沈黙

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先日、映画、「沈黙-サイレンス-」を観ました。本作はかなり前に読んでいるのですが、今回、映画を観て、改めて原作である本作を読み返してみました。
 
実在のイタリア出身宣教師、ジュゼッペ・キアラ神父をモデルに、史実を基に描かれた小説です。
 
17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされる師、フェレイラ神父に関する不名誉な噂について、その真相を確かめるため、若き宣教師、ロドリゴとガルペは志願して日本を目指します。2人は旅の途上、マカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に長崎へ辿り着き、厳しい環境の中、密かに信仰を守っていた隠れキリシタンたちに迎え入れられますが...。
 
若きロドリゴが、かつての師であるフェレイラ神父の名誉を回復させることを大きな目的として、切支丹が迫害されていた時代の日本に潜入し、神父としての務めに励みつつ、フェレイラ神父の足取りを探るというストーリーを中心に置いていますが、その中で、信仰とは何か、神は存在するのか、神は何故沈黙するのか、生きるとは何か...という重い問いかけが行われます。そして、日本は、本当の意味でキリスト教を受け入れることができるのかという問題。
 
日本人の信徒たちは「苦しい拷問を受けて死んだとしても、何の苦しみもない天国へ行ける」と信じて殉教します。けれど、天国というのはそう簡単に行けるものではないはずです。それでも、宣教師たちは、その誤りを指摘しません。本当の教義を伝えるより、彼らの信仰を弱めることを恐れたのだと言えるでしょう。そこには、信徒を獲得しキリスト教勢力の増大を図る教会側と新しい神様に救いを求めた者たちとの妥協があったのかもしれません。元々、カトリックは、世界に向けて布教していく中で、各地の土着信仰の考え方に合わせてマイナーチェンジすることはよくあることで、それで、勢力を拡大させてきたのですから、それ自体は特別なことではないのでしょうけれど。
 
フェレイラにしても、ロドリゴにしても、"転ぶ"ことでしか信徒を救えない状況に追い込まれ、"転ぶ"ことを選択します。それは彼らの"弱さ"だったのか、それとも、殉教者として高く評価され、ヒーローになる道を手放せる"勇気"だったのか。神の教えを信じ、自分たちに従う者たちを救うという真の聖職者としての行為が、教会を裏切る行為となることの皮肉。
 
様々な重い問いが投げかけられていますが、それは、カトリックを信仰する家に生まれ、子どもの頃に洗礼を受けながら、日本人である自分とキリスト教の相容れなさに悩んでいた遠藤周作自身の問いとも重なるのだと思います。
 
映画では、神の沈黙への問いかけはあっても、神の存在そのものを疑問視するような部分は薄められています。やはり、キリスト教の影響を強く受けてきた西欧社会には受け入れられにくい部分だったのでしょう。本作では、神の存在への疑問がより鮮明に表現されているように思われます。
 
宗教について、生きるということについて、日本という国の在り方について、答えの出ない様々な問いかけを盛り込みながら、若きロドリゴの苦悩の物語としても楽しめる作品に仕上がっています。
 
映画を観たことをきっかけに読み返してみましたが、改めて、傑作だと思いました。時々、読み返してみたい作品です。
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日本近現代史を専門とする東京大学大学院人文社会系研究科、加藤陽子教授が栄光学園高等学校の生徒を相手に行った講義を基にまとめられた本。

 

近代日本の戦争の歴史について語られていますが、有数の進学校の生徒、しかも歴史研究部に所属する歴史についての高度の知識を持つ生徒を相手にしているだけあって、結構、高度な内容が語られています。少なくとも、基本的な日本と世界の近現代史の知識は持っておかないと置いてきぼりを食うかもしれません。年度末が近付き、学校の授業でも十分な時間が無くなって飛ばされがちな近現代史ですから、学校でも勉強していないし、興味も持っておらずあまり知識を持っていないという人は、ある程度予習をしてから読んだ方がいいかもしれません。

 

戦争を巡る庶民の熱狂が描かれ、戦争というものに人々がどう向き合ったのか、そこに何を求めていたのかが論じられています。

 

戦争の原因を探る場合、太平洋戦争に関連したことが語られることが多いですし、本作でももちろん言及されていますが、そこに日本を導いた満州事変と日中戦争、それ以前の第一次世界大戦、その前の日露戦争、日清戦争からの日本について述べられています。

 

戦争の原因を追究する時、ともすれば、"戦争をすると決めて、普通の国民を戦争に巻き込んだのは政府首脳や官僚たち"という論調に偏りがちです。確かに、戦争の被害を一番受け、戦争による利益を一番受けにくい一般国民が積極的に戦争を起こそうとするとはイメージしにくい部分もありますが、けれど、戦争を肯定する論調が一般の人々の中に広がりつつある現在の状況を考えても、戦争の責任を国家の上層部だけに押し付けて済ませられる問題ではないことは理解できます。

 

どのように戦争への道を歩んだのか、その原因に近付く一つの視点を提示している本として、一度は読んでおいた方が良いと思います。

 

私たちは、歴史を一つの視点から眺めがちですが、今の時代を見ても分かる通り、同じ時代を眺めても、ちょっと視点を変えるだけで、全く違った印象を受けることでしょう。一つの出来事、一つの状況を、色々な視点から見てみることの大切さを知ることができるという点でも貴重な一冊だと思います。

 

多少の予習の手間をかけなければならないとしても、読んでおく価値のある一冊です。

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絶歌

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話題の一冊です。かつて酒鬼薔薇聖斗と名乗った"元少年A"の手記です。

基本的に、読みたい本は買って読んでいます。返す期限など気にせず自分のペースで読みたいという気持ちもありますし、気に入れば繰り返し読みたくなったりもします。本作についても、とても興味がありました。けれど、本作の場合、著者に印税が入ることを考えるととても買う気持ちにはなれず、立ち読みしました。本屋さんごめんなさい、ですが...。

それにしても、売れているようです。本屋に行ったのは土曜日だったのですが、立ち読みしている間にも、平積みされている本作を手に取ってレジに向かう人が続々。平積みされているところには「おひとり5冊まで」なんていう注意書きまで出されてたりして...。転売目的で何冊も買う人がいるってことでしょうか。結局、読みたいう気持ちを抑えることができなかった私があれこれ言える立場でないことは百も承知なのですが、その辺り、引っ掛かりました。

読んだ感想を一言でいえば、人はそう簡単に変わらないものだと言うこと。当時、世間を騒がせた酒鬼薔薇聖斗の署名があった犯行声明文を髣髴とさせるような文章が並びます。当時、あの犯行声明文の内容を知った時に受けた印象が蘇ってくるような気がしました。結局、その時のまま、彼は年齢を重ねてきたと言うことなのでしょうか。1997年の事件から18年。彼にとって、この18年は何だったのか...。

やたらと飾り立てた表現。難し気な言葉で空虚に飾られた薄い心情描写。自己陶酔の臭いが鼻に衝く空虚な物語。多分、彼の「本作を書かないではいられなかった」という気持ちは本当だったのだと思いますし、本作で語られているのは、彼にしてみれば彼の中にある真実で、心の底からの反省なのかもしれません。そして、本作を世に出すことが、どれ程、被害を受けた側を傷つけるかということには思い至らなかったのかもしれませんし、本作が彼の反省のなさの証と受け取られる可能性があるということも予測できなかったのかもしれません。そして、そのことこそが、彼の異常性なのかもしれません。

あとがきに、2004年に社会復帰したとの記述がありました。事件から僅かに7年です。あまりに短期間の社会復帰だったことに驚きました。たったの7年だったとは...。そして、"更生"の後に社会に出てから11年。名前も変え、新しい戸籍と経歴を手に入れているとのことですが、その中身は、相変わらず酒鬼薔薇聖斗。まぁ、人間というのは、そんなものなのかもしれませんが...。

私は、基本的に、感情的な意味で加害者を許すかどうかということについて決定権を持つのは被害者やそのごく身近にいる人であって、第三者ではないと考えています。なので、直接の被害を受けていない私たちが、勝手に被害者の代弁者のような顔をして許すの許さないの言うことは控えたほうが良いと思っています。さらに、加害者が再び社会に出てきている以上、あまり追い詰めるべきではないとも思います。出所した人間を社会が認めず追い詰めれば、やがて、その者が"窮鼠猫を噛んで"、社会に刃を向け新たな被害者を生み出すことになる可能性は低くありません。社会で普通に生活する人々を守るためには、処罰を受け終わった者がそれなりに生きられる道を作らざるを得ないのだと思います。

ということで、私に、この出版について、"元少年A"を許すとか許さないと言う権利があるとは思いませんし、この出版が被害者に与える影響について云々するつもりもありません。けれど、犯行声明文の頃と変わっていない自分語りには辟易しました。

そして、少年犯罪史上に残ると思われるような大きな罪を犯したにも関わらず、"元少年A"は、自己中で身勝手ではあるけれど、基本的には平凡な人間であること。そこには、特別な存在になろうと必死に足掻きながらも平凡であることから抜け出せない哀しさが溢れています。"ビッグ"になりたくて、世間に注目されたい未熟なオコチャマの姿が炙り出されています。さして珍しくもないような彼が、どうして、これ程までに大きな罪を犯したのか...。

本作の著者の場合、話題性の高かった事件の犯人と言うこともあり、最高のスタッフが集められ、最高レベルの矯正教育が施されたはず。その結果がこれ...。少なくとも、当時、彼の教育に当たったスタッフ、関係者、そして、矯正教育に関わる人たちにとっては、読んでおくべき文章だと思いました。事件当時の彼と何がどう変わったのか、変わらなかったのか、そして、彼の18年間に矯正教育がどう影響したのか...。この先、"矯正教育"というものをどう考えればよいのか...。

もし、本作が、こうした彼の自己陶酔の自分語りに終始したファンタジーではなく、第三者の視点も入れて彼の18年間を振り返りながら、この先同じような犯罪を起こさないために何ができるのか、大きな罪を犯してしまったものと社会はどう向き合えばよいのか、自分や自分たちの身内が、こうした犯罪の被害者、加害者にならないために何ができるのか...といった視点で語られていたら、もっと多くの人が出版の意義を感じられるものとなっていたのかもしれませんし、矯正教育の成果を社会が信じることができるようになったのかもしれません。

そして、彼が本当に反省していて、出版社がこの文章を世に出すことに意義があると考えたのだとしたら、出版社のサイトから誰でも自由に無料で読める形にして発表するというような方法もあったのではないかと...。そうではなく、著者に印税が入るような形で出版されているのですから、"元少年A"が経済的にも精神的にも自己救済することが目的だったのだと解釈せざるを得ないような...。まぁ、反省が本物なら、出版するにしても、遺族に事前の許可を取るくらいのことはするのでしょうけれど...。

矯正教育関係者の皆様、是非、本作をよく読み込んで、今後の犯罪者の更生に生かしていただきたいです。刑務所を出る人たちの再犯率を低くすることは、私たちが安心して住める社会を作るためにも大切なことなのですから。


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あん

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([と]1-2)あん (ポプラ文庫)/ドリアン助川
¥648
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先日、観た映画"あん"の原作となったドリアン助川の小説です。映画を観て、原作に興味が湧き、読んでみました。

線路沿いから一本路地を抜けたところにある小さなどら焼き店。千太郎が鉄板に向かう店先に、バイトの求人をみてやってきたのは70歳を過ぎた手の不自由な女性、吉井徳江でした。徳江の作る粒あんの旨さに驚いた千太郎は、彼女を雇い、店は繁盛し始めますが...。

小説としては、決して長い感じがするものではありませんが、何もせずそのまま映画にするには長すぎる作品だと思います。その割には、かなり原作に忠実に作られ、それでいて、一つの作品としてまとまった作品になっていたのだと思いました。もちろん、いくつかの変更は加えられています。最初の段階に千太郎が徳江の指のことを気にする様子がなかったこととか、千太郎が世間に出られずにいた理由とか、あまり必然性の感じられない変更点があったことには引っかかりましたが、それでも、原作の雰囲気を巧く表現していたと思います。本作を読んでいても、映像が頭の中に浮かんできました。

映画がどうこうということとは別に、読み応えのある小説でした。

徳江はもちろんですが、千太郎も、ワカナも、辛さを抱えながら生きています。千太郎を追い込んでいく店のオーナーも、ワカナをないがしろにする母親も、幸せではないのでしょう、それぞれに満たされない想いを引き摺っていることが伝わってきます。(まぁ、そのことが、彼らの言動の言い訳になるとも思えませんが...。)

バランス良く塩を加えることであんの甘さが引き立てられ、その味わいに深みが加えられるように、苦悩の歩みはその人生をより豊かなものにすることがあるのだと思います。そのことを他人に不当な苦痛を与えた側の言い訳にしてはならないワケですが、厳しさを乗り越えることでこそ得られる輝きというものは確かに存在するのだと思います。徳江はそれを獲得しましたし、千太郎もその途上にあるのでしょうし、ワカナも2人に続く道を歩んでいくのでしょう。

千太郎は、徳江の指に違和感を覚えました。そこで、その違和感に拘れば、指の変形の原因にも行きあたったことでしょう。けれど、千太郎は、彼の中にあった法外に安い賃金で美味しいあんを作ってくれる徳江との出会いを自身のチャンスと捉えた"身勝手さ"故に、偏見に捉われることなく徳江に働く場を提供します。徳江の願いを叶えようとか、徳江に社会参加の場を提供しようとか、そんな"思い遣り"も、徳江への同情も微塵もなかったのです。けれど、だからこそ、千太郎の評価は徳江の自信となったのかもしれません。千太郎の徳江への評価には、決して、"可哀想な"徳江への労りや慰めの気持ちは入っていませんでしたから。

徳江がそれなりの満足感を得て人生を終えていったのであろうことが想像でき、その点も、本作の温かく穏やかな雰囲気を作り上げる要素の一つのなっていると思います。

当然のことながら、本に書かれた文字を読んでいく小説ですから、映画とは違って映像はないのですが、それでも、徳江の作る粒あんの美味しさが伝わってきて、そのことも、本作を読む者に幸せを感じさせているのだと思います。

全体に先が読めるストーリー。千太郎と徳江の出会いと交流の過程にも、特段の目新しさはありませんが、気を衒わない自然な物語になっていて、それはそれで良かったと思います。素直な文章でサラッと読むことができました。この重いテーマを穏やかな物語の中で描き切るというのは簡単なことではないと思うのですが、成功していると思います。まぁ、反面、重いテーマを口当たりの良いものにし過ぎた感じもしないではありませんが...。この辺りのバランスをどう取るかというのは難しいところなのでしょう。

とはいえ、読みやすい平易な文章で、軽妙な雰囲気を醸し出しながらも、濃厚な死の臭いを漂わせ、生きる意味を問いかける作品となっていて、頭でっかちでないところは、やはり本作の最大の魅力といえるでしょう。

一度は読んでおきたい本だと思います。お勧めです。


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百日紅

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百日紅 (上) (ちくま文庫)/杉浦 日向子
¥734
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百日紅 (下) (ちくま文庫)/杉浦 日向子
¥734
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先日観た映画「百日紅~Miss HOKUSAI~」の原作となっている杉浦日向子の漫画です。映画を観て、原作を読みたくなり、読んでみました。

葛飾北斎という誰でも知っている著名な人物、その陰に隠れてしまっているけれど確かな力を持った絵師であったお栄、その2人の住まいに居候していた善次郎。その3人を中心に、江戸に生きる人々、そして、当時はまだ確かに人々の身の回りに存在していた魑魅魍魎たちの日常が描かれています。1983年から1987年にかけて『漫画サンデー』に連載されています。

江戸時代というものを感じさせてくれる作品です。もちろん、本物の江戸時代を体験してもいないし、江戸時代についてきちんとした知識を持ってもいないので、これが本物かどうかをきちんと判別できる力が私にあるわけではないのですが、本作を読んでいると江戸の空気のようなものが感じられます。

江戸の研究家ならではの細部の丁寧な描写がそうした"空気"を伝えているのかもしれません。風景を描くにしても、家屋敷、調度品などにしても、実写の映像よりも時代考証に基づいた正確な描写をしやすいということもあるのでしょうけれど、街の景色、住まいの様子、着物の着方、食べ物屋の核の違いによる料理の振る舞われ方の違い...。実にそれっぽく演出されています。

学校で歴史として学ぶものとはまた違った、教科書などには決して名前が出てこないようなその時代を生きた庶民の息吹が伝わってくるような描写が印象的です。もちろん、葛飾北斎はビッグネームで当然のように教科書に登場しますし、お栄のことも浮世絵に詳しい人ならば一般常識に含まれる名前かもしれません。けれど、中心的な役割をはたしている"歴史的人物"だけでなく、その周囲に沢山いた市井の人々の日常が感じられ、そのために、本作の世界に奥行きが生まれているのでしょう。

それにしてもかなり無茶苦茶な父と娘です。浮世絵師としてだけではなく奇人変人としても有名な葛飾北斎ですが、バツイチで家事もせず平気でゴミ屋敷の中に住んでいられるお栄もなかなかのもの。いくら人気のある絵師とはいえ、こうした生き方が認められていたのだとしたら、江戸というのは、やはり、相当に楽しい街だったということになるのでしょう。

上下2巻の漫画なので気軽に読めます。それでいていろいろと楽しく学べます。お勧めです。


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江戸の貧民

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江戸の貧民 (文春新書)/塩見 鮮一郎
¥864
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弾左衛門、車善七、乞胸、香具師...。江戸時代、士農工商の外に置かれた"身分外"の人々。彼らの足跡を追って、江戸の浅草、吉原、上野を描きます。『浅草弾左衛門』『車善七』の著書で知られる筆者が最も得意とする江戸を舞台に描いた文春新書好評既刊『貧民の帝都』『中世の貧民』に続くシリーズ第三弾。

歴史の授業ではあまり習ってこなかった江戸時代の姿を見せてくれます。簡単に"身分外"と言っても、細かく区分され、それぞれがいろいろな面で違った規制を受けていたこと、こうした制度が庶民の不平を収め、社会を安定させるための巧妙な手法として機能していたこと、単に"差別"という要素だけでなく"一定の職業を独占することにより収入を得る手段を確保できた"という一面もあったことなどが説明され、身分外に置かれ酷い差別を受けていた人々がいたという表面的な理解では思いもよらなかった面が見えてきました。

"一定の枠組みの中に押し込められる"ということは、"その枠組みの中に収まっている限りは安定して生きていける"ということでもあります。一方、"何にでもなれる。何でもできる。"という状況は、"何にもなれない。何もできない。"という可能性も秘めているということになるのでしょう。

人間の遺体や動物の死体の処理、と殺、排せつ物の処理、罪人の処刑...。いずれも、"穢れ"に通じるとして忌み嫌われた仕事ではありますが、絶対必要な仕事だし、人間の社会の中からなくならない仕事です。その仕事を"独占"すれば、生活は成り立つわけです。その道で生きていきたいと思えない人や、何らかの病気や身体的な条件によりその仕事は無理といった状況を抱える人にとっては、酷い制度ということになるのですが...。

当時の世界において、最大級の都市だったといわれる江戸。18世紀初頭には100万人を超える人口を抱えていたといわれる世界的大都市がどのように成り立っていたのか分かりやすく纏められています。

どんなに細かく制度を作っても必ず枠からはみ出る人たちが現れるもの。そこを曖昧にしてその時々の状況に合わせて巧く処理をした当時の支配層の知恵が見えてきます。何故、江戸時代が300年近くも続いたのか、その背景が見えてくるようでもあります。

まぁ、少々、身分外の存在が置かれることが社会に与えるメリットが強調され過ぎ、デメリットの部分に蓋がされてしまっている感じもありましたし、やや推測に傾いてしまっている感がする部分もありましたし、情緒に訴える方向に流れ過ぎてしまった感じもしますが、興味深く読むことができました。

浅草、上野辺りについてある程度土地勘がないと理解しにくい部分もあるかもしれません。地図(できれば、現在と江戸時代の地図の両方)を見ながら読むとより深く楽しめるかもしれません。江戸時代の教科書には描かれない一面を垣間見ることができる本です。お勧めです。


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竹と樹のマンガ文化論

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竹と樹のマンガ文化論(小学館新書)/竹宮惠子
¥価格不明
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マンガ学科がある京都精華大学。そこで教鞭を取ってきて、2014年、学長に就任した漫画家で、「ファラオの墓」「風と木の詩」「地球へ」などの作品をヒットさせた竹宮惠子と、「少女漫画を読める」を自負するフランス現代思想の専門家、2015年4月には、京都精華大学客員教授に就任予定の内田樹の対談。

竹宮惠子と言えば、やはり、「風と木の詩」。週刊誌への連載をリアルタイムで読んでいたのですが、かなりインパクトありました。電車の中では読むのは憚られ、自分の部屋でこっそり...。危うげな香りが漂う作品でしたが、ジルベールの美しさ、作品を包み込むおフランスな雰囲気がとても魅力的な作品でした。その作品が生み出された背景について、いろいろと語られています。

所謂、"BL(ボーイズラブ)"の原点とも言える「風と木の詩」。週刊少女コミックでの連載が始まったのが1976年、39年前のことです。まだまだ、少女漫画の中で性行為が描かれること自体タブー視されていた時代にあって、裸の男たちが絡み合うシーン満載の本作がいかに斬新で衝撃的だったことか!!!そのインパクトの大きさは今でも覚えています。この"問題作"を発表する場を得るためには、ヒット作を出し、描きたい作品を描く自由を手に入れる必要があり、そあのために「ファラオの墓」を描いたというエピソード。浦沢直樹が、描きたいものを描けるようになるために「YAWARA」を描いたと言っているのをどこかで聞いた記憶があるのですが、"自由を得るためにプロとしての評価を獲得する"というのは、漫画の世界だけでなく、働く者にとって心に留めておくべきこと。

漫画家と読者の関係なども、サービスの提供者と顧客の関係として幅広く通じることが語られていて、一種のビジネス書としても読める内容になっています。

竹宮惠子は、"花の24年組(昭和24年頃の生まれで1970年代の少女漫画の革新を担った女性漫画家たち)"と称される中の1人。他にも、萩尾望都、山岸涼子、池田理代子、大島弓子、木原敏江、青池保子といった錚々たる面々がそこに含まれるのですが、その24年組が誕生するきっかけとなった場所が、竹宮恵子と萩尾望都が共同生活をしていた大泉で、そこが"トキワ荘"ならぬ"大泉サロン"。その大泉サロンや24年組の漫画家たちを巡るエピソードもふんだんに盛り込まれ、1970年代中頃から1980年代前半頃の少女漫画が力を持っていた時代を知る者にとっては、強く惹かれるトリビアネタ満載です。

少女漫画の発展を担い、その後長く第一線で活躍してきた漫画家、そして、漫画を学問として後世に伝えることを職業としている竹宮惠子だからこそ語れる"漫画の歴史"はとても興味深く読むことができましたし、後半の京都精華大学漫画学科の教育の在り方が語られる場面では、竹宮惠子の大学教授、大学学長としての本気度が感じられます。漫画について学生たちに伝えていくためにどうすべきか、学生たちをどう育てていくか、いかにして漫画家として食べられるようにするか...。大学にいる時だけでなく、その先にあるものを見通した教育の在り方を真剣に模索する姿に一時代を担った大家としての矜持が感じられました。

そして、その辺りは、少女漫画大好きで、やはり長く大学で教鞭を取ってきた内田樹だからこそ、聞き出せたことなのかもしれません。内田樹の唱える説は、単なる思いつきにしか思えないことも少なくないのですが、その軽やかさと、竹宮惠子の語る内容の程よい重みのバランスが良く、マッチングの良さも光ります。

とても分かりやすい言葉と表現で話す2人の対談ということもあるのでしょう、変な負担感なくスムーズに読み進むことができました。まぁ、幅が広くなおかつどこまでも深い漫画の世界を語るには、あまりに短い対談であることは確かですが、それでも、漫画、特に少女漫画好きには楽しめる内容になっていると思います。強くお勧めしたいです。



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偶然の科学

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偶然の科学 (ハヤカワ文庫 NF 400 〈数理を愉しむ〉シリーズ)/ダンカン ワッツ
¥929
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世界は直感や常識が意味づけをした偽りの物語に満ちている。ビジネスにおいても、政治においても、エンターテインメントにおいても、専門家の予測はあてにできず、歴史を教訓として生かすこと門難しく、個人や作品の偉大さから成功を測ることもできない。けれど、社会と経済の"偶然"のメカニズムを知れば、予測可能な未来が広がる...。より賢い意思決定のために、スモールワールド理論の提唱者が最新の科学研究から世界史的事件までを例に

著者は...
アメリカの社会学者で、マイクロソフトリサーチ主任研究員。1971年オーストラリア生まれ。コーネル大学で理論応用力学の博士号を取得。オーストラリア海軍士官、コロンビア大学社会学部教授、ヤフー・リサーチ主任研究員を経て現職。サンタフェ研究所およびオクスフォード大学ナフィールド・カレッジにも籍を置いたことがある。1998年、S・ストロガッツと共にスモールワールド現象(わずか数人の知人をたどれば世界中の人間がつながるという説)をネットワーク理論の見地から解明した論文で一躍脚光を浴び、現在ネットワーク科学の世界的第一人者として知られる。

いや、なかなか面白かったです。世間で、"常識"とされることが如何に危ういものであるか、一般的に信じられていることと私たちが感じていることが、如何に脆い根拠の上に成り立っているものであるか...。

名画と名高い"モナリザ"が何故、名画とされているのか、
sonyのβマックスと松下電器のVHSのビデオ企画の覇権争いの勝敗を分けたものは何であったか...。

"勝敗"を決定づけるものは何か、私たちは、勝敗の結果が明らかになる前にそれを予測することができるのか。過去を振り返ってみれば、その結果は自明のことだったようにも考えらます。そして、過去を振り返れば、その勝敗を決める上で決定的な様々な要因を見出すことができるでしょう。けれど、それは、本当に勝負を決定づける要因だったのか...。

ただの偶然の中に法則を見出そうとするのは、何かと起こることに対して理由を求めたくなる人間のサガがある以上、仕方のないことなのかもしれません。そこに何が理由を見つけることで、安心したい...ということなのかもしれません。けれど、"信じたいこと"と"本当のこと"は、必ずしも一致するものではありません。冷静に考えれば自明のことなはずなのですが、私たちは、信じたいものを信じるために、都合の良い情報だけに目を向け、因果関係があると言い切れない相関関係のあるもの同士を関連付けてしまうことを止められません。そして、そのことに対しあまりに無自覚です。

過去を振り返ってその過去を予測できたはずのものと捉えてしまうために、私たちは未来の予測を誤ってしまう...ということなのでしょう。何故、こうなったのかという問いに対して見出されたもっともらしい答えを信じるがあまりに未来を見誤るのです。

では、私たちは歴史から学び、未来に備えることはできないのか...。本書は、その難しさを示しながらも、決して、未来への備えに対して悲観的になってはいません。まず、予測の困難性を自覚し、感情的な納得を優先させることを我慢することで、大きな誤謬を避けられる可能性はあるのです。答えがないことに対しても、答えを求めてしまうのは、その方が安心できるからなのだと思います。けれど、その安心の先にある危険に対して、私たちはもっと自覚的になるべきなのでしょう。

今まで、何となくぼんやりと感じていたことが、明確に様々な事例を引きながら示されていて、モヤモヤしていた風景がクリアに感じられるようになった気分です。ついつい陥りがちな罠に嵌らないためにも、私たちは、こうした本を、時々、読み返すべきなのでしょう。

お勧めです。


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そこのみにて光輝く

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そこのみにて光輝く (河出文庫)/佐藤 泰志
¥702
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造船所で働いていた達夫は、リストラのあらしが吹き荒れる中、退職。パチンコ屋に通う日々を過ごしていました。ある日、パチンコ屋で拓児と知り合い、彼の住む古びたバラックに連れて行かれます。そこで、拓児の姉、千夏と出会い...。

先日、本作を基にした同名映画を観ました。そして、どうしても原作が読みたくなって、近くの本屋で文庫本を購入。暫く、ツンドク状態でしたが、ようやく、読んでみました。

映画化に当たり、かなり設定などを変えた部分があることが分かりました。まぁ、この分量の原作を2時間程度の映画にするためには必要な改変だったでしょう。変えられた部分の中でも、特に大きかったのは、映画に設定されていた達夫の"トラウマ"。これが、良くも悪くも、映画を小説より分かりやすくドラマチックなものに変えたのではないでしょうか。そして、達夫や千夏を取り巻く不幸も、より分かりやすく描かれています。

そして、映画で、達夫のトラウマから解放し、元の職場に連れ戻そうとする役割の松本は、原作では、達夫の中にある資質を見抜いて山の仕事に誘う男でした。達夫の過去を知り、過去の呪縛から解放しようとする映画の松本と違い、原作の松本は、達夫に新しい未来を拓く機会を提供する立場にあります。そして、映画では、火野正平がとても分かりやすい怪しさを前面に出していましたが、原作では、一見、普通そうの男性として描かれています。その辺りも、映画では、分かりやすさとドラマ性が優先されたということになるのかもしれません。まぁ、それも、映画で描くには適切な改変だったのだと思います。

さらに言えば、千夏の印象の違い。映画では、どちらかというと、千夏が達夫を救ったような印象を受けたのですが、原作では、達夫が千夏を救った感じ。

で、小説は、第一部「そこのみにて光輝く」、それから3年後を描いた第二部「滴る陽のしずくにも」と二部立てになっています。映画では、第二部については松本に関する部分と拓児が起こす事件に関する部分以外、あまり触れられず、基本的に第一部の内容となっていました。

で、その小説ですが...

第二部で、若干、力を失い平凡になってしまった感じもしますが、第一部は、その文章に圧倒されました。久し振りに本を読んでいて打ちのめされるような衝撃を覚えました。本作を買う時、佐藤泰志の他の小説も何冊か一緒に買って、そちらを先に読んでいたのですが、本作は確かに"代表作"と言ってよいでしょう。他の作品にも、それぞれに印象的な部分があり、惹き込まれるものがありましたが、本作の力強さは、その中でも抜きん出ている感じがします。

短い文が重ねられて描写される世界には吸引力があり、作品の世界にどんどん惹きこまれ、まるで、その場に自分自身が入り込んでいくような感じがしました。全体に、それ程、ドラマチックな要素が取り入れられているわけではないのですが、達夫が、本来、出会わないはずの全く違う世界にいる拓児一家に深入りしていく過程が実にリアルで、納得させられます。

登場人物のほとんどは、基本的に不幸な人々なのですが、どこか希望が感じられるのは、誰もがひたすら生きているからなのだと思います。人生を諦めているかのような、その過酷な運命に打ちひしがれているような表情も感じられますが、それでも、置かれた状況の中で地道にそれぞれの生活を続けていく人々。大それた夢や希望を描くわけではなく、けれど、それぞれが置かれた環境の中で分に応じて生きていく姿には、逞しさが感じられ、時に神々しささえ漂います。何があっても生き続けること、それは、自死した作者、佐藤泰志自身の願望だったのかもしれません。自分にはないかもしれない逞しさを持つ登場人物たちに、作者はどのような想いを重ねたのか...。

時代の流れに押し潰されそうになりながら、我が身の不幸を時代のせいにすることもなく、周囲の"勝ち組"を妬むこともなく、前を向いて淡々と自分の道を生きていく。そこには、大仰な主義主張、大層な思想やヘンな意気込みはないけれど、確かな歩みが感じられます。その揺るぎなさが作品の世界に光を与えているのかもしれません。

"映画を観てから原作を読む"は、正解だったと思います。原作を読んでからも、映画は映画で良かったと思っているのですが、原作を読んだ後で映画を観ていたら、いろいろと違和感を感じながら観ることになっていたでしょうし、そのために、映画の世界に集中しきれなかったかもしれません。

映画→原作の順番で、観て読むことをお勧め。映画も原作も、どちらも、かなり重く暗い空気を纏っていて、疲れている時にはキツイと思いますが、元気な時に、一度は観ておきたい、そして、読んでおきたい作品だと思います。生きようとする気持ちに力を与えてくれる作品だと思います。お勧めです。

サンダカン八番娼館

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サンダカン八番娼館 (文春文庫)/山崎 朋子
¥771
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女性史の研究者である著書が、海外売春婦"からゆきさん"を訪ねて聞き出した彼女の体験談をもとに書いた作品。先日、本作を基にして作られた映画「サンダカン八番娼館 望郷」を観ました。

映画では描かれなかった部分も多く、それにより、映画とはおサキさんの印象が随分変わった面もありました。映画では、おサキさんがずっと娼館で働いていたような印象を受けましたが、身請けされたようですし、その後、おクニさんをその死まで支える存在となったり...。まぁ、短くはない著書なので、映画にするとなれば、どこかをかなり大胆に端折らなければならないことも確かなのですが...。

サンダカンのからゆきさんたちの墓所で彼女たちの墓石が日本に背を向けている事実や、日本に帰りたいかと問うた著者に帰国の意思を告げなかった背景に日本への恨みがあったのでないかという考察は気になりました。もしかしたら、日本に帰りたいというその哀しい想いを必死になって抑えてきたことの結果なのではなかったかと...。それだけ、必死に押し込めなければならない程の強い望郷の気持ちがあったのではかなったかと...。人の言動の背景を探るというのは、なかなか難しい作業ですが、研究者が書く論文的な文章としては、著者の想いや推測、感想といったものが先行し過ぎた感じは否めません。

まぁ、広く一般の人の目に触れることを想定して出版された文章である以上、あまりに、論文的な書き方では伝えたいことが伝わらないということになるのでしょうけれど、何だか中途半端な居心地の悪さが感じられます。文章の表現というか、言葉の選び方も、必要以上に装飾的になったというか、厚化粧な印象を受ける部分もあって、そんなところも気になりました。

ところどころ、上から目線的な印象を受ける部分があったり、表現の問題として気にかかる部分もありました。本作自体が、もう、40年も前の著作であり、決して新しいものではないことを考えれば、やはり、当時の社会的な価値観に影響を受けているわけで、致し方ない面もあるでしょう。多少、言い訳じみた記述が目立つのも、本作を描くための取材の在り様を考えればもっともなことでしょう。

本作の登場するおサキさんを始めとする元からゆきさんたちは、著者の訪問を受けたこと、話を聞かれたことをどう感じ、その後の人生の中で、この体験をどう受け止めたのか、その辺りが見えてくると、もしかしたら、からゆきさんたちが、自分の人生をどう捉えているのか、自分たちを生み出した社会をどう感じているのかといった部分を、もう少し、感じ取ることができたのかもしれません。

まぁ、ケチをつけ始めればキリがないという感じは否めませんが、とはいえ、この著作の意義が大きかったこともまた紛れもない事実だとは思います。からゆきさんの存在を世に知らせ、完全に隠されてしまいかねなかった歴史の一部に光を当てた功績は大きかったと思います。間違いなく、自分たちの歴史を知るためにも、一度は読んでおきたい作品です。