしさ」を大切にし、有色人種や女性を自分より下に置いて生きてきた世代とそういった偏見に捉われない世代。どちらにも、属しきれないハンクには、差別することに疑問を持たなかった父親世代にも偏見を持たないことを当たり前に感じていた息子世代にもない、迷いや悩みが見られます。


その行き場のない二人が出会った時、そこには、純粋な男女の恋愛とはまた違った心の繋がりが生まれます。傷を舐め合うような、純粋な愛情とはいえないけれど、それだけに切実な関係が、切なく、哀しく心に沁みます。人は、人と触れ合うことによってしか本当には癒されないものなのかもしれません。それが、本来なら忌避していた、あるいは、受け容れられない相手であったとしても、やはり、誰かと繋がることでしか生きる力を得られない。人間の弱さ、哀しさといったものが抉られるように描かれます。


レティシアは、最後、ハンクが夫の処刑に関わった人間であることを知ります。そして、家の外で並んでチョコレートアイスを食べる二人。その二人の頭上には、星が一つ光っています。強い光を放つ一等星ではなく、赤く弱く光る星。


レティシアが、その後、ハンクといることを選ぶのかどうかは、観る者の判断に任されます。レティシアはどうするのか?ハンクとともに生きていくという見方も、これが最後の晩餐という見方もできると思います。


私は...

レティシアは全てを知りながら、ハンクは何も知らないまま二人で生活していくのではないかと受け取りました。相手に言えないドロドロしたものを抱えながら、それでも離れられない。甘さと苦さを併せ持つチョコレートアイスクリームには、そんな意味合いもあるような気がします。ハンクの差し出したスプーンの中のアイスクリームを口に入れたレティシア。彼女は、甘いアイスクリームを冷たさやほろ苦さとともに飲み込んで行くのではないでしょうか。


アカデミー主演女優賞を受賞したハル・ベリーはもちろんですが、ハンクを演じたビリー・ボブ・ソーントンの渋い演技が光ります。ビリー・ボブ・ソーントンの支えあってこそのハル・ベリーの主演女優賞受賞だったかもしれません。


派手さはありませんが、ジワジワと心に沁みる佳作です。



チョコレート@映画生活